第5話「初めてのヒト」
「もう少し……二人でいたい、って言ったら、迷惑?」
川瀬ほのかが言った、迷惑、という言葉は、明らかに本気ではない。断られたときのための逃げ道を自分で用意しておきながら、それでも目だけは逃がさない、そういう頼み方だった。
胸のどこかで、ブレーキとアクセルが同時に踏まれる。
初めては、好きな人がいい。
高校のころから、そう思ってきた。教科書にも参考書にも載っていない、自分勝手な倫理。好きな人というのは、ほとんど自動的に白木百合香のことだった。
図書館の幻獣図鑑、合宿の打ち合わせ、「またね」の一言と、焦げたハート型のピザの端。あの人が、自分の中でずっと「特別枠」を占めている。
だけど斗真は、百合香に告白するつもりがなかった。
関係が変わるのが怖くて、本の話をする距離のまま、じりじりと時間を焼いてきた。
つまり、初めてを捧げるつもりもないまま「好きな人」として抱え込んでいたことになる。
一方で、今日一日で知ったほのかは、たしかに「好きになれる」人だった。
自分の好きをまっすぐに語るところとか、実は意見をしっかりと持っているところとか、電車の遅延をものすごく損したような顔で受け止めるところとか。
分類しようとすればするほど、頭の中のグラフがぐちゃぐちゃになる。
「……迷惑じゃない、と思う」
それでも、口から出てきたのはそういう言葉だった。
ほのかは、ほっと息を漏らしてから、少しだけ笑う。
「じゃあ、ちょっと歩きません? この駅、夜でもやってるところ、わりとあるから」
彼女の「夜でもやってるところ」の中に、どんなものが含まれているのか、言葉の端でだいたい察しがついた。
察しながら、それを確かめるような野暮な質問はしないでおく。
僕は改札を出て、二人で駅前通りを抜けた。
南ヶ谷駅のロータリーを離れると、オレンジ色の街灯が続く坂道に入る。コンビニの白い光が背中に遠ざかって、飲食店の看板が一つ、二つと間引かれていく。
その先、少しだけ暗くなったあたりに、ネオンの色だけが妙に鮮やかな一角が浮かんでいた。
「……あそこ、ですね」
ほのかの声は、さっきより半音くらい低い。自分に言い聞かせるような響きが混じっている。
白い外壁に、青いネオンで月と波のロゴ。
ガラス扉の上には「HOTEL ルナ・ミラージュ」の文字。
聞いたことのないブランド名だけれど、こういう店名は大体そうだ。現実から半歩ずれた響きのほうが、非日常には都合がいい。
足元のアスファルトが、いつもより柔らかく感じる。坂道を上っているせいではない。自分の決断力の重さを、足首が支えきれていない。
(ここで「やっぱり帰ろう」って言うなら、まだ間に合う)
(ここで「やっぱり帰ろう」って言ったら、多分二度と、このラインは越えない)
そんな二行だけの選択肢が、頭の中のホワイトボードにずっと表示され続けている。
消しゴムを当てても、すぐに書き戻される。
エントランスのドアを開けると、ひんやりした空調の風と、軽い甘い匂いが出迎えた。フロントはない。
代わりに、壁一面に部屋の写真とボタンが並んでいる。こういう構造を「自動精算システム」とか呼ぶらしいが、実際には人の決断を加速させる装置だ、と斗真は思う。
ほのかは、ボタンに手を伸ばす前に、もう一度だけこちらを見た。
「やめるなら、今でもいいから」
それはたぶん、自分自身への確認でもあった。斗真はうなずきもせず、首を振りもせず、ただ一歩だけ近づいて、パネルの前に並ぶ。
「一緒に決めない?」
そう言うと、ほのかは少しだけ目を見開いてから、小さく笑って、画面の一つを指さした。角部屋、照明控えめ、ベッドの上にやたらとクッションが多い写真。ボタンを押すと、カチリという音がして、小さく「使用中」のランプが灯る。
もう後戻りはできないぞ、と自分に言い聞かせるように斗真は思う。
部屋のドアが閉まった音が、やけに大きく響いた。
中は、思っていたより普通だった。オレンジ色の間接照明と、壁掛けのテレビと、落ち着いた色のソファ。ベッドは広すぎて現実感が薄い。洗面所は暗がりに佇んでいて、空調の風が、どこからともなく肌を撫でる。
「なんか……ホテルっていうより、誰かの部屋みたいですね」
ほのかが、バッグをソファの端に置きながら言った。
「“誰か”の部屋にしては、クッションが多すぎる気もするけど」
「クッション多い部屋、憧れません?」
「僕の家のリビングは、四つで限界だよ」
そんな会話をしながらも、意識の半分以上は自分の手と足と心臓に向いている。手がどこにあるか、足がどのくらい震えているか、心臓がどの速度で動いているか。
ほのかは、ベッドの端に腰を下ろした。シーツをつまむ指先が、ほんの少しだけぎこちない。彼女の視線は膝のあたりに落ちていて、こちらを見ているようで見ていない。
「……嫌だったら、帰ろうって言ってくださいね」
沈黙のあとで、ぽつりと出てきた言葉だった。
「わたし、そういうの、“なかったことにする”の得意だから」
なかったことにする、という言い方は、一瞬だけ耳を疑うほど軽く聞こえた。でも、その軽さは本物ではない。むしろ、重さを隠すための包装紙だとすぐに分かる。
今日ここまでの時間を、簡単にゼロに戻せるわけがない。
それでも、「戻せる」と言っておかないと、自分の足が前に出ない種類の人間がいる。ほのかは、たぶんその一人だ。
「……なかったことにしたいわけじゃないでしょ」
斗真は、ベッドから半歩離れたところに立ちながら、慎重に言葉を選ぶ。
「うん」
ほのかは、短くうなずいた。それで会話は一度途切れる。
静かさの中で、自分がどれだけ「自分のルール」に縛られてきたかを思い知らされる。
初めては好きな人がいい、というルール。
好きな人には告白しない、という別のルール。
どちらも、自分を傷つけないために作ったはずの規則で、気づいたら身動きを取れなくしていた。
(ルールに忠実でいたいのか)
(それとも、自分でルールを書き換えるほうを選ぶのか)
こういう問いは、教科書の章末問題みたいに答えが欄外に載っているわけじゃない。
ウォルフなら、きっと「どちらを選んでも、その責任はおまえが負う」とだけ言う。
ベッドの端に座っているほのかの横に、ゆっくりと腰を下ろす。肩と肩がかすかに触れる距離。
彼女は驚いて目を丸くすることもなく、ただ、小さく息を飲んだ。
「嫌だったら、本当に言って」
ようやく出てきたのは、すでに彼女が用意していた言葉の反転だった。
「……言ってたら、こんなとこ来てないです」
それは、ほとんど囁きだった。
その囁きが、最後のブレーキを外す合図になる。
距離を詰めると、ほのかの呼吸の音が近くなった。さっきまでバルで嗅いでいたオレンジリキュールとトマトソースの匂いが、今は体温と混ざって違う香りになっている。
照明が少しだけ暗くなった気がしたのは、誰かがリモコンを触ったからなのか、それとも自分の視界が狭くなっただけなのか。
唇が触れたとき、頭のどこかで何かが壊れる音がした。ブレーキか、あるいは余計なプライドか。どちらにせよ、その音は、今は聞かなかったことにする。
その先は、灯りがゆっくりと落ちていくほうが、僕の思考より早かった。
その夜、僕たちは互いを受け入れた。
いつ眠ったのかははっきりしない。が、直感でまだ夜だと分かる。
目が覚めたとき、天井の間接照明はさっきよりも弱くなっていて、部屋の空気は少しだけぬるくなっていた。
エアコンの風が、シーツの端を揺らしている。
身体のいくつかの場所が、自分のものではないみたいに重い。けれど、その重さを細かく検分するのは、今はやめておく。頭のほうが先に現実に戻ろうとしている。
隣で寝転がっているほのかが、ゆっくりと体勢を変えた。髪が枕の上にほどけて、照明の輪郭を少しだけ遮る。彼女は天井を見たまま、しばらく黙っていた。
沈黙の中で、自分の声だけが浮かび上がる。
「……君が、僕の初めての人だ」
言ってしまってから、自分でも驚いた。言わなくても済むことだ。
言ってしまうと、それは記録になる。なかったことには戻せなくなる。
ほのかは、すぐには返事をしなかった。まぶたが小さく動いてから、横目で僕を見る。
「斗真くんって、そういうこと、ちゃんと言うんですね」
「言わないほうが良かった?」
「ううん」
首を横に振る。髪が枕の上で音もなく滑る。
「……うれしいよ」
それから、少しだけ間を置いて、
「わたしも」
と続けた。
「わたしも、斗真くんが初めての人」
そして、ほのかはもう一行、上書きするように言葉を足した。
「初めて、“喰べるヒト”」




