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倒魔くんとナンパの人狼  作者: 首藤蓮


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第4話「ハートの焦げ目の会」

 樫崎駅のバスロータリーには、いつ見ても場違いな時計塔が立っている。

 丸い盤面の下に無意味な装飾がぶら下がっていて、だが待ち合わせ場所としては便利なので誰も文句を言わない。

 金曜の十九時、その塔の下に五分前に着いている、という事実だけで斗真慶太は少し自分を褒めてもいいのではないか、と考えていた。

 スマホの画面は、用もないのに三度目のロック解除をされ、チャットアプリは通知が増えていないことだけを丁寧に教えてくる。

 ポケットに戻そうとしてやめ、また画面を見る。その無駄な往復運動が三回目に差しかかったところで、背中のほうから声が飛んだ。

「おーい、トーマ。ちゃんといるじゃん。えらいえらい」

 明智雄大だった。スニーカーに細身のジーンズ、シャツの袖をラフにまくって、いつもの陽キャテンプレートを自然に着こなしている。駅前の光の中で笑うと、周囲の看板の彩度が一段上がったように見えるから腹立たしい。

「時間守るのは普通だろ」

「普通ができるやつはなかなかいねえんだよ。特に今日みたいなイベント前は」

 イベント、と言われると胃が少し縮む。そこへ、ヒールの音がコン、と一度だけ響いてから、ぱたぱたと近づいてきた。

「お待たせ。いや、待ってないか。こっちが勝手に急いでるだけだし」

 雨宮未夢が、ショートボブを揺らしながらやって来た。デニムに黒のジャケット、インナーは白のTシャツ。いつもの“少年に間違われても構わない”格好だが、よく見るとアクセサリーが小さく揃っている。

「未夢、今日は見張り役?」

「自覚はあるわよ。あんたら二人だけに任せといたら、百合香の身が危ないもの」

「そこまで信用ない?」

「ない」

 きっぱり言い切られて、雄大は笑って肩をすくめる。

 ほどなくして、トートバッグを胸の前で抱えた白木百合香が、少し小走りで現れた。柔らかいベージュのワンピースに薄いカーディガン、足元は白いローファー。髪はいつもより念入りに整えてあるように見える。

「ごめん、ちょっと迷っちゃって」

「駅のロータリーで迷うって、なかなかの才能じゃない?」と未夢。

「バスどこから出るんだろって見てたら、よくわからなくなっちゃって」

「そういうとこ、好きだよ」と心の中だけで言っておく。

 最後に、やたらと明るい色のパーカーを着た安田輝が、片手を上げて駆けてきた。

「おつかれさまでーす、青春イベント会場はここでよろしいでしょうか!」

「おまえが一番青春こじらせてる自覚はあるか?」と未夢が即座に突っ込む。

「こじらせてるからこそ、こういう会を主催する義務があるんだよ。で、本日のラスト一人は?」

「ほのか、こっちこっち」

 未夢が背後に向かって手を振る。時計塔の陰から、一人の女の子が半歩分だけ姿を見せた。紺色のスカートにグレーのカーディガン、眼鏡のフレームは細く、髪は肩の上で止まる長さ。地味、と言えばそれまでだが、輪郭の整った顔立ちをわざと隠しているようにも見える。

「あの……川瀬です。今日は、よろしくお願いします」

 声は小さいが、最後までちゃんと届く。斗真は、ウォルフの「一番静かな子の正面に座れ」という声を、背中のどこかで思い出していた。

 駅から店までは徒歩五分。雄大が先頭に立ち、「ここ、美味かったんだよ前にサークルで来たときさ」とか「ピザのサイズがバカでかいから覚悟しとけ」とか、どうでもいいようで空気を温める話を自然に挟んでくれる。

「今日さ、一応『ご飯会』ってことでよろしく。ガチ婚活パーティーじゃないから」と安田。

「最初にそう言っとくの、わりと大事」と未夢が頷く。

 その一言で、知らないうちに肩に乗っていた力が、ほんの少しだけ落ちた気がした。


 イタリアンバルは、木目とオレンジ色の照明でできていた。四人用のテーブルと、その横に押し付けられた二脚のイス。変則的な六人席だ。

「こちらのお席どうぞー」

 店員がメニューを並べて去っていく。誰も座らない一瞬の空白の中で、斗真の頭の中にウォルフの声がよぎる。

——空気は、座る前で半分決まる。橋をかけろ。

「あの、せっかくだし、男女交互とかにします?」

 自分の声が、思ったよりちゃんと出た。雄大が「それいいじゃん」とすぐ乗ってくれる。

「じゃ、俺ここで、隣百合香で、そっちにトーマで……」

「じゃあわたし、斗真くんの向かいでもいい?」と川瀬ほのか。

「あ、うん。もちろん」

「じゃ、残り二人はこっち側ね」と未夢が安田の襟首をつかんでイスに落とし、自分もその隣に腰を下ろす。

 結果として、左から雄大、百合香、斗真、ほのか、安田、未夢。正面の橋の位置は、自然に決まった。


「お飲みものはいかがしますか?」

 タイミングを見計らったように、店員が戻ってくる。雄大が「じゃ、俺から——」と言いかけた瞬間、斗真は息を一つだけ深く吸い込んで、視線をほのかに置いた。

「川瀬さん、何か飲みます?」

「え、あ、わたし……カシスオレンジ、って、ありますか?」

「カシスオレンジ一つで。雨宮は?」

「じゃあジンジャーエール。炭酸ないと死ぬ」

「白木さんは?」

「わたしは、グレープフルーツジュースで」

「安田は?」

「ビールでしょここは。生中を一つ、愛を込めて」

「雄大は?」

「俺もビールで。トーマは?」

「僕、レモンサワーで」

 視線が、ほのかから円を描くように一周する。注文そのものは雄大がまとめて店員に伝えたが、「最初の矢印」を決めたのは斗真だった。


 メニューは、木目のテーブルに何枚か重なって置かれている。斗真はそれをいったん全員の前にばらけさせ、自分の一枚は少し端にずらした。

「とりあえず、ピザ一枚と、前菜っぽいの何か頼みます? それで足りなかったら追加で」

「さすトーマ、仕事ができる男は違う」と安田。

「注文まとめるのは幹事の仕事でしょ」と未夢が冷静にナイフを刺す。

「じゃ、定番でマルゲリータと、この前菜盛り合わせと……あと何がいい?」

「この生ハム、美味しそう」と百合香。

「了解。それもいこう」と雄大がすばやく拾って、店員を呼ぶ。

「すみません、注文いいですか」

 口に出したのは斗真だった。影の手が、テーブルの下でこっそり動く。


「ていうかさ、ちゃんと自己紹介するの、これが初めてじゃない?」と安田が言い出す。「ゼミとか授業じゃ、結局名前と出席番号くらいしか知らないし」

「今さら自己紹介?」と未夢。

「いいじゃんいいじゃん。名前と学部と、最近ハマってるもの、一個だけ言うルールで。じゃ俺からな」

 安田は胸を張る。

「安田輝、経済学部二年。最近ハマってるのはゲーム実況と、モテ本の研究。以上」

「その“以上”がいちばんいらない情報なんだけど」と未夢。

「じゃ次、雨宮」

「雑な振りね。雨宮未夢、人文学部二年。漫画研究部。最近ハマってるのは……そうね、女同士が延々言い合いしてる海外ドラマ。男は家具」

「家具はひどくない?」と雄大。

「動かない分マシでしょ」

 笑いがテーブルの上で跳ねる。

「かわいい家具が欲しいなあ」と安田が小声で言うと、「それはそれでキモい」と即座に切り捨てられる。

 川瀬ほのかの番になって、彼女は一度視線を落としてから顔を上げた。

「川瀬ほのか、文学部です。最近ハマってるのは、ミステリ小説読むのと……スマホを持たない生活、です」

「スマホ持ってないんだってな」と雄大。

「はい。なんか、ずっと通知が鳴ってると、頭がうるさくなっちゃうので。家のパソコンだけで、十分かなって」

 さらっと言った一言に、テーブルの空気が一瞬だけ静かになる。

「なんか、かっこいい」と百合香。

「……いや、そんな大したものじゃないです」とほのかは慌てて否定したが、その耳は少し赤かった。

「じゃ、次は百合香」と未夢が促す。

「白木百合香です。人間科学部二年。最近ハマってるのは、動物の動画と……ドラゴンが出てくるゲーム。あと、歌うのも、ちょっとだけ」

 “ちょっとだけ”というのが、どれくらいの「ちょっと」なのか、この場では誰も知らない。

 自分の番が来る。

「斗真慶太です。経済学部二年。最近ハマってるのは、本と……料理。主に鶏むね肉を、いかに安く、いかに柔らかく食べるかの研究です」

「それ、めっちゃ気になるんだけど」と未夢が即座に食いつく。「むね肉パサパサ問題、永遠のテーマよ」

「低温調理? それとも下味から攻めるタイプ?」と安田。

「そこまで大したことじゃないんだけど……簡単に言うと、塩と砂糖と、あと重曹が」

 専門外のはずの話題が、思った以上に盛り上がる。百合香も「今度教えてほしいな」と笑ってくれた。

「で、トリは明智」と未夢。

「明智雄大、経済学部二年。サッカー部。最近ハマってるのは、健康診断の数値を上げないために、甘いものをどうやって合法的に食べるかの工夫です」

「合法的ってなに」と百合香が吹き出す。

「走った量に応じてプリンを一個まで解禁っていう、自分ルール。守れた試しないけど」

 場の温度が、一度きれいに揃った気がした。


 料理が運ばれ、グラスが一巡したあと、話題はあちこちに飛んだ。未夢が最近のアニメ映画の話を始めれば、安田がすぐに「それ俺も観た」と乗っかり、雄大が「サッカー部でもやたら評判だった」と補足する。

 ほのかが「ミステリは叙述トリックが好き」とぽつりと言えば、斗真はその後半で忘れずに拾う。

「さっき、叙述トリックって言ってたけど、具体的にはどのあたりが?」

「え。あの、犯人が“語り手”だった、とか、視点の罠とか、そういうやつです。種明かしで“あ、やられたな”って思えるのが好きで」

「わかる。読み返したくなるやつだ」

 ほのかの言葉が、一度だけテーブルの真ん中に置かれる。矢印は投げっぱなしにしない、と決めていた。


 未夢と百合香の間で猫の動画の話が始まったとき、斗真は、矢印を別の方向にそっと向けてみる。

「そういえば、未夢が言ってた海外ドラマって、どんなやつ?」

「女が三人以上出てきて、男を踏み台か背景にしてひたすら喋ってるやつ」

「それ、百合香は観たりする?」

「え、あんまりちゃんとは観たことないけど……未夢がハマってるなら、面白いんだろうなって」

「今度、貸してあげるわよ」と未夢。

 話題が散っても、どこかで一度は中央に戻す。矢印返しは、やりすぎると鬱陶しいが、今のところ誰も嫌そうな顔はしていない。


 中盤のどこかで、雄大と百合香の距離感に、斗真はふと気づく。隣同士なのに、雄大は必要以上に近づかない。グラスが触れるくらいの距離まで寄れるのに、そうしない。恋バナになりかけた瞬間に、「まあ、オレは当分サッカーとレポートで手一杯だから」と笑って話題を逸らす。

 百合香は、それを追わない。ただ、ほんの少し寂しそうに「そっか」と頷いて、他の話題に乗り換える。

(雄大は、百合香のこと、どう思ってるんだろう)

 口には出さない疑問が、グラスの底に沈んだ氷みたいに、音を立てずに残る。


 やがて、マルゲリータがテーブルにやって来た。焼きたての生地の上で、チーズがゆっくりと固まりつつある。

「お待たせしました、マルゲリータです」

 店員がピザカッターでざくざくと六等分していく。そのうちの一片の端に、焦げ目が一つ、生地の膨らみに沿って弧を描いていた。

「見ろよこれ!」と安田がフォークを指さす。「インスタ映えハートじゃん!」

「どこがよ」と未夢が言いかけて、少しだけ眉をひそめる。「……あ、でも言われてみれば、ハートに見えなくもないかも」

「ほんとだ、小さなハート。かわいい」と百合香。

 斗真は、その焦げ目を見ながら、ウォルフの「名前を付けろ」という言葉を思い出していた。今ここで口に出すには、まだ勇気が足りない。心のメモ帳に“ハートの焦げ目”とだけ書き込んで、ピザを一切れ皿に移す。


 時間は、思っていたよりも早く過ぎた。笑い声の合間に、グラスと皿が静かに減っていく。恋愛の話は、踏み込みすぎないところで止まり、誰かの傷になるような冗談は不思議と出なかった。

(これは“合コン”っていうより、“世界線が一つ増えた夜のご飯会”だ)

 斗真はそんなことを考えながら、最後の一口を飲み込んだ。


「そろそろ、ラストオーダーです」と店員が告げる。

 軽くデザートを頼んで、それが片づいたところで、自然と「そろそろ出よっか」という空気になる。

「会計どうする? 男子多めに出す感じ?」と安田。

「とりあえず、俺レジ行ってくる。伝票もらうわ」と雄大が立ち上がる。

「あ、僕も行く」

 斗真も慌てて立ち、二人でレジへ向かう。ウォルフの言っていた「無風会計」を実物で見ておきたかった。

「この六名様分でお願いします」

 雄大が伝票を差し出し、店員が素早く金額を打ち込む。合計から一人あたりを割り出し、端数をきれいに切る。

「じゃ、女子このくらいで。男子はちょい多めに出そう」

「了解」

 席に戻ると、雄大は財布をテーブルに置いて、

「まとめておいたから、一人このくらいで」とだけ言う。誰も変な遠慮はせず、自然に財布を取り出す。小銭の音もほとんど立たない。空気は、一瞬もざわつかなかった。


 店の外に出ると、夜風がオリーブオイルとチーズの匂いを薄めていく。

「ご飯おいしかったし、わりとちゃんと“ご飯会”だったね」と未夢。

「うん、また来たいな。今日のピザもおいしかったし」と百合香。

 信号待ちで、たまたま斗真と百合香が横並びになる。残り四人は少し前を歩いている。

「あのね」と百合香が口を開いた。「今日、けいたくん、なんか“みんなのこと見てる”感じだった」

「え」

「メニューとか、話とか。すごかったよ。なんか、ちゃんと楽しくなったらいいな、って思ってた?」

「……うん。そんな感じ」

「なったよ。わたし、楽しかった」

 信号が青に変わる前に、言葉を出し切らなきゃいけない気がした。

「じゃあさ。もし、また今日のメンバーでどこか行くときは——その、名前を付けてもいい?」

「名前?」

「今日の会の。えっと……“ハートの焦げ目の会”とか」

 言い終わった瞬間、自分で自分の首を絞めたくなった。だが、もう遅い。

 少し間があってから、背後から未夢の声が飛んできた。

「ダサいけど、嫌いじゃないわね、そのネーミング」

「覚えやすくていいじゃん!」と安田。

「わたしも好き。ハートの焦げ目」と百合香。

「……なんか、小説のタイトルみたいでいいと思う」とほのかが小さく付け足す。

 信号が青になり、人の波が動き出す。六人も、その中に紛れて歩き出した。


 駅の入り口まで戻ると、自動ドアの前で一度足が止まる。ガラス越しに見える改札は二つに分かれていて、右が市内方面のJR線、左が郊外へ伸びる私鉄線だ。

「じゃ、うちらこっちね」

 未夢が何でもないように右側の改札を指さす。百合香と雄大も、自然にそちらへ歩き出した。

「白木、次の乗り換え逃したら、またロータリーで迷子になるからな。ちゃんと着いてこいよ」

「なら、明智くんがちゃんと連れてってよ」

「はいはい、責任重大だな」

 そんなやり取りを背中で聞きながら、斗真は左側の路線図を見上げる。樫崎から三駅先の「南ヶ谷」で私鉄に乗り換えて、さらに先の住宅地へ戻るのが、いつもの帰り道だ。

「あの」

 袖口を、そっと指先でつままれた気がした。振り返ると、川瀬ほのかが少しだけ近くに立っている。

「斗真くん、帰り、どっちの線?」

「えっと……南ヶ谷まで、この私鉄で。そこで乗り換え」

「よかった。わたしも、南ヶ谷まで」

 ほのかは、安堵したように小さく息を吐いた。その仕草が、さっきのカシスオレンジを選ぶときと同じくらい慎重で、同じくらい急だった。

「俺はバスだから、このへんで解散かな」

 安田が、ロータリーの方角を親指で指す。

「駅前から直通出てんの、ずるくない?」と未夢。

「田舎の特権。じゃあ諸君、本日は“ハートの焦げ目の会”ご参加ありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしておりまーす」

「その言い方やめなさい」と未夢が眉をひそめる。

「ほのか、百合香、気をつけて帰るのよ」と未夢が二人を順に見てから、斗真にも視線を投げた。「斗真も。変なとこで降りないようにね」

「降りないよ」

 百合香が手を振る。「じゃあ、またね。グループでも」

「うん。また」

 雄大は「またゼミで」と軽く手を上げ、三人は右側の改札へ消えていく。安田はバスロータリーの闇に紛れ、残るのは左側の入り口の前に、斗真とほのかの二人だけになった。


「じゃ、行こっか」

「うん」

 ICカードをタッチする音が、改札を抜けるときに二つだけ重なった。階段を降りると、下りホームにはすでに人の列ができている。スーツのサラリーマン、買い物帰りの親子、イヤホンで耳を塞いだ高校生。金曜の夜にしては静かなほうだ。

「いつも、この時間?」

「だいたい、これくらいの電車かな。ゼミのあと図書館寄ると、ちょうどこのくらい」

「わたしも。……同じ電車、乗ってたこと、あるのかな」

「どうだろ。気づいてたら、もう少し早く喋れてたかも」

 言ってから、自分でも少しだけ気恥ずかしくなる。ほのかは「ふふ」と短く笑って、線路の向こうを見た。

「でも、今日で十分です」

 電車の接近を知らせる風が、ホームの端から走ってくる。ヘッドライトの光がトンネルの口を丸く切り取って、やがて車体の銀色が視界いっぱいに膨らんだ。

 ドアが開き、人が押し出されるように降りてくる。その流れが途切れた一瞬を見計らって、二人は同じ乗車口から跨ぎ入る。車内はそこそこ混んでいたが、吊り革の下に並んで立てるくらいの余裕はある。

「つかまったほうがいいよ。けっこう揺れるから」

「大丈夫……あ、ありがとう」

 ほのかの指先が、斗真のすぐ隣の吊り革をつかむ。肩と肩の間には、半歩ぶんの空気があるかないかだ。窓ガラスに映る二人分の輪郭が、発車の衝撃で少しだけずれる。

「今日の会、どうだった?」

 問いかけてから、あまりにざっくりした質問だと気づく。ほのかは少し考えてから、ことばを選ぶように口を開いた。

「……楽しかった。人が多いと、いつも途中で疲れちゃうんだけど、今日は最後まで平気だった」

「それは、よかった」

「斗真くんが、ずっと“何か”見てる感じだったからかな」

「何か?」

「みんなの顔。順番とか、話すタイミングとか。……あ、変な意味じゃなくて」

「変な意味には取ってないよ」

 取ろうとして、一瞬だけ取れそうになったのは内緒だ。

「わたし、今日みたいなの、慣れてないから。気づいてもらえると、安心する」

 電車がカーブに差しかかり、車体がぐらりと揺れる。その拍子に、ほのかの肩が斗真の腕に軽く当たった。すぐに離れようとして、うまくいかず、もう一度小さく当たる。

「あ、ごめん」

「いや……大丈夫」

 むしろ、心臓のほうが大丈夫じゃない。


 アナウンスが流れる。「次は、南ヶ谷。南ヶ谷です。この電車の終点です。お出口は右側——」

「ここで降りる?」

「うん。ここで乗り換え」

「わたしは、この駅が地元です」

 扉の上の路線図で、いつも何気なく見ていた駅名に、初めて人の生活の重さが乗った気がした。

 ドアが開き、ホームの冷たい空気が流れ込む。二人で降りると、人の流れが自然にコンコースへと押し出していく。

 改札階へ上がるエスカレーターの先に、「南央線乗り換え」と「出口」と書かれた案内板が並んでいる。斗真は、いつもの癖で乗り換えの矢印のほうへ身体を向けた。

「じゃあ、ここで——」

 そう言いかけたところで、袖をきゅっとつままれる。さっきホームで触れたより、少しだけ強い力だった。

「待って」

 ほのかが、斗真の横に並んで立っていた。眼鏡の奥の視線が、一瞬だけ泳いでから、まっすぐこちらに戻ってくる。

「斗真くんも、この駅で……いったん降りてほしいです」

「え?」

「もう少し、二人でいたい。今日くらいは、乗り換え、遅らせてもいい?」

 乗り換え口の矢印と、出口を示す矢印。その間で足が止まる。

 いつもの帰り道から半歩だけ外れるだけで、夜の地図がまるごと書き換わる——そんな予感が、喉の奥で小さく鳴った。

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