第2話「自由の企画」
二限の終わりを告げるチャイムが鳴っても、担当教員のスライドは止まらず、エクセルの表が拡大されては縮まり、教室の空気は数字の桁数だけ重くなる。
教卓に向かって左から斗真、雄大、そして安田輝の並びである。長机の縁には古いコーヒーの輪染み。四月の光はまだ冷たくて、窓際の席をやさしく照らすだけで温めてはくれない。
安田が講義中であることなどどこ吹く風といった口調で、
「なあ斗真。っていうか雄大もさ、これ思わん? 俺らもう二年じゃん、四月じゃん」
教室は一、二年の生徒で溢れかえっていて、そこかしこで退屈な空間を埋めるように雑談の声が飛びかっていた。
「んでさ、三年の最期から就活じゃん、四年は卒論もあるしさ、社会人になったら四十年、下手したら五十年仕事なわけ。となるとだよ? はいここ大事、自由って単語がこの二年間に全部詰め込まれてるの、わかる? 貴重、超貴重」
斗真は先ほどの狼との邂逅の動揺から抜け出せておらず、安田のいつもの雑談を話半分で聞いている。
「で、なんでその貴重な青春の一コマを、よりによってこの睡眠誘導装置みたいな講義に捧げてんの俺ら、っていう」
安田は、口を開くと止まらないタイプの人間だ。語尾が転がるたびに髪の毛が微妙に揺れる。机の下ではスニーカーの踵が一定のリズムで床を叩いて、勝手にBPMを刻んでいる。
「留年すりゃ、自由は増えるぞ」
雄大はスライドから視線を外さないで言った。手元のレジュメには要点の下線が過不足なく引かれている。
「留年はさすがに学費が無駄だろ。そこまで親に迷惑はかけられん。うちは一人っ子だし、両親公務員で、まあ学費は出してくれるけどさ、問題はそこじゃないの、青春の最適化って概念があってだな——」
「安田って、奨学金じゃないの?」
つい口をはさんでしまった。言った瞬間に、余計なことを言った気がして、シャーペンのクリップを指でいじる。
「おっと斗真くん、そこは触れない優しさってのがあってだな。いやまあ、ありがたいことに親持ち。だからこそよ、今の一年をもっと攻めの配分にしたいわけ。つまり——」
安田は身体ごと僕らのほうへ寄って、小声に落とすつもりで結局そこそこ大きい声で続ける。
「ご飯会をしよう」
「……合コンの言い換え?」
「合コンって言うとさ、なんかいやらしいじゃん。ご飯会。はい、健全。で、どうせやるならダメもとでも学年トップ女子で固めようぜって話。俺が注目してるのは白木さん」
耳が勝手に反応した。指先の力がシャーペンのグリップに集まって、芯がわずかに軋む。息の出方が少しだけ浅くなる。今の反応がふたりに気取られていないか、不安が遅れてくる。
「白木は俺らと同じゼミだし、雄大は合宿担当で最近よく話してるじゃん。さっすがにここは雄大からいこう。あと、男三・女三だと女子があと二人必要なんだよな。白木さんと仲いい子がいいよな」
「勝手に話進めんな」
雄大のペン先が一時停止し、また滑り出す。
「いやいやいや、雄大だってさ、自由の見積もりは大事だろ? 白木さん、ふつうに感じいいし、学内の空気も持ってるし、話題も広げられるし、場の核になってくれるタイプ。で、雨宮は仲良さそうだけど、あれは親衛隊っていうか、百合香の周りの防空識別圏みたいなもんでさ、下手に突っ込むとさすがに——」
「誰が親衛隊よ」
三人そろって背筋が跳ねた。後ろの段差はすこし高くなっていて、その縁から雨宮未夢がこちらを見下ろしていた。冷たいわけじゃない、けれど温度の方向が一定じゃない視線。
「さっきから聞いてたけど、男ってそういう軽薄なことばっかり考えてるのかしら。百合香、可愛いから一緒に外歩いてるとすごいわよ。二十メートル歩くあいだに、チャラいのが砂鉄みたいにくっついてくるの。あれ、こっちがよけても寄ってくるから、ほんと磁力でも内蔵してんのかって思うわ。毎回けちらすのが大変」
親衛隊じゃん、と斗真は心の中でだけつぶやく。
「だからこそだよ未夢ちゃん。安全な場所と顔ぶれで、こっちで窓口を用意して差し上げれば、野良のチャラから守れるっていう——」
物おじのしなさでは、さすがの安田だ。入学最初の一ヶ月で学内の女学生二十人に告白して全敗し、翌日には「まあ、確率は収束するから」と笑っていた不屈の精神の持ち主である。
「別にいいんじゃない?」
雨宮があっさりと言った。安田が想定していた反論の準備体操が一瞬にして無駄になる。
「名前がいやらしいだけで、要はご飯でしょ。話が合えば楽しいし、交流も深まるし、おいしいご飯も食べられる。嫌だって言ってないわよ。百合香にも声かけてみる」
「神……!」
安田が合掌しかけて、慌てて手を引っ込める。思い出したように、
「で、あと一人どうするんだよ。三対三で合わなきゃならん」
「そこ、必須なのか?」
雄大が半分呆れた声で言う。教壇のほうでは担当教員が「ここ期末に出ます」とちょうど言っていて、教室のあちこちでシャーペンの芯を出す音が重なった。
「あの——」
雨宮の隣で、たんたんとノートを取っていた女の子が、ためらいながら手を挙げた。髪は肩で切りそろえられていて、黒い前髪で目元が隠れている。雨宮の友人というわけではないらしく、気まずそうな顔を向けながら、
「ごめん、うるさかったかな」
女の子は慌てて手を振り、声のボリュームをさらに下げた。
「いえ、その……もしよければ、私も一緒に参加させていただけたら、って。ご飯会」
僕ら四人は、同時に息を飲んだ。驚きはしたが、断る理由はどこにも見当たらない。むしろ場の空気は、ひとり増えることでちょうど良い密度になる。
「……いいよ。都合が合えば」
雨宮が言うと、女の子は安心したように胸に手を当てた。
「ありがとう。川瀬ほのかです。連絡先は、あとで」
「意外と集まるもんだな」
雄大が小さく笑って、前を向き直る。安田はスマホを取り出して、日程調整アプリを開き、指を忙しく動かしながら「神、二柱目」と誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。
黒板のチョークは、いつもと同じ音で文字をつくる。なのに今日だけは、書かれた単語が別の意味で立ち上がる。三人席の並びは変わらないのに、机の上の空気だけが軽くずれて、ページの行間に見えない予定表が差し込まれる。スライドの数式が進み、周囲のペン先が進み、僕の指は止まる。ノートの余白に、無意識に小さな円をいくつも描いて、そこに六つの名前を順に置いてみる。
白木百合香。雨宮未夢。川瀬ほのか。明智雄大。安田輝。そして——斗真慶太。
円と円をつなぐ線はまだ薄く、鉛筆の芯の粉が軽く乗っているだけだ。
講義室の時計は十五分を指して、針は等速。けれど、斗真の中の時間は、別のメトロノームで打たれはじめていた。




