最終話「これからのことについて言えば」
決戦の夜から、三日が過ぎた。
雄大はあの夜の翌日には検査を受けて、さらに次の日には「大きな異常なし」と診断された。過度のストレスと脱水、打撲と擦り傷。医師のカルテにはそう書かれ、彼自身も「なんか悪い夢見てた気がする」くらいの認識しか持っていないらしい。
あの海辺のことも、あの声も、あの赤い月も、彼の中では「よくわからない断片的な記憶」に押し込まれている。
あのサウナでの言い合いのことを、お互いに謝った。
病室の簡素なベッドの脇で、ふたりとも妙に目を合わせないまま、「悪かった」「こっちこそ」を何度か繰り返し、結局は「次はちゃんと最後まで楽しもう」というところに落ち着いた。
言葉にした内容より、その場で「まだ隣にいる」という事実のほうが大事だったのだと思う。
百合香は、喉の出血から立ち直りつつあった。声帯ポリープ切除の既往歴、ステージでの過負荷が重なった結果だと医者は説明したらしい。しばらくは全力で歌うことは控えるように、と言われたと、未夢からのチャットで斗真は聞いた。
過呼吸で倒れたあの瞬間を思い出すたび、胸の奥がきしむ。けれど、彼女は生きていて、筆談と短い言葉で、ちゃんと「また遊ぼう」と書いていた。
——だから、ひとまずは、守りきった。
百合香も、雄大も、自分も、まだここにいる。
夜、斗真の部屋。
机の上にはレポートのプリントが積まれている。そして本棚の上、いつもの定位置に、銀色の狼のぬいぐるみが座っていた。ガラス玉の目は天井の一点を見ている。
「起きてるか」
そう声をかけると、間髪入れずに返事がくる。
「起きている」
ウォルフの声は、いつも通り落ちてきた。続けて、
「今日は静かだ。百合香の周辺に異常なしだ」
あの海辺での一騎打ち。
特大の満月が世界と世界の距離を縮めて、ウォルフは本来の出力に近い力を取り戻した。そして紅の魔術師、ファウストとぶつかり合った。
最後の最後で、ウォルフの一撃を、斗真が軌道を逸らした。
雄大を、ここで失いたくなかったから。
結果として、ファウストは肉体を失い、“深い層”に沈んだだけだ。完全な消滅ではない。
「……僕、邪魔したんだよな」
天井を見たまま、ぽつりと言う。
「トドメを刺せたかもしれないのに」
「そうだな」
ウォルフは否定しない。
「海辺であのまま撃ち抜いていれば、ファウストは完全に消滅しただろう」
しばしの沈黙。
ウォルフが会話を再開した。
「後悔しているか?」
「していない」
言葉にしてみると、意外なほどすんなり出た。
「雄大が死ぬ未来を見て見ぬふりをしていたほうが、たぶん一生後悔したと思う」
「戦略的ではない」
「知ってる」
ウォルフは、少しだけため息に似た音を立てた。
「おまえのそういうところが、盾に向いていると言えば向いているがな」
ここまでは、あの夜にもした話の続きだ。
問題は、この先だった。
「ファウストは、どれくらいで戻ってくる?」
「わからん」
即答。
「魔術師としての実体を失い、今はただの“概念”に近い存在だ。深海に沈んだ巨大生物のようなものだな。傷が癒え、裂け目を見つけ、新しい器を見つければ、また浮かび上がってくる」
「最短で?」
「数ヶ月。最長で、数十年」
その幅の広さが、かえって不気味だった。
「一つだけ確かなのは、“あいつは諦めない”ということだ。エウレカの力を、自分の式の中に組み込むまで。だからこそ、あの夜、俺はファウストを焼き切りたかった。エウレカも、おまえも、生かしたままな。だが、おまえは別の選択をした」
「謝罪はしないぞ」
「求めていない」
「さて」
ウォルフが、唐突に話題を区切った。
「ここからが本題だ」
「まだ前置きだったのかよ」
「状況整理をしよう」
いつも通り、やけに偉そうだ。
「スーパームーンの加護は去った。俺の力も、しばらくはぬいぐるみ止まり。ファウストは、深いところでじっと機をうかがう。王女は、この世界で普通の大学生活を送っている。……ここからが問題だ」
ウォルフの声が、すっと低くなる。
「次にファウストが浮上してきたとき、今のおまえの戦力と、あいつの戦力、どっちが上だ?」
「……聞くまでもないだろ」
「そうだ。圧倒的に負けている」
淡々とした一言。
「だからこそ、“するべきこと”はひとつしかない」
あの図書館。魔術書<グリモワール>。
すべての始まりの時。
ウォルフは、こんなことを言っていた。
——親密の共鳴を集めろ。
——男女が互いに惹かれ合い、合意の上で交わるとき、そのエネルギーは悪魔の糧になる。
——多ければ多いほど、強く、高位の悪魔と契約が交わせる。
その言葉は、ほのかとの一件で折れかけていた。
「女の子を守るために、別の女の子を巻き込む」矛盾が、どうしても飲み込めなかった。
でも——あの海辺で見た。
ファウストの魔術。
深紅の螺旋を描いて海そのものを抉るような魔力。
怪物がひとつうねるだけで、現実の街が、街ごと飲み込まれてもおかしくない力。
あれは、たまたま“エーテルの層”に隔離されていたから現実の海岸線は無事だっただけだ。
次も同じ保証はない。
「なぁ、ウォルフ」
「なんだ」
「僕が、あの力に勝てるようになるには、どうすればいい?」
一拍置いて、ウォルフは言った。
「やっとその言葉が出たな」
少しだけ、満足そうに。
「答えは変わらない。“親密の共鳴”を集める。悪魔と契約し、力を借りる。それしかない。悪魔との契約は、危うい。代償もいる。取り返しのつかない失敗もありうる。それでも、ファウストの魔力に対抗しうるだけの力を手に入れたいなら——」
「僕が、やるしかない」
「そうだ」
「条件がある」
自分でも少し驚くほど、声は静かだった。
「なんだ」
「“悪魔のために”じゃなく、“僕のために”じゃなく、“その子自身のためにも”なるやり方を選ぶ。少なくとも、そう努力する。それができない相手には手を出さない」
「綺麗ごとだな」
「そうかも」
でも、ここでそれを削ってしまったら、たぶん自分はどこかで折れる。
「それから、百合香のことは」
「特別枠だ」
ウォルフが先に言った。
「王女であり、この世界ではおまえの“本命”だ。少なくとも今のプランでは、“最終契約候補”だな」
「最終契約……」
「そう簡単に辿り着けるところじゃない。だからこそ、その前段階で、さまざまな形の“親密”を学び、失敗し、成功し、経験値を溜めておけ」
それはつまり、「これからまだまだ苦労してもらう」という宣言でもあった。
「了解」
短く答える。
覚悟を決めた瞬間、どこかで「やっぱり怖い」という気持ちも同時に顔を出してくる。
でも、その怖さごと抱えて進むしかない。
「……というわけで」
ウォルフが、妙に事務的な口調で付け加えた。
「任務内容を更新する。“悪魔との契約に足る親密の共鳴の獲得”。対象は複数可。ナンパも恋愛術も、必要とあらば採用可。ただし、おまえの設定した条件付きだ」
「急に言い換えないでくれ」
「要約は大事だ」
ぬいぐるみのくせに、やたらと教師みたいなことを言う。
数日後、大学の図書館に足を運んだ。
エントランスの自動ドアが開くたび、紙とインクとクリーニングスプレーの匂いが胸いっぱいに広がる。
通路の向こうから、白いブラウスにカーディガンを羽織った百合香が歩いてくるのが見えた。喉元には、薄いストール。まだ完全に万全ではない証拠だ。
彼女は小さく会釈して、「またね」と、あの日と同じ笑い方をした。
それだけで、十分だった。
——この世界は、まだ続いていく。
リュックの中から、かすかな振動が伝わった。その声はこう囁く。
——今日もこの世は平穏だ。
偉そうな言い方をする。
世界の輪郭は変わったけれど、またスタート地点に戻ってきただけかもしれない、と斗真は思う。
恋と、戦いと、ナンパと、人狼。
ここからまた、新しい話を書き足していけばいい。
本のページをめくる指先の向こうで、窓からの光が少しだけ強くなった。
その光の下で、斗真は静かに決める。
——いつか必ず、百合香を守る。
そのために、恋も、試練も、悪魔との契約も、ぜんぶ引き受けてやる。
図書館は、今日も静かだった。
読者の皆さま
初めて自己紹介いたします。首藤蓮と申します。
というわけで、『倒魔くんとナンパの人狼』第1部、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
この物語の芯になるアイデア自体は、じつは十年以上前から頭の中にありました。
ただ、形にする勇気がなく、「いつかちゃんと書こう」と思い続けたまま、ずるずると年月だけが過ぎていきました。
そのあいだに自分も年を取り、若い頃のような“気張り”が少し抜けてきて、ようやく発想が変わりました。
「完璧じゃなくていいから、とりあえず『小説家になろう』に出しながら考えていけばいいんじゃないか」
そのとき最初の第1話を投稿したことが、今思えばとても大きな一歩でした。
商業小説は、企画やプロットの段階から編集さんの目が入り、何度も磨かれたうえで世に出ていきます。
そうした“他者のチェック”を通さずに、自分一人で書いたものを公開するのが、これまでの自分にはとても怖かったんだと思います。
それでも、このまま時間だけが過ぎて、人生の終わりに
「結局、あの小説は一度も書かなかったな」と後悔するほうが、もっと怖かったようです。
第1話をアップして、最初のPVがついたときの感動は、たぶん一生忘れません。
十年以上頭の中だけにあった話を、“誰か知らない誰か”が、インターネット越しに読んでくれている——それがただただ嬉しくて、そこからは、曖昧だった設定やストーリーライン、キャラクターたちと格闘し続ける日々でした。
気がつけば、ライトノベル1巻分くらいのボリュームまで来ていて、ひとまず区切りとしてここで第1部完結とさせていただきました。
この先の展開についても構想はありますが、まずは今回完成した第1部を、自分なりに振り返って反省しつつ、大幅なセルフリメイク版(推敲版)を考えています。
そのうえで、タイミングを見て続編にも挑戦できたらと思っています。
最後になりますが——ここまで読んでくださった皆さまがいたからこそ、完結までたどり着くことができました。
本当にありがとうございます。
もし本作を少しでも「続きが読みたい」「面白かった」と感じていただけましたら、ブックマークや感想をいただけると、とても励みになります。
それでは、またどこかの作品でお会いできれば幸いです。
重ね重ね、ありがとうございました。




