第14話「誰がための月明かり」
足もとが揺れた。
地震じゃない。砂が一瞬だけ浮いて、すぐに押しつぶされる。波音はまだ聞こえているのに、その上から重たい圧力が覆いかぶさってくる。
——空間そのものが、殴られている。
斗真がそう理解した瞬間、身体はもう、別の誰かのものになっていた。
ウォルフが前に出る。視界の高さは変わらないのに、世界の見え方だけが変わる。遠くの観覧車のネオンが、距離の数値まで添えて目に飛び込んでくる。月光の角度、風の流れ、ファウスト——雄大の立ち位置。すべてが「配置」として並んでいる。
右手が、勝手に上がる。
「——竜骨、月光、狼の門」
低い呟きとともに、掌の前に細い光の筋が一本走った。空中で何もないところに線が引かれ、その線に沿って銀色の破片が集まる。鱗とも、砕けた骨ともつかない欠片が、ひとつ、またひとつと重なり、刃の形を象っていく。
「欠けた牙を、今ひとたび」
光が刃の中心に走り、音もなく鍔が生まれる。柄の部分には、狼の頭骨を模した小さな意匠が浮かび上がった。握った瞬間、斗真の腕の中まで冷たい重さが流れ込んでくる。
「目覚めろ——境律魔剣」
名を告げた途端、剣が低く鳴いた。呻きとも風切りともつかない共鳴が、骨を通って耳の奥に届く。刃の上を、月光が滑り落ちる。
ファウストは、少しだけ顎を引いてそれを見た。
雄大の右手が、ゆっくりと空をなぞる。指先から赤い火花が一粒飛び、そのまま空中に留まる。火花は、そこから一気に膨らんだ。
赤黒い円がひとつ浮かび上がる。水面に石を投げ込んだあとの波紋を、空に裏返したような円だ。円の真ん中が裂け、底の見えない闇が覗く。
「来い」
闇の内側から、巨大な何かが身をよじった。まず、角が出る。曲がりくねった黒い角が二本。続いて、蛇と竜の中間のような頭部が姿を現す。鱗はひとつひとつが刃のように尖っていて、腹の方へ行くほど暗い紅に染まっている。
長さは、波打ち際から防波堤まで優に届く。
血月蛇——と、ウォルフが頭の中でつぶやいた。
ファウストの召喚獣。
巨蛇は円から抜け出すと、砂浜にどすん、と重たい頭を落とした。砂が跳ね、見えない衝撃が周りの空気を押し広げる。牙の先からは、常に赤い霧が漏れている。
——あれ、一体だけで、充分終わるな。
後ろ側の斗真の意識が、乾いた感想を漏らす。
——だろうな。
ウォルフは、短く返した。
それでも、一歩も引かない。
「数では、負けるつもりはない」
声と同時に、境律魔剣の切っ先が砂浜に向けられる。
刃先が砂に触れる瞬間、光が地面に流れた。銀と青の線が、砂の上に瞬時に描かれる。円と三角と古い文字が組み合わさった魔方陣が、足もとから一気に広がっていく。
「蒼翼、黒牙——呼応しろ」
魔方陣の二つの頂点から、柱のような光が立ち上がった。
ひとつは蒼い。ひとつは黒い。
蒼い光から出てきたのは、翼の大きな竜だった。体躯は細身で、鱗は薄いガラスのように透きとおっている。翼をひと振りすると、空気が鳴いた。
蒼翼竜。
黒い光から抜け出したのは、巨大な狼だ。肩の位置で斗真の身長を超えるほどのサイズ。全身を覆う黒い毛並みの中に、ところどころ金属のような板金が浮かんでいる。
額には一枚だけ、月光を反射する白い紋章。
黒鎧狼。
竜と狼が、ウォルフの左右に並ぶ。
砂浜の上に、三角形が組まれる。
ファウストは、短く息を吐いた。そのまま指先を弾く。
血月蛇メルクヴァインが、頭を高く持ち上げた。赤い霧が尾を引き、口腔の奥で光が集まる。
一瞬あと。
赤い奔流が吐き出された。
炎でも雷でもない。高温の血のような、粘度を持ったエネルギーが一直線に飛ぶ。波打ち際から空へ伸びる光の柱が、防波堤ごと斗真たちを呑み込もうと迫ってくる。
「跳べ、ルフレイア」
言葉と同時に、蒼い竜が動いた。
翼を一度、強く打つ。足もとの砂が吹き飛び、竜の身体は矢のように浮き上がる。蒼い尾が、血流の柱の横をぎりぎりでかすめた。熱で鱗の端が少し焼け、光が蒼から白に弾ける。
ルフレイアが空中で反転し、血の流れの上を滑るように飛ぶ。その翼が一度はためくたびに、周囲の空気が削ぎ取られていく。
ガルムは、逆方向に走った。
低く身を伏せ、砂を蹴り、血流の影をなぞるように地面を駆け抜ける。巨蛇の足もと——腹の裏側、鱗の隙間が甘くなる位置まで、影の中を滑り込む。
ウォルフ——境律魔剣を握った手が、まっすぐ前に出た。
刃が、音もなく振るわれる。
月光が斬撃の形を真似する。
銀色の弧がひとつ飛んだ。音もなく、しかし空気ごと切り裂きながら、血流の柱を横一文字に薙ぐ。
赤と銀がぶつかった瞬間、衝撃が遅れてやって来る。砂浜が一気に押し下げられ、ふくらはぎまで砂に埋まる感覚。波が後ろ向きに引いていく。本来ありえない動きだ。
「外」の世界には、何ひとつ伝わらない。
エーテルの層の中だけで、海が吠える。
血流の柱は、真ん中から裂けた。蒼い刃に押し分けられ、両側に流れが逸れる。逸れたエネルギーが空に消え、紅い火花の雨となって降ってくる。
メルクヴァインが頭を振る。邪魔な羽虫を払うみたいに、巨体がしなる。その動きだけで、空気が重い槌のように押してくる。
ルフレイアがその上を回り込み、翼から蒼い光の針を降らせる。何十本もの光が巨蛇の背に突き刺さり、鱗の一部を砕く。
ガルムは、腹の下から跳びかかった。
黒い影が、砂を蹴って弾丸のように突き上がる。鋭い牙が、柔らかい腹の部分に食い込んだ。
衝撃でメルクヴァインの身体が一瞬だけ浮く。赤い霧が噴水のように吹き上がる。
ファウストは、眉ひとつ動かさない。
血流の次は、形が変わった。
彼の足もとに複雑な陣が開く。円と線と数字のような記号が、空中に立体的な構造を作る。そこから放たれたのは、見えない刃だった。
風も音もないのに、視界に細い線が走る。
ルフレイアの翼の一部が、音もなく削ぎ落とされた。ガルムの鎧毛の間に、細い傷が何本も刻まれる。地面の砂が、線に沿って一斉に沈む。
避けるより早く、傷だけが結果として残る。
——式の刃か。相変わらず、厄介な魔術だ。
ウォルフの声が、内側で小さく吐き捨てる。
それでも、呼吸は乱れない。
境律魔剣の切っ先が、再び空をなぞった。
今度は攻撃じゃない。配置の変更だ。
足もとに描かれた魔方陣が、ひとりでに組み替わる。三角形だった線が、少しだけ角度を変え、ルフレイアとガルムの位置が入れ替わる。
次の瞬間には、ルフレイアが低空で滑り込み、ガルムが跳躍して上へと躍り出る。
上と下。
青と黒。
竜と狼が、十字に位置を取る。
メルクヴァインの頭がルフレイアを追い、式の刃がガルムを狙う。
一瞬だけ、すべての線が交差した。
ウォルフは、その瞬間を逃さない。
「——沈め」
低い一言。
刃が地面を叩いた。
の先端が砂浜に突き立つ。衝撃で砂が散る前に、魔剣から溢れた月光が、地面の下へ潜り込んだ。
次の瞬間、メルクヴァインの真下で、光の柱が噴き上がる。
月光の杭が、海底から突き上げられたみたいに、巨蛇の胴体を貫いた。
蒼い杭。
その杭に合わせて、上から黒い影が落ちてくる。
ガルムだ。全身を矢のように細く絞り、牙と爪を前に出したまま、墜落する勢いで巨蛇の頭部に噛みついた。
ルフレイアは逆に、メルクヴァインの尾を抱えて空に引き上げる。
上と下から引き裂く力が働く。
巨蛇の鱗が、悲鳴のような音を立てて軋む。
ファウストは、初めて舌打ちをした。
足もとの式が組み替わる。
地面から新たな刃が立ち上がり、ルフレイアの翼をさらに削る。ガルムの背にも、赤い線が走る。
それでも二体は離れない。
ルフレイアの翼が、最後の力を振り絞ってはためいた。メルクヴァインの尾をさらに上へ引き上げる。
ガルムが、首をひと振りして噛む位置をずらす。喉元だ。
刹那。
「行け」
ウォルフの声が飛ぶ。
ガルムの身体が、一瞬だけ光った。黒い毛並みに、銀の線が浮かぶ。
自分の身を、杭に変える覚悟の光。
次の瞬間、メルクヴァインの胴体が、真ん中から裂けた。
引き千切られた上半身が空へ、下半身が地へとそれぞれ落ちる。
巨蛇の中に溜まっていた血のエネルギーが暴発し、爆発に似た衝撃が走った。
ルフレイアとガルムの姿も、その光の中で掻き消える。
二体とも、役目を終えた。
砂浜には、魔力の余韻だけが残る。
ファウストの身体が、わずかによろめいた。
雄大の胸元に、赤黒いひびのようなものが走る。エーテルの層の中に見える、それは“器”の耐久の限界を示す裂け目だ。
ウォルフは、一歩前へ出た。
境律魔剣の刃が、静かに肩の横へ構えられる。
空気が、さらに重くなる。
今度の魔力の収束は、さっきまでとは桁が違った。
世界の色が少し抜ける。
月の光が刃に吸い込まれ、海から上がってくる冷気が柄へ沈み、斗真の身体の中からも何かが引き出されていく。骨と血と息。全部が、一本の線にまとめられていく。
——やばい。
後ろの斗真が、初めてはっきりと恐怖を感じた。
——このまま撃ったら……
雄大ごと、消える。
確信だった。
「やめろ、ウォルフ!」
声が、勝手にほとばしった。
喉はもう、ウォルフのもののはずなのに、その一言だけは斗真の方が先に掴んだ。
「今ここであいつを消したら、雄大まで死ぬ!」
——知っている。
ウォルフの返事は、冷静だった。
——だから一撃で終わらせる。あいつを、この世界から完全に断ち切る。器ごと焼き切れば、ドラキュラの式はこの層に戻れない。
「そんな理屈、聞きたくない!」
斗真は内側で暴れた。
「なんでだよ! 雄大は、ただ——ただ巻き込まれただけだろ!」
——それは王女も同じだ。
ウォルフの声が、ほんの少しだけ低くなった。
——あいつも、自分で世界を選べなかった。生まれた血で、国の行く末を背負わされた。誰かがどこかで選ばなければ、運命の輪はいつまでも回り続ける。
刃先に、光が集まり続ける。
足もとの砂が、じりじりと後退する。
「だからって、ここで雄大を——」
——斗真。
ウォルフが、初めて名前を呼んだ。
——おまえは、最初の日から世界の外にいなかった。図書館で本を開いて、俺の声を聞いた。その瞬間に、選ばされた。
言葉と一緒に、さらに力が収束する。
視界の端で、ファウスト——雄大の身体が膝をつく。
それでも、赤い瞳は消えない。
彼もまた、残った魔力を必死にかき集めているのがわかる。
赤と銀。
ふたつの極がぶつかる寸前。
「——嫌だ」
斗真は、噛みしめるように言った。
「そんな終わり方、絶対に嫌だ!」
——何を、
ウォルフの言葉が終わる前に。
斗真は、前に飛び込んだ。
身体の奥で、ハンドルを掴み返す。
自分の腕を、自分の筋肉で無理やり引き戻す感覚。全身の神経が悲鳴を上げる。
境律魔剣を握る手を、ほんの少しだけ、横へずらした。
収束された魔力が、制御を失う。
刃先から放たれるはずだった線が、軌道を変えた。
銀の光が、真っ直ぐファウストへではなく、その頭上——夜空へ向かって放たれる。
世界が割れた。
そう錯覚するほどの閃光と衝撃。
空の一部が、縦に裂けた。黒いキャンバスに白い傷をつけたような亀裂が走る。その裂け目から、深い深い星のない闇が覗く。
衝撃波が遅れて降ってくる。
砂浜全体が押し下げられ、海面が一瞬だけ地平線の向こうに逃げる。次の瞬間、反動で巨大な波が押し寄せるが、エーテルの層に阻まれて「外」には届かない。
光の一部が、ファウストの胸元をかすめた。
雄大の身体が、後ろへ吹き飛ぶ。
赤い鎖のようなものが、彼の胸から引きずり出された。
それは人の形をしていた。
血と煙と炎と、断ち切れない執念をひとつに固めたような「影」だ。
それが砂浜の上に叩きつけられ、細かい火花を散らしながら転がる。
雄大の身体から、赤い光がふっと消えた。
ただの人間の重さを取り戻し、その場に崩れ落ちる。
斗真も、膝から崩れ落ちた。
胸の奥で、何かが千切れたように痛む。呼吸がうまくできない。境律魔剣は、砂の上に突き刺さったまま、光を失っていく。
目の前で、血と炎の影——ファウストが、ゆっくりと仰向けになった。
人の形をとっているが、その輪郭はところどころ欠けている。ブロックノイズのように、身体の一部が消えては戻る。
ウォルフも、身体の外側ににじみ出ていた。
斗真の身体から半分抜け出したような形で、銀の狼の影が立つ。輪郭は先ほどよりさらに薄い。月の光がなければ、ただの霞に見えただろう。
ファウストが笑った。
喉の奥で乾いた音を立てる。
「……とんだ相棒だな、ウォルフ」
声は掠れているのに、嘲りの色ははっきりしていた。
「私に止めを刺す好機を、みすみす逃すとは」
赤い瞳が、斗真を一度だけ見た。
「面白い器を拾ったな。……人間の情は、式の変数としては扱いづらいだろう?」
「黙れ」
ウォルフの声は、短かった。
しかしファウストはやめない。
「今日、この場で私が完全に滅びたとしても——」
欠けた指を、空に向けて持ち上げる。
指の先に、まだわずかに赤い光が残っている。
「実体を持たぬ今の私ならば、この世界のどこかで、また形を取り戻すことができる。輪の外から、縫い目を探すことができる。……お前は知っているだろう、ウォルフ」
赤い目が、月を一瞬だけ見上げた。
「お前の力が満ちるのは、今夜が限りだ。この灯りが沈めば、お前はまた、ただの狼にもなれない玩具だ。王女探しは振り出し。好機はむしろ、私の側にこそある」
斗真の胸の奥が、反射的に冷えた。
しかし、ウォルフは揺れない。
「そうか」
その一言だけ。
銀の狼の影が、境律魔剣のもとへ歩く。
柄に触れた瞬間、魔剣が短く鳴いた。まだ、わずかな刃の光が残っている。
ウォルフは、何も言わない。
言葉の代わりに、刃が動いた。
光の線がひとつ。
ファウストの首元から胸元へ、静かに引かれる。
血は出ない。赤い光が、線に沿ってほどけていく。
紅の魔術師の身体が、音もなく崩れた。
砂の上に散った光の破片が、風に混じって消えていく。赤い火種は一つ残らず、夜の中に溶けた。
次の瞬間、耳に波音が戻ってきた。
観覧車のネオンが、本来の明るさを取り戻す。遠くの道路を走る車のエンジン音も聞こえる。
エーテルの層が閉じた。
斗真は、砂の上でゆっくりと息を吐いた。
目の前には、意識を失った雄大が倒れている。砂だらけの顔で、静かに胸が上下している。
そのそばに、銀色の狼のぬいぐるみがひとつ、転がっていた。
中身を使い果たしたみたいに、ぐったりと。
今にも落ちてきそうな紅い月だけが、三人を見下ろしていた。




