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倒魔くんとナンパの人狼  作者: 首藤蓮


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第13話「決闘にうってつけの夜」

 ウォルフは、赤い月を背にして立っていた。狼の輪郭は、さっきよりさらに薄い。毛並みの一本一本が風にほぐれ、銀色の粒が空気に散っていく。

「怖いか」

 喉の奥に響く声は、低くて硬かった。


「……怖い」

 ようやく出た声は、それだけだった。

 ウォルフは、海を一度だけ振り返ってから、斗真を見た。

「時間がない。あいつはもう、近くまで来ている。この世界に、完全な姿で降りてくる準備を終えた。止められる機会は多くない」

「……僕の身体を使うってことをさ」

「ああ」

「断ったら?」

「それでもやる」

 間をおかずに返ってきた。

「悪いが、これは選択肢じゃない。おまえにとっても、この世界にとっても、な」

 反射的に、喉の奥で言葉がつかえる。

「勝手だな」


 ウォルフは、表情を変えなかった。

「ここまで来た時点で、おまえはもう“外側”には立っていない。王女の所持していたグリモアを開き、俺と契約の縁を結んだ時点で、運命の輪の中に組み込まれた」

 悔しさも怒りも、全部まとめて海に叩きつけたいのに、うまく言葉にならない。

 百合香の顔が浮かぶ。喉に手を当てていた、あの最後のステージの姿。そのすぐあとに、救急車の赤い光。

 ——守るって、言ったじゃないか。

 心のどこかで、さっきまで何度も繰り返していた言葉が、また浮かぶ。

「わかったとか、納得したとかじゃない」

 斗真は、ようやく絞り出す。

「ただ……ここで逃げたら、たぶん一生後悔する。それだけは嫌だ」

「充分だ」

 ウォルフは、短く答えた。

「目を開けていろ。全部見るんだ」

 そう言うと、狼の輪郭が崩れた。

 毛並みがほどけ、銀色の糸になり、月光と混ざり合いながら宙に浮かぶ。ひとつひとつの粒が、ゆっくりと斗真の胸元へ集まってくる。

「——っ」

 逃げようとしても、足は動かない。背中が防波堤に張りついたみたいになる。

 光が胸板に触れた瞬間、内側から強く押される感覚が走った。心臓を掴まれて、全身の血管に圧力をかけられているみたいだ。痛みというより、容量オーバーに近い。

 膝が崩れかける前に、別の力が背骨を支える。

 視界の端が、やけにはっきりしていく。

 波打ち際に残る泡の輪郭。濡れた砂粒の反射。遠くの観覧車のネオンが空気の揺らぎでわずかに歪む様子。全部の解像度が一段階上がる。

 耳に入る音も、層に分かれた。表面を叩く波音。その下でうねる流れ。さらに深いところで石同士がこすれる鈍い音。

 肺が広がる。吸い込んだ空気の温度まで分かる。風の塩気だけじゃない、どこか焦げた砂の匂いが混じっていることまで、はっきりわかる。


——落ち着け。息を続けろ。

 頭の内側で、ウォルフの声がした。

——前に立つのは俺だ。おまえは一歩下がれ。見ていろ。それだけでいい。

 意識が、身体の中でわずかに位置をずらす。

 視界はそのまま共有している。ただ、ハンドルだけが別の誰かの手に移った感じがした。

 背骨がまっすぐ伸びる。肩の力が自然に抜ける。首の後ろが軽くなる。猫背気味だった姿勢が、何も意識しないのに、正しい位置に収まっていく。

 月の光が、直接皮膚の下に流れ込んでくる。

「……これでいい」

 口から出た声は、もう完全にウォルフのものだった。

 斗真は、自分の意識がさらに一歩、後ろに下がる感覚を持つ。

 前列のガラスの向こうで、自分の身体が立っている。足の裏に伝わる砂の感触だけが共有されている。

 ウォルフは、深くひとつ息を吸った。

 それから、しばらく何も言わなかった。

 ただ、海と月の向こうを見つめている。


 ——待っている。

 そのことだけが、後ろに引き下がった斗真にも、はっきりわかった。

 風向きが変わったのは、その少しあとだ。

 海から陸へ吹いていた風がふっと止まり、逆方向から冷たい空気が頬を撫でる。潮の匂いが薄れ、金属が錆びたような匂いと、古い血を思わせる鉄っぽさが混じった。

 波のリズムも乱れる。一定だった“寄せて返す”のパターンが崩れ、不自然なタイミングで一つだけ大きい波が来て、防波堤に重くぶつかる。

「来た」

 ウォルフが低く言った。

 空と海の境目に、細い黒い線が走ったように見えた。

 一瞬だけ、空そのものにペンで引いたみたいな直線の暗がり。すぐに消える。その代わりに、砂浜の先、波打ち際の少し手前に「人影」が一本立っていた。

 いつ現れたのかは見ていない。

 気づいたときには、そこにいた。


 白いシャツに薄いブルゾン。ジーンズ。少し寝癖の残る髪。見慣れた背丈と、見慣れた肩の線。

「……雄大」

 名前が、ほとんど反射でこぼれた。

 明智雄大は、こちらを見ていた。

 十メートルほどの距離。薄い月明かりでも、顔はわかる。

 ただ、その「中身」は、いつもと違った。

 笑っているようにも、無表情にも見える。目元の影が濃い。瞳の奥に、赤い火種みたいな光がひとつだけ宿っている。

「雄大、だよな」

 問いかけに返ってきた声は、たしかに雄大の声だった。

 だが、その下に、もうひとつ別の音が重なっている。鐘の芯を叩いた時のような、低い響き。

「その名は、今だけ借りているものだ」

 雄大の口が動いて、知らない言葉遣いが漏れる。

「我の名はファウスト。かつては——ドラキュラと呼ばれたこともある」

 波の音が、そこで一瞬遠ざかった。

——本当に来たな。

 後ろの斗真が、乾いた感想を浮かべる。

——ああ。

 ウォルフは短く返した。


「久しいな、ファウスト」

 斗真の喉から、別の声が出る。

「前に見たのは、神殿が最後だったな」

「よく覚えている」

 ファウスト——雄大の顔の奥で笑った気配がする。

「竜の群れと、燃える王都と、崩れ落ちる神殿。悪くない光景だった」


 ウォルフは、砂を一歩踏みしめた。

 その瞬間、まわりの空気が変わる。

 波音が厚いガラスの向こうに押しやられたみたいに、小さくなる。観覧車のネオンが、遠い水底から見上げているような弱さになる。風は吹いているのに、温度だけが切り離された。

——層をずらした。

 ウォルフの声が、内側で説明する。

——ここ一帯を、外の世界から半歩だけ外した。向こうには“静かな夜の海”にしか見えん。

 ファウストは、そのことをわざわざ言葉にしない。ただ、ごく自然に舞台を整えた、という顔をしている。

「エウレカの居場所は、確認した」

 ファウストは、淡々と言った。

「こちらの世界でも、特異点としての線は変わらない。あとは我が手中におさめるだけだ」

「おまえの手は、二度とあいつには届かせない」

 それ以上、余計な説明はつけ足さない。


 ファウストは、ほんのわずかに肩をすくめた。

「ならば、することはひとつだ」

 雄大の右手が、ゆっくりと持ち上がる。

 指先に、赤い光がひとつ灯った。月より濃い、乾いた血の色。光はすぐ消えるが、その余熱だけが空気の密度を変える。

「式を組む。お前と我の、どちらがこの夜を“解く”か」

「式だろうが何だろうが、解はひとつでいい」

 ウォルフは、斗真の身体を一歩前に出した。

 足裏に、砂が押し返してくる。

「俺は王女を守る。おまえを倒す。それだけだ」

 ファウストの瞳が、細くなる。


「……始めようか、ウォルフ」

 月光が一段、強くなった。

 ふたりの影が、砂の上に長く伸びる。

 砂浜の上で、世界が静かに閉じた。外側の夜とは別の、「決闘にうってつけの夜」が開く。


——見ていろ。


 ウォルフの声が、最後に一度だけ内側に届く。


——目をそらすな。


 斗真は、まぶたを閉じなかった。

 足もとの砂が、低い衝撃で跳ねた。

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