第11話「サウナと告白と」
最初にそれを見つけたのは、齢五十を少し過ぎた漁師だった。
名を、浜田徹という。
オーシャン・スタジオ・ワールドの花火が始まる前の時間。湾の外れの小さな漁港は、テーマパークの光が届かないぶんだけ、余計に暗く見えた。昼間は家族連れで賑わう波打ち際も、今は外灯と自販機の明かりだけが立っている。
「昼間から、変な木の箱がぷかぷか浮いとったって聞いとるんよ」
浜田は、昼間に顔を合わせた若い漁師の言葉を思い出していた。
連休中は遊び客も増える。磯遊びに来た人間が変なものを触って怪我でもしたら面倒だし、船の出入りの邪魔になるものなら、早いうちに片づけておきたい。
小さな漁船のエンジンを絞り、岸近くの浅瀬にゆっくりと近づける。懐中電灯の輪が、波打ち際をなぞるように動いた。
「……なんじゃ、こりゃ」
光の中に、見慣れない影が浮かんだ。
古い棺だった。流木と一緒に半分砂に埋もれた長い箱。ところどころ海藻が絡みつき、鉄の金具が赤茶けている。映画やゲームでしか見ないような、やたらと物々しい装飾が施されている。
これが時代劇の撮影用とかなら笑い話だが、こんな端の入り江に撮影隊が来たという話は聞かない。
浜田はしばし迷ってから、岸に引き上げることにした。中身が空ならただの粗大ゴミだが、何か入っていれば――骨董品までは期待しないにしても、役場に話を持っていくネタくらいにはなる。
棺は、意外なほど軽かった。波に揉まれて中身が抜けたのか、それとも最初から薄い板で形だけ作られていたのか。波打ち際まで引きずって、工具箱からドライバーとバールを持ち出す。
「人が入っとる感じじゃねえな」
蓋の継ぎ目にバールを差し込み、体重をかける。錆びた金具がきしんで、空気の抜けるような音を立てた。
その瞬間、海の匂いが一瞬だけ消えた。
代わりに、湿った地下室のような、古い布団を何十枚も重ねて閉じこめておいたような、重たい匂いが鼻を刺す。
「うっ……」
浜田が顔を背けるより早く、棺の中から“何か”が噴き上がった。
それは煙とも霧ともつかない黒いものだった。懐中電灯の光を吸い込みながら、細い蔓のように空へ伸びていく。声がした気がする。耳ではなく、骨の内側を爪でなぞるような、かすかなささやき。
――――――――裂け目はどこだ。
黒いものは、一瞬だけ湾の内側に視線を向けるように停滞し、それから、街のほうへと滑るように飛んでいった。
浜田は尻もちをついて、しばらく立てなかった。足元の砂は冷たく、棺の中は空っぽになっていた。
そのころ斗真は、サウナ施設の白い天井をぼんやりと見上げていた。
オーシャン・スタジオ・ワールドの最寄り駅から二駅離れた繁華街。ビジネスホテルはどこも満室で、雄大が検索して見つけてきたのが、この二十四時間サウナ付きのカプセルだった。
百合香と未夢を残して自分たちだけ先に帰るという選択肢は、最初から頭になかった。明日の朝いちで、病院に顔を出すつもりでいる。
脱衣所でロッカーの扉を閉めたタイミングで、スマホが震いた。
未夢からのチャットだった。さっき作られたばかりの三人用グループに、短いメッセージが連続して落ちてくる。
『病院着いた。今、処置終わったところ』
『百合香、意識ある。しんどそうだけど、筆談なら普通にやり取りできてる』
ここまで読んだところで、胸の奥の固まりが少しだけ緩む。
『さっきのは、喉からの出血と、息が苦しくてパニックになって、過呼吸になった感じ』
『先生いわく、声帯ポリープの手術あとがちょっと炎症起こしてたっぽい。久しぶりに本気で歌ったから、負担がかかったみたい』
『しばらく声出しは完全にNG。でも安静にしてたら治るって』
ポリープ。手術。言葉だけ並べると重たいのに、未夢の文章はあくまで冷静だった。状況を整理して、必要な情報だけ渡してくる。
最後に、一つだけ雰囲気の違う文が届く。
『あと、これは本人からちゃんと話すって。ネットの歌のこと。二人に隠しててごめんって』
百合香が“あの歌い手”だったという事実は、歌声を聞いて半ば知らされてしまっている。それでも、「本人の口から話すまで」は詳しく触れない――未夢の書き方は、そういう線をきちんと引いていた。
最後のメッセージは、短い。
『とにかく今日はゆっくり休んでってさ。何回もごめんって書いてる』
ごめん、か。
スマホをロッカーにしまいながら、胸の中で同じ言葉が反響する。
「無事でよかったな」
隣でロッカーを閉めていた雄大が言った。肩からタオルを下げている。
「ああ」
それしか返せなかった。
浴室に入ると、硫黄ではない、少し甘い入浴剤の匂いがした。人工温泉。洗い場には数人のサラリーマンがいて、湯船は思ったより広い。壁の向こうから、低いテレビの音が漏れている。
二人でかけ湯をして、湯船に浸かる。肩まで浸かった瞬間、今日一日の疲れが一気に出たような気がした。OSWで歩き回った足、VRブースで立ちっぱなしだった膝、救急車のサイレンを追いかけて走った肺。
「なんか、ジェットコースターみたいな一日だったな」
雄大が天井を睨みながら言う。
「午前中、あんなに騒いでたのに」
「午後、あんなに歌って」
「夜は、病院とサウナ」
自分で言いながら、むちゃくちゃな組み合わせだと思う。笑うには、まだ疲れが勝っている。
しばらく、湯の音だけが続いた。
その沈黙を破ったのも、雄大だった。
「なあ、斗真」
「ん」
「百合香のこと、好きなんだろ」
湯の温度が一瞬だけ変わったような気がした。
視線を動かさないまま、息だけが浅くなる。
返事をしない斗真に、雄大はゆっくりと言葉を足した。
「別に、否定しなくていい。見てりゃ分かる」
「……そっちはどうなんだよ」
口が勝手に動いた。質問の形をしているが、答えなんて最初から知っている。
「俺も、好きだよ」
雄大はあっさりと言った。
「この春ゼミで初めて会ってさ。声聞いて、笑ってるとこ見て、一緒に準備して、OSWまで来て。今日が一番楽しかった」
それは、斗真も同じだった。
でも、雄大の言葉には続きがあった。
「たださ」
雄大は湯面を指で軽く弾いた。小さな波紋が二人の間に広がる。
「この一ヶ月、俺の中でずっと同時進行してたんだよ」
「同時進行?」
「百合香のこと、もっと好きになってくのとさ。お前のこと、友達として好きだって気持ちとさ。未夢のツッコミとか、安田のうるささとか、あの輪っかのまんまでいたいなって気持ちと」
輪っか、という言い方が、妙にしっくりきた。
飲み会のテーブル、OSWの四人席、ボイス・ダイブ・スタジオのソファ。いつも誰かが中心ではなく、なんとなく丸くなって座っている光景。
「この先のこと考えたんだ」
雄大は続ける。
「もし俺が百合香と付き合えたとするじゃん。そうなったときのこと」
そのとき初めて、雄大が真正面から“もしも”に触れているのを聞いた。
「そのとき、お前はどうするんだろって」
「……どうって」
「一緒に遊ぶだろうけどさ。少しずつ、距離が変わるだろ? 俺と百合香と、お前。どっかのタイミングで、お前のほうが一歩下がるかもしれない。そういうのを想像したらさ、胸が、変な感じになって」
雄大は言葉を探しながら、苦笑に近い表情を浮かべる。
「百合香と一緒になる未来とさ。今のまんまでお前とくだらない話してる未来、天秤にかけたら、後者のほうが勝っちゃったんだよ。俺の中で」
それは、ずるいくらいに、いい奴の答えだった。
「だからさ」
雄大は、湯気の向こうでこちらを見る。
「斗真、お前が百合香に気持ち、ちゃんと伝えてやってほしい」
風呂場の音が遠のいた。
「お前らがもし付き合うことになったら、そのときは全力で祝うよ。俺も未夢も、きっとそうする」
胸の中で、さっきまで違う形をしていた何かが、音を立てて別のものに変わっていく。
感謝と、うらやましさと、劣等感と、怒りと、自己嫌悪と。全部が一緒くたになって、湯気みたいに立ち上がっては、頭の上でうまく形を取れない。
「……ずるいな」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
「ずるいって?」
「そこで止まれるの、ずるいよ」
言葉を選ぶ余裕がなかった。
「そんなふうに、自分の気持ちきれいに整理して、人のことまで考えて、それで“譲る”って言えるの、ずるい」
雄大が目を瞬いた。表情に、小さなひびが入る。
「でもな、斗真」
何か言いかけた雄大の声をさえぎって、
「それにさ」
自分の声が、ほんの少し震えているのが分かる。
「今の話だと、百合香の気持ちは、どこにあるんだよ」
浴室の湯気の中で、言葉だけがはっきりしていく。
「僕とお前で、『どっちが譲る』とか決めて、本人の頭越しに話して。もし僕が告白して、百合香がなんとも思ってなかったら? 逆に、百合香が本当は雄大のこと好きだったら? 今日のこの会話をあとで百合香が聞いたら、どう思う?」
言い終えてから、自分が何をしているのか、ようやく理解した。
これは、雄大の善意や、さっき見せてくれた弱さごと、殴りつける言い方だ。
雄大の顔から、力が抜ける。
「……そうだな」
しばらくして、かすれた声が返ってきた。
「そこまで考えが足りてなかったのは、認めるよ」
その言い方が、ますます斗真を追い詰める。ちゃんと自分の非を引き受けようとするその態度が、斗真の劣等感を正面から照らす。
湯船から立ち上がった。
「ごめん。ちょっと、頭冷やしてくる」
雄大の返事を待たずに、洗い場を抜ける。水滴を散らしながら脱衣所に戻り、タオルで雑に体を拭く。ロッカーから服を取り出し、順番を間違えながら袖を通す。
鏡の中の自分は、目の縁だけ赤くなっていて、どう見ても格好良くはない。
さっきの言葉が、頭の中で何度も再生される。
そんな大切な気持ちを話してくれて、みんなのことを考えてくれていたことも話してくれて、それに対して返したのが、あれだ。
しかも斗真は、ほのかとの一夜のことを何ひとつ話していなかった。
自分だけ綺麗な位置に立って、相手の告白だけを材料に怒鳴ったに等しい。
卑怯だ。
最悪だ。
怒りは、雄大に向いているようで、その実、全部自分に向いている。
カプセルゾーンへ戻るルートを、わざと外した。エレベーターには乗らず、非常階段を降りる。サウナの自動ドアを背に、外に出る。
夜風は、昼間より少し湿っていた。海が近い匂いがする。OSWの花火とショーはもう終わっていて、遠くの空にぼんやりと白い光だけが残っている。
歩道を抜けて、海へ向かう遊歩道に出る。斗真はただ波の音を聞きに行く。足元のアスファルトが、だんだん砂混じりになっていく。潮の香りが濃くなる。
ウォルフのことを思い出す。
あいつなら、こんなとき、どう言うだろうか。
あの夜、ほのかの上に飛びかかって、銀の毛並みを逆立てて咆えることができた存在は、今、どこで何をしているのか。
百合香の魔力の“ソナー”だなんだと偉そうに言っておきながら、肝心なときに、どこへ消えた。
「……どこにいるんだよ」
誰にともなく呟いてみても、答えは返ってこない。
海は、静かだった。
波が寄せては返し、そのたびに、砂浜のどこかで見慣れない木片がきし、と鳴った気がした。
その夜、海の向こう側で、別の場所でもうひとつの“裂け目”が芽を出しつつあることに、斗真はまだ気づいていない。




