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倒魔くんとナンパの人狼  作者: 首藤蓮


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第10話「異変」

 イントロの一音目が、床の下から持ち上がってきた。低いベースとキックがゆっくりと輪郭をつくり、天井のパネルに夜の海が広がる。さっきまでただの黒い板だったものが、いつの間にか波頭の光を映していた。ステージ中央に立つ雄大のアバターが、マイクを軽く握り直す。


「じゃ、よろしくお願いします」

 現実の雄大の声が、ヘッドセット越しに少しだけエコーがかかった形で聞こえた。次の瞬間、歌声が始まる。

 トップバッターの雄大は、サッカー部時代に何度も耳にしたアップテンポのアンセムを選んでいた。テンポの速い、観客にコール&レスポンスを求めるタイプのやつだ。

 モニターの中で、雄大のアバターが、イントロの間に一歩前に出る。声が乗るたびに、ステージ後ろのライトが段階的に開いていく。サビに入ると、観客席のシルエットが一斉に立ち上がって、光の棒が揺れ始めた。

「すげ……」

 思わず小さく漏らす。手に持ったライトスティックが、脈拍に合わせてほんのり光を変えている。振るたびに、画面端の「CHEER」ゲージが少しずつ伸びていく。

「ほら、ちゃんと振って」

 隣の未夢が肘でつついてくる。

「応援サボると演出ショボくなるんだって」

「そういうプレッシャーかける?」

 文句を言いながらも、腕は素直に動く。雄大の歌は、音程が破綻することもなく、ところどころで観客を煽るような合いの手を挟んでくる。声に合わせて、ステージの床から炎の輪が立ち上がり、バックパネルにはスローモーションで波が砕ける映像が重なった。

 ああいう場に自然に立てる人間なんだよな、と改めて思う。

 一曲終わると、バーチャルの観客席から歓声が上がり、画面の上には「STAGE CLEAR」の文字。天井のパネルに、雄大のアバターが片手を挙げている姿がスローモーションで映った。


「おつかれ」

「トップバッター任務完了って感じ」

 席に戻ってきた雄大が、ヘッドセットを外しながら笑う。汗をかいているわけでもないのに、どこか舞台から降りたあとの人の顔だった。

「じゃ、次は斗真ね」

 未夢が、容赦なく順番を宣言する。

 自分の名前が呼ばれて、胃のあたりがぎゅっと縮む。さっき選んだ曲名が画面の中央に浮かび上がる。あまり高くないキーの、落ち着いたテンポの曲。安全牌のはずだが、今となっては何もかもが心許ない。

 ステージに上がり、マイクスタンドの前に立つ。ヘッドセット越しの自分の息遣いが、少しだけ大きく聞こえる。目の前には誰もいないはずなのに、バーチャルな観客席のシルエットが視界の端で揺れている。

(大丈夫、大丈夫……)

 そう言い聞かせているうちに、イントロが始まってしまった。


 実際のところ、斗真のステージに関して語るべきことはあまりない。音程は致命的には外さず、勢いでごまかすところもなく、演出も控えめな光の波と、背景の夜景がきれいに動くだけだった。

 けれど、サビ前のブレイクで、観客用ヘッドセットの向こうから「がんばれー!」と未夢の声が、タイミングよく重なった。ライトスティックを振る音が、かすかにマイクにも乗る。

 歌い終わってステージを降りると、膝の力が少し抜けていた。

「悪くなかったじゃん」

 未夢が素直に言う。

「普通に聴けた」

「一番欲しかった評価のラインだな、それ」

 自分で返しながら、どこか救われる。雄大も「音程ちゃんとしてた」と軽く親指を立てた。


 三番手の未夢は、完全に“場を乗せる歌い方”だった。選んだのは、誰もがどこかで耳にしたことのあるアイドル系のアップチューン。アバターの少年アイドル風衣装が、曲とぴったり噛み合っている。

 サビで飛び跳ねる動きに合わせて、ステージ両脇から紙吹雪のエフェクトが舞い、観客席の光が波のようにうねった。こちらも息を切らしながら全力でライトスティックを振ったので、終わる頃には腕が軽い筋肉痛の予感を抱えていた。

「ふー、気持ちよかった!」

 席に戻ってきた未夢が、満足げに息を吐く。

「じゃ、ラストは——」

 全員の視線が、自然に百合香に向いた。

「……うん」

 百合香は、小さく頷く。さっき決めたバラードの曲名が画面の中央に浮かび上がる。そのタイトルを見ただけで、どこか空気が変わった気がした。

「緊張しなくていいからね」

 未夢が、肩を軽く叩く。

「ここ、観客全員知り合いだから」

「そういう言い方も変だけど」

 雄大が笑う。それで少しだけ場が和らぐ。

「行ってきます」

 百合香はそう言って、ステージへ向かった。白と青のドレスのアバターが、現実の彼女と重なって見える。マイクスタンドの前に立つ姿は、さっきまでより少しだけ細く見えた。


 照明が落ち、ステージ全体が柔らかい青に包まれる。バックパネルに、ゆっくりと雪のような光の粒が降り始めた。

 ピアノのイントロが、一音ずつ慎重に積まれていく。静かな和音の隙間に、息を吸う音が紛れ込む。


 そして、百合香の声が乗った。


 一音目から、空気が違った。

 細いわけでも、太いわけでもない。ただ、異様に“まっすぐ”だった。基音と倍音が無駄なく重なっている感じで、ヘッドセットのスピーカーを経由しているはずなのに、耳の奥に直接触れてくる。

 ステージの演出も、今までとは違っていた。声の立ち上がりに合わせて、バックパネルの光が息をするように明滅し、足元から立ち上る小さな光の柱が、彼女の周りを守るみたいに揺れる。

(これ、ほんとに同じシステム使ってるんだよな……?)

 さっきまでの三曲とは、ハードウェアもソフトウェアも同じはずなのに、見ている映像が全然違う種類のものに感じる。ピアノの旋律と声が絡むたびに、観客席のシルエットが、自然に手を胸に当てるモーションに切り替わる。

 歌詞は、ありふれた失恋のバラードだった。誰かと誰かが一緒に見た風景の話で、別れたあとに同じ場所を訪れるときの胸の痛みを歌っている。けれど、その“ありふれた内容”が、声の調子と呼吸の運びで、妙に具体的な距離感を持って迫ってくる。

 サビに入る直前、百合香がほんの少しだけ息を吸う。その微かな音まで聞こえてしまうくらい、スタジオルーム全体が静かだった。

「っ……」

 喉の奥で、誰かが息を飲む気配がする。未夢か、雄大か、自分自身か。

 サビで一段階、声の熱量が上がる。ピッチはまったくぶれないのに、ほんの少しだけ掠れた成分が混ざって、その掠れが逆に感情の深さみたいなものを運んでくる。

 ステージの演出は、声に押されるように、次々と変化していった。雪の光が花びらに変わり、天井のパネルには、夜の海に浮かぶ船のシルエットが見える。観客席からの光の波が、さっきとは比べものにならないくらい強く揺れている。

 気づけば、自分もライトスティックを握りしめたまま、ほとんど動かしていなかった。応援のジェスチャーをすることさえ忘れていた。

 一曲目が終わると、スタジオルームのスピーカーから、バーチャルとリアルが混ざったような拍手と歓声が一斉に湧き上がった。

「……すご」

 未夢が、素直に呟く。

「ちょっと反則でしょ、あれは」

 雄大も苦笑混じりに言う。画面の上には、「S RANK」と書かれた評価と、他の曲よりも明らかに高いスコアが表示されていた。

 百合香のアバターが、一度深くお辞儀をする。その動きに合わせて、観客席から「ENCORE!」の文字が立ち上がった。画面の端には、「アンコールを受けますか?」というシステムメッセージが、小さく表示されている。

「ど、どうしよう……」

 ヘッドセット越しに、百合香の息の混じった声が聞こえる。

「無理しなくていいよ」

 雄大がすぐに言う。

「一曲で十分過ぎるくらいだし」

「でも……せっかくだから、もう一回だけ」

 百合香は、少し間を置いてそう言った。声の端に、微かな迷いと、決意が混ざっている。

「ほんとに大丈夫?」

 未夢が念押しする。

「うん」

 画面の曲リストが再び表示される。さっき一瞬だけカーソルが止まった、見覚えのあるタイトルの曲名の上で、カーソルがまた止まった。


 ——ネット上で爆発的な人気を誇る、正体不明の歌い手のオリジナル曲。


 その再生数は日本の総人口をとうに超え、それでもなお歌い手の素性は誰にも知られていない。

 彼女は迷った末に、その曲を選んだ。

 イントロは、さっきのバラードよりも少しテンポが速い。けれど音の重心は低く、夜の街を歩く足音みたいなリズムだった。

 一曲目とは違う種類の“本気”が、声に乗るのがわかった。サビへ向けてのビルドアップで、呼吸の量が増えていく。ピッチは相変わらず正確だが、ところどころで、喉の奥に引っかかるような感覚が音として伝わってくる。


 斗真たち全員が、百合香がオリジナルの歌い手であることに気づいていた。あまりにもその歌声は、元の音源と同じに聞こえた。

 サビで、もう一段階ギアが入った。

 声が、ヘッドセットのスピーカーの限界を少し超えたような感触になる。ノイズではなく、純粋な音量と、倍音の増え方の話だ。ステージの光が、今までに見たことのないくらい眩しくなる。


 その瞬間だった。

「っ——」

 短い声が、歌とは別の音で混ざった。

 歌は一瞬だけ途切れ、すぐに持ち直したかに見えた。だが、二小節も進まないうちに、また音がかすれる。モニターの中の百合香のアバターが、胸元に手を当てるモーションに切り替わった。

 現実の百合香も、手を喉のあたりに当てているのが視界の端に見えた。指先が、何かを確かめるように喉をさすって——その指先に、赤いものがにじんだ。

「百合香——?」

 未夢が、最初に声を上げた。立ち上がる音がヘッドセット越しに直接響く。


 次の瞬間、百合香の膝が、ステージの床に落ちた。


 マイクが低い音を立てて床に触れ、音響が一瞬だけハウリングしかける。システムがすぐに感度を下げて、音はカットされた。

「止めて! 一回止めて!」

 未夢はもう、観客席から飛び出していた。スタッフ用のインカムの音が、どこかでバタバタと交錯する。

 百合香の喉のあたりから、細い線のように赤が落ちている。流れ出る、というより、にじんで伝っている感じだ。彼女自身も、自分の喉の奥から上がってくる鉄の味に戸惑っているようで、息を吸おうとしてもうまく入らない。

「百合香、ゆっくり息して——!」

 未夢が背中に手を当てる。ヘッドセットを外し、前かがみにさせる。パニックになりかけた呼吸を、少しでも整えようと、声をかけ続ける。

「大丈夫、大丈夫だから。今、止めるから」

 雄大はすでにポケットからスマホを取り出していた。

「すみません、救急お願いします!」

 通話ボタンを押しながら、片手で部屋の外のスタッフを呼ぶ。スタッフもすぐに駆け込んできて、状況を一瞥するなりインカムに向かって何かを告げた。

 は、その場で一瞬だけ固まっていた。

 頭のどこかが、「これは現実でいいのか」と処理を拒否している。遊園地で、VRで、さっきまで笑っていた場所で、急に血と苦しそうな息の音が重なる現実。


(ウォルフ……)

 反射的に、足がリュックのほうへ向かっていた。

 後ろの席に置いていた自分のリュックを掴み、中を手探りする。教科書サイズのパンフレット、財布、モバイルバッテリー。布の感触を探す指先が、空を掴む。

 ——いない。

 何度探っても、狼のぬいぐるみの感触はない。ファスナーの隙間から落ちるはずもないし、どこかに勝手に移動するわけも——普通はない。

 頭の片隅で、嫌な予感だけが形を持ちはじめる。けれど、今その感情に名前をつけている場合じゃない。

「こちら救護室に搬送します! ご家族かご友人の方、お一人付き添いを!」

 スタッフの声が、現実のほうの空気を引き戻す。

「私が行きます!」

 未夢が即座に手を挙げた。百合香の肩に手を回し、スタッフと一緒に立たせる。足元がおぼつかないので、すぐに用意された車椅子に座らせた。

「斗真、付き添いの荷物とか頼む!」

 雄大がこちらに声を飛ばす。百合香のトートバッグを掴み、未夢に渡す。彼女はそれを肩にかけたまま、車椅子を押されて部屋から出ていった。

 斗真と雄大は、その後ろを追う形で廊下に出た。スタジオシティの中の、観客には見えない裏通路。蛍光灯の白い光と、消毒液の匂いがする。

 救護室には、簡易ベッドと医療機器が並んでいた。パークの医師らしき人物が、百合香の喉と呼吸の状態を確認し、脈拍を測る。

「持病かもしれませんね。いずれにしても、専門の病院で診てもらったほうがいい」

 医師の言葉で、救急要請が正式に決まる。

 数分後、救急車のサイレンの音が遠くから近づいてきた。パークのバックヤードの出口から、赤い光がちらちらと差し込む。

「ご友人で、付き添いの方は——」

「私行きます」

 未夢は迷わず言った。百合香の手を握ったまま、一歩前に出る。

「じゃ、俺たちはここで待ちだな」

 雄大が小さく斗真に言う。

 百合香は、ストレッチャーに移されながら、かすかにこちらを見た。喉の前にはガーゼが当てられていて、声は出せない。ただ、目だけが「ごめん」と「ありがとう」を同時に伝えてくる。

 未夢が「心配しないで」と口パクで言い、もう一度ぎゅっと手を握る。二人はそのまま、救急隊員と一緒に救急車の中へ消えていった。

 バックヤードの扉が閉まり、サイレンの音が遠ざかる。


 残されたのは、パークの裏口のコンクリートの地面と、風の音と、二人分の影だけだった。

「……さっきまで、遊園地だったのにな」

 雄大が、低い声で言う。

 さっきまで、確かにここは非日常の入口で、VRのライブステージで、笑って声を枯らす場所だった。それが数十分のうちに、救急の現場になっている。

「大丈夫かな」

 自分でも驚くくらい、小さい声が出る。

「大丈夫にするしかないだろ」

 雄大はそう言って、拳を軽く握った。強がりではあるけれど、今はそれしか言いようがない。

 斗真たちはしばらく、言葉もなく立ち尽くしていた。パークの裏側を通り過ぎるスタッフたちが、ちらちらとこちらを見る。その視線の意味を、うまく解釈できないまま、時間だけが少しずつ進んでいく。

 リュックの中には、やっぱり何もいない。

 ウォルフの不在と、百合香の不安定な呼吸と、遠ざかっていったサイレンの音が、頭の中でバラバラに回り続けていた。

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