第1話「人狼との出会い」
「恋と戦争においては、ありとあらゆる戦術が許される」
ジョン・フレッチャー(劇作家)
たぶん、恋には二種類ある。
ひと目で掴まれるやつと、じわじわ積み重なるやつ。映画や歌は前者を好むけれど、現実の大半は後者で、けれど僕——斗真慶太の場合はその二つが重なった。最初に視界の端で何かに掴まれて、それから毎日の些細な反復で逃げ道が塞がっていく、そういうたちの悪い合成の仕方だと思う。
白木百合香のことだ。
同じ学部、同じ学年。背中までの髪にゆるい波があって、教室の空調が強い日はふわっと持ち上がり、会話の最後に必ず「うん」を一拍だけ置く癖がある。その「うん」は、相手の言葉をいったん受け止めて、角が立たない位置に置き直してから返す種類の相槌で、あれは練習して身につくものじゃない、もともと優しい呼吸の形だと勝手に決めている。
斗真慶太にとっての“ひと目”は図書館だった。図版の多い幻獣図鑑を開いていて、見開きの端に載った小さな竜——翼膜の皺がまだ残って、牙も棘も生えかけで、解説には「火は喉の奥にあるが、まだ重さを知らない」と書かれていた——を眺めていたら、背中から声が落ちてきた。
「その子、ね。飛ぶんじゃなくて、落ちないほうを先に覚えるの」
振り向いた先に百合香がいて、指先が挿絵の縁をそっとなぞってから離れて、続けて、
「風の厚いところを選ぶ練習。羽はまだ支えるだけ」
図鑑の本文には載っていない言葉で、でも本文より信用したくなる言い方で、そこでまず掴まれた。
それからが反復の番だ。
レポート出欠アプリの欄に並ぶアイコンで名前を見かける回数、学食の列で一人前に立つ背中を見送る回数、雨の日に折り畳み傘の骨がカチリと鳴る音を横で拾う回数、そういう地味な積み重ねは、あとから思えば全部“落ちない練習”の材料だったのかもしれない。
斗真の非モテの履歴書は分厚い。黒歴史寄りに。
高校二年の七月、ひとつ上の先輩に告白して、返事をもらう前にその先輩の同い年の彼氏が教室に現れた。その夜、二人で夏祭りに行った写真がストーリーに上がって、斗真はよりによってそれに“いいね”を押し、親指が勝手に祝福した。
高三の文化祭、クラス企画の裏で手作りの詩集を刷って気になっていたクラスメイトの女子に手渡した。題名は『君に反射する光の角度』。次に会った時には斗真を見るその子の眼からは光が消え失せていた。
大学一年の四月、新歓の全体チャットで個別のメッセージを送ったつもりが、よりによって全員に向けて「白木さんって声、好きです」と投下してしまい、既読の数が秒針みたいに増えていくのを凝視するしかなかった。
どれも笑い話にできるまで時間がかかったけれど、笑えるようになってからも、夜ベッドに入ってから順番に再生される種類の傷は、たぶん一生消えない。
だから告白は下手だし、決断は遅い。助けたいと思っているのに、助けたいと口に出す瞬間にいつもブレーキがかかる。優柔不断という名のブレーキは、日常では安全だが、物語の上ではまったく役に立たないのだ。
斗真はただの大学二年生で、図書館に逃げ込む習慣があって、白木百合香のことが初めて見たときから好きで——それでも一生この気持ちを伝えることはしないと心に決めていた。
白木百合香とは、それからも大学の図書館でよく鉢合わせるようになった。目が合うと、会釈するだけの時もあり、挨拶を交わす時もあり、今どんな本を読んでいるのか話をする時もあった。
図書館以外の、たとえば喫茶店にも映画館にもカラオケにも公園にも二人で出かけることはない。
趣味が共通の読書友達。
それが一年をかけて斗真が築きあげた、百合香との関係性である。
大学二年の春。
いつものように斗真が本を読んでいると、百合香が声をかけてきた。
その胸にはなにやら大百科サイズの分厚い本が抱えられていて、斗真の座るテーブルの向かいに本を置くと、百合香も席についた。
斗真は思わず、
「し、白木さん、なにその本」
「これね、今まで難しそうで見ていなかった棚にあったの。魔術書よ。"グリモア"ってやつ」
目を輝かせながら言う。
「大きくて厚くて重くって、立って読むのも出来ないから持ってきちゃった」
その重厚感のある布装の本の表紙を百合香が開こうとすると、斗真の背中のほうから明るい靴音が近づいてきて、声が届いた。
「白木、今いいか? ゼミの夏期合宿の打ち合わせなんだけど」
振り返ると、明智雄大だった。いつもの調子で、図書館に似合うように音量だけ落として、でも笑顔は隠さず、用件は最短距離で。
百合香は少し戸惑いながらも「うん」と小さく頷いて席を立った。
僕と雄大の視線が一度だけ合って、彼は目尻をわずかに下げ、口を開かずに「すまんな」と言った。場の温度を外さない人間の、昔からの癖みたいな目配せ。
二人が出口の方へ歩き出してから、数歩のところで百合香がくるりと踵を返し、戻ってきて、僕の机の横で少しだけ体を傾けて、「またね」と言った。ひと言なのに、今の時間の端がそっと留められる感じがして、可愛らしさが遅れて胸にくる。百合香はもう一度だけ会釈して、今度こそ雄大と並んで消えた。
そのとき、机の上の分厚い一冊が置きっぱなしになっているのに気づく。角は新しく、布地は古び、図書館のラベルはない。私物か、寄贈か。背の綴じに小さく「術式綴」とある。追いかけて渡すには数十秒遅かった。返却カウンターに届ける前に、栞の位置だけ確かめようと、見開きをそっと開く。
紙の白が、浅い金色に息を吸った。
見返しの余白に、もともと印刷されていなかったはずの環状の紋がにじみ出て、インクが光を拾い、そこから灯りの粉が小口へ滲んで、指先から手首へ、静かな痺れが走る。閲覧席の音が遠のき、空調の風だけがくっきり残る。
声がした。耳ではなく、喉の奥に落ちてくる種類の低い声だった。
——受けるか、捨てるか。
「……誰」
——使いの者だ。命令を持ってきた。
光は紙から離れて空中に集まり、ひとつの形に縮んだ。掌より少し大きい、灰色の狼のぬいぐるみ。ガラス玉の目が光を返す。縫い目は綺麗で、しっぽの付け根に古い糸の結び目。口は動かさないのに、言葉だけがこちらへ届く。
——現世では、この器でしか顕現できない。力が足りない。俺の名はウォルフ。
ぬいぐるみは机の上で目線を変え、さっき百合香が去っていった出入り口を一瞬だけ見て、こちらへ戻す。
——紅の魔術師が姫君を探している。いまは眠っているが、夢の底から手を伸ばし、獣を使って居場所を嗅がせている。目覚めれば遅いんだ。
「姫君、って——」
——こちらの世界では白木百合香という。こちらでは記憶がなくても、向こうでは冠を持っていた。
——おまえは彼女の盾になる。奴が目覚める前に、力を蓄えろ。“親密の共鳴“を集め、供物として契約を繋げ。悪魔は見返りに力を貸す。
「親密の……共鳴?」
——最短は、この世界で男女が性交することだ。だが前提は“合意”だ。
——互いに惹かれ合っているほど深く燃える。片方だけでは伸びが鈍い。
——多ければ多いほど、早く、遠くへ届く。
——それと覚えておくんだ。おまえと結んだ相手には“守護”が付く。運と機会、危険の回避——取引の見返りだ。
——位の高い悪魔ほど、器の大きい女を求める。外見だけじゃない、“中身”ごとだ。
——俺は案内する。どうするか決めるのはおまえ自身だ。
喉が渇いた。最初に出たのは拒絶だけだ。
「無理だよ。そんなの、できるわけがないし、やり方が間違ってる。百合香を守るって言いながら、他の人を巻き込むのか?」
ぬいぐるみは首を振らない。
——善悪で悩むのはよい。だが、状況は待ったなしだ。見せてやろう。
前足(と呼ぶしかない布の突起)が僕の手の甲にふれて、視界のピントがずれ、図書館の空気の層が一枚剥がれる。
窓際の自習スペースに、黒い“影のひび”が一本、床から椅子の脚へ伸びている。ひびの縁には粉のようなものが付着し、そこを蛾ともクラゲともつかない“何か”が舐めるように往復する。
別のテーブルでは、参考書に顔を落とした学生の足元から細い糸が空気中へ立ち上がり、その先に黒い滴がぶら下がって、呼吸のリズムに合わせてふらふら揺れる。
気づいているのは僕だけだ。誰も顔を上げない。誰も見えていない。
——人の心には裂け目ができる。疲れたとき、悲しいとき、ひとりでいるとき。
——奴の獣は、その裂け目から入り、名前を覚え、匂いを覚えて、辿る。姫のところまで。
「やめろ」
小さく荒い声が出る。
ウォルフはうなずかず、否定もせず、ただ続ける。
——選べ。受けるか、捨てるか。捨ててもよい。起きたことは、起きたままになる。受ければ、命令になる。命令なら、俺がやらせる。
「僕は——」
言葉がそこで止まる。善悪の天秤はこういうときほど役に立たない。
ぬいぐるみは待っている。急かさない。
窓の外で救急車のサイレンが短く切れて、また続く。空調の風が書架の背を撫で、ページの擦れる音が戻る。視界の“ひび”はまだそこにあって、黒い滴がひとつだけ床に落ちる。
「答えは、今じゃないと、だめか」
——今でなくてもよい。だが、遅くはできない。匂いは濃くなる。
——おまえが躊躇うなら、代わりの盾を探す。それは姫にとって、最善ではない。
目を閉じて、開く。手の甲に残った布の感触が、皮膚の上で現実の側に踏みとどまる。
すぐに頷けないことだけは確かで、すぐに背を向けないことももう確かだ。
——悩め。悩むのは生きている証拠だ。
その声と一緒に光はしぼみ、ぬいぐるみはただのぬいぐるみに戻った。僕は本を閉じ、深呼吸を三回して席を立つ。
百合香は、合宿の打ち合わせからすぐには戻らないだろう。雄大は、あの目配せを、この先も何度となく繰り返す。
これが、僕と人狼が出会い、世界の輪郭が変わりはじめる瞬間だった。




