2つの記憶、合わない計算
「シャル! 誕生日おめでとう! 乾杯!」
シャルの父親でありペリランド商会長のモーリスが、そう言って木製のジョッキを高々と掲げる。
……翌日は、シャルの10才の誕生日だった。
「シャル、10才になるまで健康に育って、母さんはとても嬉しいです。昨日の怪我、痛くない?」
「大丈夫です、お母様。打ちどころが良かったのでしょう、もうほとんど痛くありません」
メリーファに対し答えるシャル。
しかしその一方で、シャルの頭の中の半分は、野乃としての記憶に支配されていた。
野乃としての記憶は、本当に鮮明にある。
実家の一軒家。そこから大学のキャンパスまでの道のり。講義の時間割。数学、物理学の公式。日本語で、ちゃんと書き出せる自信がある。
しかしその一方で、10年間過ごしてきたシャルの記憶は、失われていない。
セーヨンの街、どこにどんな建物があるか。商会で扱っている品物の保管場所。一度だけ行った王都の光景。学校で学んだ、べネイル語の読み書き。
……自分の中には、二人分の人間の記憶が、知識がある。
そして、野乃の記憶をもとにすると、今まで当たり前だと思っていた身の回りの物事が、全く違って見え始める。
「シャルちゃんも10才か、大きくなったなあ」
「お陰様で、みなさんが店をごひいきにしてくださるからですよ」
例えば今はシャルの誕生日パーティーのさなかだが、長いテーブルにはシャルたち一家の他にも、同じようにセーヨンで店などを営んでいる同業者や、取引先である貴族が10人ほど招かれて、食事をしつつ会話に花を咲かせている。
……そう、この世界には貴族がいる。あと、王族がいる。そして、シャルはそれ以外の、いわば平民だ。
……貴族と平民って、何が違うんだっけ? 特別な能力を持ってるとか、そういうのじゃないのに。
野乃の記憶から湧き出た、昨日までは全く浮かばなかった疑問がよぎる。
シャルはパンを手に取る。視界はテーブルの上へ。
白い布が敷かれた木製テーブルの上には、魔石を使ったランプ。
……そうだ、魔力というものがこの世界にはある。
科学と相反する存在、魔法。魔力。そして魔石。
それは、きっと物理法則を持ってしても計算できない、不思議な現象。
……なぜ魔石に魔力を与えると光ったりするのか? そもそも魔力って何だ?
――理系の血が、騒ぎ出す気がした。
「シャル姉ちゃん? どうしたの?」
「……あっ、ううん、大丈夫。ちょっと考え事をしてただけ」
エルビットの言葉が、シャルの思考を中断させる。
……変わらないのは、可愛い弟の顔だけだ。
***
しかし、理系の血が騒いだところで、野乃のような普通の大学生が持つ現代科学の知識で魔力とかなんとかが分かるわけでもなく。
翌朝、自室から起きてきたシャルの一日は、メリーファに一言きつく言われるところから始まった。
「ちょっとシャル! その目の下のクマは何!」
結局、全く眠れなかったが、そんなことお客様の前では言い訳にはならない。
お手伝いさんの作ってくれた、丸いパンと塩漬け肉を焼いたもの、野菜スープの朝食。
「シャル、今日は父さんと一緒に仕入れ品と倉庫の棚卸し確認、その後モートン男爵への織物の納品と、代金の受け取りだ。まずは食べ終わったら店の搬入口まで来るように」
「わかりました、お父様」
……お父様か、考えてみると親に対しての呼称としてはいささか丁寧過ぎる気もする。
そんな考えが、シャルの頭をもたげる。
「どうしたんですシャルさん? さっきから食べる手が進んでませんよ」
「え……」
こころなしか、スープの味が薄かった気がした。
「ペリランドさん、いつもありがとうございます。じゃあここに判を」
「いいえ、こちらこそ」
モーリスが書類用の魔力が込まれた紙に親指を押し付けると、判となって赤い模様がつく。
その横で、シャルは搬入口から運び込まれる木箱の数を素早く数える。
今日の仕入れ品はティエの葉だ。
一辺10キュウブ――野乃の元いた世界風に言えば約50cm――四方の木箱に、乾燥させたティエの葉がパンパンに詰まっている。
手元のリストを見ると、今日運び込まれる木箱は177個。重さで言うと48ゴーロン――えっと、何kgぐらいなんだろう?
「いやー今年のものもいい色付きしてますね。それにいつもよりたくさん詰まってる感じがします」
シャルが振り返ると、モーリスが箱の一つを開けて、中のティエの葉をチェックしていた。
王国有数の農業地帯である、北部の平原から運び込まれた葉。
収穫した直後は緑色だが、ここまで数日かけて運び込まれる間に赤茶色となる。粉にしたり、煎じたりしたものを水に溶かして飲むのだ。
……要は、紅茶のことじゃないの。
シャルはこの世界でティエと呼ばれるものがお茶であること、そしてこの世界に緑茶が無いことに、初めて気づく。
別にお茶にこだわりは無いのでどうでも良いのだが。
それよりコーラとか、エナジードリンクとか……無いわよねえ……
「そうですねえ、今年は結構な豊作でしたので。質も良いので、傷まないように詰めるのが大変でしたよ」
「でしたら、もう少し余裕を持って木箱に入れても良かったのでは?」
モーリスが尋ねると、ここまでティエの葉を運んできた農家の男は少し顔を曇らせる。
「それが、今年は箱の方を充分に用意できなくて……ほら、去年秋に北部の方ですごい嵐があったでしょ? あれのせいで、使える木が全然無かったんですよ」
ティエの葉を入れる木箱は、中の葉を湿気や虫から守るため特殊な木を使い、魔力を込めて作る……シャルはモーリスから聞いたことを思い出す。
――茶箱ならぬ、ティエ箱ってことか。
「いつもより詰まってるのはそれもあるんです。一箱あたり18ロンスはあります」
「ああ……普段は15ロンスぐらいですもんね。……おーい! いつもより重いから気をつけろよ!」
モーリスが搬入口を通ってティエ箱を運んでいく手伝いの店員さんに注意を飛ばす。
……あれ? シャルの中の野乃の、理系の部分が反応する。
数値、合ってる?
今日運び込まれるティエの箱は177個。
一箱あたり18ロンス。だから……
……合計で、177×18=3186ロンス。シャルはメモ用の羊皮紙の切れ端で計算し、3186と書き込む。
で、ロンスもゴーロンも重さの単位だけど、確か1ゴーロンは70ロンスぐらいだったはずだ。
厳密な関係式は……えっと、お父様から以前覚えるように言われた……
そうだ、思い出した。1ゴーロンは72ロンス。
ってことは、リストに書いてある重さ、48ゴーロンは……48×72=3456ロンス。
――合わない。差し引き270ロンス、足りてない。
「お父様、あの……」
「どうした、シャル? 倉庫なら、まだまだ余裕あるはずだが……」
「いえ、そうではなく。計算が、合いません」
シャルはメモを見せて、モーリスに説明する。
「……むむ、計算に、間違いは無いんだろうな」
「はい。検算もしました」
モーリスの顔からは、『本当か?』という疑念と、『娘がこんな計算を短時間で……』という驚きの感情が見て取れる。
――はあ、まあそうよね。
普通の10才の子は、2桁や3桁の掛け算をこんなさっとできない。ましてや、数値から疑念を持って計算して、実際に合ってないことを示すなんて。
シャルは、自分が今やったことが、お父様の想像を超えたものであることを実感する。
野乃だったときは、これぐらいの計算、実験やレポートの中で毎日やってた。実験誤差を気にして、数値に対する感覚も敏感になった。
それが、無意識のうちに働いていた。
うーん。こういうのも、職業病のうちに入るのだろうか?
「……本当だ。シャル、すごいな……」
モーリスは自分でももう一度羊皮紙に計算して、シャルの言い分が正しいことを確認する。
……そういえばこの世界、電卓は仕方ないとしてもそろばんすら無いのよね。
筆算は幸い日本のスタイルと同じだが、モーリスも他の商人も、計算するときは皆羊皮紙とペンを動かしている。
――これ、そろばん作ったら大発明?
……いや、でもわたしそろばんの仕組みよくわからないや。残念。
「ありがとうなシャル。商人にとって、数字のズレは絶対に見落とせないものだ。迅速に処理しなければいけない」
そう言うとモーリスはごつごつした左手で、シャルの金髪をわしわしと撫でる。
スキルをひけらかしてるような気もするが、褒められて悪い気はしない。
「あの、すみません。よろしいでしょうか?」
シャルの計算を説明するため、モーリスは、農家の男に向き直った。
「……はい? もしかして、葉に傷みでもありましたか?」
馬車の荷台から箱を降ろしていた農家の男は、モーリスの真剣な眼差しにたじろぐ。
「いえ、事前に頂戴したリストと量が合わないんですよ」
「えっ……おかしいな、確かにセーヨンの単位で計算させたのに……」
モーリスから計算結果を説明された農家の男は手元のリストを覗き込み、馬車の方をちらり。
「おい、このリストを作って、ペリランド商会へ出したのは誰だ」
男が大声で叫ぶと、程なくして荷台の中から、小汚い服の一人の少年が出てきた。見かけはシャルと同じぐらいの背丈だ。
「……そういえば、北部の地域では違う重さの単位を使ってるんですよね」
シャルは思い出す。全然違和感無かったけど、野乃の記憶がある今になるとこれもすごくおかしな話だ。
「ああ、シャルには教えてなかったか。売り買いの取引のときは、買う側が使用している単位に合わせて書類を作るのが決まり……というかマナーなんだ。慣習、ってのが正確だな」
つまり今回は買うのがセーヨンのペリランド商会側だから、セーヨンでの単位で計算しないといけない。
「もちろん我々が他の街の役所や貴族に対し何かを売るときは、向こうの単位で計算してリストを作る」
「あれ、でも店舗でいちいちそんな計算……」
「さすがに面倒だから、個人相手にはしない。それに店舗に買いに来るのは、ほぼセーヨンの人だろ?」
……なるほど。
考えてみれば、コンビニに来たお客がアメリカ人だからってドル札を要求したりはしない。
「……レイか。お前、ちゃんとセーヨンの単位で重さ測ったか?」
男にレイと呼ばれた少年は、少しおっかなびっくりながらも答える。
「はい。セーヨンの単位って、ロンスですよね? 1箱10トルーラだったんで、16ロンスに直してから計算しましたよ」
「違う! セーヨンでは10トルーラは18ロンスだ!」
「え……」
レイの顔が一瞬にして絶望に変わるのが、その場の全員にわかった。
「レイ、前も計算間違えたよな……はあ」
男が右手で顔を覆う。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
レイの方はひたすらに平謝りだ。
「あれ、でもまだ計算が合ってないんじゃ……」
「いや……レイ、お前1ゴーロンを59ロンスで計算しただろ」
男の言葉で、シャルは慌てて計算をし直す。
レイがした計算は、1箱16ロンスで177箱だから、177×16=2832ロンス。
1ゴーロンは59ロンスだから、2832÷59=48ゴーロン。
……ようやく数値が一致した。
「それも違うんですか……?」
「セーヨンでは1ゴーロンは72ロンスだ。これも前に教えただろ?」
「……はい。申し訳ございません」
頭を下げ続けるレイの身体が、ほんの少し震えている。
「あのー、レイ君だっけ?もミスを認めていることだし、そこまで怒らなくても……」
たまらずシャルは声をかけた。
計算ミス、というか単位換算のミスなんて、誰にでもある。
「しかし、書類の間違いというのは信用に関わる……」
「まあまあ。うちの娘もこう言ってることですし、ほら、その子泣き出しそうですよ」
「……」
モーリスにも言われ、男の顔が少し柔らかくなる。
「……まあペリランドさんがそう言うなら。レイ、次ミスしたらもうお前に仕事はやらないからな」
「はい。……すみませんでした」
レイはモーリスに向かって頭を下げた。
モーリスは優しげな顔でそれに応える。
「えっと、ということは正しい重量は……」
「44と4分の1ゴーロンです」
モーリスが言いかけたので、シャルは計算しておいた値を読み上げた。
1箱18ロンスで、177×18=3186ロンスは変わらなくて、これをセーヨンでの換算でゴーロンに直すと3186÷72=44.25ゴーロン。0.25よりも4分の1と言ったほうがわかりやすいだろう。
「シャル、計算早いな……」
「……ペリランドさんの娘さん、すごいですね……」
モーリスと農家の男が、同時に声を上げる。
「いえ、そんなによくできた子、ってほどでも無いんですけど……」
お父様、それはシャルをディスってるんでしょうか……と言いかけて、シャルは口をつぐんだ。
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