32話 黒き来訪者
エルフの集落を後にした私たちは、帰り道は急ぐことなく地面を歩いて街へと戻った。二人きりの旅になるとなんと伸び伸びと過ごせることか、とても気楽だ。
すっかり気持ちも持ち直して、リュカと談笑しながら氷雪竜がいた平原を通っている時のことだった。
「もうすぐ街だね。二か月以上離れてたから、復興も進んでるかな?」
「おそらくな。人手は集めていたようだし、変わっているのは間違いな……」
中途半端に言葉を止めたリュカは街の方角を見て固まっている。その顔から血の気が引いていくのを見て、私も同じ方を見た。そして、彼と同じものを目にして息を飲む。
目に入ったのは黒だ。全身を覆う黒い鱗。大きな翼を広げて空を飛び、鋭い牙と爪に立派な角を持つ強い生物。それが、上空より現れて街の傍へと降り立った。
『白竜よ! どこにいる!? ここにいるんだろう!?』
ヒトには竜の咆哮にしか聞こえないであろう言葉。平原と街を挟んだその向こう側からでも聞こえるくらいの、大声だ。付近の街のヒトは、鼓膜が破けているかもしれない。
どうやら私を探してこんなところまで来たらしい。私がここで竜の姿に戻って姿を見せたことを、どこかで聞きつけたのだろう。
(……このまま隠れてやり過ごせない、よね。きっとみんな怯えてるし、黒竜を街から遠ざけないと……)
隣で動かないままのリュカの顔を見上げた。彼はきっと今、故郷を焼かれた時のことを思い出している。見たこと思ないほど険しい顔で黒竜を睨むその翠玉に浮かぶのは、はっきりとした憎悪の色だ。……この目を自分に向けられたらと思うと怖くて仕方がない。
『この街を焼けば現れるのか!? 水竜の時は、そうだったのだろう!?』
ああ、これはもうだめだ。黒竜がそう口にしたならば、おそらく本当にそうするだろう。……せっかく、復興してきた街を焼くつもりだ。あれは止めなければならない。あれを止められるのは、竜の私だけだ。迷っている時間は、ない。
「リュカ」
「っ……ああ、スイラ、あれは」
「ごめんね。……本当にいつか、言うつもりだったんだよ」
戸惑うように私を見下ろすリュカに向けて、にこりと笑った。できれば私もリュカの笑った顔を最後に見たかったけれど、この状況では仕方ない。
彼に手のひらを向けて光属性の能力向上魔法を使う。身体能力を最大まで高め、ついでに持続系の治癒魔法もかけたので、巻き込まれてもおそらく死ぬことはない。……無事でいてくれと願う。きっとこれが最後だ。
「元気でね」
「す……ッ」
リュカを置いて空へ駆け出した。上空へと上がれば、ヒトは追ってはこられない。そうしてリュカを巻き込まない高さまで来たら、精霊に頼んで自分にかかっている魔法を解除してもらう。
(もう誤魔化せないよね。……私たちの冒険も、ここまでだろうなぁ……)
リュカの前で竜へと姿を変えたのだ。きっと彼は、信じられない思いで私を見ている。騙されたと、裏切られたと思っているかもしれない。
よくも平然と仲間のフリをしていたな、とか。竜を憎む気持ちを知っていて何故隣にいられた、とか。そう思われたくないから沢山伝えたいことがあったのに、その時間が無くなってしまった。
しかし彼のことを気にしている余裕はない。黒竜は今にも息吹を吐こうと大きく息を吸い込んでいるので、私も元の形へと変わっていく体に空気を取り込んだ。
放たれた黒炎が街を焼く前に白炎で上書きする。光と闇の属性の相性は最悪で、互いの効果を打ち消し合うのだ。……だからこれは、私でなければ止められなかった。こうするしかなかったとはいえ本当に最悪だ。
(こんな風に正体を打ち明けるつもりじゃなかった。……もっと時間を掛ければ、ちゃんと受け入れてもらえたかも、しれなかったのに)
街を挟んで向かい合うように、黒竜の向かい側に降り立った。足元にヒトがいないことは確認済みだ。私はヒトを決して傷つけない。……でもリュカの心は、傷つけてしまったかもしれない。それが酷く申し訳なかった。
『おお、白竜よ! 久しいな!』
『まだ六年くらいしか経ってませんよ』
私がジジと過ごすようになったあの日からその程度の年数しかたっていない。竜にとっては微々たる時間であり、属性竜の中で最も年長者の黒竜からすれば本当にわずかな時間でしかないはずだ。
彼にとっての六年なんて、人間にとっての六日間くらいのものではないだろうか。それくらい時間の感覚が違うはずである。
『それでも会いたくて仕方がなかったのだ。息災か?』
息災だったが彼のおかげで元気はなくなった。私はようやくできた仲間を今、失ったばかりだ。もう泣きたいくらいである。
リュカはどこかで私と黒竜を見ているかもしれない。あまり見ないでほしいと思うけれど、巨大だから余程離れないと嫌でも目に入るだろう。……竜としてここにいる私を、どう思っているかな。
(いっそエルフの集落で打ち明けておけば……ううん、まだ早かった。リュカに打ち明けるにはもっと時間が必要だった。……それを、この黒竜のせいで……)
睨むつもりで黒い竜を見据える。しかし彼は私に会えたことを喜ぶばかりで、私の感情には全く気付いていない様子だ。
『貴方はどうして、私の嫌がることばかりするんですか?』
『? 我が白竜に何かしたか?』
『私が好きなものを傷つけるじゃないですか。私は……せっかく、ヒトと、仲良くなれそうだったのに』
眼下の街は私たちが旅立つ前より新しい建物が増えていて、復興が進んでいるだろうことが窺えた。目に入る人々は恐怖の表情で固まっている。街を挟むように二頭の竜が佇んで、炎を吹きかけてくるのだから恐ろしくて当然だ。
そして何より、リュカである。仲間として築いた信頼も今はきっと崩れ去った。竜を憎む彼の目が自分に向けられているのは見たくない。
(大事だったのに。……初めてできた、大事な存在だったのに)
私は、出会ったヒトの中で最もリュカが好きだった。大事に思っていたし、傷つけたくなかった。……だからこそ彼の前でヒトの街を焼かせる訳にはいかなかった。私が嫌われることよりそれを優先すべきだと思ったから。
(でも、もっと一緒に居たかったよ。もっと……)
当たり前のように続くと思っていた日常が突然壊されたことに、頭の整理が追い付かない。気づいた時には視界がぼやけており、何故かうろたえる黒竜の姿が見えた。
前足に何かが落ちて当たる。見てみるとそれは大きな水溜まりであり、次々と落ちてきては地面に巨大な水溜まりを作っていた。
(……雨は降ってない。これ、私が泣いてるんだ)
竜になって本当に涙が出たのは初めてかもしれない。泣きそうなくらい悲しいことはあったけれど、こうして涙が零れた記憶はなかった。……竜って泣けるんだ。初めて知った。
『白竜よ、何故泣く……!?』
『黒竜が私の大事なものめちゃめちゃにするからでしょ……!』
属性竜たちは皆、私からすれば年上だ。彼らには丁寧に話すことを心掛けていたけれど、今はそんな余裕もなかった。気持ちのまま叫ぶしかできない。私の大事な日常を壊した彼に気を遣えるはずもない。
『ヒトなど、いくらでもいるではないか!』
『ヒトは沢山いても、同じヒトはいないの!』
『訳が分からぬ。ヒトなどどれも同じだろう、分かってもせいぜい種族が違うことくらいではないか?』
ヒトが蟻の軍勢を見ても個体識別などできないように、竜もまたヒトを見分けることなどできないもの。違う種類であればそれが分かるだけで、同種の中では見分けなどつかないだろう。竜にとってのヒトはそれと変わらない。
遥か高みから見下ろした人は小さくて、弱くて、吹けば飛ぶような存在で、殺してもいくらでも代わりが生まれてくると思っている。……リュカの代わりなんていないのに。
死んだジジには二度と会えないように、誰かが死んだらそのヒトに会うことは二度とない。同じヒトなんてこの世のどこにもいないのだから。
『違うよ。属性竜とまとめられてても私たち七体が全員違うように、ヒトもみんな違う。死んだヒトはもう帰ってこないよ』
『白竜はやはり、時々訳の分からぬことを言う……何故泣くのだ、これしきのことで……ヒトは放っておけば増えるではないか、絶滅などせぬぞ? 属性竜とて生まれ変わるではないか。無になることはない』
話が通じない。価値観が、物の見方が違いすぎて伝わらない。やはり私と属性竜とでは何もかもが違い過ぎて、理解し合うことなど不可能だ。
私の涙は止まることなく零れ続け、足元には水溜まりどころか池が出来上がっている。三百年も生きているというのに一体どれほど泣けば気がすむのか。
そんな私の姿に黒竜まで戸惑っている。右前足を持ち上げて、まるで宙を掻くように動かしているのは「落ち着け」とでも言いたいのだろうか。
『白竜よ、ヒトのことで泣くなど属性竜らしくもない。ヒトナーなど辞めて帰ってこい』
『は? ヒトナー?』
彼の口から聞き慣れない単語が出てきて思わず聞き返した。黒竜はやれやれ、と言わんばかりに尻尾を揺らし、辺りの木々をなぎ倒している。
『ケモナーではなくヒトが好きだと言っていただろう。ヒトナードラゴンをしているんだろう? ヒトの卵ではなく我の卵を産んでくれ』
ヒトナードラゴンをしているんだろう。その言葉が頭の中を巡っていく。その意味を理解するまで数秒かかり、理解した後には思わず叫んでいた。
『ヒトナードラゴンじゃありませんけど……!?』
びっくりして涙が止まった。私は別に、そういう目でヒトを見ている訳ではない。ヒトとの間に子供が欲しいなんて思ったことはないし、さすがに誤解が過ぎる。
『おお、涙が止まったではないか。うむ、我とて白竜を泣かせたい訳ではないのだ』
『……黒竜のやることは全部、私が泣きそうなくらい嫌なことばかりですよ』
『……そんなことはあるまい? 我は白竜を傷つけたことなどないではないか』
『実際に今泣くほど傷ついてたの分かりません? そのおかげで私、貴方のこと大嫌いです』
そういえばこれは言ったことがなかった。いつもは遠慮してしまってはっきりも言えず、いくつか言葉を交わしては逃げ出していたと思う。言語は同じなのに会話が成立していないような嚙み合わなさが苦痛だったからだ。
しかし黒竜は予想外のことを言われたとばかりにきょとんとしていた。……そんなに驚くことだろうか。
『……嫌いなのか?』
『はい、嫌いです』
『……こんなに強いのにか?』
『強さは私の好きなものに関係ありません。ヒトが好きなのだから、それくらい分かるでしょう』
まさか全く伝わっていなかったとは、さすがに思わなかった。態度で示しているつもりだったのに、通じていなかったらしい。
しばらくして黒竜はがっくりと首をうなだれた。
『……白竜は我を噛まぬし魔法攻撃もしてこないので、嫌われていないとばかり思っていた』
嫌いの基準が竜過ぎる。……そりゃ、噛み合わない訳だよ。
ヒトナードラゴンじゃないです。
という訳でこの終章、短いですが残り三話か四話くらいになりそうです。