第35話 エピローグ 要は楽し過ぎた
翌日。
俺は朝からずっと心ここにあらずといった感覚が続いていた。
「――――あ、違うわ。普通に仕事だった」
ベッドから起き一つ伸びをすると、まずパソコンを立ち上げWaveとスタペを開く。
そして煙草に火を付け窓の外の景色を眺めた所で――もうDM杯は終わったのだということを思い出し慌ててパソコンを閉じる。
その後は煙草の火を消しそそくさとスーツに着替え、気持ちを入れ替えながら電車に乗り込むも、それでも尚ふわふわとした感覚は残り続ける。
(……出勤していることが、何か気持ち悪いな)
3年以上当たり前にようにしてきたことが、嫌でもそういうものだと割り切りながらしてきたことが、何故か強い違和感になる。
それは、会社に着いてから更に増していった。
「――はい、すいませんでした……自己管理の甘さです」
口だけは達者な暇そうな上司に押し付けられた仕事を、月曜日の自分に預けたことでネチネチと説教を食らい、平謝りをする俺。
まあ当然と言えば当然ではあるので、一刻も早く終わらせなければと俺は1人デスクに向かい続けるのだったが――
(……やっぱり楽しくないな、何にも)
仕事など楽しいものではない。
それなりの都会の、ある程度に黒い中小企業なら尚の事。
とはいえ、俺の学力ではその程度の会社にしか入れないのだから仕方がないが。
ただそれでも生きていく為にお金は必要だから働く。
そんなことはずっと理解してきた筈なのに――
(あの怒涛の5日間は、やればやるほどその先に光があった)
なのにやってもやっても、会社の仕事はずっと薄暗い。
その差が、その世界の違いが、今まで粛々とこなしてきた仕事を酷く苦痛なものへと変貌させる。
こんな感覚は初めてのことだった。
◯
それからようやく一息つける時間になった俺は、適当にコンビニで買ったおにぎりを口の中へ押し込むと、緑茶で流し込んで喫煙所へと向かう。
「またヤ兄様とか、言われたくねえんだけどな……」
だが煙草を口にする度に思い出すのは、無限にも思える練習の後に吸う、筆舌に尽くし難いあの味。
あの快感を思い出せると思うと、無意識に手が伸びるのだった。
「…………やっぱ俺ってマゾなのか?」
まあそうは言っても、日常に帰っていくにつれてまた吸うことも無くなるのだろうが――と思っていると、スマホが腿で震える感触を覚える。
何となく嫌な予感がしたが、出ない訳にもいかず俺はスマホを取り出すと――
やはり、相手は予想した通りだった。
「……つのださんはエスパーか何かなんですか」
『おや、開口一番酷い言われようだね』
「俺が働く会社は休憩時間が一定じゃないんですよ、それなのに計ったように時間を合わせることなんて普通出来ません」
『そんなもの偶然に決まっているだろう。出なかったら折返しを待つだけさ、君の勤め先など知りもしなければ知る気もない』
「……それはそうですけども」
だとしても不気味なツテを持っているんじゃないかと思わせるだけの存在感があるのが彼女、否が応でも疑いたくもなるというもの。
『そんなことよりも、だ。まずは改めてDM杯優勝おめでとう』
「ああどうも――まあ全てつのださんが用意して下さったチームの皆さんのお陰ですがね。彼らでなかったら今頃俺はどうなっていたことやら」
『まあ正確には私が決めた訳じゃないのだがね――それにしても今もそうだが、君は優勝しというのにあまり喜ばないんだね』
「ん? ――いや嬉しいんですけどね。でも何かずっとふわふわしてるんですよ、感極まる瞬間もあるにはあったんですけど」
『成程、君にとっては未知の世界だから、そこで優勝とMVPという称号を手にしても確かに実感が湧きづらいのかもしれない』
「……そうかもしれないですね」
それは勿論あるにはある。
だが段々と時間が経つにつれ、どちらかといえば俺はこう思っているんじゃないかという気がしてきていた。
あの時間は、もう終わったのだと自覚したくないと。
優勝したことよりも、MVPを取ったことよりも、あんなにも濃すぎる時間が終わったことに気づかないフリをしていたい。
だから俺は上の空になってしまうのではないかと。
だがそんなことを彼女に言うのもどうかと思い適当にはぐらかしていると、何かを察したのかつのださんはこんなことを言い出した。
『だが、それでも君は一つはっきりと自覚すべきことがあるね』
「? ……何ですか?」
『君はその手で、いつき君を優勝へ導いたことをだよ』
「あ――」
『それが当初の、DM杯に出場した理由だったのだろう?』
「…………」
ああ……そうなんだよな。
どれだけの理由があったとしても、俺の原初にあるのは清く誠実な刄田いつきが、石を投げられながら退場する姿を見たくないという気持ち。
つまりそれを言われてしまうと、俺はいつまでも刄田いつきが報われない世界線にいたいと思っていることになってしまう。
ならばこれは幸せであると、自覚をしないといけないのだ。
どれだけ寂しい気持ちになったとしても。
(全くこの人は……何処まで見透かして――)
『彼女も君には心から感謝をしていたよ。ああ勿論私もね、自分の目に狂いは無かったと分かって心底安心している』
「…………いえ、とんでもないです」
『――……まあ、兎に角改めておめでとうだ。それと優勝とMVPのトロフィーに関してだが――いや、諸々の詳細はまた後日送らせて貰うとしよう』
「はい…………分かりました」
『……寂しく思うのは皆同じさ。だがお節介ではあるが、それを守ってまで成し遂げたことから目を背けるのはどうかと思ってね』
「…………」
『それに永久の別れじゃないんだ、何せ君達はもういつでも会いに行ける関係性なんだからね。それじゃあこれで失礼するよ』
と、つのださんは相変わらず自分の言いたいことだけを言い切ると、そのまま通話を切ってしまう。
その瞬間、思わず声が漏れた。
「あーくそったれ……人生で一番楽しかったんだからしょうがねえだろ」
ならせめて味がしなくなるまで噛みしめる時間ぐらい、くれてもいいだろうに。
「まあしかし――いつまでもそんな状態なのも気持ち悪くはあるか」
そういうことなら、全てを成し遂げた自分と向き合い、それを配信した方がよっぽどいい気がしなくもない。
そう思うと湿っぽくなっていた気持ちが急に晴れた俺は、袖で顔をぐっと拭き、早く仕事を終わらせ帰って配信をしようという気分になってくる。
その感情は、俺がストリーマーとしての道を大きく踏み出していたことに繋がっているのだったが――この時の俺はまだ気づいていない。
寧ろ煙草の火を消し喫煙所から出た時、俺はこんなことを口にしたのだった。
「……あれ、そういえば神保さん、今日いなかったよな……」
各々のエピローグ的なのを挟んだ後2章の予定です