転校生
初めて彼の奏でる音楽を聴いた時、心と体が、スーッと何かに吸い込まれていくような気持ちになった。わかりやすく表現すると、ベットに入って、何かを考えながらも、ゆっくり寝落ちしていく感じ。しかも、そのままずっとこうしていたいと感じるほどだった。
「アマンド……ショコラ……。」
四宮 桜は、無意識に口から声をこぼす。昔の記憶を頭の中のスクリーンに映像化して流しながら、ボーッと考えた。実際には、昔というほど昔のことではない。しかし、その記憶は桜にとって、遠い昔の記憶のように感じるのだった。
今から3年前の事……。
「転校生だって!」
「え?どんな人だった?」
「まだ見てない!一緒に見に行こう!」
その日、周りの同級生たちは、中学3年生の時に転校してきた男子の話題で盛り上がっていた。教室がざわつく中、桜は静かに席で本を読んでいた。
「ねえー!桜も見に行こうよ!気にならないの?」
後ろから肩をどんと掴まれる。本を読むことに集中していた桜は、少し体をビクッとさせた。振り返ると、そこにはクラスメイトの霧島 真奈美がいた。真奈美は、同級生の中で1番が良かった。周りにあまり興味を示さない桜は、親しくする人が少なかったが、そんな中でも、真奈美は桜といつも一緒にいてくれたのだ。
桜は、苦笑いをしながら真奈美に返す。
「気にならないよ。その人見に行くなら本読んでいたい。」
真奈美は、呆れ顔をしながら言った。
「桜は相変わらずねー。ほんと男子に興味持たないんだから。将来が心配〜。」
再び苦笑いする桜。
真奈美は、桜の肩をポンポンと叩きながら、スキップするように去っていった。桜は、気を取り直して本の続きを読む。教室内は、どんどん賑やかになっていく中、静かに本を楽しみたかった桜は、集中力を失っていった。
「これじゃあ集中できない。」
本のページに、桜柄の小さなしおりを挟み、ポンと本を閉じた。そのまま腕時計に目を落とす。次の活動まで、まだ時間はある。
ゆっくりと立ち上がり、本を片手に教室を出た。静かに読書したい桜にとって、1番の憩いの場所へ……。
この時間には、音楽室前の廊下は誰も通らない。教室が賑やかで、読書に集中できない時や、気持ちをリセットしたい時に隙を見て、いつもそこで過ごしていた。
音楽室は、3階にある教室から少し離れた2階にある。そこまでいくのは、普通面倒くさい事だが、それでも、そこにいく価値があると思っている。
桜は階段を足早におり、廊下の角を曲がった。このままいけば音楽室。
すると、廊下の奥から、柔らかい音色が聞こえてきた。音楽室の方だ。誰かが楽器を吹いているのかな……?
音楽には縁がない桜は、これが一体何の楽器だかわからなかった。しかし、なぜだか心をひかれ、その音色の正体を知りたいと思った。
扉から顔をのぞかせるように中を確認する。そこには誰もいない。この音色は、音楽室の奥にある楽器倉庫から聞こえてきている。足音を消しながら、ゆっくりと音楽室に入り、楽器倉庫の扉前まできた。さっきよりもはっきりと聞こえる音色は、穏やかで優しく、そんな中でもはっきりと心に響く音だった。この時桜は、不思議と読書のことよりも、この綺麗な音色の正体を知る方を優先していたのだ。
桜は、少し緊張しながらドアノブに手をかけた。普段、誰がいるのかわからない部屋の扉なんて、到底開けることのできない桜だが、その時は、なぜか吸い込まれるように扉を開けた。
恐る恐る中を覗くと、そこには、自分より少し背の高い男子が、背を向けて打楽器を演奏していた。どうやら気がついていない。打楽器を演奏する彼の手の動きは、水が流れるように滑らかで、楽器の音色とマッチしていた。その手の動きをじーっと凝視する。なんだか吸い込まれていくような気持ちを感じた。
桜は、ゆっくりと近づき、覗き込むように楽器を見た。これは……鉄琴?あまりよくわからないけど、小学生の頃、少し触ったことがあったっけ……?
すると、その男子は、何かを感じ取ったかのように演奏をやめ、勢いよく後ろに振り返った。
「わっ!びっくりした!」
彼は、驚きの表情を見せ、体勢を崩しかける。それに驚いた桜も、バッと顔を持っていた本で隠し、あたふたしながら謝る。
「ごめん……なさい。勝手に入って……。あの……聞こえてきて……その……気になったというか。」
すると彼は、ゆっくりと体勢を上げて、ニコッと笑いながら言った。
「そうだったんだね。驚かせてごめん。楽器を覗きにきたら、つい叩きたくなっちゃってさ。」
彼は、ハハハと笑いながら話した。桜も苦笑いをする。そして、思い切って楽器のことを聞いた。
「その……その楽器……なんていうんですか?」
彼は、その楽器を手でポンポンと叩きながら言った。
「これは、ビブラフォンっていうんだ。綺麗な音でしょ?」
「ビブラ……フォン?」
「そう。ビブラフォン。鉄琴の大きい版みたいな感じだね。柔らかくて、優しい音色が特徴なんだ。今は繋いでないけど、コンセントを繋ぐと、ビブラートをかけたりできるんだよ。」
彼は、ビブラフォンから伸びるコードを手にとって、桜に見せた。桜は、初めて興味を感じたこの楽器のことをもっと知りたいと思った。
すると彼は、1度咳払いをして、桜に話しかけた。
「そういえばなんだけど、名前……なんていうの?」
「えっ……名前は、桜……。四宮 桜……です……。」
「四宮さんか。俺、神崎 冬馬。よろしく!」
冬馬は、笑顔で手を桜に向けた。桜は恐る恐る手を伸ばし、握手をする。てゆうか、神崎冬馬?初めて聞く名前……。桜が、少し疑問を浮かべていると、冬馬は補足するように説明した。
「あっ!あの……今日から転校してきたんだよ。全然ここのこと知らないから、よろしく……。」
そういえば、さっき教室で話題になっていた転校生か……。冬馬は、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「転校生って……神崎君……のことだったんだね。」
日頃男子と話さない桜は、もじもじしながら、小さな声で話す。
「そういえば、さっき演奏してた曲……なんていう曲なの?」
「あー。さっきのは、パーカッション三重奏アンサンブルの、"アマンド・ショコラ"っていう曲なんだ。」
「アマンド・ショコラ……。」
桜は、ボケーっとしながら呟いた。すると冬馬は、マレットを構え直し、演奏体制になりながら話しはじめた。
「この曲は、チョコレートを作る過程を曲にした感じなんだけどさっき演奏してたのは、曲の中間らへんにある、ビブラフォンのソロで、チョコが冷蔵庫でゆっくり固まっていくところなんだ。」
冬馬は楽しげに説明し、再び同じところを演奏してくれた。たしかに、説明を受けたあとだと、チョコレートが冷蔵庫の中でゆっくりと固まっていく様子が想像できる。たった1つの打楽器なのに、これまでイメージを浮かべることができるなんて……。演奏する冬馬自身の手の滑らかな動きも、チョコレートを作る過程を想像する材料となった。あまり音楽に馴染みのなかった桜は、冬馬の演奏を聴いて、音楽のすごさを知った。そして、心から不思議とこみ上げる感動を演奏し終わって、こちらを見ている冬馬に伝えた。
「すごい……。たった1人で、たった1つの楽器で、こんなにすごい演奏ができるなんて……。」
冬馬は、にっと笑って、話した。
「すごいだろ?パーカッションって、地味なイメージがあるけど、こんなに綺麗な曲を奏でられるんだよ。」
冬馬は、マレットを持ったまま、袖に隠れていた腕時計を覗いた。そして、ギョッとした顔を浮かべた。
「時間やばくない?やばいよね?」
急いで腕時計に目を落とす桜。
「あっ!大変!」
あと少しで授業が始まる時間だった。静かに読者を楽しむはずだった桜は、冬馬の演奏を聴いて、それに浸っていたため、授業開始の時間ギリギリになってしまった。
2人は、急いで音楽室を出て、階段を駆け上がった。階段を上がりきったところで、冬馬は桜に言った。
「また来てよ。演奏してるからさ。」
桜は、少し微笑みながら小さく頷く。
結局、読書はしなかったな……。
しかし、不思議と本の続きは気にならなかった。それだけ、冬馬のビブラフォンの演奏は、桜の心に響いたのだった。