表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

放課後

 十六歳の私は、そのとき見慣れた教室の片隅にいた。放課後のはちみつ色をした西日が差しこむ中、机に頬杖をついて、目の前に立つ、名前もよく知らない男子生徒と向かい合っていた。教室には他に誰もいない。緊張した面持で、彼は学ランのポケットから赤いナイフを取り出した。スイス製のビクトリノックス、それを不器用そうに握る彼の手は震えていた。


「お、俺と、付き合って下さい」


 裏返った声で彼は言った。てっきり「殺してやる」とでも言われるものかと思っていた私は間抜けな顔をしていたに違いない。


「は?」


 言わなくてもいいのに、私の口からは懐疑的な呟きが漏れていた。


「付き合って下さい」


 彼は同じ言葉を繰り返した。

 私は努めて冷静なつもりでいたが、この場面で言うべき言葉が咄嗟には思いつかなかった。初めは告白だと思っていた。放課後の教室で、同じクラスの男子に呼び止められ、意を決した様子で立っている。少年漫画と恋愛小説で読んだ経験しかないが、これはそういう状況だと、自惚れを根拠に思っていた。ただ、それにしては彼の額を流れる汗の量が尋常じゃない、そう微かな疑問とともに見ていたら、案の定と言うのも妙な話だが、彼は周りに人がいないのを確認すると、唐突にナイフを取り出した。

 思い当たる原因もないが、時折ニュースになるような傷害事件か、最悪、殺人事件になると走馬灯の早さで思案した。しかし、蓋を開けてみれば、最初に考えた告白だったというわけである。ただ、向けられたのは、ありふれた好意ではなく、刃渡り6cmのナイフの尖端だった。


「付き合ってくれないと、殺す」


 妙な強迫だった。私は思わず吹き出しそうになった。

 殺してしまったら付き合えないだろ、と率直に思ったのもあるし、この後の展開を予想してしまったせいでもある。

 たとえば、私が「死んでも嫌だ」と言ったら、彼は逆上し、勢い余ってナイフの切っ先を突きつけてくるかもしれない。その場合、私の生死は分からないが、付き合うのは死んでも嫌だ、なんて言われた彼はいつか冷静になった時に、酷い絶望に襲われるんじゃないだろうかと思った。ナイフで脅して告白した相手に、そうまでして拒絶されたと気付いたなら、私だったら海よりも深く落ち込んで、うっかり自殺してしまいそうな気がする。彼のことはよく知らないが、多感な男子高校生が、そのことに無頓着でいられるほど図太い性格をしているようには見えない。

 もう一つの選択肢についても考えた。「付き合うから殺さないで」と言った場合、彼は目的を達成し、私も多分、生き残る。彼と付き合うことがどういうことなのか想像がつかないが、とりあえず普通の男女で考えてみよう。ありきたりな若者の交際らしくどこかへ出掛けることもあるとして、そのたびに彼はナイフを取り出すのだろうか。それで私を脅して従わせたとして、彼自身楽しい時間が過ごせるとは、到底思えない。彼は、私が何を考えているか分からない訳だから、その不安から凶器を当てにするほかなく、そうなれば、1度や2度のデートならまだしも、それが何度も続いた時には、私よりも先に彼の方が精神的に参ってしまいそうだ。

 もし、これが徒党を組んだ不良なら、呆気なく力で捻じ伏せられていただろうが、見たところ彼はひとりだ。仲間が控えているなら、わざわざ「付き合ってくれ」だなんて告白のような真似をする必要もないし、黙って脅して連れていけばいいのである。犯罪を行うなら速やかな方がいいし、余計な手間をかける意味もない。もしかしたら何らかの罰ゲームでこういう目に遭っているのかもしれない、という安易な推測も浮かんだが、結局のところは、聞いてみないと何も分からないという結論に至った。


 はじめから恐怖心なんてなかったのだけど、ここにきてそれは余計に軽いものに変わっていた。彼はナイフを持っているけれど、それは凶器にも芝居の小道具にもなっていない。場違いな気まずさに右往左往しているだけの、目の前でちらつく刃物を見ながら、私は答えを決めた。


「付き合うのも、付き合わないのもできない」

「は?」


 彼は言わなくても伝わる通りの表情をした。


「え、いや、どういうこと?」


 私は説明するかどうか少し迷った。考えながら彼の手元を見る。油断しているのか、持ち慣れていないのか、彼の手にあるナイフは素人の私でも簡単に奪い取れそうだった。私は自分の意見を説明する気持ちになった。


「この状況で付き合うと言っても、付き合わないと言っても、その後が大変そうだから、どちらとも言わない」

「意味が分からない」


 彼の視線がぐるぐる回る。何かを考えてはいるのだろうけれど、あの顔はきっと分かってない。こちらには別段、何かの策略があるわけでもなく、私が単にこの場でそれほど困っていないというだけの話なのだが。


「要するに、保留ってこと。とりあえず様子見しようかなって」


 相手はますます困ったような表情を浮かべた。案外素直な人のようで、こちらの話にきちんと耳を傾けてくれている。


「それでこの状況がどうなるって言うんだ?」


 私は思わず吹き出しそうになった。この状況とやらを演出しているのは彼のはずなのに、まるで責任者ではないかのような言い草だった。


「だって、知りもしない相手に突然、付き合え、と言われたって即決できるほど、恋に盲目でも、情熱的でもないし」


 私は、彼のことはよく知らないが、彼も私のことは知らないはずだった。


「頼むから言うとおりにしてくれよ」


 苛立った声で彼は捲し立てたが、それは迫力に欠けていた。今なら質問しても答えてくれそうだと思った。


「何で私に声を掛けたの?」

「よく知らないけど、大人しそうだと思ったんだよ」

「ということは、私である必要は特に無かったってこと?」


 彼はそうとは言わなかったが、その分かり易い沈黙が答えだと思った。「誰でも良かった」と投げやりに語る犯罪者の言い訳染みていて、特別面白味もない。


「ねえ、どうして付き合いたいの?」


 私が冷めた言い方をしたせいか、彼の方も声を掛けて来たときの勢いを失っていた。


「……賭けなんだよ」


 彼は観念したらしく、ぼそぼそと白状した。


「誰と? レートは?」

「お前、おかしくないか?何で、そんな冷静でいられるの?」

「さあ、なんでだろうね?」


 そのナイフに脅威を感じないから、とは言わないでおいた。彼のプライドを傷つけてしまいそうな気がしたからだ。それに、そのことは理由のほんの一部に過ぎない。本質的には自分の性格の問題だ。私は基本的に、趣味的で、享楽的で、そして薄情なのである。


「ねえ、賭けっていうのは?」

「もういい。俺の負けだ。悪かったよ、刃物を向けたりして」


 急に大人しい言動をしたかと思うと、彼はナイフを畳んでポケットにしまった。その表情には不完全燃焼の燻りと、どこか諦めの混じった虚ろな決意が見えた。


「終わり?」


 私は確認するように訊いた。


「ああ」


 彼は吐き捨てるようにそう言い、教室から出て行った。

 あっけない幕切れだった。日の沈みかけた教室はひどく静かで、物憂げに溜め息をつくには丁度良い雰囲気だと思った。私は自分の椅子に座り直し、机に肘を立て頬杖をついた。教室には私以外、誰もいなかった。埃っぽいグランドで、ソフトボール部と陸上部が練習しているのが窓から見えた。

 それから彼の持っていたナイフについて考えた。スイスアーミーナイフの有名ブランド、ビクトリノックス。アウトドア好きな父が持っているので、一目で分かった。彼のナイフは新品の様にきれいだった。ナイフは便利な道具であって殺傷力のある凶器じゃない。人を殺すつもりなら頑丈なロープか重たい鈍器でも持ちだした方が手っ取り早い。交通量の多い道路や、列車の通る線路に押し出してもいい。その方が確実だ。ナイフでは一度刺したところで致命傷にはなりにくいし、上手く刺さないと肋骨に遮られて内臓には届かない。小さな刃では何度も刺さなければならず大変な労力だし、相手が抵抗した場合を考えても、素手とリーチがあまり変わらないから全然有利にもならない。彼はナイフを間違えて使っていた。凶器なら包丁の方がまだマシだった。そんなダメ出しがまず浮かんだ。


 それから、彼が言った賭けという言葉についても考えてみた。

 賭けと言うからには、誰かと勝負をしているわけで、その内容は、ついさっきまでのナイフの告白に現れているものだと考えられる。彼はナイフで脅してでも、女の子を連れていく必要があった。誰でも良かったとも言っていたので、その場限りでも彼女が必要なのだろう。彼女がいるか、いないか、なんて馬鹿げた賭けを思いつくのは、ナイフを持っていた彼を舐め切った男の発想に違いない。詳しい内容までは分からないが、目的である彼女を連れていけないということは、賭けには負けるということだ。普段のものぐさな私なら、あとは無関心な若者らしく「どうでもいい」と呟きながら、ろくに開きもしない日記にでも書いてこの話はおしまいだった。


 でも、もし彼が賭けに勝ったなら?


 可笑しなことを考えたせいか、小悪党みたいな笑いが漏れた。

 彼を追うことに決めた。私はギャンブルが嫌いじゃない。


                ※


 日が沈み、オレンジ色の空は墨を溶かしたみたいな夕明りに変わろうとしている。学校を出てからの彼は両手をポケットに突っこんだまま、若干の猫背気味な姿勢で大通りを歩いていた。数十メートル後方には私がこっそり張り付いている。彼は人通りの少ない道へと入って行った。私の尾行は意外にも最後までばれなかった。素人の追跡だったが、道路を走る車の音や帰宅する人の足音、緊張しているであろう彼の精神状態がおそらくは影響して、私の下手くそな尾行でも違和感なく紛れていた。

 住宅街の間にある、小さな公園のような空き地で、彼は立ち止った。どうやらそこが目的地のようだった。心配する気持ちはあまりなく、面白い現場を見逃すまいと興味と関心だけが中心となって動いているのを、彼に少しだけ申し訳なく思った。


「よお、来たか」


 薄暗がりの向こうから、若い男の声がした。


「どうだ? お前と付き合う女はいたか?」


 その男は嘲笑混じりに話しかけた。察するにこれが賭けの相手だろう。

 ここまで寄り道もせずに真っ直ぐ歩いてきた彼は何も言わず、気持ちを隠すように両手をポケットに入れたままだ。


「変なルールだったが、賭けは俺の勝ちかねえ?」


 相手の男が余裕を見せた笑顔で言う。同年代の不良であろうと思われた。暗くて顔はよく見えないが、恬然とした雰囲気があった。少しずつ歩み寄って来ると、街灯の明かりから、その男が他校の制服を着ていて、髪を明るい茶色に染めていることが分かった。


「お前、分かってんだよなあ?これまで強請った分を返してくれ、って言うからお前に有利そうな笑える賭けを提案してやったけど、結局ダメだったの?脅して連れて来れば簡単だ、って教えてやったのに。まあ、いいけど。それでお前さ、今度はこれまでの倍の金を一度に出さなきゃいけないんだぜ。どうすんだ?」


 男は楽しそうだった。私も塀の陰から聞いていて、なんだか浮かれた気分が伝染した。私は直感的に、あの不良の男が嫌いじゃないと思った。どちらかというと仲良くなれるタイプだという自信がある。彼もきっと、趣味的で、享楽的で、そして薄情な人だ。


「うるせえ!」


 馬鹿にされた彼が、そう大きくない声で吠えた。普段から声を出していないと、いざというときに大きな声は出せないものだ。それは尻窄まりの怒声に終わった。気恥ずかしそうな沈黙と、相手がまるで恐れていないのを見て、頭に血が上ったらしい。彼は慌ただしくポケットから例のナイフを取り出した。


「へえ」


 刃先を向けられた不良は感心したように声を出した。そこに恐怖はない。面白そうな演出だ、と氷のように平坦な好奇心があるだけだった。


「ぶっ殺してやる!」


 彼の口上を聞きながら、私はここで再び、あの告白のとき同様に、ナイフの動向を考えた。彼が宣言通りに、相手の不良をぶっ殺してしまった場合、私は殺人事件の目撃者となる。それはそれで貴重な経験だと言える。殺しは絶対にいけない、なんて良心的なことを言うつもりはない。ここでの私の立ち位置は国家的正義ではなく、野次馬気質の観客だ。気持ちのいい正論よりも、個人的愉しみを優先するのである。私はどうするのが良いか、様子を見ながら逡巡した。


 さて、勢い勇んで「ぶっ殺してやる」と発言した彼はと言うと、言葉とは裏腹に躊躇いがちな挙動で、暴力的な行動を起こせないでいた。それも当然のことと思えた。彼には人に向かってナイフを突きつけた経験なんて数えるほどしかないだろうし、そのうちの1回はついさっき私に向けたものだ。人の殺し方を一般高校生が知るはずがなく、彼には悪いが、喧嘩もそう手慣れているようには見えない。馴染みのない極端な興奮と緊張を感じているのは明らかだった。普通の人が他人を殺そうとすることに大きな抵抗があるのは当然だし、彼はすべてを投げ出すほどには、まだ追いつめられてもいない。

 そしてなにより、彼が刺してしまったらせっかくの賭けが台無しになる、と外野の私は思った。それと同時に、ひとつの即興劇を思いついた。


               ※


「待った!」


 演劇部でもないから、普段発声練習なんかしていないわけで、声が伸びないのも当然だったが、二人の少年が振り向くには十分な声量だった。私はナイフを持った彼とそれを向けられた男の間に飛びだした。茶髪の男は素早く身構えたが、もう一人の彼は、どちらかと言えばどんくさい動きで反応した。けれど、ナイフの彼だけは十分驚いてくれたため、私は少しばかりの満足感を覚えた。


「な、何だ? は?」


 困惑の表情を浮かべるナイフを持った彼の前で両手を広げ、今し方思いついたばかりの寸劇の台本を披露する。


「そこの茶髪のお兄さん、ここは私に任せて逃げて!」


 ナイフを向けられていた不良はどう反応していいか困っている様子だった。

 私の思いついた即興劇というのは、少年漫画なんかでよくある「ここは任せて先にいけ!」という場面の模倣である。何でそんな場面をやろうとしたかと言うと、手っ取り早く二人の前に出る理由になると思ったのが半分と、もう半分は面白そうだと思ったからだ。やってみると目の前にはナイフを持った少年がいるわけで、結構それらしくなっていると自画自賛したくなったが、二人の反応は鈍い。


「さあ、早く!」


 腕をぴんと張った私の素人演技は、二人の冷たい視線を受けるだけだったが、ナイフを持った方の動きは完全に止まっていた。原因はきっと私の奇妙な行動に対するパニックだろう。馬鹿なことをしているな、と自分でも思うが、ぱっと思いついたアイディアはこれだけだったのだから仕方ない。


「あのさ、あんた誰?」


 茶髪の男が背中の方から馴れ馴れしく声を掛けてくる。私は呆れつつ振り向いて答える。


「いや、逃げてよ」

「なんでよ」

「だって格好つかないじゃん」


 まるで友達みたいなやり取りになってしまった。物陰から見ていて思った通り、彼とは気が合いそうだった。


「お前、な、何しに来たんだよ!」


 ナイフを持った少年はようやく口を開いた。私がここにいる意味は分かっていないだろうが、彼はやはり告白時と同じ、中途半端な冷静さを保っていた。私に告白した時も、不良に対して「ぶっ殺す」と言った時も、どこか躊躇いがあった。それは甘さというよりは、真っ当な常識感覚とでもいうべきものだろう。この目に見えない歯止めがあるおかげで、彼の手の中のナイフはどこにも向かわずにきれいなままでいるし、私もふざけた演技を続けていられる。


「どけよ! 俺はあいつをどうにかしないといけないんだよ!」


 彼はまるで、それが自分に課せられた義務であるかのように言った。


「本気じゃないなら、刺せば後悔するよ」


 私は白々しくも、常識臭い台詞を言い放った。本心から出た言葉ではないが、彼のことを一切案じていないと言い切るほど冷酷なつもりもない。私もまた、心のどこかに中途半端さを抱えている。

 彼はナイフを振り回す素振りをしたが、そこには熱意がなかった。諦めたわけでもなく、狂気に染まれるでもなく、ただ苛立つほかないといった、どん詰まりの感情が見えた。


「うるせえな、他にどうしろってんだよ!」

「私と付き合ってよ」

「は?」


 ナイフを向けられながら告白をする。自分で言いながら、これは中々ロマンチックな光景なんじゃないだろうかと思った。放課後の教室の時とは、立場が入れ替わっているのも個人的には好印象だ。


「付き合ってくれ、って言ったのはそっちでしょ?」

「なに? えぇ、いや、はあ?」


 意味を成していない呟きが彼の口から洩れる。そういう反応をするだろうな、とこれまでの彼を見てきて思った。

 

「おーい、無視しないでくんない? なに、あんた、こいつとどういう関係?」


 後ろから溜め息交じりの、ラブロマンスとは無縁の冷めた視線を感じた。


「放課後、彼に告白されたんだけど、返事をする前にいなくなっちゃったから、こうして返事を伝えにきたわけで」

「本気で? こいつのどこが良かったってわけ?」

「ナイフの扱いに不慣れなところとか、賭け事に向いて無さそうなところとかが、可愛いと思って」


 素人の芝居じみた言い方で私がそう言うと、茶髪の彼は吹き出した。


「ああ、そう、そういうあれね。俺とこいつの賭けの話を聞いて、こいつが可哀そうだから助けてあげようっていう優しいあれね」


 私は一部訂正しようと思った。


「いや、彼が勝ったら、分け前を頂こうと思って」

「あんた、いい性格してるね」


 彼には軽薄なベテラン不良の風格があった。それもボス格ではなく下っ端でドラマなら名前のないエキストラだ。口角を片方だけ上げる笑い方が板についていた。その時、彼の恬淡な微笑と目が合った。私は不意に手を伸ばした。


「あ、待って。やっぱり逃げないで」

「いや、ここはあんたの台詞に乗っからせてもらおうか。後は任せた! 誰だか知らない人!」


 そう言うと、その三下風の不良は脱兎のごとく走り出した。見事な力走である。日常的にいざこざから逃げるために鍛えているのだろう。住宅街の暗闇に紛れて、あっという間に見えなくなった。私の手は虚しく空を掴み、小さなガラス片に似た後悔とともに、その後ろ姿を見送った。


「は?」


 間抜けな声がナイフの持ち主から発せられたのは、賭けの相手が走り去って数秒経ってからだった。夕闇の中の、閑静な住宅街に相応しい静けさが戻っていた。


「何で、なんで、あいつは逃げたんだ?」

「賭けに負けそうになったからじゃない?」


 彼のナイフは行き場を無くして、手の中で頼りなく揺れている。


「お前が、あいつを庇ったわけは?」


 それは私の即興劇に対するダメ出しだった。私は小さく頭を抱えた。なにせ特に設定を考えていなかったからだ。私としては賭けが成立し、かつ、あの場に飛び出して行ければ何でも良かった。その際の文言はどうでもよかった。咄嗟に思いついたのが、「俺に構わず先に行け」というどこかで読んだような台詞だっただけで、そのせいで、賭けの相手に逃げ出す口実を与えてしまったわけだが、それは反省して今後に活かすと言い訳をして、もう振り返らないことにする。

 余計なことを言うなら、彼が私に対して、ナイフを向けて告白してきた時の状況も、台本の完成度で言えば似たようなものだ。ろくに考えないで行動すれば、良い結果にはならないという教訓とでも受け取っておけばいいと思う。


「賭けが無かったことになるのは、私としても美味しくない、と思ったんだけど、どうやら使う台詞を間違えてしまったね」

「え?」


 当初は、あわよくば賭けの分け前をもらおう、と甘い考えを持っていたが、それももう望めそうにない。


「賭けは無効かな。相手は逃げちゃったし。でもまあ、良かったじゃん、賭けに負けなくて」

「……ああ、そうか、何とかなったのか」


 彼はどこか放心している様子だった。いくら賭けられていたのか知らないが、許容量を超えた金額の勝負だったのだろう。引っ張られ過ぎて千切れそうになっていた精神が、反動で弛緩しているみたいだった。彼は手の中のナイフを気の抜けた様子で見つめていた。

 夜の帳が降りていた。私はなんだか無性にお腹が空くのを感じた。帰りにコンビニで何か買おうかと取り留めのない思案をしていると、彼は何を思ったのか一度しまいかけたナイフの刃を引っ張り出した。おや、と疑問に思っていると、その切っ先はおもむろに私の方へと向けられていた。


「あの、俺と付き合うのは、無しにしてください」


 妙な要求だった。私はうっかり笑いそうになった。

 最初はナイフを突きつけられながらの告白で、私にも珍しくモテ期が来たかと思ったら、その同じ日には似たような展開でナイフの刃を向けられ、告白してきた相手にフラれている。恋愛に向いていない性格だと自覚はしているけれど、これはあまりにも素質がないと思った。


「別に脅されなくても、すんなり了承するつもりだけど?」


 緊張感のない声で尋ねてみると、彼のほうも落ち着いた雰囲気で答えてくれた。


「これがあった方が、なんとなく気持ちが楽だから」

「そのナイフを持ってるってことは、キャンプとか、よく行くのかな?」

「ああ、たまに。登山のついでに」


 彼はそう言って、ナイフを街灯の明かりに翳した。告白されたりフラれたりと、ずいぶん目まぐるしい放課後の一幕だった気がするが、そのドタバタ劇にも終わりの気配が近づいていた。


「それは良いけれど、あんまり見せびらかしていると通報されちゃうかもよ。もう誰かがやっているかもしれないし」


 私がそう言うと、彼は急に小心者らしく辺りを見回した。


「まさか」


 口では否定していたが、彼の目は住宅街の闇の中を彷徨い、新たな不安の色に染まっていた。ここらが潮時だと思い、私は口を開いた。


「逃げちゃえば?」

「え?」


 賭けの相手みたいに、とは言わなかった。あの不良は勝負をよく分かっていた。戦いは負けてはいけないものなのだ。勝てなくても、負けなければいいのだ。


「私はもう帰るだけだし」


 無意味な時間稼ぎは終わりだ。これ以上の足止めは、きっともう面白くない。


「……じゃあ、その、悪かった」


 少し気まずそうに、あるいは、名残惜しそうに立つ彼に、軽く手を振った。

 私は青い黄昏へと駆け出す彼の背中を見た。夕日とは真逆の方を向いていても、どこかへ走り抜けるその姿は、何やら青春らしい光景だと思った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ