第五話 悔し涙の味
「月世界旅行とか地底探検とかも読んだ」
「うん、読んだよ。面白かったよ」
「私ね、ピカチュウが好き」
「ああ、ポケモンかー。あれってフシギバナがいいね」
「うん私も好き。ライチュウもカワイイの!」
「ふーん、けっこう図鑑集めてるの?」
「でもないかなぁー」
二人の声は弾んでた。いつの間にか分かれ道のところで長話になっていた。さすがに夕暮れ時の薄暗さが本格的になって二人はようやく気が付いた。
「いけない。随分遅くなっちゃったー」
「ああ、ほんとだね。もう帰らなくちゃあねー」と言いながらもぐずぐずとそこにとどまった。なんとなく別れがたい気分なのだ。
いよいよあたりが暗くなってから二人はようやくバイバイをした。
家に着くまでの道すがら、早苗は今まで味わったことのない幸せな気分につつまれた。
辰夫の声、表情、仕種一つ一つがすぐそこにあるように思い返される。訳もなく楽しい。暗い夜道さえ明るく思える。
騒々しい虫の声が、にぎやかな合唱みたいだ。なんだか体がはちきれそう。うれしくて踊りだしたくなる。
自分でも抑えきれない不思議な感情の高まりだ。
かばんを振り回しながら、スキップを踏むようにして早苗は家の門をくぐった。
最近ではもう以前のように、おじいちゃんの家に寄るようなこともなくなっていた。
「ごちそうさまー」
早苗は夕食をそそくさと済ませて自分の部屋にこもった。
早く一人になりたかった。
一人になって先ほどの辰夫との会話をもう一度思い起こしたかったのだ。
思い出すだけで心が浮き立つ。
なぜなんだろう。
この楽しさは今まで味わったことのないものだ。
ほっといても胸がキュンキュンしてくる。
あの大好きなスマップのテレビを見ている時でさえもこれほどにはわくわくはしない。
早苗は、自分のこの抑えきれない感情をどうしていいかわからなかった。
とにかくベッドに入ってもちっとも眠くならないのだ。
「佐々木君・・・」
いつまでも一人想いをめぐらし、とうとう夜明け近くま起きてしまっていた。
翌日、それでも元気に目を覚ましいつものように明るく家を出た。
昨日の楽しさはまだ続いていた。
あまり寝てないはずなのに、心も身も軽くリズミカルに足が動いていた。
しかし、学校に着いて早苗はビックリした。
黒板にチョークで大きく絵が描いてあった。
青いチョークで男の子。
白いチョークで女の子が向かい合って立っている。
土手の上を表すように足元は草のようなギザギザの線が描かれている。
そして二人の上には赤で大きくハートが書かれていて、男の子の上側にはたつお、女子側にはさなえと書いてあった。
早苗が教室に入るとてんでに座っていたクラスメートたちはいっせいに会話をやめ知らんぷりしている。
早苗は耳の付け根まで真っ赤にして黒板に駆け寄り、黒板消しをつかむと必死になってそのいたづらな絵を消し始めた。
くすくすと、背中越しに笑い声が聞こえてきた。
かっとなって早苗は後ろを振り向いた。
だが誰もこちらを見ていない。
相変わらずそっぽを向いている。
早苗は立ちすくんだがどうにもならない。
そのまま黒板の絵を消し終えると、自分の机に行って突っ伏してしまった。
なんということだろう。
昨日のことを誰かに見られていたのだ。
それをこんな形でからかわれるなんて。
昨日の幸せな気分が、すべて吹き飛んでしまった。
その日の授業は何も頭に入らなかった。
早苗は誰とも口をきこうとしなかった。
自分の机から一歩も動かなかった。
休み時間も給食の時間もじっとしていた。
給食は黙々と食べたが、半分も残してしまった。
さすがに見かねた隣の席の金山恵美子が声をかけてくれた。
だが返事はしなかった。
放課後になってもまだじっと席に着いたまま帰ろうとしない早苗に、何人かの女の子が声をかけてくれた。
「ごめんね。早苗」
「うちらが来たときはもうあの絵かいてあったんよ」
「もうー、誰が描いたんかねー」
早苗はようやく反応した。
「うん、いいの。もういいの」と慰めの声を吹き払うように早苗は席を立った。
誰が黒板に絵を描いたのか。
そんなことはどうでもいいことだ。
ちょっとしたいたずら心なのか、それとも本当の悪意なのか。
今それを問い詰めても結局うやむやになるだろう。
相手が開き直って口げんかになっても仕方がない。
早苗はようやく心の整理をつけて教室を出た。
体育館に行ってロッカールームで体操服に着替えた。
今日もリレーの練習がある。
いよいよ本番と同じにクラスごとに分かれて、それぞれにバトンの練習をする予定になっていた。
三日後の運動会に備えて本格的な段階だ。
グランドに出てみると、リレーの練習をするメンバーは鉄棒やブランコなどが並んでいるグランドの端の方にすでに集まっていた。
早苗はあわてて駆け足で近づいた。
「遅いぞー」と担当の体育教師が声をかけてきた。
その教師の後ろの方に辰夫がこっちをむいて立っていた。
辰夫が目であいさつをして来た。
辰夫は直接あの絵を見ていない。
彼が来たときにはすでに早苗が絵を消して席に着いた後だった。
だから辰夫には状況がわからない。
そのまま放課後になっていた。
でも、なにかクラスの白々しい雰囲気だけは感じていた。
クラスメイト達の態度も、なんだかよそよそしく思えたからだ。
早苗も目だけで返事して下を向いた。
6年生たちはすでにクラスごとの練習に入っていた。
先生の指示で5年生たちもクラスに分かれバトンの受け渡しの練習に入った。
バトンを渡す方、受け取る方が短く走ってやり取りの繰り返しをする。
早苗はアンカーの辰夫にバトンを渡す。
受け取る辰夫。
ふっと気が付くと仲間たちの視線が注がれているようだ。
「あっ、また」