第三話 不思議話
五月になって、足のボルトを抜くために2週間入院した。久々に学校に戻ってみると、早苗の退院を待ち望んでいたクラスのみんなが大喜びしてくれた。
「早苗ちゃんがいないとつまんないよー」と誰かが大声で叫んだ。学級委員にも選ばれて、早苗の名は近隣に神童として伝えられた。
それはちょうど70年前に神童とうたわれた角栄の少女版のようにも見えた。
早苗が小学生の間にベルリンの壁が崩れた。やがてソビエト連邦が瓦解して米ソの冷戦時代が終わりを告げた。
日本もバブル景気がはじけた痛手のど真ん中にあって、世紀末的な混乱の様相だった。とは言っても新潟の片田舎の早苗たちの暮らしに直接的な影響もなく、ゆるりとした時間の流れの中でのびのびと育っていた。
とくに早苗は学校に通い始めて新しい楽しみを覚えた。それはおじいちゃんの家では経験しなかった「読書」ということだった。
学校の図書室に通い詰めた。幼児期にあまり触れなかった絵本や童話。動物や昆虫の図鑑や星座の写真集。冒険ものや探検記のようなものまで、幅広く読み漁った。
早苗は二十四の瞳に涙し、若草物語にわくわくした。小学3年生になるまでに図書室の本はほとんど全部目を通すほどに読書に夢中になった。
その意味では確かに神童と呼ばれるほどにませていたのかもしれない。
小さな頭いっぱいに世の中のこと、世界のことが光を放って好奇心を刺激し続けていた。
早苗はふとある疑問をもった。偉人列伝を読み終えるころ、たくさんの偉人のことが書かれている中、あのおじいちゃんがいつも言っていた田中角栄に関するものがないことに気付いた。
あれほど志高く日本を改革するために多くの人に支持されたはずの人物の偉人伝がない。
それは変だと早苗は思った。早速、おじいちゃんにその疑問をぶつけた。
「どおしてなん?」と聞いた。しばらくおじいちゃんは黙っていた。
「あれっ」と早苗は思った。いつでも早苗の聞くことならすぐにでも教えてくれるおじいちゃんが、なぜか無言になっている。どおしたのかなぁとおじいちゃんの顔色を窺った。
「早苗。角栄さんはな、最後は裁判にかけられたんじゃよ」とぼそりとつぶやいた。
早苗には寝耳に水だった。
「えーっ」と声をあげた。
今までおじいちゃんから聞いていた話では、裸一貫だれにも頼らずのし上がり、日本を強くするために立ち上がった英雄だったはず。
それなのに裁判にかけられたなんて、どんな悪いことをしたというのか早苗には訳がわからない。
「うむ、難しいところじゃ。出る杭は打たれるっちゅうてな、出すぎると思わぬところから攻撃されるもんよ」
おじいちゃんは畳の上にあぐらをかいて、油絵のための鉛筆書きの下絵をながめながらそう言った。
「誰から攻撃されたん?」
早苗も座り込んでおじいちゃんの顔を覗きこんだ。
「そやなぁー」と言ってまたおじいちゃんは黙り込んだ。
早苗は次におじいちゃんがどんなことを言うのか真顔で待っている。
そんな早苗の顔をみつめておじいちゃんが笑った。
「ほんとに早苗は賢いのー。こんなこと聞いてくるとはなぁー」とさも感心したような口調で言う。
どうもいつもと違ってもったいぶっているように早苗には感じられた。
「おじいちゃん。そんなこと、どーでもいいから早よ教えて」と早苗は焦れてせがんだ。
「おお、そうそうか」と笑いながら、睦夫は下絵から目を離して早苗の顔を見つめてきた。
「角栄さんはな、日本を変えるためにいろいろとしくみを作った」とゆっくりと話し始めた。早苗はわくわくするような思いでおじいちゃんの言葉を聞いていた。
「そのことで、古い日本がどんどん変わった」
噛みしめるようにおじいちゃんは言う。
うんうんと早苗がうなずく。
「それがまずかったんじゃ」
「えっ」と早苗は驚いた。
「変わって喜ぶ人もいたが、嫌がる人もいたんじゃよ」
いよいよ早苗は目を丸くして聞き入った。
「早苗な、世の中はな、罪をかぶせるってこともけっこうあるもんなんじゃよ」とおじいちゃんは空を見つめてそう言った。
早苗は食い入るように聞いている。