最終章 希望の出発(たびだち)
柏崎市に置かれた選挙事務所の庭での出陣式に、早苗も支持者達の前で挨拶させられた。
東京に出発する直前だった。
早苗は一人娘で成績優秀、中学高校で常に首席で通したと紹介された。
この特大に表現された褒め言葉に真っ赤になりながら、早苗は必死にあいさつをしたが自分が何を言ったかわからなかった。
自分の列に戻った時、隣の席のおじいちゃんがとてもいい挨拶だったと誉めてくれたので一安心した。
どうやらその言葉は気休めでなく、確かに早苗の挨拶は評判が良かったらしかった。
その後も、お嬢さんの挨拶が好評なのでまた挨拶してほしいという要望があったようだ。
早苗はとんでもないと断った。
しかし選挙も終盤になって激しさを増すと、父親からも直接頼まれ演説することになった。
この時点で早苗はすでに東京のマンションに引っ越しをしていた。
大学の入学式に出席するためだ。
式をすましオリエンテーションを受け終わると、とんぼ返りで実家に戻ってきた。
たすき掛け姿の父親を横において、早苗は一生懸命演説をした。
幼い頃、父親の仕事に励む後ろ姿を追いながらさびしい気持ちでいっぱいだったこと。
大きくなるにつけお父さんが何に頑張っているかを理解できるようになってから、自分の父親を尊敬できるようになったこと。
今自分が自然環境に携われる仕事を目指すようになったのも、お父さんの影響が大きかったことなどを思いを込めて語った。
娘の父親を思う気持ちが聴衆の胸を打った。
ようやく雪解けが始まった町の小さな商店街の一角で、感動の拍手がわき起こっていた。
結局早苗は選挙が終了するまで実家にとどまった。
選挙の当日、東京に向かって再び出発した。
父親の上位当選の結果を知らされたのは、府中市のマンションに着いてからだった。喜びであふれる父と母からの感謝の言葉を携帯で聞いたのだ。おじいちゃんには早苗の方から電話した。
あの演説で語った父親への気持ちは、そのままおじいちゃんに対する思いだったということを伝えたかったのだ。
おじいちゃんは二重の喜びだと言って涙してくれた。
こうして早苗の新しい生活はあわただしく始まった。
早苗が入学した地域生体システム学科は、農村や田園、都市の自然環境を全体で捉え動植物の生態系とヒトとの共存を研究する学科だという。
早苗はこの学科の趣旨が気に入っていた。
東京農大の造園科から方向転換したのは、多分に中道先生からのアドバイスもあった。
地球規模の視点から研究するならば、やはり私立より国立の方が分があること。
教授陣の層の厚さはなにより大事だと聞かされたからだった。
むろん自由な発想を尊ぶ私立の良さも聞かされたが、早苗は充実した研究施設にも魅力を感じて農工大を選んだ。
農工大では独自のパッケージプログラムが組まれ、いくつかの専門分野を一つのグループ化にして学ぶシステムになっている。
まだ1年次の間は一般教養を重視した講座が中心だった。
しかしそのテーマが壮大なだけに学ばなければならない学科も広い範囲だった。生物学から気象学、地政学果ては海洋から天文学にまで及ぶ。
どれも高いレベルでの理解力が要求される。
早苗は必死だった。
高校時代に漫然と授業を受けていたのとはまるで違っていた。
周りの学友たちが皆ハイレベルのように思えて、遅れてはならないと全力で取り組んだ。
それこそ学校と家を往復するだけの毎日が続いた。
田舎の高校で学年トップだったぐらいでは、追いつけないことを身に染みて感じていた。
2年次3年次に進めば、この中から自分の専攻分野を見出していかなければならない。
受験勉強の時より長い時間を図書室で過ごした。
早苗の心の内にふつふつとある未来図が生まれ始めていた。
それはおじいちゃんが夢想した、大都市も含めての日本全国里山化構想だった。
父親の選挙に関わったことで、そのことがより具体化していた。
それが「私、政治家になる」だった。
かって田中角栄が目指した日本列島改造論を逆のベクトル、つまり自然と人間の共生を可能にする都市づくりを実現するのは確かに政治の仕事と思えた。
それを自分がやるのだという壮大な決意だ。
尊敬すべき中道先生も一介の教育者で研究者に過ぎない。
随分前から「何かが物足りない」と胸のつかえのように感じ取っていた。
「あの角栄さんだってはじめはひとりだったんだもの」
自分にそう言い聞かせた。その理想実現のためにも、今は学問を修めしかるべき時に国会議員を目指そう、と決意した。
早苗は密かに考えを固めていた。
思えば曾祖父の徳蔵が睦夫に託し叶えられなかった望みが、隔世遺伝のように早苗の胸に伝播していたのかも知れない。
「しっかりした学位をとっていづれ父親の地盤を受け継ぎ、自分は国政に打って出る」
そうはっきりと意識していた。
「私絶対にやる!角栄さん見ていて。おじいちゃん待っててね」
その野心に燃えた目は誰に言われたわけでなく、数十年後の理想の日本を見据えているようだった。
早苗の胸の奥深く静かに燃え始めていたものは、終戦直後の焼け野原の東京に一人空を睨んで立っていたであろう角栄の思いが二重写しになったものかもしれない。
「日本列島を絶対進化させてみせる。それができるのは私だわ」
一人机に向かいながら、心の中で早苗はつぶやいていた。
-完-