第一話 うぶ声
早苗はおじいちゃんっ子だった。
家と同じ敷地の中にある少しばかり古めかしい屋根瓦の二階家が、大好きなおじいちゃんの家だ。
「おじいちゃん。ただいまぁー」
幼稚園から帰るとバックを家に置いて、そそくさとおじいちゃんの家に入りびたる。
早苗は一日のうちのほとんどをおじいちゃんの家で過ごしていた。
夕飯もおじいちゃんと一緒に食べて、おねむになる夜のたぶん8時ぐらいにやはり二階建てのモルタルづくりの両親の家に戻った。
柏崎のこの地域の幼稚園はここいらには一つしかなく、早苗は行きも帰りも一人で歩いて通っていた。
家からはひと山越えて行かねばならず、大人でもゆうに30分はかかる。
早苗の足では1時間だ。
雨の日は、傘をさす上に山道はぬかるんで1時間半は見なければならない。さすがにそんな日は、行きは母親が車で送ってくれる。
園の玄関口まで送ってくれた母親を同じ玄関口からお見送りをする。
「バイバーイ」と母娘は小さく手を振った。
帰りはそれでも自分で歩いて帰る。
この辺の農家では当たり前のことだ。
がしかし、早苗の家は農家ではない。
ひいおじいちゃんの代からの土建業だ。
自宅は事務所になっていて母親の幸子は専務兼経理部長として切り盛りをしていた。
父親の隆夫は社長だが、町会議員としても忙しく立ち回っている。
そのため留守の方が多かった。
早苗などは週に一回ぐらいしか顔を見ないこともあった。
地元の農家の娘を二人ばかり事務員として使っていた。
営業としてやはり地元の大学出の男性が一人働いていた。
それ以外に雑用係のような、それこそおじいちゃんより年寄りの爺やがひとりいた。
おじいちゃんの名は睦夫。
早苗が生まれてしばらくはやはり町会議員として忙しくやっていた。
しかし60を過ぎるころから高血圧と不整脈で体調を崩した。
それを潮に息子の隆夫に代を譲った。
息子の嫁の幸子は隣町からやってきていた。
不動産業をやっていた家の娘で経理事務に明るかった。
これが会社経営には大いに役立った。
なかなか子宝に恵まれなかったけれど5年目で早苗が生まれた。
これでおじいちゃんにやっとなれた睦夫は大いに喜んだ。
前年に事故で連れ合いを失くしていた。
それだけにこの女の子が、連れ合いの生まれ変わりのような気がしてよけいにかわいく思えた。
息子の隆夫もそんな父親の心情をおもんぱかってこの子の名付け親になってもらった。
早苗と言う名は、だからおじいちゃんがつけた名だ。
息子の代になって会社は株式会社になった。
幸子と隆夫とふたりで考えたことだ。
株式会社山本興業とあらためられた。
もうおじいちゃんが仕事に口出しすることはできなくなっていた。
しかし睦夫はそれでかえって自由になった。
「やれやれ、これで俺も何もすることがなくなった・・・」
健康も回復してくると、それまでしたくても出来なかったいくつかのことに首を突っ込み始めた。
今までは趣味と言えば将棋とカラオケぐらいで、仕事一筋だった。
まずは憧れだったギターの通信教育をはじめた。
カメラいじりも本格的な一眼レフを揃えてかじりだした。
油絵なども描いたりした。
すべて幼い早苗と一緒だった。
おかげで赤ん坊のころから早苗はおじいちゃんの部屋でカラオケ、将棋、ギター、カメラ、絵画と大人っぽいものに囲まれていた。
幼児らしい童謡や絵本などよりも、よっぽどたくさんの歌謡曲や画集などに触れていた。
早苗の育った二多村は静かな農村でこれといって産業のある地ではない。
睦夫の父親徳蔵も若いときは百姓だった。
それがある人物の存在によって百姓から土建業に変えさせられた。
それはこの村出身の総理大臣田中角栄だった。
角栄は貧しい農家の出だが、日雇いの土方の仕事で家計を助けていた。
やがて上京して土建業に就職した。
兵隊にとられたが、満州で結核にかかり仙台の病院に送られた。
戦後健康を取り戻した角栄は会社を立ち上げ、さらに20代で第1回の衆院選挙に立候補して落選している。
その後当選を果たし、政治家として大成して総理大臣まで上り詰めた人物だ。
早苗のひいじいちゃんは角栄よりも5つ年若だ。
角栄の後を追うように上京しやはり土建業に従事したが、戦争中は角栄と同じ満州にいた。
戦後、引き上げてきて角栄の田中土建工業に就職した。
以降その会社で現場監督を務めていた。
結婚を機に故郷の新潟に戻り独立した。
すでに戦後最年少の郵政大臣になっていた角栄からも手厚い支援をうけた。
高度成長の波に乗って一時は上場をうかがえるほどに会社は急成長した。
しかし、高度成長の陰りとともに角栄自身の失脚もあって会社は倒産した。
すべてを清算して、ひいじいさんの徳蔵は故郷二多村にもどり細々と土建の仕事を続けた。
すでに結婚していた息子の睦夫に徳蔵は角栄のような政治家を目指してくれることを望んだが、睦夫は若い間はそれに反発した。
しかしいよいよおやじが亡くなる際には、「たっての望み」と託する親の気持ちを汲んで政治に出ることを約束した。
しかしながらおやじが死んでも睦夫はすぐに選挙には出なかった。
おやじの会社を引き継いで土木作業を地道に続けられていればいいように思えたからだ。
しかし息子や娘たちが大きくなってきて、事業の拡大も考えるようになってきた。
その必要性から、結局父親が望んだような国政レベルでなく、町会議員という身近な選挙で立候補した。
いざ議員になってみると、地元密着の町議会はなにかと日常の生活に関連して仕事に有意な情報が得られる。
直接利益につながることも多く、睦夫はおやじが政治家をすすめてくれた意味を理解できるようになった。