第二章
「はい、今日はここまで。じゃあ委員長号令お願いします」
帰りのホームルームも終わり、白衣を翻した天谷先生が教室から出ていく。
部活、遊び、趣味。放課後をどうやって過ごそうかと、クラスメイト達は騒がしく笑い合っている。
「俺も……ってそうか。今日から剣道部は休部だったな……」
全力ダッシュで部室に向かう坊主頭の集団に釣られ、俺も立ち上がるが、朝に天谷先生に言われた通り、剣道部はしばらく休部となっていた。
それに、今日からの放課後は……
「……もう、元気出しなってば成詠!」
部室へ行かなくてもいい事に気づき、中途半端に浮かせ、突き出す形となった尻を強めの平手で打たれる。
「ファッ!?」
背後からの予期せぬ攻撃に、俺は意味の分からない声を上げてしまう。
俺に変な声を出させた犯人を糾弾するため勢い良く振り向くと、黒髪のスポーツ少女がカラッとした笑みを浮かべている。
「……別に落ち込んでる訳じゃない」
その笑みに何となく毒気を抜かれた俺は、立ち上がり武居に向き合う。
「そう……か。うん、それならよかった。あんたが落ち込んでる顔なんて見たくないからね。成詠には機嫌が悪い時の猫みたいなブスッとした顔が似合ってるよ」
「ありがとう(?)」
……褒められているのか?
不審に思いながらも、お礼を言う……いや、やっぱり褒められていないよな。
「でも…………ほんっっっっとうに成詠が無事でよかったぁ」
「…………そうだな」
武居の安堵のため息と一緒に漏れる、俺の安否を気遣うその言葉は今日十二回目だった。
「それに昨日私が部活休んだせいで迎えに行ってあげられなかったし、ごめんね。……成詠も寂しかったでしょ……?」
「いや…………いやぁ寂しかったなぁ」
上目遣いが射抜くような鋭い視線に変わるのを見た俺は、途中で言葉を軌道修正する。
「うんうん。……昨日はあんたも早く帰ったみたいだしね……」
武居が弓道で鍛えた腕力で俺の肩を叩く。
とりあえず武居には昨日の闘いの事は伏せている。というより、あんな事を話しても信じてもらえるはずもない。
ちなみに、隣接していた弓道場は妖の被害に遭わなかったようだった。
「まあ、剣道ができなくても竹刀を振るなんてどこでもできる。筋トレや走り込みもサボれないからな」
「……よし! ……じ、じゃあ剣道が休部の間だけでも……弓道部に来る? 私が付きっきりで教えるし、何なら今日からでも……大丈夫だけど……?」
突然、自らを奮い立たせるような大声を上げた武居だったが、言葉は尻すぼみに小さくなっていく。
「……スマン。実はもう他の部活に誘われていて、当面はそっちにかかりっきりになりそうなんだ。……だから弓道部には入部できない」
次第に武居の顔が曇っていくのを見て、今度は俺の方がが尻すぼみになってしまう。
しかし、好意で俺の事を助けてくれようとした武居には本当に申し訳ないが、ここは断るしかない。正直弓道には後ろ髪を惹かれるが、それより大きな用事がある。
「いやいや、そんな謝んないでってば! まあ、成詠も忙しいだろうし、急に弓道部に入れって言っても困るよね。ごめんね……」
「その代わり……って偉そうに言える立場じゃないが、一度見学に行ってもいいか? 武居の時間が余裕ある時でいいんだが」
沈みかけていた武居の顔がパッと笑顔に変わる。
「う、うん! それで大丈夫。日にちはこっちから連絡するね!」
……そんなに喜ぶ事なのだろうか? むしろ俺の方こそ喜ぶべき場面のような気がする。
「成詠が無事でよかったけど…………左足の怪我、酷いようなら病院行きなよ?」
別れ際にそれだけを言い、武居が教室から去る。
今日十三回目の言葉は、今までとほんの少しだけ違うものだった。
「……よく見てるな、さすが弓道部だ」
会長に治癒してもらった左足の傷は跡こそ残っているものの、歩行には全く問題がなかった。それにも関わらず、恐らくほんの少しの挙動の違いから怪我を見抜いた武居に感嘆の念が漏れる。
俺は武居の観察眼の鋭さに驚きながら、歩き出す。異臭漂う剣道部室ではなく、俺の主の待つ部屋へ。
途中購買で買ったみかんゼリー入りの紙袋を左手に、右肩にはカバンと竹刀袋を持ち、扉の前に立っていた。
俺が立つのは生徒会室の隣の空き教室。深呼吸をし、ひと声かけてから袋を持った左手で扉を開く。
「失礼しまぁす」
……緊張していたため、『ま』の部分が裏返ってしまった。
「いらっしゃい、智充やっと来たわね。ほら早く座りなさい、すぐに部活を始めるわよ」
中央のテーブルを囲むように配置されたソファ。上座に座る会長が向かいのソファを一瞥する。
カバンと竹刀袋をソファに置き、テーブルの脇に紙袋を寄せた後にソファへ腰掛ける。
「部活……ですか? 朝は手伝いって聞きましたけど……」
「朝は時間がなかったから、説明しきれなかったわね。ここは『歴史文化研究部』の部室なのよ」
「歴史文化研究部……」
俺のオウム返しに会長は頷き、スラっと長い足を組みかえる。
「ここは昨日貴方が見たような現象。妖を含む、物の怪の類による事件を調査する部活よ」
「妖とか物の怪による事件って、昨日みたいな事って頻繁に起きてるんですか?」
そんな物騒な学校なのか、この学校は。
「妖による直接的な被害は智充が初めてね。でも体育館で怪我人が出たり、無人の家庭科室でボヤ騒ぎがあった事は知ってる? 知ってるみたいね。あれは妖の発生で負の霊力が学校に溜まった事によって起こったものよ」
昨日昴が言っていた話は妖による事件だったのか。
「……昨日の妖は霊力が低かったけど、これからはもう少し強力なものが出てくるかもしれないわ」
文字通り、必死に闘った相手はどうやら低級の妖だったらしい。少しだけ、不安に駆られた俺は積もり積もった疑問を会長に一気にぶつける。
「……すいません。俺まだ良くわかってないんですが。竹刀が光ったり、霊力だったり、妖だったり、よければ全部説明してもらってもいいですか?」
「……そうね。これから私の下僕として働くのだから、最低限の知識は知っておかないとマズイわね。霊力の扱い方も勉強していかないといけない事だし、今から晶羽先生の講義をしてあげましょう」
ポケットから取り出した眼鏡を装着し、会長は立ち上がる。そして教室の脇においてあったホワイトボードの前に立つ。
……意外とノリノリだなこの人。
「じゃあまずは……霊力から。この世界には霊力という力があって、実は人間には誰しも備わっているの。ただその存在に気づかないまま一生を終える人が多数なのだけど。この霊力、とりあえず大雑把な説明だと火や水を操ったり、式神を使役したり、身体能力や物体を強化したりできる。不思議な力だと思ってくれていいわ」
晶羽さんはキュキュキューっとマジックを滑らせ、ホワイトボードに文字を書いていく。
「式神……陰陽師って奴ですか……?」
「まさにその通りよ。ちなみに私の家も代々続く陰陽師の家系で、私はその跡取り。まあ、それは置いといて、とりあえず霊力に関する知識はその程度でいいわ。霊力っていう力があるって事を知っておけばいい。それより霊力の扱い方の方がよっぽど重要だから」
ひとまず霊力という力があるという事はイメージできた。
「人間には元々霊力が備わっているって事はさっき言ったわね? 霊力が発現する方法は三つ。一つ目は遺伝。二つ目に修行。三つ目が霊障による体内の霊力の活性化」
一、二、三とホワイトボードに文字が追加される。
「一、二は言葉通り。本当は遺伝にも『先祖反り(せんぞがえり)』ってイレギュラーもあるのだけど……まあ今はいいわ。三つ目もだいたい分かると思うけど、妖や妖怪など物の怪の類から傷を付けられた場合に本来人間の体内に眠っている霊力が活性化して、霊力を扱えるようになるって事ね」
「そうか……だから最初の一太刀は空振りだったが、妖から噛み付かれた後の二発目に柄で殴った時は攻撃が通ったのか」
皮肉にも妖から攻撃を受けた事により、妖へ攻撃が可能になったようだった。
「そう、この世界の基本的なルールとして、霊力を持ったモノは霊力を持ったモノでしか傷つけられない。だから妖や妖怪は霊力を持った武器や術でしか倒せない」
晶羽さんがクイッとメガネのフレームを、細く長い指で押し上げる。
「……じゃあ、妖が襲ってきた時は一方的にやられるだけじゃないですか。そんな危険なモノが世の中には溢れてるんですか?」
「いえ、妖や妖怪は霊力を糧にして生きるから、基本的に霊力に目覚めた人にしか反応しない。だから、一般人が出会う事も滅多にないの。一番危ないのは霊力目覚めていて扱い方がわからないって状態ね。いわば鴨が葱を背負ってるみたいなものなの」
会長はリアル調の鴨をササッと描き、胴の部分に…………智充と書く。
「………………」
得意げな顔を向ける会長に無言の視線を向ける。
「……だから、本来この三つ目の方法で霊力に目覚める人はあまり多くないの。霊力に目覚めていないと妖や妖怪に襲われない。でも、妖や妖怪は霊力があるものしか襲わない。堂々巡りね。貴方運が…………あれっ? いいのかしら?」
俺からしてみれば死にかけただけだし、少なくとも運がいいとは言えない。
沈黙をどう受け取ったのはわからないが、晶羽さんは苦い顔でポツリポツリとあの日の出会いを語り始める
「……あの日は校内の霊力の流れに異常があったから、見回っていたのだけど、校庭で妖と戦闘している生徒がいてびっくりしたわよ……」
「……会長がいなかったら俺確実に死んでました」
「そうね……ちょっと危なかったわ。でも、智充も初陣にしては頑張ってた方よ。少なくとも心では負けてなかった。想いの強さは霊力を底上げする……覚えておきなさい」
「……はい。肝に銘じます」
鋭い目をした会長はこれまでも命のやり取りを、幾多もくぐり抜けて来たのだろうか?
人外の力を振るう得体のしれない化物。
たとえ、己に霊力という力が備わっていたとしても、常に恐怖はつきまとうはずだ。
俺より一つ年上。我が校の美人生徒会長で絵に描いたような優等生。しかし、素は意外とキツ目な性格。俺が知っている会長なんてそんなものだった。
「……………………智充。そこまでじっと見られるとさすがの私も照れるのだけど」
顔を赤らめ言われたその言葉に、自分が熱い瞳で会長を見つめていた事に気づく。俺は慌てて場を繋ぐため適当に思いついた事を口に出す。
「そ、そうだ会長って陰陽師なんですよね? どのくらいのレベルなんですか?」
「私は天才よ。あまりお家自慢はしたくはないけど、有部家は平安時代から続く陰陽師の家系で帝の守護を務めていた時代もあったわ。その頃に当代一の天才と呼ばれたご先祖様がいたのだけど、私はその再来と言われるくらいの天才よ。だから智充。私を崇めてもいいのよ!」
間髪入れずに答えが返ってくる。
「天才……ですか」
「……信用してないって顔ね……いいわ。証明してあげるわ」
別にそんな事を思ってはなかったが、会長は勝手にヒートアップしてしまう。
「そうね……例えばあの紙袋の中身を当てる事だってできるわ」
会長の目がテーブル上の紙袋に向けられる。あの中には俺がさっき購買で買ってきたみかんゼリーが二つ入っている。
「……超能力……それも透視。霊力ってそんな事までできるんですか?」
「超能力ってのは言い得て妙ね。まあ、ここまでできるには相当の修行を積まないと無理よ。私は天才だからできるのだけどね」
フフン。と得意げな表情を見せる会長。そこまで言うなら見てみたい。
「じゃあ当ててみて下さい」
「いいわよ」
会長は一も二もなく頷く。どうやらこんな事は朝飯前のようだった。
彼女は一瞬だけ目をつぶり、開く。茶色の澄んだ瞳が美しい金色へと変わる。
「紙袋の中身は二匹のハムスターね」
――外した?
「……えーっと」
「いいから開けなさい」
俺はテーブル上の紙袋を取り、会長も見える位置に移動する。
「行きますよ――」
疑問を抱きながら俺はゆっくりと紙袋を開く。そこには。
ひまわりの種を齧りながら、キュートな瞳をこちらへ向ける、二匹のハムスターがいた。
「え?」
信じられない光景に言葉を失った俺は、涼やかな顔をした会長へ視線を向ける。
「ほらね。まあ、こんなのは手品みたいなもので……」
会長はパチンと指を鳴らす。
「はい。元通りのみかんゼリーに戻りました。これは幻術って言うものなんだけど……ありがとう、頂くわ」
ヒョイっと紙袋からさっきまでハムスターだったみかんゼリーを取り出す……俺は何を言っているんだ?
「学食のデザートってマンゴーゼリーばかり食べていたけど、みかんゼリーも美味しいわね」
「……まあ火の玉を飛ばせるんだ、今更透視ができたって驚く事はないか……」
目の前で見せられる、透視、幻術。俺は驚く事が馬鹿らしくなり、会長と同じように紙袋からゼリーを取り出す。
「えっ? 二つとも私のものじゃないの……?」
心底驚いた様子で俺の持つみかんゼリーを見ている。
「いやいや、普通二人いて二つ買ってきたら、それは一人一個じゃないですか? むしろなんで二つとも自分のものって発想が出てくるんですか……」
ジャイアンかよ……と俺は心の中でぼやきつつもみかんゼリーを一口。うん、やっぱ美味い。
「ごちそうさまでした。あら、ちょっと話しすぎたわね……」
会長の視線を追い窓の外を見ると空は黄昏色に変わり始めていた。
「今日は依頼人も来ないみたいだし、部活はこのくらいで切り上げましょうか」
「結局喋って、お菓子食べただけでしたね……昨日までこの時間は体動かしてたから、調子狂うな……」
……とりあえず帰ったら、剣道やってない分いつもの自主トレのメニューを少し多めにしておこう。
俺は腰を上げ、竹刀とバッグに手を掛ける。
霊力とか妖とか陰陽師とか非日常的な話だったが、会長の言葉を聞く限り、今すぐ強大な敵が迫っているわけではないみたいだ、それならば今日はこんなもんだろう。
「――貴方何言ってるの? 今から体を動かすのよ」
「えっ?」
「貴方は霊力に目覚めたばかりなの。さっきも言ったけど、霊力を持ち始めたばかりが一番危ないの……ほらあれよ免許は取り立てが一番危険みたいなものね。ということで、今から晶羽先生の講義は実践編に移ります」
腕を組んだ会長が妖艶な笑みを浮かべる。
……俺の人生で眼鏡をかけた年上の美人から、実践をしようと言われる日が来るなんて。
でも、さっきから悪寒が止まらないのはなぜだ?
俺の住むこの街は海が近く、一年中いつでも風に乗って潮の香りが漂う場所だった。
街の中心部に続く長い道路。スタジアムを横目に車を走らせれば、実に南国チックな木が立ち並び、まさに観光地といった装いを見せる。
「海ね……」
「海ですね……」
そんな人間なんてちっぽけな存在なんだと気づかせてくれる大海を目の前に、少しだけ感傷的な口ぶりで俺達は呟く。
放課後。晶羽先生の講義は実践編へと移り、部室から場所を変え、学校からほど近い浜辺へ来ていた。まだ海開きも始まる前の六月の浜辺は時間も相まって少しもの寂しい雰囲気だった。
「……早速始めようかしら。智充。竹刀は持ってきたわね?」
ジャリッと砂を踏む音が響く。俺は頷きながら、手に持っていた竹刀袋を掲げる。
「部室で霊力について簡単なレクチャーをしたけど、これからは本格的に霊力の扱い方について学んでいくわ。……とりあえず思うように霊力を解放してみなさい」
俺は袋から竹刀を取り出し、両手で握りしめる。
「…………来い!」
見慣れた竹刀が灰色に輝き始める。
「うん。霊力の解放自体は問題無いわね。智充、体の方はどう?」
「……ハァハァ。やっぱりこれ、疲れます……ハァハァ」
霊力を込めた瞬間。体中から力が抜けていく。ただ立っているだけにも関わらず、何十キロも走ったような倦怠感に身が包まれる。
「……やっぱりね。智充、貴方全身に力が入りすぎてるわ、もっと自然体で体の力を抜きなさい。そして、体中を巡り巡る霊力の流れをイメージしなさい」
「リ、リラックス。そして、イメージ。イメージ……」
……確かに俺の体はガチガチだ。これでは例え霊力云々を抜きにしても疲れるに決まっている。
目をつぶりイメージする。全身の毛穴から抜けだしているような霊力に流れを与える。例えば心臓から全身に向け流れ、また戻ってくる血液のように。
「良い感じよ……そのまま、まずは霊力が自分の体に通っている事を意識しなさい。そうね……ひとまず竹刀を置いてみて」
俺は言われた通り、竹刀を足元に置く。途端に竹刀は灰色を失い、元の姿へと戻る。
「どう? 大分脱力感もなくなって来たでしょう?」
「はい、まだちょっとだけ体が重いですけど……さっきよりはマシです」
霊力の流れを意識すると息も整い始める。こうして見るといかにさっきまでの自分が霊力をダダ漏れにしていたかがわかる。
「初歩の初歩は大丈夫そうね。これからは普段の生活でも霊力を意識しなさい。目標は無意識にオンとオフを即時に切り替えられるレベルよ」
初歩の初歩もまだおぼつかないが、自分に才能がないのはわかっている。
「次は霊力を体のどこかへ集中させてみなさい。これもさっきと同じよ、体を巡らせている流れをどこか一点へ集めるイメージで」
まずは、右手へ霊力を流すようなイメージ。そして、左腕、左足、右足、両手、両足へ。
「……上出来ね。やっぱり無意識に竹刀に霊力を込められただけはあるわ。――智充。両足に霊力集中!」
「はい! 集中集中……」
霊力の流れを意識し両足へ込める。途端に両足は灰色の光に包まれ、普段以上の力が溢れてくる。……どうやら上手くいっているようだった。
「そのまま、この浜辺をダッシュしなさい!」
「は、はい!」
俺は言われるがままに、一歩踏み出――
――ドバッ!
瞬間、後ろに凄まじい量の砂がはじけ飛ぶ。
そして、それに比例するように、体は前へ前へと向かい、凄まじいGが全身にかかる。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああーーーーーー!!!」
口から漏れ出る叫び声も置き去りにして、長い長い浜辺をありえないスピードで走り続ける。ゆうにオリンピックレベルの短距離ランナーよりもスピードが出ている気がする。
「――ともみつーーーーーーー! もういいわよーーー。帰ってきなさーい!」
あまりに距離が離れ、もはや砂粒ほどの大きさにしか見えない会長が大声で叫んでいる。
慌てて急ブレーキ。Uターンして浜辺の砂を滅茶苦茶にしながら走る。会長との距離が一瞬で縮まり、またもや急ブレーキ。
「調子に乗りすぎよ……そんな急激に解放したら、霊力がすぐに底をつくわ。戦う時は自分の霊力を上手く配分する事が大事になるのよ」
「ハァハァ……す、すいません。これ加減が難しくて……」
「……そうね、昨日霊力に目覚めたばかりだものね…………これをつけておきなさい」
会長がポケットから何か取り出し、俺に手渡してくる。
「…………指輪ですか?」
手渡されたそれを改めて眺めてみる。月光を浴びて輝く銀の指輪だった。
「霊力を抑制する霊装よ。それをつけておけば全力で霊力を解放したとしても、リミッターが働くから、いきなり霊力がスッカラカンになる事もないわ」
俺は黙って指輪をつけようとする……がこんなものを身につけるのは生まれて初めてだ。ましてや女の子から指輪を貰うなんて経験あるわけがない。
……あれ? こういう指輪ってどっちの、どの指につければいいんだ?
「智充。指輪っていうのは左手の薬指につけるものよ」
「え? さすがにそれはおかしい……」
左手薬指ってそれは大事な指輪をつけるところじゃないのだろうか。
「ふふっ、霊力の流れから考えてリミッターの効果的な位置は……左手薬指が最も適しているの。だから、世俗的な意味なんて気にしないで早くつけなさい」
霊力という言葉が出てくると反論もできない。俺はズブの素人で会長はプロだ。従わなくてはならない……が、会長の口角が上がっているのが気になってしょうがない。
……駄目だ、考えてもわからない。別に俺なんかが指輪してても誰も気にしないだろう。
俺は無言で左手薬指にリミッターを装着する。
「……これで貴方は永遠に私の下僕よ……喜びなさい」
月夜に照らされた指輪は、俺と会長を主と下僕という関係で繋ぐ鎖のようだった。
「ありがとうございます。俺は例え死んでもあなたを守りたい。盾でも弾除けでも、なんでも命令して下さい」
もちろん生きるために最大限の努力はする。しかし、俺の空っぽの器を満たしてくれた家族や友達、こんな俺を頼ってくれた会長のためなら俺の命なんて容易に捨てられる。
俺の言葉に会長はその大きな目を見張り、すぐに伏せる。揺らぐように一瞬だけ見せた感情の名前は俺にはわからなかった。
「…………引き続き説明を続けるわ。今貴方が使ったのが、いわゆる『強化』ね。両足に霊力を込め、移動速度を上げたり。両手に霊力を込め、打撃力を高めたり。他にも五感に霊力を込めることで感覚強化。使い方はいろいろあるわ。これらを総称して『第一解放』と呼ぶわ」
全力疾走で吹き出した額の汗を拭う。全身からは幾ばくかの疲労が感じられる。
「霊力も考えて使わないといけないんですね。自分の限られた霊力をどこに使うか……」
「……試行錯誤しながら自分の闘い方を覚えていきなさい。とりあえず、この強化が霊力の初歩ね。でも初歩といっても奥が深い世界だから極めるのは難しいのだけど……」
単純だからこそ使い方次第で幾通りもの戦術がある。
……面白いな。それに自分に合っている気がする。
「次が『第一解放』――強化からステップアップした『第二解放』――霊力に属性を与え、様々な効果を付加する方法ね。体内を巡る霊力はイメージ出来るようになったわね?」
「……はい。なんとなく掴めてきました。少なくとも最初みたいに、霊力を駄々漏れにするって事はないと思います」
試しに霊力を目に通わせてみる。すると、すでに闇に染まっているはずの浜辺にも関わらず遠く離れた自販機の値段までくっきりと見る事ができた。
「その霊力を体内で一箇所に集めて練り、より純度の高い霊力を精製する。この霊力をそのまま使えば、『幻術』や『治癒』みたいに強化より高度な術として使えるの――」
会長がポケットからカード大の紙を取り出し、霊力を込める。それを俺の方へ向け、一言呟く。すると、さっきの全力ダッシュで消耗していた体力がみるみる内に回復していく。
「お、おお。凄い……疲れがなくなった……」
「……さすがの私でも大怪我を治す事は出来ないから気を付けなさい。次が大事よ……この世界には五行と呼ばれる要素があって、当然霊力も火、土、水、木、金のいずれかに当てはめる事ができるの。そして、この要素は互いに影響し合う――」
会長が手元の紙に星の絵を書いていく。
「火は金に克ち、金は木に克ち、木は土に克ち、土は水に克ち、水は火に克つ――『相克』と言って五行の相性を示したもので」
そのまま、今度は星の頂点を繋いでいく。
「火から土が生じ、土から金が生じ、金から水が生じ、水から木が生じ、木から火が生じる――『相生』と言って五行の成り立ちを示したものよ」
紙には五角形と星が重なりあった絵が完成する。
「これらの考え方を五行説と言って、本当はここに陰陽を加えて陰陽五行説となるのだけど。今はまず五行という要素があって、火の属性を使う相手には水の属性を使うくらいの認識でいわ」
と言っても第一解放しかできない俺には相手に合わせて属性を変更する事なんてできないが、覚えておいて損ではないだろう。
「ああ……じゃあ初めて妖と闘った時に使っていた火の玉も五行の属性を付加していたって事ですね?」
「基本的にはそうね。あれは見ての通り『火』の属性を付加した霊力なのだけど、それに『式神』の力を加えて強化しているから、単なる五行とはまた別になるのだけど」
「式神……ですか?」
「……まあそういう術もあるって事を覚えておきなさい。というか少なくとも、五行や式神はかなりの修行が必要になるから、まずは強化について修行しなさい」
……五行に式神か。霊力の使い方にもいろいろあるんだな。
俺はこれらの術をとりあえず頭の片隅に記憶しておく。
「以上。霊力の使い方についてのザックリとした説明ね。まだ、この先には『蘇生』や『過去視』や『未来視』、『変化』みたいな禁術、伝説レベルの術。個人の特殊な術式。代々伝わる秘伝の術式。があって、それらを総称して『固有術式』と呼んでるわ」
「『固有術式』……ちなみに会長はどの程度術を使えるんですか?」
俺は一つの期待を持って会長に尋ねる。
「通常なら五行は全部扱えるけど、式神がまだ完全ではないわね。確実に四神を呼べるわけでもないし。後は少しだけ『過去視』ができるくらいね」
通常ならという言葉に違和感を覚える。しかし、それより……
「……過去視、ですか」
「………………」
会長の口から出た『過去』という単語を俺は呟く。
「話はここまで。ほら智充、竹刀を構えなさい」
パン。と乾いた音が響く。両手を重ねた会長に言われ、思考の渦に沈みかけていた俺は慌てて浜辺に投げ出されていた竹刀を手に取る。
「貴方は弱いわ。これからの闘いを生き抜くにはあまりに弱い」
――俺は弱い。そうだな。会長と比べるべくもないくらい弱い。
「貴方は弱いわ。だから――もっともっと強くなれる」
俺は竹刀に霊力を込めていく。竹の刃は黒と白を混ぜ合わせた灰色の輝きを増していく。
「俺は弱いです。姉さんにも母さんにも剣道で勝った事がない。霊力の扱いだって会長に及ぶべくもない。だからまずは自分にできる事を精一杯やって見せます」
「…………いい顔よ。……さあまずは私に一本入れてみなさい。智充。竹刀と両足に霊力集中! いつでも攻めてきなさい」
会長が詠唱を行う。すると、あの日見た幾多の火球が会長の周囲に浮かび上がる。
「さあ行くわよ――」
一つまた一つと轟音を鳴り響かせながら炎熱の火球が俺に迫ってくる。
「――ウォォォォッ」
己を奮い立たせるため腹の底から咆哮をあげ、それらを捌いていく。
まるで炎の女王の如く、その力を振るう会長はなぜだかわからないが、この場にそぐわない楽しそうな笑みを携えていた。
「九百九十二、九百九十三――」
早朝の道場は自分の掛け声と、竹刀の風切り音しか聞こえない。
成詠家は代々剣道を生業としているため、こうして朝から貸切状態で練習できる。
おとがいを伝った汗が板張りの床に落ちる。
「九百九十四、九百九十五、九百九十六、九百九十七――」
朝のノルマである素振り千回は目前。しかし、終わりが近いからといって集中を乱してはいけない。
最速の一振りをイメージし、竹刀を振る。
「九百九十八、九百九十九、千!」
最後の一振りを終え一礼。ランニング、素振りというメニューをこなした事で、道着は汗で重くなっている。
「……そうだ。一回だけ」
呼吸をするように、自然な動作で体内の霊力を竹刀へ集める。ここ何日か会長との特訓の成果もあり、霊力のオンオフはかなりスムーズに出来るようになった。
上段に構えた灰色の刃をイメージ上の妖目掛けて、一振り。
真っ二つに妖を両断する事ができた。イメージ上ではあるが、悪くない一撃だったと思う。
「智ー! 朝ごはんですよー!」
よく通る声が耳に届いたかと思うと、綺麗な黒髪をなびかせた女性が道場に入ってくる。
「ののの、伸姉さん……お、おはよう……」
危機一髪、どうにか姉さんに見つかる前に霊力をオフにする事ができた。
「……智。そんなに慌ててどうしたのですか?」
「べ、別にあ、慌てててててない。姉さん……ほら、いつも通りの俺だろ?」
……結構ビビった。霊力自体はは普通の人にも見えるので、見つかったら説明が面倒くさい。
頬に右手を当て、俺を見ているこの女性は成詠伸と言い、二つ年上の俺の姉であり、高校の先輩でもある人だ。
柔和に整った顔立ち。腰まで伸びた黒髪。丁寧な言葉づかい。一言で表すなら大和撫子という言葉がぴったり合いそうな女性である。
「そうですか? それならいいのですが…………むっ」
髪と同様に綺麗な黒色の眼差しが俺の左手に注がれる。瞬間、優しげな表情が一転、不満を滲ませたものに変わる。
礼儀に厳しい姉さんは指輪なんてチャラチャしたものを付けている事が許せないのだろう。
「……智。姉さん言いましたよね? 指輪は外しなさいって……忘れてしまったの?」
ヒヤリと背筋に悪寒が走る。姉さんはこの道場の師範代であり、母さんと剣道の指導を行なっている。そして、師範代であるからには言わずもがな、俺なんか歯牙にかけない程に剣道が強い。
「あ……ああ、そうだった。ごめんなさい、稽古中は外さないといけなかった……」
過去の苦い記憶を思い出し、頭の中からはアラートが鳴り響いている。
「……稽古中? ――姉さんは指輪を外しなさいと言いましたよね」
眼の前に立つ姉さんは俺より十センチ以上も小柄だ。しかも無手である。にも関わらず、凄まじい殺気を放ち始めたせいか、姉さんに勝てるイメージが全く湧かない。
俺は頭をフル回転させ、突破する方法を考え出す。考えろここ数日で会長と特訓した中に突破法があるはずだ。
閃いた。会長曰く『戦うべきと戦うべからずとを知るものは勝つ』だったはず。
しからば取るべき方法は唯一つ。
「あっ! 姉さん、あんなところに烏天狗が!」
あらぬ方向を指差し、大声をあげる。咄嗟のことで昨日会長からレクチャーされた妖怪の名を叫んでしまったが、今は逃げるだけだ。
姉さんが立つ扉とは反対方向の扉に向かい全速力で逃走する。
……あれ? 何かこのシチュエーション既視感が。
あと一歩。ほんの数十センチだった。しかし、そこで俺の腰に細腕が回される。
「智。勝てないと悟った相手からは逃げる……良い判断でしたよ。でも、こういう言葉があるんです『彼を知りて、己を知れば、百戦して殆うからず』。姉さんに智の知らない事なんてないんです……」
フフッ。と高い笑い声が背後から聞こえてくる。
……会長ここからの逆転の一手ってありますよね……?
イメージの中の会長は黙考したのち、残念そうに顔を伏せる。
「さぁ……今日こそはその指輪についてちゃんと話してもらいますよ……」
グイグイと姉さんのふくよかな胸部が俺の背に押し付けられている。
「……だ、誰か助けてくれ――」
「姉さんが助けてあげます。智を誑かそうとする輩からね……」
パソコンをシャットダウンさせたように意識が途切れる。最後に一瞬だけ目に入った景色は梅雨の合間の青空だった。
その後一時間くらいの記憶がないのだが、気がついた時には教室の自分の席に座っていた。空白の一時間に何があったのかわからないが、昼休みに学食で会った姉さんが俺の顔を見た瞬間、やけにツヤツヤした顔を赤く染め、逸らした事が気になるが、知ってしまったら終わりな気もする。
一言だけ言うと指輪は依然、左手薬指に健在だった。というより、この指輪は会長しか封印解けないらしいので俺にも外しようがなかった。(だからこそ姉さんからは問答無用で逃げたのだが)
そんな恐怖に怯えながら授業を受けていると、あっという間に放課後となる。俺は、昴にひと声かけ、部室へ向かう。
「あれ? そういや武居どこ行ったんだ……」
教室を出るときに、姿が見えなかったので少し気になったが部活に向かったんだろう。俺はさして気にも留めず部室へと向かう。
「お疲れ様でーす――」
ガラリと扉を開けると、目の前にはソファとテーブルといった、ここ数日見慣れた光景がある。が、そこに座っていたのは、腕を組んだ俺の主だけではなく……
「あれ? 武居、お前部活行ったんじゃないのか……」
「……ううん。ちょっとここに用事があって」
弓道部に所属し、俺の友達でもある武居ウラだった。
俺は部室に常備されているコーヒーメーカーから来客用のカップにコーヒーを注ぐ。そのまま、ソファの下座に座る武居の前に置く。
「……成詠、ありがと。でも……あんた、何でここにいるの?」
武居は湯気の昇るカップを一瞥した後、怪訝そうな顔で俺に尋ねてくる。
「えっと…………あっ、そうだ、『剣道部が休部になって暇を持て余してた俺が高貴な会長様の事を手伝いたいって言ったんだ。こんな素晴らしい部活に入れたなんて俺は特別な存在なのだと感じたよ』」
「何で棒読みなの……?」
「……この子がどうしてもって言うから入れてあげたのよ」
何事もない顔で晶羽さんが言う。
ちなみに今の文言は歴史文化研究部――歴文研に入った理由を聞かれたら、こう答えろ言われていたものだ。
「……ふーん。へー成詠、歴文研に入ったんだ。……私の誘いは断ったくせに」
明らかに不機嫌そうな顔で武居がボソッと呟く。
「……すまない。先にこっちに入ったから、お前の誘いは断るしかなかったんだ。俺も二つ部を掛け持つ程器用じゃないしな」
全面的に俺の方に非があると思ったので、武居にすぐさま頭を下げる。
「ち、ちょっと。頭上げてよ! ごめん、私も本当はそんな事思ってないよ……ただ、その、ね……?」
武居の視線が一瞬だけ会長に向かう。その視線の理由はわからないが、用意されたものではなく、会長に付いていく本当の理由を伝える。
「……いい部だよ、ここは。会長も初心者の俺に親身になって教えてくれるし、助けてもらった恩もあるしな。……会長はちょっとだけ厳しいけど後輩思いの優しい人だよ」
本人がいる前で言うのは気恥ずかしいが、それは飾らない本当の理由だった。
「「へぇ」」
二つの声が重なる。しかし、それは対称的な表情で発せられる。
口角を上げた会長と、静かな怒りを湛えた武居。
……あれ? 何だこの空気。
「……そ、そうだ。会長、武居の依頼って何ですか?」
「優しい……優しい。……え? あ、ああ、い、今から聞くところよ」
美しく整えられた髪を弄っていた会長が上の空な様子でそれだけを言う。
「それなら、是非武居の力になってあげて下さい。こいつは俺と違って弓道部でも一年でレギュラーになるくらい有望な選手で、俺のクラスメイトでもあって、その……明るくて凄くいい奴なんです。もちろん、俺も微力ながら手伝いますから。どうかお願いします」
不穏な雰囲気から逃げるように出した話題だったが、これもまた心からの言葉だった。
「「へぇ」」
もう一度、二つの声が重なる。……それは対称的な表情で発せられる。
一転、眩しい笑顔を見せる武居と、フラットな無表情の会長。
……あれ? またこの空気? 何でだ……?
「…………成詠君も隅におけないわね。こんな可愛い子が彼女だなんて」
嗜虐的な笑みを浮かべた会長が意味のわからない事を言い出す。
……武居からは見えていないかもしれないが、俺は現在進行形で左足をガシガシと蹴られている。
「かかかかかか彼女なんかじゃないです!」
案の定、武居が部屋の外まで聞こえそうな大声で会長の言葉を否定する。しかし、すぐに我に返ったように俺を見つめる。
「あ、成詠。こ、これは違くて……そのえっと……」
「……いや事実だからな。それに会長からかわないで下さい。俺なんかと付き合ってるなんて言われて武居も迷惑してるじゃないですか」
……武居みたいな女の子なら引く手あまただろう。何の取り柄もなく、学校一嫌われ者の俺を好きになる道理がない。
いくら俺が武居を好ましいと思っていても、武居もそうだとは限らない。
俺の胸を小さくない痛みが襲う。それは何時まで経っても慣れない痛みだった。
「あ、あうあうー……」
「……………………」
それっきり言葉にならない声を出している武居と、なぜか不機嫌になってしまった会長。
「……武居、そろそろ、依頼内容を教えてくれないか?」
このままでは埒が明かないため、俺はいまだ俯いている武居に尋ねる。
「……そ、そうだね。改めて、私は弓道部に所属する、一年三組の武居ウラと言います。えっと……相談する前に一ついいですか? ここってオカルトっぽい話とか心霊現象について研究してるって本当ですか?」
武居は恐る恐ると言った様子で俺達を見ている。
「相違ないわ。ここは怪異現象を解決する部活よ。何があったのか教えてくれる?」
頼もしくそう言い放つ会長を信用したのか、武居は安堵の息をつく。
「今の弓道場は一年前に新しく建て直したらしいんですけど――」
ポツポツと語りはじめた武居の話をまとめるとこういう事らしい。
四月に入ってから弓道部で怪我人が続出したり、施錠されているにも関わらず、度々部室が荒らされていたり、とにかく変な現象が起きている。
一応、警察にも相談してみたのだが、警察でも手がかりが掴めず、弓道部一同途方に暮れてしまっていた。さらに気味悪がって退部してしまう部員も出始めており、何より弓道部部長が今月に入り原因不明の病に罹り学校を休んでいる。
そこで藁にもすがる思いでここを尋ねたという。代表して来たのが武居なのは一年ながらレギュラーでもあり、部員から頼りにされているからだろう。
「……今部活に来てるのは私一人しかいなくて。じ、実は成詠を部活に誘ってたのも……心細いっていう理由もあったの」
武居がか細い声で「ごめんね……」と言う。弓道場は剣道場の隣にあり、今までおかしな事件が起きていた事も知っていたが、数日前まではまだ活気があったように見えた。
剣道部が休部になって一週間。俺が知らない間にそんな事になっていたなんて。
「武居。お前が謝る必要はどこにもない。そんな大事になっていた事に気づけなかった俺も悪い」
「う、ううっ。私もう、結構限界で……一人で部活してても床が軋む音すら怖くて……」
遂には泣き出してしまった武居を見ている内に俺の中に沸々と怒りが沸き上がってくる。
パンと一際大きな音が響く。それまで黙って話を聞いていた会長が手を叩いた音だった。
「武居さん。私に……いえ、私達に任せて。すぐに解決してみせるわ」
立ち上がった会長の言葉は静々としていながらも、圧倒的な頼もしさを感じさせる。
そして、貴方はどうなの? そう言いたげな視線で俺を見やる。
――答える言葉なんて考えなくても決まっていた。
武居の縋るような上目遣いを受け止める。
「武居、弓道教えてくれるって言ってたよな? 時間は…………明日とかどうだ?」
後は俺達に任せろと言い、武居には帰ってもらった。責任感の強い武居は最後まで自分も付いて行くと言っていたが、十中八九物の妖絡みの事件と考えていた俺達は何とか説得し、そのまま部室で作戦会議をしていた。
「成程……智充見てみなさい。以前、弓道場はここにあったの」
会長がテーブルに広げたうちの学校の図面を指差す。
「俺達が入学する前は剣道場と隣り合ってなかったんですね」
以前の弓道場は校舎と中心として下の部分。つまり南側にあったらしい。
「それが今はここに移築された。校舎を中心にすると北東側ね……」
今度は比べるように並べられた今年度版の図面を指差す。
「陰陽道では北東……いわゆる丑寅の方角は鬼が出入りすると言われて、縁起が良くないの。でも、それくらいなら問題ないのだけど……智充。最近になってこの学校の霊力の流れがおかしいって話はしたわね?」
「はい。霊力の流れがおかしいせいで、学校に妖が出る事になったって」
「そう。不浄な霊力と丑寅の方角に弓道場が建った。この二つが重なって怪異現象が起こったと考えていいわ」
ひとまず、大まかな原因はわかったため、俺は一息つき、テーブルに置いていたコーヒーを一口含む。
武居にああ言ったが、どれほどの物の怪が出てくるかわからない。結局、俺が闘った物の怪なんて低級の妖一匹のみで、あの日から今日まで修行は続けてきたが、実戦は皆無だ。
……正直言って怖い。心の底から怖い。
命を投げ出す覚悟なんてとっくにできていたはずなのに、情けなくも体が震える。
一歩間違えれば死ぬかもしれない闘いにこれから赴くのだ。これはゲームでもなく、マンガでもない。俺にとっての現実だった。
「……智充。さっきはその……カッコ良かったわよ」
優しげな声が耳朶に触れる。そのおかげで自分がいつの間にか俯いていたことに気づき、慌てて面を上げる。
「……カッコつけたかっただけです。俺なんかを頼ってくれようとした、武居に応えたくて……気づいたら口が勝手に動いてて」
またもや、会長の顔が不機嫌なものに変わってしまう。
「智充。私は『俺なんか』っていう言い方は好きじゃない……いえ、嫌いね。その言葉は貴方を好きな人や頼ってくれた人。その人達を貶める言い方よ」
会長は口調こそは静かだったが、だからこそ、より怖さが引き立つ。
「貴方は自己評価が低すぎるわ……確かに『神隠し』なんて言われ、蔑まれてきたのかもしれない。灰色の髪も差別の対象になるかもしれない。……私はその痛みを理解できるなんておこがましい事絶対に言わない」
「………………」
「だから私にできるのは言葉を伝える事だけ、見えない誰かの評価より、その目に見えている、貴方が好ましいと想う誰かを信じてみなさい。そうしたら『俺なんか』なんて言えないはずよ」
普段の厳しいものではなく慈しむような声音で紡がれる言葉は、ジンワリと俺の心の奥底を暖かくしてくれる。
「どうするかは受け取った貴方次第よ。――でも少なくとも私は貴方を、下僕として信じている」
ジッと見つめられる会長の両目からは嘘偽りなんて塵ほども入っていない。そう言い切れる色をしていた。
――信じてみよう。
まずは目の前の厳しく、優しい主を。俺の胸をかき乱す暖かい言葉を。
「会長。ありがとうございます……」
「別にお礼を言われるような事は言ってないわ! 私は『後輩思いの優しくて、美しい人』なのだからこれくらい当然よ。それに私の下僕は堂々としてなくてはいけないの!」
会長が朱に染まった顔をさらに赤くし声を荒げる
俺が言ったのは『後輩思いの優しい人』だったが、成程。あまりに当然過ぎて『美しい』を入れる事自体忘れていた。
俺はふと気づく。いつの間にか全身から震えが止まっている事に。
そして、恐怖の代わりに沸き上がってきた、熱く滾るこの感情の名は……
勇気。その二文字だった。
ありがとう。心の中でもう一度お礼を言い。立ち上がる。
「そろそろ行きましょう? 早く終わらせて今日こそ会長から一本取って見せます」
「それは楽しみね。大いに期待してるわ」
俺達はこれから決戦に赴くにも関わらず、闇夜の校舎でバカみたいに笑い合っていた。
「…………これは。かなり良くないわね」
今もまだテープを貼られ、立入禁止になっている剣道場。そこに隣接して建てられている弓道場は夜が更けたという理由もあるが、それ以上に禍々しい霊力のせいで不気味さを増していた。
「この肌にビリビリ来る感じ……何かいるって事だけはわかります」
俺の言葉に頷くと、会長はポケットから二枚の紙を取り出す。それに口づけをし、宙へと放る。
すると、二枚の紙は瞬く間に二匹の犬へと姿を変える。
「――行きなさい」
会長の声を引き金とし、旋風のような速度で犬は走りだす。
「恐らく……いえ、十中八九、弓道場に妖がいる。でも、私達が弓道場の中で闘ったら剣道場の二の舞になるわ。まずは式神を使って、妖をおびき出すわよ」
俺は何が出てきてもすぐに行動に移せるように、竹刀を握り締める。
「……ほら、何してるの。貴方も行くのよ」
会長が困った顔で柏手を打つ。召喚した式神の内、一匹は弓道場へと向かったのだが、もう一匹が弓道場とはまるで違う方向を向いている。
「どうしたんでしょうか? あっちには何もなかったはず……」
俺も式神が顔を向けている方向を見てみるが、そこには鬱蒼と生い茂る木々があるだけで、特に霊力の反応はない。
遂には式神がそちらへ走り去ってしまう。俺と会長は呆然とそれを見ていたが、
「えっ? わ、わわっ! 何これ……ワ、ワンちゃん……? でも……紙でできてる!?」
少し高い、聞き慣れたアルトボイス。式神が木々に身を隠していた人物を追い立てる。
「わ、わ、追いかけないでーーー! 怪しいものじゃあ、ありませんからーーーー!!」
牧羊犬よろしく、式神は俺達の目の前へと、その人物を追い立てる。
袴、胸当ての順で着用し、左手に弓を携えた女子生徒。
「……お前なんでこんなところにいるんだ。帰れって言っただろ」
「だ、だって……これは弓道部の問題だし。成詠達だけに任せるのも、無責任かと思って……」
さっき何とか家に帰らせたはずの武居だった。
「バ、バカか……お前は俺達に依頼したんだから、後は放っとけばいいんだ。別に俺達が死ぬわけじゃないんだから……」
本当は死の危険がつきまとう闘いに赴くのだが、そんな事を説明できるわけもない。
「ね、ねえ本当に? 本当に危険はないの?」
武居が俺の肩に手を置き、食い下がってくる。何となくかもしれないが、俺たちの物々しい雰囲気を察しているのかもしれない。
「さっきの紙でできたワンちゃんは何? 何で成詠は竹刀持ってるの?」
瞳に涙を溜め、必死に俺の体を揺さぶる。
「何で二人ともそんなに真剣な表情してるの? まるで、これから死地に向かうみたいだよ……」
長年弓道を続けている武居には俺達の放つ殺気が異様に映っているのだろう。どう答えるか俺が言い淀んでいると、肌に感じていた霊力の密度がより濃くなる。
「……二人とも話は後にしなさい。どうやら、出てきたみたいよ」
――キィィィィィィィ
耳障りな鳴き声が響いたかと思うと 、それは俺達の目の前に突如として現れる。
初めて見た妖より大きい、全長五メートルはありそうな体躯。そして、宵闇より黒い漆黒に覆われたそれは蛇の姿をしていた。
「チッ……ぬくぬくと霊力を喰らって、丸々太ったのね。でも、これくらいなら私一人でも――」
――キィィィィィィィ
蛇に共鳴するように鳴り響く音。それが耳に入った瞬間、もう一体の妖が蛇の隣に並び立つように現れる。
「か、蛙…………?」
呻くように武居の口からこぼれた言葉通り、もう一体の妖は同じく全長五メートル程の蛙の姿をしていた。
全身黒々とした蛇と蛙には目も口も鼻もない。ただ、シルエットが蛇や蛙のそれであるだけだ。しかし、確かに目の前の二体は俺達を伺うように視線を向けている。
「――――来い!」
武居を庇うように体を移動させ、すぐさま霊力を解放。闇夜を切り裂く灰色の一刀が現れる。
「な、なになに、ど、どういう事? 真っ黒な蛇も蛙も。成詠。それ何なの?」
この場で唯一事態を飲み込む事が出来ない武居がオロオロと狼狽えるが、敵が目の前にいる今、一から説明している暇はない。
「武居! 事情は後で必ず説明する! だから、あそこに隠れてろ!」
蛇と蛙から視線を切ることなく、武居が元々隠れていた場所を指差す。
「――式神よ、その女の子を守りなさい」
一言呟く会長。今まで黙っていた犬型の式神が武居を引っ張っていくように走りだす。
武居は俺、会長、蛇と蛙を見て、一瞬迷った後、頷き式神を追いかける。
「時間がないから、作戦を伝えるわ。敵は中級の妖二体。まず私が蛇を相手にする。五……いえ、三分で片付けるから、それまで、智充は死なないように逃げ切りなさい」
言い切るような会長の言葉は疑問ではなく命令だと判断する。確かに目の前の敵は俺が初めて闘った犬型の妖より数倍大きい。単純には言えないが、ザッと数倍の霊力を有するだろう。
俺は恥じる事なく頷く。ここで、反発して俺が倒すと息巻いても、それは会長の足を引っ張る行為になってしまう。
――お前じゃ勝てない。だから逃げろ。会長が言ったのは、つまりそういうことだ。
「――了解。復唱します。俺はあいつから三分間逃げ切ります」
「…………ごめんなさい」
何に対しての謝罪か……一瞬だけ申し訳なさそうな顔をした会長は、しかし、すぐに顔を上げ、霊力を練り上げる。
「ほら、来なさい。貴様の相手は私よ!」
スパっと鋭い音が響いたかと思うと、一刀のちに蛇の尻尾が断ち切られる。会長の周りには以前見た火球ではなく氷の刃が幾千と漂っている。
会長の心配は無用であると判断した俺は不気味に沈黙している蛙へと相対する。
このまま黙って見ていてくれればそれでよし。俺は単なる時間稼ぎなんだから、その使命を全うしろ。
――キィィィィィィィ
脳に直接響くような金切り声が響き渡ったかと思うと、蛙が動き出す。
巨体に似合わず意外にも素早い蛙は、俺を押しつぶそうと低くジャンプする。
俺は両足へ霊力を込める事で機動力を上げる。すんでのところで押しつぶしを回避した俺は視線を切らさないように蛙を見据える。
自分の初動から少しだけ緊張している事に気づく。
……両足への霊力、それによる高速機動。修行した通りじゃないか、智充思いだせ。
体に染み付くまでは至っていないが、それでも、最初の頃より慣れてきた『強化』。
限られた霊力を配分しろ。最適な闘い方を常に考えろ。
気を抜けば死ぬだけだ。しかし、今の俺に死ぬ事は許されない。武居を守らないといけない。それに。
――会長の命令は絶対だ。
その後も繰り返される押しつぶしをどうにかこうにか躱していく。
恐らく会長は校庭の方へ蛇を誘導したはずだ。ならば俺もそちらへ向かうに他ならない。
少しづつ校庭へと向かっていく。その間も、必死の攻撃を紙一重で避けていく。
並び立つ木々は倒れゆき。固い大地は裂けていく。
このまま行けば、三分間は逃げ切れる。
――瞬間寒気に襲われ、無我夢中で横っ飛びをする。
俺が二秒前まで存在していた空間が風の刃でズタズタに切り刻まれている。
――旋風? 遠距離攻撃だと!?
避けたはずなのに、攻撃の残滓である旋風で頬から血が流れ落ちる。
しびれを切らした蛙が新しい技を使い始めたのだろう。俺は崩れてしまっていた体勢を立て直そうと立ち上がる。
しかし、格好の隙を見逃してくれる程、甘い敵ではない。俺は体勢を立て直す暇もなく、どうにかもう一度横っ飛び。
――ズバッッッッッ
避ける。攻撃。避ける。攻撃。避ける。攻撃。
幾度も死を覚悟した。息が切れる。冷静に霊力を運用する余裕さえなくなっていく。
「ハァハァハァ…………」
息を吸っても吸っても追いつかない。このままでは霊力切れの前に酸素不足で死んでしまう。
「し、死ねない……こんなところで、こんな相手に……」
次第に蛙の攻撃の間隔が短くなっていく。
つま先のほんの数センチ先を切り刻まれる。足の指が切断されるかと思った。
三分はまだだろうか? 腕時計を見る暇もない俺にはもう二時間以上走り回っているような感覚がある。
制服は破け、顔中泥だらけ、息も絶え絶えで逃げまわるしかない、霊力も空っぽに近い。
……ヤバい。このままじゃジリ貧だ。
何度目かの攻撃を避けようとする……しかし、地面がぬかるんでいたせいで俺はズルリと滑ってしまう。
「――ッ」
こちらを見ている蛙と目が合った。その目は俺を餌だとしか思っていないものだった。
痛恨のミス。俺は死を覚悟した。
――刹那の後、俺は死ぬ。
そう思った。
「こ、こっちにもいるよ、このクソ蛙!」
だが、俺の目に映るのは物陰に隠れているはずの武居が震える体で矢を放つ姿だった。
武居にとっては得体のしれないものであるにも関わらず、鋭い軌道で寸分違わず蛙の頭部へと向かう高速の矢。
本来ならば致命傷となるはずの一撃。
しかし、矢は無残にも蛙の体をスルリとすり抜けていく。
「な、なんで……? 当たったはずなのに……」
今日、しかもさっき初めて妖を目にした武居にわかるはずがない。
妖に対しては、霊力を持った武器でしかダメージを与える事は出来ない。
蛙はすり抜けていった矢ではなく、武居の声に反応したようで、ターゲットを俺から武居へと変更する。
「クソッ!」
武居が決死の覚悟で作ってくれた数秒の間に体勢を立て直した俺は、全ての霊力を使い果たす気持ちで両足へ霊力を込める。
「待て、このヤローーーーーー!!!!!」
武居へと向けられる風の刃。立ち尽くしたまま動けなくなっている彼女の前で急ブレーキ。そして半ば跳ね除けるようにしながら武居を庇う。
幾重の風の刃は俺の身を切り裂く。一瞬の判断で両足へ込めていた霊力を全身へ。脆いかもしれないが霊力の鎧で我が身を守る。
鋭い痛みが全身を襲う。頬は裂け。胴は刻まれ。両足にもいくつもの傷を作る。
「――――ッ」
遅れて、もはや体のどこから感じているのかわからない程の痛みが襲う。
ポタリポタリと血が滴り落ちる。しかし、幸いにもどうにか四肢はくっついていた。見ると武居を守っていた会長の式神がバラバラに散っている。
式神も俺を庇ってくれたからどうにか致命傷には至らなかったみたいだ。
「た、武居、大丈夫……か――」
振り返り見た武居はどうやら気を失っているようだった……だが、それ以上に俺を驚かせたのは。彼女の左足に残る一条の傷だった。
それは自分の身を刻む傷に比べれば、小さな、致命傷にもならないくらい、大した事ない傷かもしれない。
にも関わらず、俺の全身を苛む数多の傷が与える痛みより数倍も、数十倍も、数百倍も俺の心の内を抉っていく。
――俺は何をしてるんだ? 守るべき相手から守られ、守るべき相手も守れず。
武居を傷つけた蛙はもちろん、口だけの自分自身に腹が立つ。
――三分間逃げ切る? 会長が助けに来る? 霊力に目覚めて間もないから仕方ない?
怒りのせいで噛み締めた唇からは血が溢れる。
――そんな事、戦場において言い訳になるとでも思っているのか?
霊力は今の動きで使い切った。そのせいで右手に持つ竹刀からは色が失われている。
――まずは受け入れろ。俺は弱い。弱いから強くなれる? 違う。今の俺は弱い。
ゆっくりと竹刀を上段に構え、真っ直ぐに蛙を見据える。
――だけど、負けない。命令はどうであれ、会長にこいつの相手を任せられているんだ。
「『想いを載せてぶった切る』俺にはそれができるはずだ!」
瞬間 、ドクンと鼓動が高鳴ったかと思うと、空っぽだと思っていた霊力が全身に溢れてくる。
「前より……霊力が多くなってる?」
気のせいでもなんでもなく、闘う前より霊力の総量が増していた。
「……理由なんかどうでもいい。来い。蛙野郎!」
両足へ霊力を行き渡らせ、高速機動で蛙の背後へ回りこむ。移動する間に竹刀にも霊力を込めていく。
「ウオォォォォォォ!」
確実に最初より疾くなっている自らの動きに振り回されないよう、霊力をコントロール。
より多く。より鋭く。より疾く。
灰色の霊力を纏った竹刀の一撃を蛙の背中にお見舞いする。
――キィィィィィィィ
……よし当たった。でも、浅い……違う。皮膚が厚い?
不意打ち気味の一撃でどうにか傷を与える事ができた。しかし、目の前の人間の動きが変わった事に気づいた蛙は警戒心を露わにする。
それに、俺の攻撃力では厚い皮膚を突破する事は難しいようだった。
近づくと切られる。今の一撃で蛙は確信したはずだ。
となると、蛙がとる行動は唯一つ。
「――ッ」
蛙は口を開き長い舌を震わせ風の刃を放ってくる。
実体の見えない風の刃を感覚だけで避けていく。気を失っている武居から離れるように移動する。
まだ、強化しか使えない俺に遠距離から蛙を攻撃できる手段はない。それに厚い皮膚に守られた蛙に致命傷の一撃を与えることは難しい。
「どうする……考えろ。あいつの攻撃は避けられる。だから攻撃だ。何か突破口は……」
完全に遠距離からの攻撃に切り替えた蛙は大きな口を開き、舌を震わせる。
――大きな口? もしかして、これが突破口か……?
高速機動で風の刃を避ける。木は倒れ、草は飛び散り、地面を抉っていく。
厚い皮膚のせいで外からはダメージを与えられない。しかし、中からだったらどうだ?
俺はそれまで動き回っていた足を止め、蛙と対峙する。
彼我の距離は十数メートル。風の刃の間合いだ。
霊力の流れを整え、己が放つ次なる攻撃へ備える。
――霊力集中。両足。竹刀。残った霊力は全身への守りへ回せ。
しかし、竹刀に込める霊力は刀身全体ではなく、切っ先のみ。集中集中、針の穴を通すかの如きコントロールで。
地を蹴るため足に力を込める。
至るのは竹刀が体の一部と感じられる境地。我が手のように自由に自在に自然に。
目指すは最速の突き。早く、速く、疾く。
「……目が霞む」
地面に痕を残す血の滴が止まらない。傷の痛みが感じられない事に苦笑いが漏れる。
……痛みが麻痺してる。時間はないと思った方がいいな。
一陣の風が俺と蛙の間を駆け抜けていく。
「そろそろ、終わらせよう……」
俺の宣言に反応したわけではないだろうが、蛙がその大きな口を開き、必殺の攻撃を放とうとする。
目指すは蛙の口腔。放つは必殺の一撃。得るものは歓喜の勝利。
――最大出力の霊力解放。まずは、矢のような、弾丸のような高速機動を両足で。
前へと進むための一蹴りにより地面には巨大なクレーターが発生する。
――申し訳程度に薄く張った霊力の鎧。
顔を、胸を、腕を、足を。全身を切り刻む風の刃を無視するように蛙の口腔目掛けて突っ込んでいく。
――仕上げは霊力を切っ先に集中させた一突き。
十数メートルを秒にも満たない速度で進んでいく。
「ツキィィィィィィィィイイイイイイイイ!!!!!!!」
漆黒の塊を疾風の一閃は確かに貫いた。俺は突き破った蛙の背後にそのままの姿勢で立ち尽くす。
――シュウゥゥゥゥ
振り向いた時には蛙は音をたて消え去っていった。
「――智充!」
満身創痍の体に鞭打ち、何とか武居が眠っている場所まで戻るが、さすがに限界だった。
木に背中を預けてぼんやりしていたところに会長が現れる。本当に瞬間移動でも使ったんじゃないかと思う程に気配もなく現れた。
なぜか会長は頭に金色の犬の耳と、尻尾を生やしている。そして茶色がかった髪もまた、美しい金色だった。
会長は普段は綺麗な顔を心配そうにクシャクシャに歪め言う。
「はい。何とか無事です。腕も足もあります……」
俺は笑いながら報告する。実際は痛くて痛くて気を抜いたら多分ぶっ倒れる程だったが、口では強がってしまう。
「バカ……痛い時は痛いって言いなさい……」
フワリと甘い香りが鼻孔をくすぐったかと思うと、俺は会長に抱き締められる。
「……すぐに治してあげるから、このまま我慢しなさい」
想像もできないくらい柔らかい会長の体に抱き締められると、違う意味の我慢が必要になりそうだった。
「ん? かなり霊力の流れが乱れてるわね……」
……スルーして欲しい。
その言葉は聞こえなかった事にする。
心の中で葛藤していると次第に全身がジンワリと暖かくなっていく。ここ何日かの修行でおなじみの治癒術式だった。
……あれ? よく考えたら別に密着しなくても、傷の回復はできたはず。
「ごめんなさい……三分って言ったはずなのに、こんなに時間がかかってしまって……」
「仕方ないです。闘いに予想外の展開はつきものです。……それに俺の方こそ命令破ってすいません」
「智充が謝る理由はないわ……あの妖は強かった。私でも手こずるくらいね……そして、蛙も蛇も強さに差はなかった」
慈しむような優しい手つきで頭を撫でられる。暖かさと柔らかさで気持ちよくなってきた。俺は疲れもあり、次第に眠くなってくる。
「……そ、そんな強敵を、たおす、なんて……。会長って……すごい……です、ね……」
「貴方も倒したじゃない……それも、私より速く、こんなにボロボロになってまで……」
もはや、正常な思考ができていない俺は自分が何を言っているかわからなくなっていた。
「……晶羽。そのネコ? イヌ? ……いい、や。イ、イヌ、ミミ可愛いい……よ……」
不躾な手つきで会長の頭部に生えている耳を触っていく。
「ヒャッ……智充。あ、あんまり、乱暴にしないで……そこは敏感だから……それにこれは狐の耳よ。前に言ったと思うけど、私は先祖反りでご先祖様の血が強く出てるの。そのご先祖様は母親が狐だったって伝説があって……って寝ちゃってる」
夢現だった俺にはそこから先が夢だったのか現実だったのかわからない。
「おやすみなさい。私の下僕……いえ違うわね。頼りになるパートナー。…………智充寝てるわよね……?」
全身を優しい暖かさで包まれていた俺は、それよりも暖かい……というより熱い感触を額に感じた気がした。
「智。違うって的をよく見て、そう……ああ、また姿勢が悪くなってる。もう、見てて」
俺の手から弓を引ったくり、綺麗なフォームで矢を放つ女子生徒。
「なあ、武居――」
「…………」
「……ウラ」
「何でも聞いて♪」
武居……もとい、ウラが満面の笑みで俺に弓を渡してくる。
死闘から一夜明けた土曜日の午後。俺は二人しかいない弓道場で約束通り弓道を教えてもらっていた。
二体の妖を倒した事で、弓道部部長の病を始めとした怪奇現象もどうにか解決し、週明けには普通通りに部活が行われるらしい。
しかし、問題もまだ残っている。昨日の妖絡みの一連の現象について、ウラを巻き込んでしまった。一通り説明しようと思っているのだが、いかんせん切り出し方がわからない。
ウラも何も聞いてこないため、もしかしたら夢だと思って忘れてくれたのかもしれない。
「ねえ……智」
「………………何だ?」
矢を構え、的を視界に入れ、弦を引き絞る。姿勢を正して、狙うは的の中心部。
「あの真っ黒い蛙って……何? 何で智の竹刀が光ってたの?」
タンと心地良い音が響く。
「惜しいね……で、あれ何?」
動揺してしまった俺は最後に集中が乱れ、矢は中心からやや左に逸れ、的に突き刺さる。
「……えーと、あれはだな――」
ガラリ。と扉が開き、今日も今日とて変わらない圧倒的な美貌を携えた女子生徒――会長が弓道場に入ってくる。
「武居ウラ。貴方歴史文化研究部に入りなさい。……あ、勘違いしないで頂戴。これは勧誘ではなくて命令だから」
よかった。顔だけじゃなくて性格もいつもの我道を往く、我が主様、有部晶羽だ。
「は、はい? 私が歴史文化研究部? 何でまた急にそんな事になるんですか?」
「昨日の件について知りたくないの?」
他人が勧誘されている様子を客観的に見ると、やっぱり凄い……一方的すぎて。
「別に今から智に聞くからいい――」
「智充と一緒に部活したいんでしょ?」
会長がボソッとウラの耳元で何事か呟く。
「わかりました。私歴史文化研究部に入ります!」
ほんの数十秒前まで渋っていたウラが即答で入部を許諾する。……意味がわからない。
「じゃあ、今日の四時から部室で昨日の件について説明するわ。えーっと……」
「武居ウラです。ウラって呼んで下さい」
「……わかったわ、ウラ。私のことは敬愛する晶羽様って呼んで――」
「晶羽先輩。これから、よろしくお願いします!」
会長はウラに綺麗にいなされる。頬を膨らませ不満そうな顔をしている会長はちょっと可愛いかもしれない。
「……何笑ってるの智充?」
「いや、会長も拗ねる事ってあるんですね」
「……悪い?」
「……いえ、可愛いです」
ボンと会長は耳まで顔を赤くする。
「あ、あなた、まさかあの時起きてたの……? あれは狸寝入りの術ってこと……私に術をかけるなんて……」
モゴモゴとまるで俺に聞かせる気のない言葉が会長の口からこぼれていく。
「へぇ……」
可愛いなあと思いながら会長を眺めていると、今度は反対側から、チリチリと熱い霊力を感じる。
ギギギと壊れたロボットのようにウラへと顔を向けると右手に持っている矢が赤い霊力に包まれている。
……霊力に目覚めてる? しかも、いきなり五行の火属性付き?
「お、おい。ウラ……お前それ……」
「あーこれね。何か今日の朝からできるようになってたの。へーこのオーラって色付きにもなるんだ」
無意識で第二解放までできるか。ゴールデンルーキーどころか、末恐ろしい奴だ。
「……そんな事より。神聖な弓道場で晶羽先輩を口説いたりしないでくれるかなぁ」
……怖い。というか、その霊力何色なんだ?
さっきから、ウラの右手の矢が様々な色に変化している。話に聞いただけだが、五行の属性は修行をすれば一つだけじゃなく組み合わせて使う事もできると聞いた。
「智充! 貴方聞いているの?」
俺の思考は凛とした声で遮られる。
やんややんやと騒がしい女性陣の話の九割五分を聞き流しながら、俺は窓から見える空を眺める。
――そう言えば今年は空梅雨だな。
そんなどうでもいい事を考えていた……これは現実逃避か。