第一章
本来ならば部活動帰りの生徒で騒がしい時間。
野球部、サッカー部、ラグビー部。目に入る、どの部室からも全くと言っていい程に人の気配がしない。
――キィィィィィィィ
全速力で走る俺の背後からは、黒板を引っ掻いたような耳障りな音が鳴り響く。その不快な音に引っ張られるように振り返ると、
「な、何がどうなってんだ! ハァハァハァ……」
つい数分前まで自分が竹刀を振るっていた剣道場が、無残にも崩れ去っている、が。今の俺を走らせるのは、それ以上の恐怖。
「ハァハァハァ……な、何だ、あれ!」
闇夜でもはっきりとわかる、黒々とした塊のようなものが、俺を追いかけてくる。
ふと気づく、あまりに突飛な事態に驚いたせいでカバンを取り忘れてしまった。いまや俺の手にあるのは、一本の竹刀だけだった。
「こ、これであいつを倒せば……ってどうやってだ!」
というより本当に何なんだあれ……もしかして幽霊か何かなのだろうか?
何度も転びそうになりながら無我夢中で走り続ける。
俺はとにかく学校から出れば何とかなる。得体のしれない恐怖を打ち消すため、自分にただただそう言い聞かせる。
どこをどうやって走ったのかわからないまま、どうにか校庭まで辿り着く。
「ハァハァハァ……」
今日の朝あくびをしながら通った校門が、今や砂漠の中のオアシスのように感じる。
目に入る汗も拭わずに走り、残り二十メートル。
「もう少し――」
……多分さっきのは夢か何かだ。明日になったら剣道場もそのままに決まってる。どうせ影かなんかを見間違えたんだ。
そう思うと全力で走っている自分が途端に馬鹿らしく感じる。ペースを落とそうとした時。
――キィィィィィィィ
少しだけ、楽観的な思考に傾いていた俺をあざ笑うかのように――再び音が響く。
目の前に現れる黒。
「嘘……だろ?」
すで周囲は真っ暗にも関わらず、俺の眼前の何かは闇よりも深い漆黒に包まれている。
いや、包まれているのではなく、漆黒そのものなのか……何かをあえて言葉で表現するならば黒の渦と言えば良いのだろうか。
「ク、クソッ……!」
俺と校門の延長線上に立った黒の渦は声もなく、こちらの様子を伺っている。
撒いたと思っていた何かが目の前に立っている事で、逃げる事は不可能だと諦める。
「…………や、やるしか……ない」
今の俺の唯一の武器である竹刀を強く握り締める。その存在は頭では処理しきれない程の事態に浮き足立っていた心を少しだけ落ち着かせる。
つい先程終えた素振りを思い出す。竹刀を上段に構え、乱れた呼吸を整えるように深く、深く、息を吸う。
「フゥ…………」
対する何かは、キィィィィィィィ。と一鳴きした後、犬のような姿へと変化した。
「…………何でもありか」
俺は放課後の校庭で目も鼻も口もない、黒いシルエットの犬と相対する。
「武居の話、ちゃんと聞いておけばよかったな……」
剣道場を半壊させた相手を前に、緊張で唾を飲み込む事すらできない。
睨み合いは恐らく数十秒に満たなかったはずだ、しかし、俺には永遠に感じられるその時間……ついに何かは跳ねるように動き出し、瞬きもできないスピードで迫る。
「メェェェェェン!」
俺は全身の筋肉を使い、自分の出せる最高速度で竹刀を振り下ろす。
が、しかし。
「――ッ!」
渾身の一撃は確実にそれを捉えた、はずだったが…………はずだったのに、なぜか俺は左足を噛み付かれる。生まれて初めて体験する神経の千切れるような痛みに言葉も無く叫び、
俺の意識はブラックアウトする。
六月に入り、道行くあちらこちらで紫陽花の花が咲き始めていた。九州の端、海に面したこの街はすでに汗ばむほどの陽気を見せている。
高校に入学した当初は見るもの全てが新鮮だった通学路も二ヶ月も通えば日常に変わる。
ふと、視線を感じる。それはこれまでの人生で何度も受けた、好奇心と嫌悪感が入り混じった類のものだった。
「見て見てあの人が例の『神隠しの少年』じゃない……?」
「あぁ……本当に髪の毛が灰色なんだ……」
俺に不躾な視線をぶつけながらヒソヒソと話す女子生徒には気づかない振りをする。
あくびを噛み殺しながら今日の一限目は何だっかなどと考えていると、校門が見え始める。
友人と談笑しながら、本を読みながら、あるいは俺と同じようにあくびをしながら、多くの生徒達が校門を通りすぎていく。
「おはようございまーす」
そこには眼鏡をかけた長身の男性が、通りすぎていく生徒達へ挨拶をしていた。それを受けた女子生徒の中には朝からはしゃいだ様子を見せているものもいた。
「おはよう、成詠君。今日も一日頑張りましょう」
「天谷先生、おはようございます」
整った顔立ちに笑顔を浮かべ、元気な挨拶をする天谷先生に俺も挨拶を返す。
俺のクラス――一年三組の担任でもある天谷同心先生は物腰も柔らかく、わかりやすい授業をするためとても人気があった。
一礼し先生の前を通りすぎていく、
『――――――』
瞬間、ゾクッとした悪寒が走り、俺は慌てて周りを見渡す……が何があるわけではない。辺りには変わらず爽やかな挨拶をする天谷先生や他の生徒達がいるだけだ。
「……?」
頭を振り、再び校舎へと歩みを進める。昇降口で内履きに履き替え、一年三組へ。ガラリとドアを開き、クラスメイト達に挨拶を返しながら、真ん中窓際の自分の席へ着くと、同時に二人のクラスメイトがやってくる。
「オハヨっ、成詠。今日も無愛想な顔してるねー笑って笑って!」
「おはよう智充。……何か昨日家庭科室でボヤ騒ぎがあったらしいぞ」
「……おはよう。武居、昴。…………ボヤ騒ぎ?」
一つ目のコメントはスルーし、気になった話題をオウム返しで尋ねる。髪の短い男子生徒――藤堂昴が「オフレコだぞ」と言いながら、ゆっくりと口を開く。
「……実はな……家庭科室で……ボヤ騒ぎがあったらしいんだ」
昴はじっと俺の顔を見つめている……………………おい。
「………………え? 終わり? 全然情報増えてない気がするんだが……」
溜めた割にあっさりと終わった昴の話にツッコむと、今度は俺にいきなりご挨拶をしてくれた女子生徒が話し始める。
「最近多いよね。この前も体育館で器具が倒れてきて怪我人が出たって言うし……夜中に真っ黒な犬を見たって話も聞いたよ」
ハキハキとした声音で話すこの女子生徒は武居ウラと言い、昴と同様に高校に入り、仲良くなった友人だった。
「…………ねえ。成詠ってば聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてる。というかそんなに近づかなくても聞こえてる……」
ヘルハウンドって九州にも出るんだなどと考えていると、俺の眼前に整った顔が迫る。
改めて見る武居の容姿は、クリっとした大きな瞳、長く伸ばした黒髪をアップにまとめ、少し日に焼けた健康的な肌、出るとこが出たバランスの良いボディライン。十人が十人ともスポーツが好きだろうと認めるような、活発な印象を抱かせるものだった。
「それならいいけど……あっ、そういえば成詠、昨日も遅くまで居残り練してたでしょ? 剣道場電気点いてたよ。あんまり根を詰めちゃだめなんだから。武道では自己管理も大事なんだからね」
「……気をつけます」
お前も残ってんたんだ。という言葉を呑み込む。武居は弓道部に所属しており、剣道部に所属している俺とは道場が隣接している縁もあり、よくこうしてお小言を頂戴する事もあった。
「いやー最近暑くなってきたなー」
やけに棒読み気味の昴の言葉に武居と揃って振り向く。
「六月だしな、梅雨が明けたら地獄だな……」
「剣道よりはまだマシだけど、弓道場も暑いんだからね……」
室内で行われるスポーツの悲惨さを共有し合う。……いや本当に脱水症状に気をつけないと。
「…………いやー最近暑くなってきたなー」
「……? それより、そろそろ行こうか。全校集会が始まる」
なぜか同じ言葉を繰り返えす昴を不思議に思いながらも立ち上がり、時計を見ると毎月定例の全校集会の時間だった。
クラスメイトも皆ぞろぞろ移動し始めている。昴と武居も立ち上がり、三人で体育館へ歩き始める。
体育館に近づくに連れ、徐々に人が増え始めてきた。あまり生徒数の多くない学校ではあるが、それでも全校生徒が集まれば狭い廊下では混雑する。
「でさぁー。昨日九時から見たかよ――イテッ……」
会話に夢中で注意力が散漫になっていた男子生徒の肩が俺にぶつかる。
「チッ……一年かよ。おいお前ちゃんと前見ろよ」
三年生は肩を擦りながら、怒りに歪ませた顔をズイッと近づけてくる。
「ハァ? そっちがぶつかってきたんじゃん!」
俺が口を開くより早く武居が反論する。昴も俺を庇うようにして前に出る。
「うっせえ……ん? 君可愛いって噂の武居さんじゃん。俺一回話して――」
「おい、こいつって例の『神隠しの少年』じゃ……」
舐め回すように武居を見ていた生徒へ、もう一人の生徒が半ば遮るように肩を叩く。
「あー例の……こいつだったんだ。……つーか、もういいからさっさと行けよ――灰色の髪とか気味悪りぃな」
「あんた!」
武居の顔が怒りに歪んだかと思うと、拳を握り、鋭い動きで一歩踏み込む。
――ヤバい。また俺のせいで!
俺達に背を向けながら呟いた生徒に武居が殴りかかる。そのスピードに驚きながらも俺は男子生徒との間に入ろうとする。
「――何してるの? 集会が始まるわよ」
瞬間。体育館へと続く廊下は水を打ったような静けさに包まれる。
「⁉」
寸分違わず男子生徒の後頭部へと向かっていた武居の拳は、身を投げ出した俺の顔面の寸前で受け止められていた。
「早く体育館に行きなさい。ほら貴方も……その拳はこんなところで使ってはいけないわ」
凛とした声で放たれるその言葉は、武居の鋭い拳をいとも簡単に受け止めるこの手は。
有部会長……誰かがそう呟く。
衆目を集めるその人物は、ただただ美しかった。
茶色がかった長い髪を低い位置で一房にまとめ、俺に覆いかぶさるよう密着した体からは大きな二つの膨らみ、そして精緻な顔立ちの中でも最も特徴的な鋭い瞳で、この騒動に何も気づかず立ち去ろうとする男子生徒を睨みつける。
「――なさい」
ボソッ。何か聞こえた気がした。それが武居の拳を離した会長が発したものだと気づく前に、
「いてぇ!」
俺達に背を向けて歩み去っていた先程の三年生が叫び声をあげる。見ると何やら廊下に溢れていた水で転んだようだった。
「ざまあみろ、成詠に酷い事言った罰だね」「因果応報って奴だな」
武居と昴がハイタッチを交わす。
思いの外派手に転んだ三年生は、体育館へ向かう生徒達からの好奇の視線に晒されている。
「星の巡りが悪かったみたいね……」
会長がポケットにトランプ大の紙を収めながら呟く。その姿を見ていると、ふと会長と目が合う。視線が交錯し、会長は俺に向かって意味ありげに微笑むが、
「はーい! すぐに集会が始まるわよ。早く体育館へ――」
それも一瞬、会長は手を叩きながら体育館へ歩いて行くと、廊下に音が戻ってくる。幸いほとんどの生徒が一瞬の出来事に何が起きたかわかっていない様子だった。
「いやー相変わらず生徒会長凄かったな!」
俺は頷く。嵐のように現れ、嵐のように去っていった茶色い髪の女子生徒の姿がまぶたに鮮烈に残っていた。
「確かに凄い体捌きだった。あれは何か武道でも――」
「そっち⁉ 違うだろ。健全な高校生ならさぁ……もっとこう。な?」
想定したいた答えではなかったらしく、昴が呆れ顔を隠さず、そう言う。
……な? と言われも、その胸の前で動かしている手の動きには同意できかねるんだが。
「………………」
なぜならば、俺の隣でさっきとは違う意味で憤っている武居がいるから。
「品行方正、容姿端麗、成績優秀、長身巨乳。天は二物を与えたってレベルじゃねーぞ」
「最後のは違うと思う……いや違うっていうのはそこに並べるのが違うって意味であって、事実は事実なんだがな……」
俺は一体何に対してフォローしているんだろう。
「…………………………」
武居、再び握りしめたその拳はどこに向かう予定だ……
「やっぱりこの学校の三大美女は違うな……いやお前の姉ちゃんも捨てがたいけどな」
「お前の立場は何なんだ……ってちょっと走るか。集会始まりそうだ」
いつの間にか辺りには誰もいなくなっていた。俺達は駆け足で体育館へ向かう。
……っと忘れない内に言っておかないと。
「二人とも……ありがとう」
俺の言葉に返答はなく、代わりに背中に二つの柔らかな感触が伝わる。
部活も終わり、静まり返った剣道場で俺は竹刀を構える。
高校に入学し二ヶ月。俺は四年前から始めた剣道を、学校でも続けるため剣道部に入部した。
強くなりたい。そう想い始めた剣道だったが、まだまだ弱い俺にはひたすら練習が必要だった。
だからこそ、毎日毎日飽きもせず、こうして居残っている。
……また武居に怒られるかもしれないな。
「――――ッ」
息を深く吸う。そして上段に構え、一振り。ビュッという風切り音が耳に届く。
もう一度同じ工程を。しかし、ただ繰り返すのではなく、毎回が一回目という気持ちで竹刀を振る。
一振り。一振り。一振り。繰り返す。繰り返す。繰り返す。
目標は竹刀が体の一部と感じられる境地。我が手のように自由に自在に自然に。
剣道場は窓を開け放っているとは言え、室内であるため蒸したように暑い。
額に浮かぶ汗は雫となり床に零れ落ちる。
イメージするのは四年前から剣道を教えてくれる俺の師匠達、それに向かい一太刀振る。
……駄目だ。こんな面であの人達から一本取れるわけがない。もっと疾く、もっと鋭く。
自分の知る限りの最大の敵に向かい、竹刀を振っていく。俺は時間も忘れ練習に没頭していた。
何度振ったかわからないが、ふと時計を見ると素振りを始めてから二時間が経っていた。
「さすがに帰らないとな……」
結局イメージ上の相手から一本を取る事が出来なかった。俺のイメージなのに本当に強いなあの人達。
汗を拭うのも程々に慌てて帰り支度をする。しかし、おかしい。いつもは大抵弓道部に所属する武居が呼びに来たり、それがなくても、先生が見回りに来るはずだ。
こんな時間まで気づかないという事はないのだが。まあ、自分のミスなので仕方ない。さっさと帰ろう。
剣道場の戸締りを済ませ、最後に出入口の扉に鍵をかける。
「やけに静かだな……というより誰も見当たらない……」
風の音が嫌に大きい。いつもは部活帰りの生徒で賑わう校内も、辺りには人っ子一人見当たらない。
少しだけ不気味なものを感じた俺はカバンに鍵を仕舞い、足早に駆け出そうとする。
が。歩みはすぐに止まる。
「……え? 何だあれ……?」
俺の五、六メートル先には宙空に浮かび、深い黒を帯びた渦のようなものがあった……いや、いた。
いつの間にか俺の眼前に現れた何かは例えるなら小さないブラックホールとでも言えばいいのだろうか。こちらを見ているような気がする。
「…………………………よし、見なかった事にして帰ろう」
俺は現実から目を背け、再び歩みを進めようと――
――キィィィィィィィ
「――ッ⁉」
耳をつんざく音が響いたかと思った瞬間、シュンと凄まじい速さで俺のすぐ前を何かが通り過ぎる。
ズガガガガッッッ!!!!
「え?」
遅れて聞こえた音に振り向くと………………剣道場が半壊していた。
そして、何かはまた耳障りな音を鳴らし、こちらへ向き直る。さっきまで俺が素振りをしていた剣道場は見るも無残な姿に変わっている。
「…………ハァッ⁉」
俺は頭で考える事を止め、全速力で駆け出す。なにがなんだかわからないが剣道場が半壊したことは事実だ。それなら、逃げるしかない。部活で疲れた足腰に気合を入れ直し走り出す――
――俺はそこで目が覚める。
「ヤ、ヤバい……気、を……失って、た……?」
頭を振ると混濁した意識が徐々にクリアになっていく。
――ドクン
すると麻痺していた強烈な痛みが思い出したように左足を襲う。
「――ッ! こ、こ……い、つ……い、いか……げん離れろ!」
たった今、渾身の一振りが空振りした事も忘れ、左足に噛み付き離れない何かを竹刀の柄で力任せに殴りつける。
ガツッという手応えを感じる。無我夢中で振るった拳は何かを怯ませるには十分だったようで、何かは慌てて離れていく。
「? ……あ、当たった?」
理由はわからないが、今度こそ物理的な手応えを感じた。その事に一瞬だけ胸を撫で下ろす。
しかし、こちらの攻撃が当たるからと言って、得体のしれない相手には違いない。あちらも自分が殴られるのは予想外の出来事だったらしく、尻尾を逆立て俺を威嚇している。
「……それはなしだろ。攻撃したんだから、反撃される覚悟をしておけ」
答えが返ってくるわけもないとわかっていたが、一言言わなくては気が済まなかった。
少しだけ落ち着いた俺は左足の状態を確かめる。痛みに驚いたが、どうやらちぎれてなくなったという事はないようだ。
――ドクン
「ま、まただ……何だこれ……?」
先程から体が燃えるように熱い。ドクドクと心臓が鼓動を刻んでいる。だが、闘う事に問題はなかった。
とりあえず体は動く。細い細い光明が見え始めた俺は声を張り上げ、気合を入れる。
すると、何かはまたもや耳障りな音を発する。そして……ゆらりと陽炎のように揺れたかと思うと、
「…………そんなのありか」
全く同じ姿形で五つに分裂する。
俺を中心に五体の何かが展開し、上から見るとちょうど星のような形で囲まれる。
一体でも勝てるかわからないのに、それが五体?
絶体絶命。万事休す。背水の陣。徳俵に足がかかる。大ピンチ。
緊張か、左足の傷が原因か、走ってもいないのに息が上がる。汗が止まらない。足が震える。
――意味がわからない、左足も痛い、最悪だが……諦めるのはまだ早い。
気を抜くと萎んでいきそうな心に喝を入れるため、竹刀を握り直す。
数十秒後には得体のしれない奴らに噛み付かれ絶命する。こんなところで俺のたった四年の人生が終わる、そう考えてしまいそうになる。
――嫌だ! 死にたくない! まだ生きていたい! 俺にはやらなければいけない事が山程ある!
ゆっくりとした動きから、何かは俺を食い殺すために動き出す。
五体の何かは全く同じ動作で地を蹴り、襲い掛かってくる。そのスピードはどうにか目に捉えられるかといったところ。
――クソックソックソッ。せめて一太刀。一体くらいは倒してみせる!
怯えに支配される体を奮い立たせ、上段に構えた竹刀を振る。
――負けたくない。負けたくない。負けたくない。
違う。
「死ねない! こんなところで死んでたまるか!」
「――よく言ったわ」
ドゴォォォン。と周囲からは身を焦がす程の高温と、耳をつんざく轟音。
しかし、何かが発する甲高い音をかき消すように、どこかで聞いた涼やかな声が俺の耳朶を打つ。
「想いを乗せて叩き斬りなさい。今の貴方ならできるはずよ」
――ドクン!
その時、確かに体中に電流が走る感覚がした。
……力が溢れてくる……?
上段から振るっていた竹刀が俺の視界に入る。うん、ベストタイミング。これなら奴にも当たる。
そして、まさに何かに刃が命中する瞬間、竹刀が光を放つ。
それは全てを包み込んでしまうような純白の白でもなく。
それは全てを飲み込んでしまうような漆黒の黒でもなく。
相反する二つの色が交じり合った、白でもない黒でもない――灰色だった。
「メェェェェェェェェンンンンン!!!!!!」
癖になってしまった掛け声と共に、灰色を振り下ろす。
――スパッッッッ
竹の棒に切れ味などないはずなのに、俺の手には確かに何かを斬った感触が残る。
何かは甲高い鳴き声を上げながら、俺から距離を取る。しまった、浅かったらしい。
一刀両断をイメージしながら振るった一太刀は少しだけタイミングがずれたようで、何かを撃破するに至らない。
「ハァハァハァ……しまった。浅いか……」
さっき剣道場で何回と振れたはずの上段斬りは、なぜかたった一振りで肩で息をするくらい俺の体力を消耗させる。
「灰色の霊力……? 見た事のない色ね……」
深く呼吸をする俺の元へ絶対的な美貌を持つ少女が、まるでウインドウショッピングをするかの如く、悠々とした足取りで歩み寄ってくる。
「生徒会長……?」
有部晶羽、美貌の生徒会長。なぜ彼女がこんなところに?
「……物体に霊力を通わせる『強化』。うん、ギリギリ合格点をあげてもいいくらいかしら。後は要努力ってとこね……あら、貴方朝の……」
その時、初めて会長と目が合う。朝の廊下で見た鋭い視線が俺を射抜く。
「……ハァ。い、いろいろ説明して欲しいです。……ハァハァ」
疲弊した身体ではそれだけを言うにも酷く億劫だった。
「……でも、うーん、予想以上に消耗してるわね。まだ力の調節は難しいか……まあいいわ下がってなさい」
俺の言葉が聞こえていないのか、聞く気がないのか、全く会話にならない。が、それでも何かから俺を庇うように会長が前に出る。
とにかく、よくわからないが、俺は生きている。恐らくさっきの轟音から察するに俺が斬った何か以外は生徒会長が倒してくれたのだろう。
全くと言っていい程、今の状況を理解できていないが、どうやら突然現れた彼女は敵ではないようだ。
両手で握る愛用の竹刀へ目を向ける。
今や竹刀本来の色ではなく全体から灰色……俺の髪と同じ色の光を放っている。…………どういう事だ?
「心配しなくても大丈夫。後で説明してあげるから、貴方は『妖』が襲ってくる前にどこかに隠れていなさい」
「……『妖』?」
「……それも後で説明してあげるわ。とりあえず逃げなさい。その傷浅くないんだから……」
会長が懐から何枚かの紙を取り出し、低く構える。確か朝の廊下でも同じものを見たはずだ。
――キィィィィィィィ
痛みに怒り狂っているような妖の一鳴きが辺りに響き渡り、ビリビリと俺の肌を震わせる。
逃げろ? 隠れろ? 傷が深い? 確かにそうだ。だが、一方的にやられて、おめおめと逃げる帰るようには育てられていない。
だから、正直言って全てにおいて意味がわからないが、自分が何をしたいかだけはわかる。
――アイツを倒したい!
「――ッ」
全身に力を込めると同時に左足からはボタボタと血が溢れる。
「…………そんな体なのに闘うのね。わかったわ、とりあえず今はその霊装……竹刀で妖を倒す事ができる。それだけ覚えてなさい」
俺に逃げろと言った会長はため息を付き、それだけを言う。
そりゃそうだろう。力は抜けていく、左足からは血が止まらない、挙句の果てに息も絶え絶え。
目も当てられない程に俺はボロボロだった。
「――私の名前は有部晶羽。晶羽様と呼びなさい。……貴方名前は?」
小さくない違和感。晶羽様……?
「一年三組、成詠智充」
多分聞き間違いだろうと思った俺は、体力温存のため、短く最低限の自己紹介に留める。
「成詠智充ね。……うん、覚えたわ。さあ、お喋りはここまで、いくわよ智充!」
凛とした声で自分の名が呼ばれる。
あと一振り。多分俺にはそれくらいの体力しか残ってない。
――十分だ。一振り出来れば今度こそ妖を両断してみせるから。
「り、了解…………えっと……あき……会長」
一瞬だけ何と呼ぶべきか迷ったが、とりあえず無難な呼び名を選択する。
「…………まあ、いいわ。――十二天将が一人『騰蛇』我に力を貸したまえ!」
会長が叫び、手に持った紙の内の一枚へ口づけをする。すると、彼女の周りに凄まじい数の野球ボール程の火の玉が現れる。
現実では考えられない光景を目の当たりにしながら、驚く気力もなかった俺はただ敵の姿を見据える。
会長がシッと小さく声を出す。
ゴオッ。と音を上げながら妖目掛け、数えきれない程の火球が飛んでいき、そのどれもが寸分違わず妖へと命中していく。
「……ちょこまかと逃げるな!」
会長が腕を振るう度に火の玉は妖へと向かう。
俺が死ぬ気で逃げ、立ち向かった妖が今度は泡を食ったように逃げ惑う。
しかも、何とか一つ避けたとしても、すぐに次の火球が迫る。そして、その一つ一つが必殺の威力を持っている。
「智充……貴方は竹刀を構えていなさい」
耳をつんざく轟音が響き渡り、穴が穿ち、芝生が焼き払われ、サッカーゴールが砕け散る。
会長の攻撃で今日の五限目に体育で使った校庭は、見るも無残な姿になっていく。
妖も必死に避けるが、いくつもの火球を身に受けている。心なしか耳障りだった鳴き声からは勢いがなくなっているようだった。
――強い。強すぎる。圧倒的。
会長はただその圧倒的な力を行使している。
真剣な顔で妖と対峙している会長を見て、ふと場違いな感想が胸を突く。
――美しい。
もし、戦乙女が存在するのだとしたら、こんな姿をしているのではないだろうか?
「さあ、そろそろ終わりよ――智充最後は貴方が決めなさい」
断末魔の叫びを上げる妖は、滅茶苦茶な軌道で会長の火球を避けているが、優勢であるはずの会長は、それまで握っていた紙を千々に破り捨てしまう。
すると、彼女の周りに浮かんでいた火球は一瞬にして掻き消える。
これを好機と見た妖は、力を溜めるように空中で留まり、こちらを見据える。
妖は一瞬俺と会長を見比べた後、俺へと照準を合わせる。
……舐められてるな。
突っ立ってるだけの奴なら容易く倒せる。そう思っているのだろう。
それでいい。なぜなら、動けないのは事実なのだから。
なぜかはわからないが、立っているだけで息が切れ、体力が奪われる。噛み付かれた足も深い傷ではないとは言え、笑い飛ばせる程の軽傷でもない。
根を張って微動だにしない大樹のように、両の足を固く固く踏みしめる。
――あぁ目が霞む……もう少しでいいから保ってくれ。
俺はもう一度、強く強く両の手に力を込める。
――いつも通りに登校して、いつも通りにご飯を食べて、いつも通りに部活して。そんな一日が続くと思ってた……いや、そんな当たり前の事すら思ってなかったな。
真っ黒なキャンパスに一筆加えるように、暗闇が支配する闇に向け、灰色に輝く愛刀をかかげる。
――こんなところで死ねない。まだ俺は『成詠智充』足り得ていない。
軋む体にムチを打つ。そして、心に浮かぶ一念を、この一振りに力の限り込める。
一閃に込める願いはただ一つ。
――お前を倒す!
「――お前を倒す!」
強く、強く心に想い、高く、高く声に発する。
空中で俺の様子を伺っていた妖と目が合った気がした。気のせいかさっきより小さく見える。
それが会長の攻撃により弱ったせいなのか、はたまた、俺の気合にビビったのか、多分前者だろうが、理由なんかどうでもいい。
――キィィィィィィィ
「鬱陶しいな、その声」
最後の力を振り絞った妖の攻撃は今日一番のスピードで俺に迫る。
しかし、さっきより、動きがよく見える。スローモーションとまではいかないが、何とか捉えるくらいはできそうだった。
ここしかない、自分の想う最高のタイミングで、灰色の刀を渾身の力で振り下ろす。
「メェェェェェェェェンンンンン!!!!!!」
想いすらも刀身に載せるため、学校中に響き渡る程の大声を腹の底から出す。
「――お見事」
辺りは俺の大声と妖の鳴き声に包まれているはずなのに、その綺麗な声は俺の耳にはっきりと聞こえた。
一閃。俺の両手に完璧な感触が伝わる。
「消、え失せろ……妖……? だったか……ま、まぁいい」
妖と呼ばれる真っ黒な犬が真っ二つに別れ、俺の両脇を通りすぎていく。
カッという音とともに灰色の光を放っていた愛刀は、見慣れた姿へと戻っていった。
力を使い果たした俺は立っている事ができず、膝から崩れ落ちる。
「……見、たか。お、俺の……か、勝ち……だ……」
「……見ていたわ……正真正銘。貴方の一本勝ちよ」
やたらいい香りのする暖かいクッションに受け止められたような気がしたが、意識を失ってしまった俺にはその正体がわからなかった。
「だから、今は休みなさい」
そこで、俺の意識は途切れる。
「ハッ――」
勢い良く飛び起きた俺は体中を濡らす汗にも構わず、辺りを見回す。
教科書のみが並べられた本棚、テレビもマンガもない娯楽の少ない部屋……チラホラと見える剣道雑誌と携帯ゲーム機は母さんと姉さんがまた勝手に入ったんだろう。
……そこら辺は後でしっかり追求するとして、とにかくここは間違いなく俺の部屋だ。
あれ? 昨日は学校行って、授業を受けて、部活に行って、その後……どうした?
わからない。確か……何か……それも重大な何かがあったような気がしたんだが。
「いかん……寝ぼけてる」
夢を現実がごっちゃになっている。まだ頭が完全に目覚めていないみたいだ。
ベッドから起き上がり、時計を見る。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「……ヤバい……遅刻する」
朝食も食べずに俺は家を飛び出し、通学路を走っていく。学校に近づいていくと次第に同じ制服を着た生徒達が見え始める。どうにか、遅刻はしなくて済みそうだった。
やがて、校門が視界に入るが、何か違和感を覚える。
「……ああ、天谷先生がいないのか」
毎日校門に立ち、挨拶をしていた天谷先生の姿が見えない。なぜかはわからないが、あまり気に留めず校門を通る。
しかし、違和感はそれだけではなかった。さっきから何人もの生徒が剣道場のある方向へ向かっている。
「…………剣道場?」
ドクドクと胸の鼓動が高まる。自然と俺の足も、やじうまと同じ方向へ向かっていた。
ざわめきは剣道場に向かうに連れ、どんどん大きくなっていく。
「テロらしいよ……」「こんな九州の端っこの県でテロ?」「いや、俺はプラズマのせいだと思う」「でも、何で剣道場を?」「俺は某国の工作員の仕業って聞いたぞ」「ここもろに太平洋側じゃん……」
顔が引きつりそうになるのを堪えながら、人だかりをかき分けていく。
やっとのこと、生徒達の前に出ると、そこには………………昨夜見た夢の通り、半壊した剣道場があった。
「……嘘……だ」
一気に今朝の夢が甦る。確かに何かに襲われて、剣道場が半壊した夢を見た気がしたが……
ふと見知った顔が目に入る。
「………………」
天谷先生は口も開かず、ジッと半壊した剣道場を見つめている。
「……な、何かあったんですか……?」
「………………そうか。やはり……霊力を……興味深いな……早速今日からでも――」
俺は天谷先生の傍らまで近づき尋ねるが、全く耳に入っていないようだった。
「あま――」
瞬間。目の前の天谷先生が愉悦に満ちた笑みを浮かべたかと思うと、背筋が凍る程のオーラのようなものが立ち昇る……
「……あぁ、おはよう成詠君。ご覧の通り現在調査中です。警察に通報もしています。でも、君に大した怪我がなくてよかったです」
錯覚……? だったのだろうか、振り向いた天谷先生は見慣れた微笑で俺の体を気遣ってくれる。
「はい! 皆さん授業が始まりますから。自分のクラスに戻ってくださいね!」
一瞬だけ天谷先生の言葉に違和感を覚えるが、それよりも夢が正夢になっている事に俺は冷や汗が止まらない。
……いや、あれは夢じゃない?
「非常に言い難いんだけど、剣道場も警察の捜査や、復旧工事で立入禁止になります。だから当分、剣道部は休部が決定しましたから」
天谷先生はそれだけ言って殺到する生徒達の元へ向かっていく。
しかし、そんな言葉も俺の耳に入らない。なぜなら、夢が現実だとすれば、剣道場が半壊したのは――
『校内放送です。一年三組の成詠智充君。一年三組の成詠智充君。至急、生徒会室まで来て下さい。繰り返します――』
ザザッとあまり音質のよくない放送が耳に入る。
立て続けに起こる事態に、段々と記憶が蘇り始めた俺は、嫌な予感に冷や汗が止まらない。
落ち着け、一度頬を張り気合を入れ直す。向かう先は一年三組ではなく生徒会室。
――剣道場半壊。生徒会。夢。現実。剣道部。『妖』……?
「妖……? 昨日、何があった? 思い出せ、思い出せ」
考え事をしていると、いつの間にか、生徒会室へたどり着いていた。
「……まさかあれは夢じゃない……? もしかして、現実なのか?」
初めて訪れた生徒会室のノックをする。返事はすぐに返ってくる。
「……失礼します」
俺は控えめな声で生徒会室へ足を踏み入れる。俺を待っていたのは……
「遅いわよ。智充。私が呼んだら四十秒以内に来なさい。わかったわね?」
まさに威風堂々といった様子で椅子に座り、目の前に立つ事すら、怯んでしまいそうな美貌を携えた生徒会長の姿が目に入る。
「いくら男でも四十秒じゃ支度できないです……って智充?」
「…………貴方何を驚いているの? 昨日そう呼ぶって言ったじゃない。……それより、あなた剣道場も被害を受けたなら、ちゃんと言いなさいよ。校庭はちゃんと直したけれど剣道場の方は直す事ができなかったじゃないの……」
ここに来て、俺は確信する。あれは夢じゃない。
「……えっと、会長……昨日のあれって現実ですか?」
恐る恐る尋ねる。俺の問いを受けた会長は呆れた顔を見せる。
「何を当たり前の事を言ってるの。貴方が妖に噛み付かれたのも、霊力に目覚めたのも、妖を斬り捨てたのも。全部現実よ。……それと、会長じゃないわ。晶羽様でしょ」
「じゃあ質問です。会長。妖とやらに噛み付かれた傷は? 霊力って? 斬り捨てたって何ですか?」
すんなりとその呼び名が出てくる。
「ちゃんと覚えてるじゃないの……まず一つ、貴方の傷は私の術で治癒させた……まぁ痕は少し残ってるけどね。次に二つ目、霊力って言うのは…………長くなりそうね。いいわ、放課後に説明します。最後に三つ目。斬り捨てたって貴方がやった事じゃない……そうだ、百聞は一見に如かずね。智充、それに力を込めてみなさい」
会長の白魚のような指が指す方向には竹刀袋。
夢の中で俺はこの竹刀に霊力とやらを込める事で灰色に光る剣としていた。そんな非科学的な事が二十一世紀に起こり得るはずがない。
取り出した竹刀を構え、念じる。確か昨日はこうやって――
体中に漂う力の流れのようなものを竹刀に向け、流れ込ませる。
ドクン。一度高く鼓動が跳ねる。全力で走った後のような酷い虚脱感が体の節々を襲う。
両手で持つ竹刀がカッと光ったかと思うと、夢で見た灰色の光を放ち出す。
「…………ハッ?」
間の抜けた声が出てしまう。いやそれより……俺の竹刀……本当に光ってる。
「うーん。やっぱり灰色ね。普通『第一解放』なら、色はないはずなのに。でも『第二解放』の五行の霊力でもないみたいだし……」
俺の驚きなんか気にも止めずに、晶羽さんは灰色に光る竹刀を見ながら何事か呟いている。
「夢じゃないっていうのはわかったかしら? もういいわ。霊力の無駄遣いになるから、解除しなさい。他に質問は?」
俺はもう一度念じる。すると、瞬く間に灰色の光は消え去る。
「あ、えーっと。あのー……」
「はい、ないわね。じゃあ、そろそろ一限目も始まる事だし、こちらの要件を伝えるわね」
聞きたい事は山程あるはずなのに、一周回って何を聞いていいかわからなくなってしまった。
「霊力に目覚めた貴方には、これから私の手伝いをしてもらうわ。これは決定事項なので、反論は受け付けません。放課後、生徒会室の隣の空き教室に来なさい。遅れたら承知しないわよ」
瞬く間に俺の予定が決まっていく。
……この人品行方正とか言われてなかったか? まるでわがままなお姫様じゃないか。
「あの――」
「却下」
「言わせて下さい、ちょっとでいいから言わせて下さい。一言でいいですから」
俺の懇願に腕を組み、不遜な態度で椅子に腰掛けている会長が目線だけで促す。
「け――」
「はい、お疲れ様ー。じゃあ放課後ここに――」
「まだ何も言ってないです!」
「あら、私は一言でって聞いたけど?」
「それは言葉の綾ですよね? 普通こういう時ってせめて一文言いますよね? どこの世界に一単語どころか、本当の意味の一言ですませる人がいるんですか……」
「ここにいるぞ‼」
「…………」
大きな……ではなく、大きく胸を張った会長の自信満々の物言いに、危うく納得しそうになってしまった。あり得ない事を言っているのは会長のはずなのに、妙に説得力があるのはなぜだ。大きな胸だからなのか?
「………………はぁ。わかったわよ。ほら言ってみなさい。私を納得させる程の理由があるのならばね」
「…………実は俺、剣道部に所属していて結構忙しいんですが――」
剣道部は休部らしいが、だからと言ってこのまま会長を手伝うというのは会長に迷惑がかかってしまう。
「剣道場の半壊により剣道部は休部になりました。まだ知らなかったのよね? 智充」
「…………………………はい。剣道部休部になったんですね……」
……というより怖い。昨日の妖より今目の前にいる人間の方が怖いのはどうしてだろう。
「では問題無いわね。智充は剣道部があるから、私の手伝いが出来ないって言ったもの。だったら、剣道部がなければ私の手伝いはできるって事よね?」
会長の言葉は一応疑問形であったが、俺にノー! と言える余地はないような気がした。
でも、それでも……
「………………」
「断るつもり?」
急に押し黙った俺を会長は怪訝な顔で見つめる。
「…………いえ、あの……俺……の事知らないですか?」
絞りだすような言葉は自分自身の口から出たにも関わらず、俺の胸にほんの少しの痛みを与える。
「一年三組、成詠智充。身長百七十五センチ、体重六十三キロ。剣道部所属。家は剣道教室を開いていて、本校三年生で姉の成詠伸、母親の成詠美津と三人暮らし――」
会長は俺の個人情報をつらつらとそらんじる……いや何時の間に調べたんだ。
「父『成詠智充』はすでに他界。成詠家長男『成詠智充』は四年前『神隠し事件』により一切の記憶がない状態で警察に保護、その後成詠家に引き取られ養子となる。そして現在に至る。後はその灰色の髪が有名ね……こんなところかしら?」
会長の視線は少しだけ上へ動く。
「――ッ」
四年前それまでの記憶を一切失った状態で保護された俺は警察の捜査も空しく、親類縁者の類が見つかる事はなかった。
そして、第一発見者でもある成詠家に引き取られた。
……母さんと姉さんには随分と迷惑をかけた。記憶喪失の得体のしれない子どもを引き取った事で、俺はともかく本人達には云われのない言葉を受けてきた。
根も葉もない噂話もされた。無遠慮な視線に晒されたりもした。昨日の三年生みたいに直接嫌悪感を示す人もいた。
でも。
この人は全て知った上で俺を仲間に誘っている。
――『神隠し』と忌み嫌われた、『記憶喪失』と気味悪がられた、『灰色の髪』と蔑まれた。そんな俺に力を貸せと言っている。
「……言っておくけど神隠しなんて陰陽師の世界ではよくある事よ。そんな事どうでも良いの。私は貴方の力を借りたい……まぁ、まだ全然使い物にならないけど、見込みはあるみたいだし、私が鍛えてあげるわ」
俺の力を借りたい……そのストレートな言葉はスッと胸の内に入ってくる。
「さぁ、もう一度聞くわ。智充――貴方私の下僕になりなさい」
今度こそ俺は即答する。下僕でも、弾除けでもなんでもいい。こんな俺なんかを買ってくれた会長の力になりたい。
なにより、会長に救われた命だ。それならば、会長のために使おう。
「――はい、俺を会長の下僕にして下さい…………それと――」
忘れない内に昨日言えなかった言葉を伝えておこう。
「俺を助けてくれてありがとうございました」
「な! ………………あ、ゴホン。ありがたく受け取っておくわ」
顔を赤くし、そっぽを向きながらもきちんとお礼を言う会長は、初めて歳相応の女の子に見えた。