002
「7th Gate On-line」は、VRMMORPGだ。
言い換えれば——物凄く長い言い換えになってしまうが——、ヴァーチャルリアリティーインターネットRPGである。
日本最大手の電機製品会社「株式会社・ラストフルーツ」のゲーム部門子会社「ラストフルーツ・エンターテイメント」社が製作・開発した、仮想現実を体験するゲーム機「Virtual Sense」をハード機として利用したゲームソフトで、コマンド式では無く、プレイヤーが直接動くことによって操作するアクション式のRPG、なのだそうだ。
簡単に言ってしまえば、ゲーム世界にトリップできると言う事。
そんな説明を、食事中、移動時のエレベーター内、部屋に入るとき虹彩認証ロックシステムを解除している最中に、夏希から受けた。
説明するタイミングを完全にミスっている様に感じた(昨日の夜、寝る前に話してくれたことの中には、そう言う基本的な情報が入っていなかった)が、そんな事を一々気にしていたら、この口より先に身体が動く従姉など相手にできない。なので僕は、ひたすら相槌を打っていた。
「で、ゲームの題名にある『Gate』って言うのはね、『ゲームとしての新たな境地を切り拓く』って意味がある訳。VRもそうだし、驚きなのはそのシステムよね! 魔法を使う時には、音声で操作するの! ほら、映画で魔法使いが、呪文を唱えるみたいに! かっこいいと思わない?」
「思う」
「でっしょー? それとね、ネットゲームの悪い点として、やたらと職業数を増やしたがるじゃない? なんか回復職だけで複数あるやつとかよ。ああ言うのって、知識がない人が見てもどれが良いのかって分からないのよね」
「確かに」
「だからね、セブンスゲート開発者はこう言っているのよ。『初期戦闘職はたったの七職だけです』って!」
「なるほど。それは良い」
「でしょー? ねー?」
なんて。
自己満足な話と適当な相槌を繰り返しながら、僕達は自室へと戻ってきた。
何を思ったか夏希は、例の合宿に申し込む際にダブルルームを選択したようだ。いや多分ミスっただけだろうけれど――と言うかそうであって欲しいと思うのだけれど――ダブルベッドが一つしか置いていない客室では男の僕がベッドから追い出されるのは必然のようで、現在ソファーが僕の寝床になっている。
夏希には「あれ? ベッド一つしかないじゃない。じゃああんたソファーで寝なさいよ。わざわざイベントチケット当ててやったんだし、必要経費ねっ」と元気よく意地悪く宣言されたのだが、高級ホテルのソファーは案外寝心地が良かった。
閑話休題。僕達はううーっとのびをすると、取り敢えずベッド(とソファー)に飛び込んだ。
ログイン開始の正式な時間は、午前九時。時間にして、残り約三十分だ。
その間僕達は、シャワーを浴びたりゲーム内外装を整えたりと、様々な準備をして時間を過ごしていた。
残り五分となった時、ケータイがピピピピピと電子音を鳴らし始めた。あらかじめこの時間にセットしておいたアラームだ。
僕と夏希は顔を見合わせると、無言のまま部屋の隅――頭の部分がすっぽりとカバーで覆われているマッサージ椅子のようなVRゲーム機、「Virtual Sense」の置かれている所へ歩み寄ると、自らの鼓動が高鳴っていることを感じながら、それに座った。
そしてゆっくりと頭を覆うカバーを降ろし、右の肘掛けに当たる部分に設置された操作パネルを、起動する。
ピロロロロン、と短い起動メロディーがなったのと同時に、目の前の、頭を覆っているカバーに表示されたディスプレイに「Virtual Sense」と言う文字が浮かび上がった。
数秒の起動時間を経て、ディスプレイにはいくつかの選択肢が表示される。
僕はその中の一番上。「7th Gate On-line」を、右手元の操作パネルをなぞって選択、決定した。
ピロロン、と今度は少し音程の違う電子音が流れ、ディスプレイに変化が起きる。
――どうもどうやら、開始までのカウントダウンを一秒刻みで行っているらしい。
随分と気の利いたことをしてくれるじゃないか。
などと、頭では冷静なことを考えながらも、心臓は言うことを聞かない。ドクッドクッ、と言う心拍音が五月蠅いくらいに鳴っている。
『38』、『37』、『36』…………
深呼吸をして、動悸を抑えよう。
『23』、『22』、『21』…………
後、二十秒。ダメだ。どうやっても心拍数は下がらない。僕は落ち着く事を諦めた。
『11』、『10』、『9』…………
残り、十秒を切った。
『3』、『2』、『1』…………
いよいよだ……。
『Let's Dive!』
この表示が、網膜に映ったか映らないか、そのくらいのタイミングで、僕は目を閉じた。
――途端、僕の意識は現実世界の身体と切断された。
五感が完全に——消滅した。
*
死の体験。
そんなモノ、生きて居るうちにできるわけがない。
だがしかし、それに近い経験なら、出来ない事も無いだろう。例えば大規模な手術中、例えば極限のトランス状態。
幽体離脱ってやつだ。
なんで今そんな事を言い出したのかと言うと、今の自分の状況が、まさしく幽体離脱のそれに近いモノであると、思ったからである。
嗅覚、聴覚、触覚、味覚が、何一つ残らず失われた様な暗闇の中、唯一残った視覚を頼りに、僕は進んでいた。
いや、進んでいたという表現が正しいモノかは、分からない。兎に角僕は、視界の真ん中に映る、闇の中にある唯一の光を目指して一向にそれに辿り着こうと念じていた。
そして実際、念じればそれは動きに反映される様で、気付けば光は、直ぐそこにあった。
僕はその光に触れる事を、一瞬だけ躊躇う。
心の奥底に少しだけ、前に進もうとする思考を妨げる何かが、くすぶっていたのだ。
だが僕は首を振り――振って思考をリセットする様子をイメージし、光に触れた。
途端、視界が白に、染まった。
**
————すとん、と。
足にそんな感覚を覚え、僕は目を開く。
「目を開く」という動作が可能になったと言う事は、ここは現実世界か、若しくは仮想現実の世界、と言う事になるだろう。
何かしらのエラーが無い限り前者はあり得ないだろうから、この光景は後者のモノだ。
目の前に広がるのは、真っ白な石で構成された古代ギリシャ風の神殿。無数に立ち並ぶ、空まで無限に続いていそうに見える、太い柱だ。柱の外はどうやら天空である様で、無数の雲が、無限に広がっていそうな蒼を背景に幾つも浮遊して居る。僕はその再現度と壮観に、暫く呼吸を忘れていた(仮想現実では生きる為に呼吸という動作が必要無いらしく、本当にすっかりと忘れていた)。
ポーン、と言う電子音が鳴る。
その音にハッと振り向くと、ちょうど目線の高さ辺りに光の粒子が集まり始めた。
「集まり始めた」と認識した時には既に、その光の塊は模造紙サイズの石版に変化していた。
『プレイヤーネームを入力して下さい』
突然、電子音声によってんな言葉が聞こえてきた。同時に、視界の中央下表示された白い半透明のボックスに、発言と同様の文章が表示される。
その指示に従って、右腕を石版に伸ばす。その時に気付いたのだが、僕の上半身はどうやら、薄茶色の麻で出来たティーシャツに覆われているようだ。さらに目線を下に向けると、シャツよりも色の濃い茶色のズボン、同色の茶色いブーツが見えた。
っと、話がずれたようだ。僕は再び目線を戻すと、伸ばしかけた右手を石版に到達させ、人差し指でそれに触れる。
「触れる」行為がトリガーとなっていたのだろうか。触れた指の周囲に突然、キーボードのような凹凸が構成された。丁度、巨大なタブレット型PCの様だ。
キーボードを操作し、「shun」と入力する。僕のあだ名の、「シュン」だ。
エンターキーをタップすると、今度は触れた指の周囲から、石版が光の粒子なって崩れていった。
否、石版だけではない。周りの柱や、僕が立っている床、さらには雲や無限に見えた蒼までもが、光の粒子に変化しているようだった。
そして突如、視界が暗転。
雷鳴が――轟いた。
またも先ほどと同じように、視覚を除いた四感から分離されているような状況に陥ったらしい。
これはイベント――そのムービーだろうか。
視界には、端から端まで黒い大地が広がっている。否、見えているのは大地などではない。よく目を凝らさなければ分からないが(身体の感覚が無い中で目を凝らす、という表現も変だが)、どうも大地に見えたそれは、無数の蠢くモンスター達のようである。
エデン大陸――即ち、「7th Gate On-line」の舞台となる場所だ。
これは、このムービーは――過去の物語、だろうか。
突然、荘厳で厳粛で崇高な、神々しいまでにも感じる男の声が、聴覚を支配した。
『汝は光を求める者なり。
汝は闇の中の希望なり。
エデン最後の希望なり。
汝は勇気を持たねばならぬ。
その勇気を持って、闇を切り開くべし。
汝は慈愛を持たねばならぬ。
その慈愛を持って、闇を浄化すべし。
汝は闇に屈することなく、闇に溺れることなく、賢明に生きねばならぬ。
穢れ無きその光は、闇の中でも消されることはない。
汝、光に忠実であれ。
その光を持ってして、エデンを再び照らすべし』
視界には炎のように赤く光る文字によって、同様の文章が浮かび上がった。
――そのままの状態が何秒続いたのだろうか。
気付いたら――本当に、いつからその状態なのか分からないくらい自然に――僕は石を積み上げられて建てられた、窓がないし光源もないのに妙に明るく狭い部屋に、一人で突っ立っていた。
目の前には木製の扉。きっとこれは、ゲームスタート、最初の門だろう。
グレープフルーツくらいの大きさのある楕円形のドアノブに、僕は両手を掛ける。それを回そうとするが、回す動作をする直前に半透明の白いボックスが現れた。
『チュートリアルをしますか?
Yes/No』
一瞬、僕の口の形は「Yes」へ向かったが、直ぐに夏希の言葉を思い出して、「No」と呟く。――途端、ドアノブを回しても居ないのに、ドアが外開きに開いた。
「おおっと」
思わず出してしまった仮想現実第一声は、何とも間の抜けた声であった。