001
七月二十八日、午後六時二分。
待ちに待った夏休みから、一週間と二日が経過した頃のことである。
僕は今時珍しいであろう一般家庭の縁側に寝そべりながら、夏の夕日を背景に、蝉の鳴き声をBGMにして、ソーダ味の四角いアイスを食べていた。
ここはじいちゃんの家。
母親が、僕が物心つく前に家を出、父親は割と不規則な出勤を強いられる類の公務員をやっている為、幼少期から夏休みはじいちゃんの家と決まっていた。去年までの十五年間、一度も変わったことのない確定事項だ。
しかし今年は違う。
いやもう来ちゃってるから、正確には「違った」と過去形に直すべきなのだが。
今年は違ったはずだったのだ。
天空という名の、僕の小学校時代からの親友が、親切にもこの僕を旅行に誘ってくれたのだから。
天空とは今年に入って以来、会っていないのだが……久しぶりに顔を見せる良いチャンスだったというのに。
現在僕は、じいちゃんの家の縁側に寝そべっている。
――それもこれも全部、とある同い年の親戚の所為だ。
「行くわよ!」
家のどこかから、不意に声が上がった。
僕は溜息をつき、
「分かったよ」
返事をして。
こうして僕の夏休みは、幕を開けた。
*
そして翌日。僕、こと外澤俊馬が、従姉の夏希と二人で横浜のとある高級ホテルにて朝食を取っている、この瞬間に至る。
「……あんたは本当にそれが好きね。あのさ、そんなのばっか食べてると、いつか口からにおいが取れなくなるわよ」
「僕の嗜好にケチを付けるなよ。僕はこれが好きだから、パンにも塗るしご飯にもかけるし、スパゲッティに入れるし豆腐にも乗せる。勿論、このまま食べたりもするからな」
「んんー……パンとスパゲッティは分かるけど、ご飯と豆腐はちょっと……」
「異論は認めない。アンチョビは正義だ。アンチョビは西と東の垣根を越えられる唯一の食材にして、他の追随を許さない無二の嗜好品である」
「そ、そこまで言われると、なんだかそんな気がしてくるわね。ちょっと貸しなさいそれ。私もパンに塗るから」
「仕方がない貸してやろう。ほれ、沢村さんがいつも利用しているスーパーで売っていた高級アンチョビバターだ。心して食べよ」
「あいあいさー」
と、アンチョビに関するかなりどうでも良い従姉弟間会話から始まるこの物語なのだが(因みに沢村さんとは、うちに務めているお手伝いさんだ。年齢不詳)、アンチョビが今後の重要な伏線になることは無いので、この会話は完全に忘れて貰って構わない。
これは単なる朝のワンシーン。物語として文字に上げる必要性もない、ただの日常の瞬間である。
地上三十階のレストラン、朝の太陽光が燦々と降り注ぐ七月二十九日の午前七時三十八分、もきゅもきゅもきゅと咀嚼を続ける従姉弟二人の間に、再びの沈黙が訪れる。
と言ってもこの沈黙は気まずい類の物では無く、お互いがアンチョビを嗜む為の、有意義な沈黙だ。
よって、アンチョビの良さがいまいちよく分かっていないであろう従姉の夏希は、この沈黙を直ぐに破った。
「ところでシュン、あんたはログイン後、どうするの?」
シュンとは、僕の名前、「俊馬」を略したあだ名だ。
「どうするって言われても……」
返答に困る。昨日の午後、突然夏希から「ヴァーチャルリアリティーゲームの発売記念イベントで合宿やるから行くわよ!」という半分くらい意味不明のな内容の電話を受けて、大した準備も下調べもせずにいきなりここに連れてこられたのだから、そんな質問いきなりされても困り放題だ。
僕が持っている情報なんて、これからプレイするゲームの名前程度なのだから。
「『7th Gate On-line』だっけか」
「そ。|セブンスゲート」
「そのセブンスゲートとやらの情報を、僕は全然全く持っていないんだよ。昨日夕方いきなり呼ばれたからな。その状態の人間に『ログイン後どうする?』だなんて問いが、答えられると思うか?」
「思わない」
確信犯かよ。
「だから私が聞きたいのはね、チュートリアルを受けて他の初心者達と同じ路を辿るか、チュートリアル代わりに私と一緒に狩りへ行って一足先にレベル上げをするか、どうするかってことよ」
その二択、今初めて聞いたぞ。
「ね? どーするの?」
首を傾けて聞いてくる夏希に、僕は一瞬考える。
「一応聞いておくけれど、もし仮に僕がお前と別行動を取った場合、お前はどうするんだ?」
「勿論、6F時代のギルド仲間と一緒に冒険する約束取ってるから、そっちに行くわよ」
また初耳だ。勿論の使い方間違っているだろ。
あと6Fというのは、セブンスゲートの発売会社「株式会社 ラストフルーツ・エンターテイメント」が製作したオンラインゲームだそうだ。正式名称は確か、「6th Field On-line」。
「じゃあ僕は、一人でゆっくりプレーでもするかな?」
夏希が友達と待ち合わせをしているなら、それを邪魔するわけにはいかない。……と言うか、正直ゲームに入っても特にやりたいことが無いし、それにこのゲーム好きな従姉に一々指図されるのはなんだか気にくわない。
「気ィ使わなくて良いのよ。初心者は初心者らしく、上級者に従ってればいいのっ」
僕の返答をぶった切りやがった!
「これ、質問の意味有ったのか……?」
アレだなこれは。RPGのゲーム進行中に出てくるNPCとの会話で、『はい』を選ぼうが『いいえ』を選ぼうが、同じ結果になるってやつ。無理やりフラグ立てさせられて、結果を不可避にするってやつだ。
「一応意見を聞いておくのが礼儀でしょ?」
「はあ」
聞いておきなぎら意見を無視するのは、とても礼儀とは言えないだろ。
しかし、そう言えば意見を聞いておきながらそれを行動に反映させないのが、夏希の基本スタンスだったな。
「それじゃあそういう事で、忘れないでよね。始まりの街『ルーセント』の神殿集合だから!」
また初耳単語だ。
「ん? 始まりの街って事は、そこがスタート地点って事で良いのか?」
「そんなのあたりまえでしょ。ルーセントの東西南北にそれぞれ神殿が有って、それのどこかから出て来られるの。スタートする神殿はプレイヤーの在住地域によって決められるはずだから、私とシュンは間違いなく一緒になるわよ。だから、はぐれる心配は無いの」
なるほど、と頷く。
しかし直後に、決定的な問題に気づいた。
在住地域ってことは、関東全域から同じ場所に来るって事じゃあないのか?
「ちょっと待てよ! それだと僕達の神殿は、とんでもなく混み合うことにならねえか?」
「そこは大丈夫。神殿外部はもんの凄く混んでると思うけど、内部には多分、このホテルに泊ってる人しかいない筈だから、神殿の中で待ち合わせするならはぐれる心配は絶対にない」
「じゃ、神殿の中で待ち合わせって事で良いんだな?」
「そゆこと」
と集合場所を決定したところで、僕の後ろ――夏希にとっては前方向に当たる位置から、「おーい!」と言う声が掛かった。
「トキワちゃんじゃぁーん! ひっさしっぶりー!」
やたらと威勢の良い声を上げて駆け寄ってきたのは、大学生くらいの、背が高い綺麗な女性だ。
「え? ハナビ? うわぁー、ハナビだぁ! ひさしぶりー!」
夏希は女性を出迎えるように立ち上がって、そのまま嬉しそうに声を上げた。嬉しそうなのはいいのだが、声がデカすぎて周りに迷惑にならないか、それ以上に自分達が目立ったりしないか、心配である。
そういえば、『トキワ』というのが彼女が使っているハンドルネームだ。『ハナビ』は多分、こちらの女性のハンドルネーム。
「ん? そちらの殿方はもしや……トキワちゃんのカレシさんかー? くっそうリア充めっ! 滅せよっ! 爆ぜろっ! そして埋まれっ!」
「ち、違う。違うわよハナビ! コイツは私の従弟だから! 言ったでしょ? 従弟連れてくるって」
「ああー! そう言えば言ってたねっ! 思い出したよっ!」
ハナビと呼ばれた女性は、パン、と手を叩いて、頭を掻く。どうも一々リアクションが大きい人みたいだ。それと会話文に、エクスクラメーションマークとクエスチョンマークが多用されるみたい。
「どうもこんにちはっ! トキワちゃんのギルドメンバーやってます、ハナビと申します! よろしくね! あと高二だから、トキワちゃん情報だとタメになるのかな?」
大学生くらいに見えていた為、綺麗な女性という代名詞を使っていたのだが、これは少女に直した方がいいな。
正しくは、大人びた美少女だ。
「こんにちは。外澤俊馬です。えーと、コイツの従弟やってます。高二です。よろしく」
「敬語なんていーよ、どーせタメなんだから!」
にこやかにそう言うと、朝食の乗ったトレーを持って僕と夏希が座っている席に座ってくる。丁度、三人を結ぶと正三角形ができる様に。
「ハナビはね、6F時代に私と同じギルドに所属していて——」
「ああ、『山山』ね」
僕はかつて聞いた事のある、彼女のギルド名を答える。
「そう、『山山』。そこのギルメンの中で一番歳が近かった、ってか同い年だったのが、ハナビってわけ」
「去年のオフ会で知り合ったんだよねっ!」
「うん。あの時は楽しかったわね」
どうやら結構、長い付き合いのようだ。
それから十五分ほど、夏希とハナビは過去噺に花を咲かせていた。
ハナビはなかなかのベテランプレイヤーらしく、6F内ではある程度の知名度を持っていたらしい。
今回のセブンスゲート発売記念イベントでは、彼女もまた夏希と同様に、ギルドメンバーと待ち合わせをしていると言う。ゲームに入るよりも先に、夏希にはリアルで出会ってしまったのだが。
「ときにトキワちゃん、『山山』メンツと集合する前に、そちらの殿方——もとい、俊馬君の水先案内人を務めると聞いたんだけど?」
「ええ、そうだけど……それが?」
夏希は相槌を打つが、しかし理由が気になったようで、すぐに聞き返す。
「あたしもさー、……えっと、それに加わっていい?」
「…………え?」
「…………え?」
少し予想外の言葉に、僕と夏希はきっちり四秒ほど沈黙した後、同時にクエスチョンマーク付きのアホな声を出してしまった。
「ハナビは、『山山』メンツと集合するんじゃないの?」
僕の疑問も、全く同様だ。
「それは、そうなんだけどね……」
ハナビは言いづらそうに、肩を少しすくめて、
「ほら、あそこのメンツ、変な人いんじゃん。一人で行くの、怖いし」
そんな事を言った。
「……ああ、あの人ね」
夏希もまた苦笑いして言う。事情が分からない僕は、口を挟めない。
きっと仲間同士、女性同士の問題なのだろう。
「僕は別に構わないぜ? 夏希もそうだろ?」
気まずい沈黙になりかけていた空気を肯定の一言で壊す。
初日からこんな空気じゃあ、楽しい物も楽しめないだろうし。
「ん、そうね。それが良いわ」
デリケートな問題なのだろう。
余計な事を言わない様にか、夏希はごくシンプルに、同意を示した。
「よっし! じゃ、決まりで!」
ハナビは何時の間に食べ終えたのか、空になった皿をトレーに乗せ、そのまま立ち上がり、
「じゃ、これから少し連絡するところがあるからこれで失礼するね! 後でログイン後、神殿内で!」
そう言って、物凄い速度で部屋を出て行った。
「……テンション高いな」
「あれで平常運転よ」
成る程。
凄く疲れそうだ。
「あのくらい綺麗だったら、いろいろちょっかい出されそうだよな」
「んー? シュンはハナビみたいのが好みなの?」
「いや、そういう訳じゃあ無いんだけどさ」
この従姉に色恋絡みの嘘はつけない。直ぐに見破ってしまうからな。
「でもあの人だったら、セクハラとかそんなの跳ね除けちゃいそうだけど……。まあ、悩みは人それぞれか」
「んー。ハナビが言ってたのは、ちょっと違うかも……」
「そうなのか?」
女性の言いづらい問題って、大抵はセクハラだと思っていたけれど、それは考えが浅すぎたのか?
「まあ、セクハラっちゃセクハラなんだけど」
夏希はちょっと苦笑いして、牛乳に半分ほど残ったミルクを飲み干す。
「相手が男だったら、多分ハナビはボコってたと思う」
ボコってたって、それ怖えな……ありゃ?
「え? なに? 『男だったら』?」
「百合」
あ、はい。
僕はズズーっと、オレンジジュースを飲み干した。
そんなこんなで始まったログイン初日。僕は夏希程ではないものの、仮想現実と言う経験した事のないモノに、割とワクワクしていた。
予感や前触れ、前振り的なものなど、何一つ、これっぽっちも僕は、感じていなかった。
後に僕は、ここで踏みとどまっていなかったことを後悔する事になるのだが、しかし、だ。
多分ここで違う選択をしていても、僕は後に、その事を後悔する羽目になっただろう。