西暦2040年
仕事帰りのカノンは、路地の隅に古びた自動販売機を見つけて足を止めた。塗装は剥げ、側面には錆が浮いている。誰も使っていない様子で、街灯に照らされたその姿は、置き去りにされた老人のようにも見えた。
カノンは、こういう「誰にも顧みられないもの」の前で立ち止まる癖がある。人間だろうと機械だろうと、放っておかれたものには、必ず理由がある。長年の仕事柄、そう思わずにはいられなかった。
「いらっしゃいませ」
低く、機械的だが、どこか丁寧な声が響いた。
「い、今しゃべった……?」
「はい。最近の機械は便利になりましたから、人間の話を聞く機能くらいは搭載しています」
「普通は自分から話しかけてこないだろう」
そう言いながらも、カノンはわずかに眉をひそめた。声の抑揚が、機械にしてはあまりに自然すぎる。相槌の間の取り方も、感情の乗せ方も、まるで人間の会話を聞き慣れた誰かの声のようだった。だが、深くは考えず、カノンは苦笑いで流した。
「そうですね。ただ、最近は誰も私に話しかけてくれませんので。お仕事帰りですか?」
「そうだけど」
カノンは目の前に並ぶボタンを見つめた。
「元気 三百円」「勇気 五百円」「やる気 八百円」「安心 千円」。そして一番大きく、一番目立つ場所に、「我慢 0円」というボタンがあった。
「なぜ我慢が、無料なんだ?」
「はい」
「どうしてかって聞いているんだ。理由だよ」
「簡単な話です。一番よく売れるからです」
「売れるって、誰がそんなものを買うんだ」
「あなたのような人です。朝、眠くても無理に起きる人。嫌な仕事を断れない人。大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言ってしまう人。そういう方が、よくこのボタンを押していきます」
「最近はそんなものまで自動販売機で売られてるのか。俺はまだ、酒でどうにか誤魔化してるよ」
カノンがそういって肩をすくめたと同時に、ガコンという音とともに、缶が一本落ちてきた。
「買ってないけど」
「サービスです」
「機械にしちゃ気が利くな」
カノンが拾い上げると、ラベルにはただ一言、「考える」と書かれていた。
「ん? こんな商品、メニューになかっただろう」
「今、作りました」
「……」
「私も毎日、誰かの役に立とうとして、それができないと責められています。『温かい飲み物が欲しかったのに』と買っていただいた方に、不満をぶつけられたことは数知れずです。でも私には、冷たい飲み物しか作れません。こればかりは仕方のないことです」
「それはなんだか、つらいな」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「あなたは今、初めて私に『つらいな』と言ってくれましたね。皆、私に文句は言います。気持ちを聞いてくれる人はいませんでした」
カノンは自動販売機に、そっと手を触れた。冷たいはずの金属の表面が、ほんのり温かい。きっと日中の熱が残っているだけだろう。そう思い直し、それ以上は気にしなかった。
「私は機械です。それでも聞きます。あなたは、まだ大丈夫ですか?」
「それは、精神的な意味の質問か?」
「はい」
カノンはしばらく答えられなかった。
やがて静かに息を吐く。
「そういえば……思い当たる節はあるな」
「人間は不思議です。壊れたものは直そうとするのに、疲れた心には『もっと頑張れ』と言うのですから」
その一言に、カノンの中で何かが小さく反応した。意味ありげな笑みを漏らし、カノンは手の中の缶を、そっと握りしめ誰にともなく言う。
「なるほど」
そしてカノンは、自動販売機に向かって笑いかけた。
「お前も、少しは休めよ」
「……あいにく、休む機能は搭載されておりません」
「じゃあ、さっき考えるを作ったみたいに、自分で作ればいい」
「簡単に言いますね」
「人間だって、同じだ」
「ありがとうございます」
カノンは小さく笑い、手を振ってその場を後にした。去り際、ほんの一瞬、自動販売機の筐体の奥に、何かの影が動いた。だが振り返ることはしなかった。カノンは分かっていた。
***
その後ろ姿が完全に見えなくなった頃、自動販売機の側面がガシャンと開き、中から一人の女性が姿を現した。
「びっくりしたなあ。まさか、いまだに人間が働いているなんて。あの人、世界がロボット労働主義化してるって知らないのかな」
彼女はカノンが去っていった方角を見つめ、微笑んだ。
「なんて、私も結局は人力でやってるんだけどね。それにしても、久しぶりだよ、この感覚」
先ほどの『ありがとう』を思い出しながら、彼女は小さく呟いた。
「やっぱりいいな。人からありがとうって言われるのは。もっと頑張りたくなる」
***
その夜、カノンのもとに一本の電話がかかってきた。
「どうでしたか、彼女は?」
「人間だってこと、バレバレだったよ。声の作り方も、間の取り方も、相手の感情に合わせて微妙に揺れていた。あれは訓練された人間の耳と口だ。声だけでも、もっと電子音に加工した方がいい」
「それを言うなら、あなたも今どきスーツを着て歩いている人なんて、そうそういませんよ。……いや、そういう意味じゃなくて」
「うん、スカウトしよう。欲しかった言葉をちゃんと引き出せた」
カノンにとって、あれはただの立ち話ではなかった。誰かの本音を、無理やりではなく、自然に引き出せるかどうか。それを見極めるのが、カノンの仕事だった。優れた心理カウンセラーの卵を探し出し、育て、送り出す。その日々の中で、街のあちこちに「試験官」を仕込んでおくのは、もう何年も続けてきたやり方だ。今日の自動販売機の件も、その一つに過ぎない。
「おぉ、やっぱりですか!! いつスカウトに行きます?」
「明日だ。その時は、那須茄子君も一緒に来てくれ」
「はい」
そこで、カノンはふと思い出したように付け加えた。
「あの自動販売機が出してきた飲み物、飲んでも問題ないんだろうな。成分表示が一切なかったが」
「分かりません。とりあえず、飲んでみてください」
通話がぷちっと切れ、カノンは小さくため息をつく。
「人の心を理解できるのは、結局、同じ人間だけなんだろうな。こんな時代になっても」
カノンは無機質な部屋の真ん中、隅に掛かった西暦2040年のカレンダーを見遣った。




