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妻に寝取られた上に命まで狙われたが、俺が数千億の財閥の後継者だと奴らは知らない

作者: 熾星
掲載日:2026/08/17



 妻はずっと、俺のことを甲斐性なしだと思っていた。


 妻の目に映る俺は、田舎で豚を育て、精肉店を営んでいるだけの貧乏な男。結婚して八年も経つのに、彼女を青凪市で暮らさせてやることすらできない夫だった。


 そんな俺は、冷たい雨が降りしきる夜、妻が別の男の膝に座っているところを目撃した。しかも、三年間わが子だと信じて育ててきた息子まで、俺の子ではなかった。


 それだけでは終わらなかった。


 秘密を知られた妻と義母は、俺を石油ストーブによる一酸化炭素中毒で事故死したように見せかけようとした。


 その夜、俺は十年間一度もかけなかった番号を押した。


「蓮、迎えに来てくれ」


 電話の向こうが、長い沈黙に包まれた。


 俺は目を閉じた。


「もう逃げない」


 翌日、数台の黒い高級車が月守町へ入ってきた。


 妻は知らなかった。


 自分が散々見下してきた田舎の精肉店主こそ、御堂家を捨てて十年ものあいだ帰らなかった、本来の後継者だということを。



1



「直哉、今日は豚耳まだある? 少し切ってくれよ」


 森田健太が精肉店のガラス戸を開けたとき、俺はちょうど最後の肉を冷蔵ケースに並べ終えたところだった。月守町は小さな町で、近所の人間ならほとんど顔見知りだ。


 二十歳でここへ流れ着いてから十年。最初は農家の手伝いで日銭を稼ぎ、やがて小さな養豚場を持ち、町にこの精肉店を開いた。


 最近は飼料代ばかり上がって、肉の相場は今ひとつだ。以前ほど利益は残らない。


 俺は健太の注文を量り、包んで渡した。


「今日は少し安くしとく」


「そんな余裕あるのかよ。それより聞いたぞ。フミばあちゃん、最近LINEで男と付き合ってるんだって?」


 包丁を持つ手が止まった。


「誰から聞いた?」


「もう町中の噂だよ。マサオとかいう男で、フミばあちゃんより十歳以上若いらしい。青凪市で商売やってるって話だけど」


 健太は声を落とした。


「ネットなんて詐欺師も多いんだから、ちゃんと見てやったほうがいいぞ」


「分かってる。あまり言いふらすなよ。本人が知ったら気にする」


 健太はため息をつき、袋を提げて帰っていった。


 俺はカウンターの奥から、少しずつ暮れていく外を眺めた。なぜか胸の奥に、嫌な予感が残った。


 田所フミは、俺の本当の祖母ではない。


 十年前、二十歳だった俺は青凪市を飛び出し、月守町まで流れてきた。所持金が一万円を切り、空腹のあまり彼女の家の古い豚舎のそばでうずくまっていた俺に、フミさんは温かい粥を食べさせてくれた。


 その後、彼女の一人息子は事故で亡くなり、フミさんは独りになった。


 俺も町を出なかった。


 気づけば、それから十年が過ぎていた。



2



 店を閉めて家に戻ると、フミさんが家じゅうの現金を引っ張り出していた。古い封筒や小銭入れ、通帳まで畳の上に広げ、慌てた様子で布袋に詰めている。


 俺は眉を寄せた。


「フミさん、何してるんだ?」


 彼女はびくりと肩を震わせ、慌てて袋を背中に隠した。


 俺はそれを取り上げる。


 中には七、八十万円ほどの現金が入っていた。


「これ、誰に渡すつもりだ?」


 フミさんの顔色が変わった。


「返しな! あたしのお金だよ! あんたに何の権利があるんだい!」


 突然その場に座り込み、大声で騒ぎ始める。


「誰か来ておくれ! 行き倒れみたいになってた子を助けてやったら、今度は年寄りの金を奪うようになったよ!」


 俺は静かに玄関の戸を閉めた。


 何度も聞いた言葉のはずなのに、胸の奥には小さな棘のように刺さった。


 ひとしきり騒いだあと、フミさんは俺の頬を平手で打った。


 顔が横を向く。


 数秒かけて怒りを飲み込んでから、俺はもう一度聞いた。


「何に使うんだ?」


 すると彼女の表情が、恋する少女のように柔らかくなった。


「マサオさんがね、すごい霊能力者を知ってるんだって。その先生に特別な供養をしてもらえば、死んだじいさんや息子にもう一度会えるらしいんだよ」


 俺は言葉を失った。


「ネットで知り合った男に何十万も払うのか? 死んだ家族に会えるとかいう儀式のために?」


「マサオさんは嘘なんかつかないよ」


 彼女は本気だった。


「本当に亡くなった家族と会えた人もいるんだって。儀式が終わったら、あたしを青凪市に迎えに来て、一緒に暮らしてくれるって言ってる」


「詐欺だよ」


 思わず声が強くなった。


「そんなもの、どう考えても詐欺だ」


 フミさんの目つきが一変した。


「嘘をつくんじゃないよ!」


 彼女は俺を睨みつけた。


「あんたがこの町に来てから、ろくなことがなかった! あんたが来てすぐ、うちの息子まで死んだんだ!」


 声が震える。


「あのとき助けるんじゃなかった。あのまま放っておけばよかったんだよ!」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 結局、当面の生活費だけを残し、それ以外の金は俺が預かることにした。


「あのとき助けてもらったことは、今でも忘れてない」


 俺は静かに言った。


「だから十年間、できることはしてきた。あなたのことも、本当の祖母みたいに思ってた」


「でも、この金を詐欺師に渡すのだけは止める。何を言われても、それだけは譲らない」


 フミさんは近くにあった座布団を俺に投げつけた。


 俺は振り返らずに家を出た。


 夜風が頬に当たり、さっき叩かれたところがまだ熱を持っていた。



3



 翌日の午後、俺は翔太を迎えに月守こども園へ向かった。


 学校法人青凪学園が運営する認定こども園で、美香もそこで事務職員として働いている。


 三歳の翔太は、早川拓也の脚に抱きついていた。


「パパ、チョコ食べたい!」


 足が止まる。


 俺はすぐに近づき、翔太を抱き上げた。


「翔太。また人のことパパって呼んだのか」


 拓也の顔に、一瞬だけ妙な表情が浮かんだ。


 すぐに笑顔へ戻る。


「いいじゃないか。子どもの言うことだろ」


 翔太は不満そうに足をばたつかせた。


「パパなんて嫌だ! 豚を育ててお肉売ってるだけだもん! 拓也おじちゃんがパパならいい!」


 周囲の保護者がこちらを見る。


 俺は苦笑した。


「こら。お前のパパは一人だけだ」


 翔太はぷいと顔をそむけた。


 帰り道、養豚場のそばにある小さな畑からトウモロコシを何本か採って帰ろうと思い、脇道へ入った。


 倉庫の裏手から、女の笑い声が聞こえる。


 最初は気にも留めなかった。


 けれど、その声には覚えがあった。


 妻の母、高瀬恵子だ。


「これ、本当に私にくれるの?」


「持ってろよ。うちの女房が宝物みたいにしてたやつだ。亡くなった母親の形見だとか言って、普段はつけようともしなかった」


「そんな大事なもの、なくなったって騒がない?」


「もう探し回ってるよ。でも、まさかお前のところにあるとは思わないだろ」


 男は近所で農園を営み、町内会の役員もしている人物だった。


 その後に続く会話を聞けば、二人の関係を勘違いする余地などなかった。


 俺は翔太を抱いたまま動けなくなった。


 よりによって翔太が、俺の肩越しに大声を上げる。


「あの二人、なんで抱っこしてるの?」


 倉庫の向こうが静まり返った。


 俺は慌てて翔太の口を押さえ、その場を離れた。


 家に戻ると、美香が夕食を作っていた。


 彼女は月守こども園の事務職員だが、ここ数年ずっと青凪市にある法人本部事務局への異動を希望している。


 俺の顔を見るなり、彼女は金の話を始めた。


「また豚肉の値段、下がってるんでしょ?」


「まあな」


「まあな、じゃないわよ。翔太だってこれからどんどんお金がかかるの」


 美香は包丁をまな板に置き、不機嫌そうに俺を見た。


「私、職場で夫の仕事を聞かれるのが一番嫌。田舎で豚を育てて肉を売ってます、なんて言いたくないもの」


 俺は黙った。


「あなたと結婚して、私に何が残ったんだろ」


 その言葉にも反論せず、俺は彼女から包丁を受け取った。


 夜になって帰宅した恵子は、そのまま自室へ閉じこもった。


「お母さん、具合悪いの?」


 美香に声をかけられた恵子が顔を上げる。


 ちょうど俺と目が合った。


 顔色が変わった。


「何でもない。今日は疲れただけ」


 俺は視線をそらした。


 不倫をしていたのは俺ではないのに、家の中に漂う空気が息苦しいほど気まずかった。



4



 それから数日、俺はいつもどおり養豚場と精肉店を行き来していた。


 健太は何か言いたそうに店の前をうろうろしている。


「何だよ。言いたいことがあるなら言え」


 健太は俺を店の外へ引っ張った。


「直哉。最近、美香さんのことちゃんと見てるか?」


「どういう意味だ?」


「早川拓也とよく会ってる」


 健太は周囲を確認してから声を落とした。


「拓也本人は青凪学園の法人本部、人事部にいるだろ。しかも親父は理事だ。美香さんがずっと本部への異動を希望してるのは知ってるし、あいつなら内部で口利きくらいはできる」


「でも……ちょっと距離が近すぎる気がする」


 俺は少し黙ったあと、健太の肩を叩いた。


「変なこと言うなよ」


「俺が何もなかった頃に、それでも美香は結婚してくれたんだ」


 苦笑する。


「あいつは、そんな女じゃない」


 健太は呆れたような顔で俺を見た。


 何か言いかけて、結局黙り込んだ。



5



 冬に入ってしばらくした頃、星凪県を冷たい大雨が襲った。


 夕方、美香から「園に仕事が残っているから迎えはいらない」とメッセージが届いた。


 窓の外では雨脚がどんどん強くなっている。


 心配になった俺は、傘を持って月守こども園へ向かった。


 建物の照明はほとんど消えていた。


 事務室の近くまで来ると、中から押し殺したような笑い声が聞こえる。


 次の瞬間、稲光が半開きのブラインド越しに室内を照らした。


 俺はその場で動けなくなった。


 乱れた服の美香が、早川拓也の膝に座っていた。


 二人はキスをしていた。


「青凪市の本部、ほんとに行けるようにしてくれる?」


 美香が拓也の胸元に寄りかかる。


「親父にはもう話してある。次の人事で推薦するよう頼んでおくよ」


「やっぱり拓也は頼りになる」


 美香は嬉しそうに彼の首へ腕を回した。


「本部に異動できたら、もうこんなところでこそこそ会わなくていい」


「翔太も連れていく。三人で青凪市に住みましょう」


 耳の奥で何かが鳴った。


 拓也が笑う。


「直哉、まだ翔太を自分の子だと思ってるんだ?」


「もちろん」


 美香の声には、嘲るような響きさえあった。


「すごく可愛がってるから、全然疑ってない。前に一度、直哉の子を妊娠したこともあったけど、すぐに病院で処置してもらったし」


 少し間を置く。


「あんな人みたいな、何の取り柄もない子になったら嫌だったから」


 胸の真ん中を、素手でえぐられたような気がした。


 翔太は俺の子ではない。


 美香は一度、俺との子を妊娠していた。


 そして、その命を手放していた。


「養豚場と店はどうする?」


 美香が尋ねた。


「あそこ、豚も設備も結構あるでしょ?」


 拓也は気にも留めない。


「土地はもともと高瀬家のものなんだろ? あいつはよそ者だ。月守町を出たら何もできないさ」


「豚とか設備は?」


「売れるものは先に処分しろよ。揉めたら、あとで専門家に任せればいい」


 美香が笑う。


「本部への異動が決まったら、直哉とは離婚する」


 頭の中で、何かが切れた。


 俺は扉を開け、一気に中へ入った。


 一発目の拳で拓也が椅子から転げ落ちる。


「直哉!」


 美香の悲鳴が聞こえた。


 俺は拓也の襟をつかみ、もう一度殴った。


「友達だと思ってた俺の妻に手を出したのか!」


 拓也が必死に俺を押し返そうとする。


 美香は慌てて服を拾い、部屋の隅へ逃げた。


 もう一発殴ろうとしたとき、床に近づいてくる人影が映った。


 後頭部に激痛が走る。


 視界が一気に暗くなった。


 俺はそのまま意識を失った。



6



 意識が戻っても、しばらく目を開けることができなかった。


 頭が割れそうに痛み、吐き気がこみ上げる。


 ぼんやりと、美香と恵子の声が聞こえてきた。


「本当にやるの?」


 恵子の声が震えている。


「もしバレたら捕まるのよ。これ、殺人じゃない……」


「じゃあどうするの?」


 美香は低い声で答えた。


「直哉は、翔太が自分の子じゃないことも、私と拓也のことも知った。それに、お母さんのことまで見てる」


 声がさらに冷たくなる。


「このまま目を覚ましたら、全部終わるのよ」


「でも……」


「誰にも分からないって」


 美香は淡々と言った。


「冬に石油ストーブをつけたまま寝て、換気を忘れる事故なんてあるでしょ。窓も閉めてある」


「酔って寝ているあいだに一酸化炭素中毒になった。みんな、そう思うわ」


 胸の中が冷えていった。


 無理やり目を開ける。


 すでに強い眩暈がしていた。


 二人は俺がまだ気絶していると思い、外に出たらしい。


 俺は自分の頬を強く叩き、意識をつなぎ止めながら立ち上がった。


 扉は外から開かないようにされている。


 工具箱から小さな斧を取り出し、扉に振り下ろした。


 一度。


 二度。


 ようやく板が割れた。


 外へ転がり出る。


 冷たい雨の中で、何度も息を吸った。


 身体中が痛み、震えが止まらない。


 けれど、それ以上に胸の中が空っぽだった。


 八年間、美香を愛していた。


 彼女は俺を裏切った。


 俺に他人の子を育てさせた。


 俺との子を手放した。


 そして今度は、俺まで殺そうとした。


 自分が歩いてきた十年が、ひどく滑稽に思えた。



7



 夜が明けてから田所家へ戻ると、玄関先でフミさんが杖を振り上げた。


「お金は!? 早く返しな!」


 杖が何度も脚に当たる。


「マサオさんが、儀式の枠がもうすぐなくなるって言ってるんだ! 早く渡しなさい!」


 俺は目の前の老人を見た。


 顔も後頭部も身体も痛い。


 けれど、もう心には何も残っていなかった。


 突然、笑いがこぼれた。


 笑っているうちに、涙まで落ちてきた。


「金が欲しいんだな?」


 フミさんが動きを止めた。


 俺は家へ入り、預かっていた金を出した。


「返すよ」


 フミさんはすぐに金を抱きしめる。


「ただし、これで最後だ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「あのとき助けてもらったことは忘れてない。だからこの十年間、俺にできることは全部してきた」


「本当の祖母みたいに思ってた。生活の面倒も見たし、何かあれば何度も助けてきた」


 俺は目元をぬぐう。


「もう十分返したと思ってる」


「だから、これで終わりだ」


 外に出て携帯電話を取り出した。


 連絡先の一番下に、十年間一度も押せなかった番号がある。


 通話ボタンを押す。


「もしもし?」


 その声を聞いただけで、鼻の奥が痛くなった。


「蓮。俺だ」


 向こうから音が消えた。


 十秒以上経ってから、大声が返ってくる。


「直哉!?」


 俺は少し笑った。


「迎えに来てくれ」


 相馬蓮の声が変わった。


「やっと決めたのか?」


 俺は曇った空を見上げた。


「ああ」


 低い声で続ける。


「十年だ」


「もう逃げない」



8



 翌日の午後、数台の黒い車が月守町へ入ってきた。


 荷物はほとんど持たなかった。


 いつもの上着を着て、十年間働いた精肉店の前に立ち、最後に町を眺める。


 先頭の車から相馬蓮が飛び出してきた。


 昔と変わらず派手好きで、髪は銀灰色に染められている。


 ところが俺の前まで来ると、冗談一つ言わなかった。


 そのまま強く抱きしめられる。


「この馬鹿」


 蓮の声はかすれていた。


「十年だぞ。俺にまで連絡しないで」


 俺は背中を軽く叩いた。


「悪かった」


「帰ったら説教だからな」


 数時間後、車は青凪市へ入った。


 窓の外を高層ビルと夜の明かりが流れていく。


 十年ぶりの街だというのに、目に映るものは嫌になるほど懐かしかった。


「まず病院でいいか?」


 蓮に聞かれ、俺はうなずいた。


「親父は?」


「良くない。この前も入院した」


 蓮から笑みが消える。


「それと……お前が月守町にいるらしいってことは、征一郎さんも途中から知ってた」


 俺は蓮を見た。


「知ってた?」


「無理に連れ戻すなって言われてた。お前が御堂家を拒絶してるうちは、会いに行く資格がないって」


 蓮は少し困ったように笑った。


「たまに俺に、お前が生きてるかだけ確認してくれって頼んでたよ」


「お前も知ってたのか」


「全部じゃない。お前が帰りたくないってことは知ってたから、俺にも無理に連れ戻す権利はないと思ってた」


 蓮は少し間を置いた。


「御堂雅人も会社で好き放題やってる。征一郎さんはあいつを育てるつもりだったみたいだけど、投資案件を立て続けに失敗させた。取締役会でも評判はかなり悪い」


 俺は何も言わなかった。


「それから、九条美月」


 俺はようやく顔を向ける。


「美月がどうした?」


「結婚してない」


 蓮がため息をつく。


「お前がいなくなってから、何年も探してたよ」


 俺は黙り込んだ。


 青凪中央病院の個室で、父――御堂征一郎と十年ぶりに会った。


 髪はほとんど白くなっていた。


 俺を見た瞬間、手にしていたカップが小さく揺れる。


「直哉……?」


 俺は入口に立ったまま答えた。


「ああ」


 数秒経って、ようやく言葉が出た。


「父さん。帰ってきた」


 父の目が赤くなった。


「帰ってきてくれたか」


 まるで失われた十年を埋めるように、俺の顔を見つめ続ける。


「あのときは、本当に俺が悪かった。雅人とあの母親を御堂家に入れるべきじゃなかった」


「お前の母さんを、あんなところまで追い詰めたのも俺だ」


 俺の指先に力が入った。


 雅人は父が婚外関係で作った子で、俺より二歳年上だった。


 二十歳のとき、父は雅人とその母親を正式に御堂家へ迎え入れた。


 母はそれに耐えられず、やがて自ら命を絶った。


 俺は父を憎んだ。


 御堂家そのものも憎んだ。


 だから全部を捨て、妻の姓である「高瀬」を名乗り、十年間戻らなかった。


「今さら何を言っても遅いことは分かってる」


 父は目を閉じた。


「それでも聞かせてくれ。今度は、もう行かないのか?」


 俺は少し考えた。


「行かない」


 父が目を開ける。


「俺のものまで、もう他人に譲るつもりはない」


 父は長く俺を見つめ、やがてうなずいた。


「御堂ホールディングスは、本来お前に継いでほしかった」


「雅人は?」


「お前がいなくなったから、あいつを後継者候補として扱うしかなかっただけだ」


 父は苦々しそうに笑った。


「俺の遺言書も見直した。俺個人が持つ株式や資産については、改めて整理してある」


 そして少し言いづらそうに続けた。


「それと、お前の母さんがお前に残した御堂ホールディングスの株がある。名義はずっとお前のままだ」


「お前は十年間、議決権も含めて何一つ行使しなかったがな。弁護士から改めて資料を受け取ってくれ」


 俺は黙って聞いた。


「いきなり上に立つ必要はない。まず経営企画本部に入って、この十年の会社を自分の目で見ろ」


 俺は皿の上のミカンを一房口に入れた。


 妙に甘かった。



9



 御堂家へ戻って数日後、フミさんから電話が来た。


「直哉、マサオさんに連絡できなくなったんだよ」


 泣き声だった。


「お金も全部なくなった。警察にも相談したけど、向こうは偽名を使ってたらしくて、取り戻せるか分からないって」


 俺は何も言わずに聞いた。


「それに美香まで。あんたの養豚場の豚や設備を売れるだけ売って、早川拓也と青凪市へ行っちまった」


「直哉、あたしにはもうあんたしかいないんだよ」


 また、あの当然のような口調に戻る。


「あたしがあんたをここまで育てたんだ。放っておくなんてできないだろ?」


 俺は目を閉じた。


「俺を育てたのはあなたじゃない」


 向こうが静かになる。


「あの日、死にそうだった俺を助けてくれた。それは本当だし、忘れてない」


「だから十年間、できることは全部してきた」


「もう十分だ」


 俺は静かに告げた。


「これからの生活は、町の地域包括支援センターや福祉窓口に相談してくれ。俺から金を渡すことはもうない」


 通話を切った。


 その後、御堂家の顧問弁護士である藤原に離婚手続きを依頼した。


 美香が無断で処分した養豚場の豚や設備、精肉店の商品についても整理してもらう。


 土地自体は高瀬家のものだったが、豚や設備、店舗在庫には俺の出資記録が残っている。


 離婚時の財産分与と合わせて、きちんと清算することになった。


 俺は健太にも電話した。


「一つ頼みがある」


「何?」


「前に住んでた家に、古い金のブレスレットがあるはずだ。恵子の部屋に隠してると思う」


「高いのか?」


「値段は知らない。でも、恵子の物じゃない」


 畑で聞いた会話を思い出す。


「あの男が妻から勝手に持ち出して、恵子に渡した物だ。妻の亡くなった母親の形見らしい」


 電話の向こうが静かになった。


「……それ見つかったら、奥さんぶち切れるだろ」


「だからお前は触るな。相手の奥さんに連絡して、自分で確認してもらえ」


「分かった」


 電話を切り、椅子にもたれた。


 今までの俺は、我慢さえしていればいつか何もかも収まると思っていた。


 でも違った。


 飲み込むべきではないものまで、一人で抱え込む必要などなかった。



10



 藤原弁護士が美香を見つけたとき、彼女は早川拓也と青凪市郊外の賃貸マンションで暮らしていた。


 俺も同行した。


 美香はスーツ姿の俺を見て一瞬驚いたが、すぐにいつもの軽蔑したような表情へ戻った。


 俺は書類をテーブルに置く。


「離婚協議書。それと離婚届」


 美香は何ページか確認しただけで、迷うことなく署名した。


「ちょうどよかった。私も、もうあなたと暮らす気はないから」


 椅子にもたれかかる。


「青凪市は家賃が高いけど、一生あの田舎にいるよりずっとまし」


 俺は何も言わなかった。


 美香は俺のスーツに目をやる。


「その服、借り物?」


 思わず笑った。


「お前には関係ない」


「直哉も無理しなくていいのに。自分に何もないって早く認めれば、楽になるわよ」


 俺は書類をしまった。


「養豚場の豚と設備、それに店の商品まで、俺に無断で処分した分がある」


「出資記録や婚姻中の財産については、弁護士を通して清算する」


 美香の顔色が変わった。


「土地はうちのものよ!」


「土地は要求してない」


 俺は彼女を見る。


「でも、お前一人のものじゃない物を売った代金まで、お前だけが持っていくことはできない」


 美香が鼻で笑う。


「今度は弁護士まで雇ったの?」


「ああ」


 俺は立ち上がった。


「話があるなら、これからは藤原先生を通してくれ」


 会社へ戻ると、息をつく暇もないほど仕事が積まれていた。


 夜になって健太から電話が来る。


「直哉。大変なことになってる」


「どうした?」


「あの男の奥さんが、自分で高瀬家まで来たんだ」


 健太は声を潜めた。


「ブレスレットを見た瞬間、自分の母親の形見だって分かったらしい。恵子と大喧嘩になった」


「恵子は逃げようとして、玄関の段差から転げ落ちて脚を骨折したよ」


「警察には?」


「通報した。救急車も警察も来た」


「ならいい」


 月守町でその後どんな噂が広がろうと、もう俺には関係のない話だった。



11



 一週間経っても、美香は財産の清算にまともに応じなかった。


 藤原弁護士は家庭裁判所に財産分与の調停を申し立てた。


 同じ日、御堂ホールディングスの本社で御堂雅人と顔を合わせた。


 雅人は笑いながら俺のオフィスへ入ってくる。


「帰ってきたなら、一言くらいあってもいいだろ。一応、俺は兄なんだから」


 俺はコーヒーをゆっくり口へ運んだ。


「俺に兄はいない」


 雅人の笑みが固まる。


「十年経っても、相変わらず可愛げがないな」


 やがて表情を険しくした。


「父さんは俺の権限を次々取り上げて、お前を経営企画本部に入れた。何を考えてるかくらい俺にも分かる」


「この十年、御堂を支えてきたのは俺だ!」


 俺はようやく雅人を見る。


「三つ続けて事業を赤字にしたのも、その『支えた』うちに入るのか?」


 雅人の顔が赤くなった。


 俺はそれ以上相手にしなかった。


 夜、蓮を呼び出した。


 いつの間にか銀灰色だった髪を真っ赤に染めている。


 落ち着いたレストランの中では、非常口の表示より目立っていた。


「お前、その髪どうにかならないのか」


「人生が地味なんだから、髪くらい派手でいいだろ」


 蓮は笑いながら座る。


「で、今日は何?」


「早川拓也を調べたい」


「何を?」


「仕事と金。それから女」


 蓮が眉を上げた。


「まだほかにも女がいると思ってる?」


「思ってるんじゃない」


 俺はグラスを見る。


「何年も平気で人妻と付き合える男が、美香一人だけだとは思わない」


 数日後、蓮が紹介した調査会社から報告が来た。


 拓也には、美香以外にも複数の女性との関係があった。


 さらに青凪学園では、拓也が人事部の立場や父親の理事という肩書きを利用し、不適切な便宜を図っていた疑いも出ている。金銭の授受については、法人側でも内部調査が始まった。


 俺は法的に必要な資料だけを藤原へ渡した。


「問題がある部分は、然るべきところに任せる」


 蓮が意外そうな顔をする。


「自分でやり返さないのか?」


 俺は彼を見る。


「もう十年無駄にした」


「これ以上、あいつらのために自分の人生まで使う気はない」



12



 三日後、蓮に誘われ、青凪市にある会員制ラウンジへ向かった。


 店へ入った瞬間、懐かしい声に呼び止められる。


「直哉」


 足が止まった。


 九条美月が立っていた。


 十年ぶりに見る彼女は、少女の頃の面影を残しながらも、すっかり大人の女性になっていた。


 それでも笑った顔だけは、記憶の中と変わらない。


 何を言えばいいのか分からずにいると、美月が先に笑った。


「何その顔。私だって分からなかった?」


「違う」


 俺も笑う。


「ここで会うと思わなかっただけだ」


 美月は近づき、俺の腕につかまった。


「よく言うわよ。十年前、何も言わずに消えたくせに」


「何年探したと思ってるの? どこかで死んだんじゃないかって本気で思ったんだから」


 胸の奥が柔らかくなる。


「悪かった」


「謝って終わり?」


「今日は俺が払う」


「じゃあ、とりあえず許してあげる」


 横で蓮が必死に目配せしてくる。


 俺は見なかったことにした。


 しばらくして、早川拓也もラウンジへ入ってきた。


 俺を見た瞬間、顔色が変わる。


「な、直哉?」


 俺はグラスを持ったまま答えた。


「久しぶり」


 拓也は、俺がなぜこんな店にいるのか理解できていないようだった。


 もちろん、俺と御堂家の関係もまだ知らない。


 蓮が小声で言う。


「あいつ、別の女と待ち合わせてる」


 視線を向ける。


 拓也はすぐに一人の若い女のところへ歩いていった。


 どう見ても、初対面ではない。


 俺は何も仕掛けていない。


 ただ席に座り、美香が「幸せになるため」にすべてを捨てて選んだ男が、彼女の知らないところで別の女を抱き寄せる姿を眺めていた。


「写真、残しとく?」


「一枚でいい」


 蓮が眉を上げる。


「美香に送る?」


「ああ」


 俺は酒を一口飲んだ。


「余計なことはするなよ」


「分かってる」


 美月は隣に座ったまま、俺の過去について何も聞かなかった。


 拓也と女が店を出ていくと、突然俺の目の前に手をかざす。


「見ちゃ駄目」


 思わず笑った。


「見てない」


「男の言葉なんて信用できないから」


「それなのに俺の隣にいるのか?」


 美月はふんと鼻を鳴らした。


「直哉だけは別」



13



 一か月後、健太から電話が来た。


 フミさんは詐欺で貯金を失ってから精神的にかなり不安定になり、夜中に一人で出歩いて、近くの貯水池に落ちかけたこともあったらしい。


 町の地域包括支援センターがすでに対応を始めているという。


「直哉、戻ってこないのか?」


 俺はしばらく黙った。


「戻らない」


「でも、フミばあちゃんは……」


「俺の祖母じゃない」


 オフィスの窓から青凪市を眺める。


「俺にできることは十年前からやってきた。今は町の福祉が入ってるなら、そっちに任せてくれ」


 健太は小さくため息をついた。


「分かった」


 電話を切ったあと、拓也がほかの女と会っていた写真と、調査で分かった事実の一部を美香へ送った。


 文章は何もつけなかった。


 そのまま、もう一度番号をブロックした。


 その夜、美月は仕事関係のパーティーに付き合ってくれた。


 ホテルを出た途端、高いヒールを履いた足が痛いと文句を言い始める。


 俺の袖を引っ張った。


「直哉、背負って」


「いくつだよ」


「嫌ならいい」


 手を離そうとしたので、その前に俺がしゃがんだ。


 美月は背中に乗ってから、珍しくしばらく黙っていた。


 青凪川沿いまで来たところで、俺は聞いた。


「美月」


「なに?」


「どうして結婚しなかった?」


 返事がない。


 答えたくないのかと思い、話を変えようとしたときだった。


 首筋に温かいものが落ちた。


 足を止める。


 美月が泣いていた。


「どうしてって……」


 声が震えている。


「直哉の馬鹿のせいに決まってるでしょ」


「十八歳のとき、ちゃんと好きだって言ったのに、直哉はずっと子ども扱いしてた」


「それで二十歳になったら、何も言わずにいなくなった」


 俺の肩を強く抱く。


「私の告白が嫌だったのかなって思った。嫌われたから、さよならも言ってもらえなかったのかなって」


 喉が詰まる。


「違う」


「本当に?」


「本当だ」


 俺は足を止め、少しだけ振り返る。


「俺が青凪市を出たのは、御堂家のことで耐えられなくなったからだ」


「美月は関係ない」


 彼女は黙っている。


「この十年で後悔してることを一つ挙げるなら……お前に何も言わずに消えたことだ」


 背後から慌ただしい足音がした。


 振り返ると、一人の女が走ってくる。


 美香だった。


 以前よりずっと痩せ、髪も乱れている。


 化粧すらまともにしていなかった。


「直哉!」


 駆け寄り、俺の袖をつかむ。


「助けて。翔太が大変なの」


 俺は眉を寄せた。


「何があった?」


 美香の目から涙が落ちる。


「拓也が、ほかの女を家に連れてきたの。その女と私が喧嘩になって、翔太が私を守ろうとして女を蹴った」


「それで酒を飲んでた拓也が怒って、翔太を……」


 声が震えた。


「今、病院にいる」


 顔が強張る。


 翔太はまだ三歳だ。


「警察には?」


 美香が固まった。


「え……」


「高瀬美香」


 俺は冷たく彼女を見る。


「大人に殴られて、三歳の子どもが入院してる。それなのに最初に来るところが警察じゃなくて、俺なのか?」


「どうしたらいいか分からないの!」


 美香は泣きながら俺の服をつかんだ。


「仕事も調査されてるし、私にはもう何もないの」


「直哉、私たちの息子を助けて」


 俺は彼女を見る。


「私たちの息子?」


 美香の身体が固まった。


 袖をゆっくり手から外す。


「俺たちにも、一度だけ子どもはいた」


 美香の顔から血の気が消える。


「でも、その子を手放したのはお前だ」


 俺は静かに続けた。


「翔太は早川拓也の子だ。それはお前が一番分かってるだろ」


 美香はその場に崩れるように座り込んだ。


「間違ってた……」


 肩を震わせる。


「本当に間違ってた。拓也には私以外にも女がいたし、翔太まで殴った。私はあの人のために離婚して、仕事までなくなりそうで……」


 顔を上げる。


「直哉、後悔してるの」


 俺の背後にいる美月を見た瞬間、美香の目つきが変わった。


「もしかして、その女のせい?」


「何?」


「私を助けないのは九条美月がいるから?」


 立ち上がる。


「最初から私たちが離婚するのを待ってたんじゃないの? この女が――」


「もういい」


 俺の声が低くなる。


 美香が止まる。


 俺は美月の前に立った。


「お前が拓也と不倫してた頃、美月は俺がどこにいるかすら知らなかった」


「離婚したのはお前が決めたことだ」


「拓也を選んだのも、お前だ」


 美香を見る。


「自分で選んだ結果まで、ほかの女のせいにするな」


 しばらくして、美香が小さく聞いた。


「じゃあ……翔太はどうすればいいの?」


「翔太に罪はない」


 俺は藤原弁護士の連絡先を彼女へ送った。


「今すぐ警察に相談しろ。診断書も診療記録も残しておけ」


「藤原先生には俺からも話しておく。必要な手続きは教えてくれる」


 美香の目に、わずかな希望が戻る。


「じゃあ、私たちも……」


「俺たちはない」


 言葉を遮る。


「俺が気にしてるのは翔太だ」


「お前じゃない」


 美香の顔から、最後の期待が消えていった。


 俺は美月を背負い直し、その横を通り過ぎる。


 もう振り返らなかった。



14



 一週間後、美香は自分から藤原弁護士へ連絡した。


 翔太への暴力について正式に警察へ相談し、早川拓也が父親の理事という立場や自分の人事部での職務を利用していたことについても、知っている範囲の資料を提出した。


 学校法人青凪学園も内部調査を本格化させた。


 拓也はほどなく職務から外された。


 美香の法人本部への異動話は当然なくなった。


 調査では、拓也が人事部の立場と父親の影響力を使い、美香の異動について不適切な便宜を図ろうとしていたことも問題視された。


 美香自身は拓也の金銭問題には関与していなかったものの、職場では一連の騒動がすっかり知られてしまった。


 最終的に、彼女は自分から青凪学園を辞めた。


 噂の広がった月守町へ戻ることもなかった。


 美香は回復途中の翔太を連れ、青凪市内の小さなアパートで暮らし始めた。


 財産分与についての話がまとまった日、美香から一度だけ二人で会いたいと言われた。


 俺は応じた。


 待ち合わせ場所は、青凪市内のホテルラウンジだった。


 美香は白いワンピースを着ていた。


 ずっと昔、初めてデートをした頃によく似た服だ。


 俺を見ると、彼女の顔が明るくなる。


「直哉」


 向かいに座った。


「話って?」


 美香の笑顔が少し固まる。


「そんなに冷たくしなくてもいいじゃない」


 俺は答えなかった。


 美香はコーヒーをかき混ぜながら口を開く。


「財産のことは、藤原先生から聞いた。返すべき分はちゃんと払う」


「分かった」


「翔太のことも……弁護士を紹介してくれて、ありがとう」


「俺に礼を言う必要はない」


 彼女を見る。


「あの子は何も悪くない」


 美香の目が赤くなった。


「直哉、昔は本当に翔太を可愛がってたよね」


 俺は答えない。


 しばらく黙ったあと、美香が聞いた。


「拓也のことがなかったら、私たち……今でも一緒だったのかな」


「違う」


 彼女が顔を上げる。


「どうして?」


 俺が答える前に、美香が言葉を重ねた。


「私、昔は本当に直哉のことが好きだった」


「月守町に来たばかりの頃、何も持ってなかったでしょ。どこの誰かも分からないって周りはみんな言ってた」


「それでも私は結婚した」


 涙が落ちる。


「それだけは本当なの」


「分かってる」


 俺は静かに答えた。


 美香が目を見開く。


「だから、昔の気持ちまで全部嘘だったなんて思ってない」


「でも、そのあとのことも全部本当だ」


 彼女の顔から少しずつ血の気が失われていく。


「俺が肉屋をしているのが恥ずかしいと言ったのも本当」


「青凪市へ行くために拓也を選んだのも本当」


「翔太が俺の子じゃないのも本当」


「俺との子を手放したのも本当」


 俺は美香から目をそらさなかった。


「最後に、恵子さんと一緒に俺を殺そうとしたことも本当だ」


 美香はうつむき、涙をワンピースへ落とした。


「もし、もっと早く知ってたら……」


 声が小さくなる。


「直哉が御堂家の後継者だって知ってたら、私、絶対に……」


 俺は思わず笑った。


 美香の言葉が止まる。


「じゃあ、お前は今、何を後悔してるんだ?」


 美香が顔を上げる。


「本当に俺を愛してたことに、今さら気づいたのか?」


「それとも――ずっと見下してきた田舎の肉屋が、御堂直哉だったと知ったからか?」


 美香の唇が震える。


 何も答えられなかった。


 それで十分だった。


 俺は立ち上がった。


「美香」


 彼女が見上げる。


「翔太をちゃんと守れ」


「あの子はまだ三歳だ。大人がやったことの責任を、あの子に背負わせるな」


 上着を手に取る。


「俺たちのことは、もう終わりだ」


 美香も立ち上がった。


「直哉!」


 俺は足を止める。


「本当に……もう私のこと、少しも好きじゃないの?」


 背を向けたまま、数秒考えた。


「八年前は好きだった」


「今は違う」


 そのままラウンジを出た。


 外は明るい日差しに包まれていた。


 ちょうど携帯が鳴る。


 美月からだった。


【今日、何時に終わる?】


【この前のすき焼き屋、また行きたい】


 メッセージを見て、自然と口元が緩んだ。


【六時】


 少し考え、もう一つ送る。


【迎えに行く】


 美香のいる建物を、もう一度振り返ろうとは思わなかった。



15



 御堂征一郎は取締役会に新しい経営体制案を示し、遺言書についても正式に見直しを済ませた。


 御堂雅人が社内で持っていた権限は、ほとんど取り上げられた。


 過去十年、雅人が担当した複数の事業は赤字を出し、内部調査では会社の資産を私的に利用した疑いと、外部企業との不透明な金銭関係まで浮かび上がっていた。


 調査が終われば、後継者どころか今の立場さえ失う。


 雅人自身が、それを一番よく分かっていた。


 三日後、知らない番号から電話が来た。


「直哉」


 御堂雅人の声だった。


「雅人」


 向こうで笑う。


「十年も帰ってこなかったくせに、戻った途端に何もかも俺から奪っていくんだな」


「最初からお前の物じゃない」


 電話の向こうが静まり返った。


 直後、女の押し殺したような声が聞こえた。


 身体が固まる。


 美月だった。


「聞こえたか?」


 雅人は俺の反応を楽しんでいる。


「美月に何をした?」


「安心しろ。まだ生きてる」


 笑い声がどこか狂っていた。


「お前のことは調べたよ。九条美月は十年間お前を待ってた。帰ってきてからも、ずっと一緒にいるらしいじゃないか」


 雅人は少し間を置いた。


「弟の弱点くらい、兄なら知っておかないとな」


「兄を名乗るな」


 俺は近くにいた蓮へ目で合図した。


 すぐに警察へ連絡が入る。


「何が欲しい?」


「株だ」


 雅人は即答した。


「母親から相続した御堂ホールディングスの持ち株を、俺に譲れ」


「分かった」


 今度は雅人が黙った。


「ずいぶん素直だな」


「お前が欲しいのは株だろ」


 俺は声を変えなかった。


「俺が欲しいのは、美月が無事に戻ることだ」


 雅人が鼻で笑う。


「妙な真似はするなよ」


 そして、はっきりと時刻を告げた。


「今日の十八時までだ」


「それまでに俺が納得できるものを見せなければ、九条美月がどうなるかは保証しない」


 電話が切れた。


 俺はしばらく動けなかった。


 蓮が机を殴る。


「完全に頭がおかしくなってる」


「警察は?」


「並行して居場所を絞り込んでる」


 俺は上着を手に取った。


「直哉」


 蓮が俺を見る。


「一人で何かしようとするなよ」


 足を止めた。


「十年前、一度それをやった」


 苦しくて御堂家から逃げた。


 向き合わなければならないものまで全部置き去りにした。


「今回はやらない」


 三時間後、警察が雅人の居場所をほぼ特定した。


 青凪市郊外にある、使われていない物流倉庫だった。


 雅人の言うとおり一人で入るような真似はせず、警察と連携しながら電話で時間を稼ぐ。


 雅人の声は次第に苛立っていった。


「直哉、警察に話したんじゃないだろうな」


「株の名義を動かすのに時間がかかる」


「俺を馬鹿にしてるのか?」


 突然、電話の向こうから美月の声が聞こえた。


 明らかに震えている。


 それでも彼女は言った。


「自分でこんなことしておいて……どうして直哉のせいにするの」


「黙れ!」


 雅人が怒鳴る。


 数秒、何も聞こえなかった。


 それでも美月は、震える声でもう一度言った。


「……私、間違ったこと言ってない」


「九条美月!」


 物が倒れるような大きな音がした。


 俺は警察官を見る。


 ほぼ同時に、突入の指示が出た。


 十分も経たず、雅人は警察に確保された。


 俺が倉庫へ入ったとき、美月は椅子に縛られていた。


 手首には縄の跡があり、頬に浅い擦り傷もある。


 俺を見ると、目に涙がたまった。


 それでも無理に笑う。


「遅い」


 張りつめていたものが、一気に崩れた。


 俺は彼女の前にしゃがみ、縄が外されるのを待った。


「九条美月」


「なに?」


「次に誘拐されたときは、犯人を挑発するのやめてもらえるか」


 美月が目を瞬く。


 それから、まだ言い返した。


「だって、直哉の悪口言ったから」


 俺は彼女を見つめる。


「俺の悪口と、お前の命。どっちが大事だ?」


 美月は口を尖らせた。


「……私の命」


「分かればいい」


 次の瞬間、美月が抱きついてきた。


 身体が一瞬固まる。


 俺もすぐに腕を回し、強く抱きしめた。


 雅人は誘拐、恐喝に加え、社内で発覚した経済上の不正についても捜査を受け、最終的に起訴された。


 父はその知らせを聞いてから、病室で長いあいだ何も言わなかった。


 息子が二人。


 一人は十年間家を捨てた。


 もう一人は、最後には犯罪にまで手を染めた。


 ある日、父が俺に尋ねた。


「まだ、俺を恨んでるか?」


 俺は答えなかった。


 たった一言「許す」と言ったところで、過去がなかったことになるわけではない。


 けれど、父を恨むためだけに、次の十年まで使う気もなくなっていた。


 美香から連絡が来ることもなくなった。


 藤原から、必要な範囲で近況を聞くことはあった。


 早川拓也は翔太への暴力、人事上の不正、金銭問題について調査を受け、美香は翔太と二人で以前より家賃の安いアパートへ移った。


 新しく、ごく普通の事務の仕事も始めたという。


 彼女が夢見ていた「青凪市での華やかな生活」とは、ずいぶん違うだろう。


 でも、それはもう美香自身の人生だ。


 俺には関係ない。


 半年後。


 青凪市にも春が来た。


 俺は美月を海へ連れ出した。


 風が強く、車を降りた途端に文句を言われる。


「だから今日は海なんてやめようって言ったのに」


「寒い?」


「髪がぐちゃぐちゃ」


 美月は風に乱れた髪を押さえながら俺を睨んだ。


「今日の直哉、ずっと変。何を企んでるの?」


 俺は彼女を見る。


 十年前の十八歳だった少女が、今でも記憶の中にいる。


 頬を赤くしながら、俺に好きだと言った。


 けれど当時の俺は御堂家のことで頭がいっぱいで、彼女を何も知らない子どもだと思っていた。


 そして俺は何も言わずに消えた。


 彼女は、本当に十年待った。


 俺は美月の額を軽く小突いた。


「痛い。何するの?」


「馬鹿だなと思って」


「何が?」


「一人の男を十年も待つなんて」


 美月の表情がゆっくり変わる。


「御堂直哉」


「うん」


「今日、本当に変だよ」


 俺はポケットから小さなケースを取り出した。


 美月が完全に固まった。


 彼女の手を取る。


「昔は、御堂家から逃げれば、嫌なものを全部捨てられると思ってた」


「青凪市を離れて、御堂の名前を捨てれば、それで終わると思ってた」


 俺は美月を見る。


「でも、捨てたのは嫌なものだけじゃなかった」


「本当に大事だったものまで置いてきた」


 美月の目が赤くなった。


 俺は少し笑う。


「もう逃げない」


 彼女は指輪を見つめたまま、涙を落とした。


「九条美月」


「俺と結婚してくれる?」


 美月は口元を押さえたまま、しばらく泣いていた。


 俺は待った。


「嫌?」


 美月が勢いよく顔を上げる。


「誰が嫌だって言ったの!」


 そのまま胸へ飛び込んできた。


「する!」


 涙声のまま、さらに強く抱きつく。


「絶対する!」


 俺も笑って彼女を抱きしめた。


 海風が二人の間を吹き抜けていく。


 遠くの海面が夕日に照らされていた。


 十年前。


 俺は何も持たずに青凪市から逃げた。


 十年後、ここへ戻ってきた。


 以前の俺は、「自分のものを取り戻す」というのは、御堂ホールディングスの株や後継者という立場、誰かに奪われたものを取り返すことだと思っていた。


 でも今なら分かる。


 本当に手放してはいけなかったものは、そんなものじゃない。


 腕の中の美月を見る。


 まだ泣いているくせに、もう「プロポーズなのに花束もないなんて信じられない」と文句を言い始めていた。


 俺は思わず笑った。


 今度こそ。


 もう逃げなくていい。


――完――






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わざわざ区切ってまで同じキャラのセリフが連続してる? 誰が喋ってるかすごくわかりづらくて内容が入ってこない
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