蔦の棲む場所ー旧館の都市伝説ー
その建物は、地元では「旧館」と呼ばれていた。
戦前に建てられた洋館で、戦後は養護施設として使われていたが、ある火災事故をきっかけに閉鎖された。以来、誰も近づかない。蔦が絡まり、窓は割れ、扉は錆びついている。きっと屋内は老朽化で危険であるに違いない。
私がここへ来た理由は、大学の卒業制作だった。テーマは「都市伝説の実在性」。教授には「もっと現実的な題材にしなさい」と言われたけれど、私はどうしてもこの旧館を調べたかった。
きっかけは、地元の喫茶店で聞いた話だった。
「旧館には少女の霊が出る。石の長椅子に座って、誰かを待っている」
店主は真顔でそう言った。
「本当に見たんだよ。夜の旧館で、白い服の女の子が座ってた。目が、真っ黒だった」
私はその言葉をメモに取り、カメラと録音機を持って旧館へ向かった。調査という名目だったが、正直なところ、半分は好奇心だった。何か“本物”に触れてみたいという、若さゆえの無謀な欲求。
門は開いていた。
蔦が絡まる外壁は、まるで生きているようだった。風が吹くたびに、葉がざわめく。中に入ると、空気が変わった。湿っていて、重い。まるで水の中にいるような圧迫感があった。
扉をくぐると、光の届かない廊下が奥へと伸びていた。天井の照明は脱落し、床は一歩ごとに悲鳴のような音を立てて軋む。鼻を突くのは、黴と、何かが腐敗したような甘ったるい死臭だ。壁には古びた案内板が残っていて、「保健室」「談話室」などの文字が、剥がれ落ちた塗料の隙間からかすかに読めた。
誰かがここで暮らしていた痕跡が、まだ残っている。
奥へ進むと、広いホールに出た。
そこに、石でできた長椅子があった。
そして――少女が座っていた。
白いワンピースに、長い黒髪。石の長椅子に溶け込むほど静かに、彼女はそこにいた。私は息を飲んだ。都市伝説が、目の前にある。だが、おかしい。これほど古い建物なのに、彼女の服には埃一つついておらず、周囲を支配する蔦も、彼女の周りだけは避けるようにして壁を這っていた。
「……誰?」
声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
目が、黒かった。瞳ではない。眼球全体が、墨のように黒く染まっていた。
「待ってたの」
その声は、耳ではなく頭の中に響いた。
「あなたが来るのを、ずっと待ってたの」
私は後ずさった。カメラを構えようとしたが、指先がひどく冷え、金縛りにあったように動かない。ファインダー越しに彼女を見ることさえ、本能が拒否していた。
「ここは、忘れられた場所。私も、忘れられた」
少女は立ち上がった。足音はしない。石の床を滑るように近づいてくる。
「ねえ、座って。一緒に待とうよ。誰かが、思い出してくれるまで」
私は狂ったように踵を返し、廊下へ走り出した。心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされる。けれど、出口が見つからない。
走っても、走っても、景色が変わらないのだ。廊下はゴムのように伸び、さっき通ったはずの場所が、見たこともない歪んだ角に姿を変えていた。壁の案内板の文字はのたうち回り、もはや言語の体を成していない。
背後から、衣擦れの音さえしない静寂が追いかけてくる。それが何よりも恐ろしかった。
「逃げられないよ。ここに来た人は、みんな座るの」
少女の声が、至近距離で響く。
振り返ると、彼女はすぐ背後に立っていた。顔が、粘土のように歪んでいく。口が耳元まで裂け、黒い眼球が顔全体を飲み込むほどに肥大した。その顔はもはや「個」ではなく、底なしの穴だった。穴の奥には、苦悶に歪む人の形をした何かが、無数に折り重なって蠢いている。
私は叫ぼうとした。けれど、肺の中の空気がすべて凍りついたように、声が出なかった。
気づけば、私は石の長椅子に座っていた。
指一本動かせない。まるで石像にでもなってしまったかのように、体が重く、冷たい。
隣では少女が笑っていた。その頬の下では、無数の細い指のようなものが、皮膚を突き破ろうと絶えず蠢いている。
「これで、二人目。もうすぐ、三人目が来るよ」
彼女の視線が、闇の向こう――かつて私が通ってきた廊下の入り口へと向けられた。
私は、動けないまま、時間が止まった空間に閉じ込められた。
思考だけが、出口のない迷路をぐるぐると回り続けている。
そして今も、誰かがこの話を聞いて、旧館に足を踏み入れるのを待っている。
その誰かが、あなたでないことを願う。
(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).
最後までお読みいただき、ありがとうございました。『液晶に棲む狐』https://ncode.syosetu.com/n1566lr/とはまた一味違う、王道の探索ホラーをお届けしました。
明日からは、また少し毛色の違う「切なく、美しい不思議な物語」を4日間連続で投稿予定です。 もし少しでも「ゾクッとした」と感じていただけましたら、評価や感想、ブックマークをいただけますと執筆の大きな励みになります。
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