86.ツカサさんと浴衣
浴衣を着つけることが決まってから二時間後、シオリは家に取りに帰った浴衣を持って、ユカリがコトエさんと呼んだ女性と向き合っていた。
場所は社長室の奥にある、仮眠やちょっとしたウェブ会議に使うための小部屋。
そこらのビジネスホテルの部屋より広く、浴衣を着つけるために小物を広げるスペースもあった。
シオリとコトエが二人でその部屋に入ると、ミヤコは一人社長室に取り残される。
ユカリとツカサはそれぞれ別の場所にある更衣室へ行き、自分たちで着つけるらしい。
Tシャツ短パンの上から雑に甚平を着込んだミヤコは、パックの野菜ジュースを飲みながら、まんじりと着付けが終わるのを待つ。
聞くともなしに聞こえてしまうシオリとコトエの会話が気にかかる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。楽しみにしてたの、腕がなるよ」
コトエはフレンドリーで気さくな性格らしい。少し鼻にかかったまろやかな声だが、はっきりした声調が聞きやすい。
すぐに着付けになったのか、衣擦れの音ばかりになって、ミヤコは慌てて耳をふさぐ。
着替えの音は何だか聞いてはいけない気がする。
隣の部屋でシオリが薄い下着姿になっているのかもしれないと思うと、なんだか妙に緊張して変な汗をかいてしまう。
ミヤコはじいっと微動だにせず耐える。
十分、十五分、いつまで塞いでいればいいのだろうか。
どれほど待っただろうか。衣擦れ以外の音が、耳をふさいだ指の隙間からかすかに聞こえた。
「少しお化粧する?」
「いいんですか?」
もう着替えが終わったらしい。
「もちろんいいよ、少し大人っぽくしようか? 肌綺麗だからあんまり塗らない感じで、でもケアはして、お化粧が肌に負担にならない様にしようね」
「あ、いえ、その……目元が、きつく見えない方が良い、です」
「あはは、わかった、じゃあ目元丸くてかわいい感じにしようね」
そこからは何がどうなっているのか、ミヤコには分からない話だった。
化粧を施されてるシオリは喋らず、ずっとコトエがメイクの解説をしてるようだ。
「肌の色白いよね……でも基本はイエベかな?」「濃すぎるとシオリさんだときつい印象になるから、あんまり顔は塗らない方向で行こう。眉もそのままで。校則に抵触しちゃうし」「色味は元の顔に合わせた自然体でベージュ使ってこう」「お化粧を完全武装にしちゃうと親しみ感が無くて、作られた可愛いになっちゃうからね」「作られた可愛いはどっちかって言うとツカサさんの方が似合うし」「ベースこんな感じ」「ほらここに濃い色置いて、こうやってぼかすのね。くっきりアイライン造ると鋭い印象になっちゃうからボヤッとさせるんだけど、濃すぎるとやっぱり印象強くなるから、塗ってるかどうかわからないくらいボヤッとね、ボヤッと広げてく」「若いから輪郭丸いし頬骨立ってないし、ハイライトとか入れて鋭角にしちゃうと可愛い感じが薄れるんだよね。だからこっちは丸をこうくりくりっと描くように伸ばす」「リップはほんのり色乗せるだけにしとこう。ぷっくりぽってりでもいいんだけど、あんまりそれは好きじゃない感じ? わかった」「血色考えたらオレンジがかったピンクの方が良いかな? うん、血色はよく見せたいよね。夜市と言っても、この時期だとまだ明るいし、下手に色強くする必要ないよ」
長々と続く化粧。
その間に着付けとヘアメイクを済ませたツカサとユカリが社長室に戻って来た。
ツカサは何処のアイドルかと思うほど完璧なメイクをしていた。唇はシオリが好きじゃないとしていた下唇がぷっくり艶プルぽってりの少し紫がかった濃い目のピンクだ。
よく見るとしっかりと鋭角な眉も描いてあるし、鼻の頭には丸い白のハイライト。頬もたっぷりのチークを広げてて、ちょっと熱っぽくうるんだような、作られた可愛いの顔をしていた。
涙袋もアイラインの目張りもばっちりだ。
立体的に描いている絵のようにしか見えなくて気持ち悪い、そう思ってしまうのはミヤコが人より見えすぎるかもしれない。
ミヤコにまじまじと顔を見つめられて、ツカサは完璧な作った笑顔を浮かべる。
着ているのはバラの浮き出るラメの混じった黒い浴衣。確かに男物であるはずなのに、なぜか帯は黒い合皮のコルセットを女性の腰高に着けている。手袋もバラのレースの手袋で、綺麗にアップにされた髪には、紫色のラメの散ったバラの髪飾りがきらめいている。
「すっごく気に入らなさそうな顔してるー」
「ミヤコ君目がいいから、お化粧したのすぐばれそうだよねえ」
笑うユカリは薄紫の浴衣。あえて控えめだと分かるような、薄墨の秋の草花が描かれている。夏で無いのは何故なのだろうかとミヤコが首をかしげると自分の浴衣を指さし答える。
「気になる? 秋の七草だよ。これ本当は八月末の花火大会に着ていこうかって話してたんだけどね、まあ行けるかどうかも分からないし、ツツジちゃんがせっかく用意してくれたから」
八月末はもう立秋が過ぎた秋の装いが許される時期なのだとか。
そう笑って答えるユカリの髪は、ハーフアップに纏められ、金属の薄を模したクリップが付いていた。
メイクはいつもと変わらない辺り、ツカサのような装う事に力を入れるタイプでは無いのかもしれない。
ミヤコはもう一度ツカサを見やる。
ツカサはミヤコの視線に気が付き、ソファから立ち上がってくるりと回って見せる。
立ち振る舞いもしっかり内またで女性のようにも見える。
だと言うのに、裾を広げるように足を開いて腰に手を当てたつ姿は、一瞬で男性の雰囲気。
何故この人は、ここまで本気の着付けとヘアメイクをしているのだろうか?
「似合う?」
うふッと笑ってとうツカサに、ミヤコは真顔で頷く。
「何で似合うのか分からないくらいに似合います」
「それ、褒め言葉だよね?」
ミヤコは無言でこくこくと頷いた。
ツカサの浴衣はツカサの趣味とツツジの趣味が悪魔融合した結果。
コトエさんはクロノスの広報担当。時々潜入調査しに行く社員(主にツカサ)のメイクをしてくれる有能お姉さん。