八万の宿木
2023年3月執筆
とにかく俺は有名になりたかった。
SNSをチェックしながら、有名になることができる方法を探ろうとしていた。
世の中で人気になることの大概は当たり障りのないことであった。どの猫が可愛いだとか、犬が溶けそうだとか、俺には全く興味を持てなかった。
普段は学校通いだったから、暇を持て余してはユーチューバーにでもなれないかと動画の撮影に挑戦をすることもあった。ただし、撮影した動画の行き先は年季の入った保存ファイルであった。
そこに動画を移し替えてからは数日どころか数年動かないこともあり、久々に見た自分はどこか情けなさを覚えることもあった。
自分の家族を見てもこの家から人気に火をつけることは到底できそうになかった。だから俺はある意味で一人で戦わなければならない。ただし特にこれと言って知識があるわけでも知恵があるわけでもない。
それでも良いと受け入れてくれる人々をかき集めなければならないが、まずは手近に感動を振り撒くことが重要ではなかろうか。
俺は携帯を開いていつものユーチューブの画面を開いた。そこに急上昇でノリに乗っている有象無象どもに後ろ蹴りを入れる気持ちで、どのようにして自分がのしあがるのかを考えた。どうやらこの世界は少々おかしなところがあって、逆説が通用したりしなかったりする。その判断を誤れば転落するのも仕方のないことだった。
そこでまず俺は立ち上がって、自分の部屋を飛び出すことにした。何もないはずの机の上には埃が舞っていた。どのような法則に従ってこれらが集まってくるのか研究の余地がある。などと考えている場合ではなく、母親の作る昼食を取らなければならない。
ところで俺は母親のことも父親のこともそれなりに尊敬していた。その辺が尖ってはいなかったから、執拗に「大智!」と下から呼ぶ声に返事をする。俺は「はーい、今すぐ」と言ってベッドの上の勉強道具を片付けなければ時間がどんどん過ぎていく。
それにしても俺は学校でも成績はそれほど優秀な方ではないから、今丁度通っている進学先に合格するのも一苦労であった。それ自体に父親と母親の協力は必要とはしていないのではあるが……
大智と呼ばれた俺は母親が並べたご飯と味噌汁をそれぞれ啜るように食べ進めて、すぐに家の外に出た。食べることに関しては俺はこの世界でも有数に早い方だと思う。ただそれを誇ったところで誰も感心してくれない。
いつもの駅の方に行って俺と同じくらいに貪欲なストリートミュージシャンがいないかを確認するが、この辺は田舎すぎてそんなこともなかった。
俺は学校一の人気者にもなれないのに、果たして有名になれるのだろうか? 閑散とした街を歩きながらこう考えてみる。時には意味のあることかもないことかもわからないところで火がつく可能性を模索する。
例えば一瞬でも変人に見られるというのはどうだろうか? 後ろ向きに歩いていたら注目を集めるだろうか。
思えば単なるパフォーマンスに過ぎない。
金を木に生らすような業を習得できればまた話は違ってくるが、俺にこのような才能はない。
血筋についても父親の仕事はおよそサラリーマンのそれだったから、最後には営業先で頭をペコペコ下げておけば良い程度のものと俺は感じ取っている。
それでも生きられない人がいるほど世の中それほど甘くはないというのは知っているから、自分だけがレールから外れることのないようにしなければいけない。
そんなことを考えていたら早くも夕方になっていた。地下鉄の辺りを散策してみると、列車に乗ることはなくても暇つぶしになる。俺は最寄りの駅から適当なところに乗っていって、降りるのは一駅か二駅か先である。その辺で自分の街へと戻っていくのであった。こういう金の使い方を俺はよくしていた。
家に帰ってきて風呂から上がると世界情勢を一通り把握しなければと、俺は携帯に指を乗せたり離したりする。そのうち現れる情報の中から重要なものとそうでないものを選別するのであるが、しばらく上手くはいっていない。今日は休日も終わりの祝日であったから、明日から学校へ行かなければならないということになる。
「大智君はさ、何か変なところがあるから面白いよね」
そう伊崎晴香が話しかけるのを俺は突っ伏しながら聞いていた。昨日の夜は結構夜更かしをして、何をするわけでもなくユーチューブの動画を見ていた。
日本で人気のユーチューバーのなんとかいうのを延々再生しているうちに寝落ちしていた。それでも母親が起こしてくれたおかげで今朝は寝坊せずに済んだのであった。
やや面倒臭いのを誤魔化すように顔を上げて俺は伊崎晴香の言うことに返事をすることにした。
「そんなことはないと思うけど、ところでさ、伊崎晴香さん、俺と人気者になろうって考えはない?」
「それってどういうこと? カップルチャンネルでも始めるの?」
「そんなところではないけれど、退屈な日常をここらで打破したい」
晴香はこの程度の誘いに乗るような女ではなかった。だから俺は休み時間が終わった後に先生の話に耳を傾けながら今後を模索した。
俺は昔から男友達はそれほど多い方ではなかった。俺自身はどのような人間であっても基本的に受け入れるつもりなのだが、反対に俺を受け入れる器がこの世界にはなかなか存在しないようだった。
「河田! お前また眠っているじゃないか、それほど俺の授業がつまらないというのか?」
俺を受け入れる気のない声に反論する元気はないが、そんなことはない。世界史の先生の授業の面白さで寝るかどうかを決めるほど浅はかな人間であることは俺に関してはない。今は学校の授業では学べないことを始めなければと、思案するために目を閉じていただけである。
クラスの視線が一つの権威によって俺に集まるのを目の当たりにしたが、普段眺めるようなSNSで先生と呼ばれるような人々は大抵漫画家とかその類であったから、俺にとって先生とは何たるべきかを思い直していた。
有象無象どもが気まぐれに頂点に立つ世界で俺が不動の地位を確立するために必要なことは何かといえば、人に教えられるような特別なことを一つ以上持つことである。そんな当たり前のことを見出すことができずにいた。
俺の周りには男も女も平凡な存在しかいなかったから、たとえ旅に出ようと誘ったところで彼らがついてくるのは高々日本国内までである。
海外まで飛び立つ覚悟のある人々を俺は追い求めている。青い。青い。と言われても全身が真っ青になるわけではないのだから、鼻の先くらい青ざめていても多少は認められるべきである。そんな風貌で歩いていたら、街行く人に迷惑をかけてしまうと思っている場合ではなく、実際雨の中に俺は立っていた。
「雨は自由に降り注ぐ。狼狽えることなく、後悔することもない。その時の色を褪せるようにするだけだ」
「それって誰の言葉?」
「俺以外の誰でもないに決まっているだろ」
その時に城井雪華は俺と同じ傘の下にいた。ただし俺らの関係はそれ以上でもそれ以下でもなく、時々こうして歩くことがあった。俺にとっては自由を感じることができる唯一の時間でもあった。俺は彼女とともに生きていく覚悟がある程度できていたが、それは俺の一方的な思いによるものであった。
俺は城井のことは城井と呼んでいて、俺のことは彼女に河田と呼ばれている。この呼び方で先へ進む気がないまま、それから俺と城井は二人して俺こと河田の部屋にあった。
城井は俺のベッドの上に座っていて、俺は机の椅子に座った。学校帰りの一日の終わりを過ごしている時間の中で俺は手に持っていた携帯の画面を見せていた。
その時の彼女は俺の情熱を伝えるには十分な存在だった。
「河田って意味わかんないけど、時々面白いこと言うからちょっと好きかもしれない」
「ちょっとで十分だよ。一から五まで評価する時に一だっていいんだよ。〇でなければ俺はなんでも嬉しい」
「そういうところは特別ではないけれど面白い素質であることに変わらないものかな」
俺は城井とともにユーチューブの動画を再生していた。特別に雨の日には何を見るべきかを考えたこともないから、界隈で人気の二人組を眺めて満足していた。自分がこのような存在であったとしても永遠に人気を継続できるのであればそれでよかった。
俺は永遠という時間を知るためにまだ不十分な歩みを止めるわけにはいけない。たとえば晴香がここにいれば三人で新しく何かを始めることができたかもしれない。自分の目的のために俺はただ進まなければならないが、自分の家と学校の狭間に監禁されているような状況である。
何か自分を人気に押し上げる道具がないものかを探っていくうちに、不得意な勉強以外の方法で生き方を見出そうとした。
それからしばらくして俺の目の前には最早何もなかった。ただ夜が広がっているのを確認して眠るための準備を始めなければ、深夜は迫っていた。今では俺が有名になることが許される世界ではないのだろうか、と疑問に思っている暇はない。明日からの一日に備えて生き方を整える時間が近づいている。
夕食は済ませていたため、俺は父親と話をすることにした。今後のことについてであるが、就職か進学かで悩んでいる旨のことを伝えた。俺は正直どちらでも構わなかったのだが、俺は自分の時間が取れないと苦しく、誰もいない中で一人自分自身と向き合う時間を必要としていた。
その次の日も学校に行けば先生と呼ばれる存在があって友達といえる友達はいなかった。城井と晴香を除けば時々話しかけてくれる女の子が数人存在する程度で、俺の宇宙は止まっていた。それ以上面白くなることがないのかと思えば些か苦しかった。それでもテレビを見るような時間にあっては、自分がこちら側の人間があちら側の存在かを紛らわせてくれた。
ところで現状この世界を支配しているのはIT系の大企業であると言える。
インターネット関連のインフラは全て抑えられていて、その中で何ができるのかを考えながら人間の競争は熾烈になっている。それでも価格以外のところであるから、あらかじめ連中に支払う金額だけ持って歩いていけば大体土台から外れることはないのだという。
果たして俺はこのような世界に生きるべきであろうか? この世界で活躍する方法が本当にないものだろうか? そう思った俺の手には百円玉が二つほどしか握りしめられていなかった。
それは時々駅に行くからか、そこで缶ジュースか何かを飲んでしまえば消えてしまう程度の量に過ぎなかった。それをも大切な時間の中に組み込んでいた。
ある自動販売機を前にして、果たしてこの俺はどこの誰と結婚するのだろう? と思いながらお釣りのレバーを押し下げることがあった。そもそも俺は結婚するのだろうか? 話しかけてくれる女の子はおよそ二名ほどしかいないが、どちらも見込みは薄かった。昨今の事情を鑑みれば結婚する必要性もなかったが、俺が幸せになれる物語以外を俺が希望していなかったのだから、選択肢の一つでは常にある。
何も持っていない者がどのように資産を積み上げていけば良いだろうか? 将来的に俺に資産などあるだろうか? そんなものはあるはずがないと言われても仕方がなかったが、いつでも父親との話の中で出てきた金は学費と給与の話に過ぎなかったから、莫大なそれを天秤にかけて選ぶほどの人間でもなかった。
俺は有名になるための方法を模索するための時間を追い求めていた。現状でも俺はある種の円環の中に繋ぎ止められていて、そこから脱出することが叶わない。
右手には携帯があり、世間的にはスマートフォンとかスマホとか呼ばれる代物であった。そこから左手を伸ばして机の上に置きっぱなしにしていたノートへとやってみたが、今では勉強する気など毛頭なかった。
それでも俺は賢い存在でありたいとは願っていたから、雨が止んだ次の日も俺は一人の女性と会話していた。それだけで特別な人間として彼女を扱うことが果たして適切であったか否か。気にしている時は虚しくても、城井という女は俺の世界に少しだけ組み込まれていた。
「城井は卒業したらどうするつもりなのかはわからないけど、俺と何か新しいことを始めようぜ」
「興味はあるかもだけど、でも私には私なりの自信というものを持っていないからなあ」
「構わないんだよ、簡単なことだから」
とにかく始めてしまえば良いものだと、俺たちという一人称で進行することにすれば、二人で生活を始めるというのもなくはなかった。俺の考えでは女性を女性として扱うことが困難で、男性を男性とするのも無理があった。俺にとってはどちらも同じ人間の別タイプであったから、当然のことである。
このようにして俺は学校を卒業してのちに城井と暮らすことになった。それを彼女が受け入れたのは俺には驚きであったが、俺はその中で活動しなければならない時間がある。スマートフォンを握りしめて立ち上がった時、俺のベッドの脇には城井が残していった陰が散乱していた。
そのうちの一つを掴もうとした俺は失敗に終わった。そのためもあってか月夜に暇を持て余した俺は、この世界で有名な人間について調べることにした。そういう人物は大概は日本人ではなく外国人、しかも拠点をアメリカに置いている人間であることが多かった。それはただ単に俺の印象に過ぎなかったにしても、日本を中心に活動することが本当に優秀な存在である所以にはならない。
「河田さん、ありがとうございます。私は昔からあなたのことを好きでした」
やがてそういう女性が現れた。俺は左隣にいた城井とともにイベント会場の主催側にいた。もはや俺は人気者になっていた。城井との暮らしをユーチューブで発信していくうちに、人気に火がついたのであった。俺はそんなことがあり得るはずはないと思っているから、夢ならば早く覚めたほうが身のためである。
俺は城井とともにお決まりのポーズをとった。なぜ自分の意思とは関係なしにこのようなことをしなければならないのか、もはや城のようになった俺たちの部屋の外にはすでに多くの人間が監視する状況があった。これをどうするべきなのかはこれまでの俺たちの自然が教えてくれていた。
「いつまでも応援よろしくね」
そう城井は応じた。しかし彼女は本当にそんなことを言いたいのだろうか? 俺には全くもってわからないが、ここまで有名になってしまうと他に有名な存在と交錯せざるを得なくなるし、批判の声も聞かなければ筋が通らない。時々否定的な意見に耳を痛めることがあれば、城井との生活に埋もれることもある。
「俺は本当に何をしているんだろう?」
「河田って昔からそういうところあるよね。自分が何をやっているのか自分でよくわからないって」
城井と雨の日を過ごしたことが学校通いの時代に何度もあったが、その内容のほとんどを忘れてしまった。今では俺は傘などではなく常にあるようなカメラに気を使わなければならなかった。スマートフォンで撮影をしていた時代は過ぎ去って、今ではそれが高級なものにすり替わっていたのだが、何も変わらないかのように日々を誤魔化している。
いつしか俺たちは少なくとも金だけは持ち合わせているようになった。俺は今でも自分の両親との関係が良好ではあるが、それは俺が彼らに仕送りをするようになったからでもあった。時に俺の手元に百万円を掴むことが企画の中にあった。それをよく思わない人間がいる中で俺に持てるものは金であって、関係であって、それが正しく城井だった。
俺と城井は普段生活している東京のマンションに帰る日が近づいていた。なぜ俺がこのような女性と同居することになっているのか、もう一度考えてみながら外を歩いてみれば即座に見知らぬ人々から話しかけられる。俺は時に気づかないふりをして握手をしないから、愛想が良い方ではない。
ふと頭をよぎったのは俺があの夜にインターネット経由で知ったノルウェイ・コンラッドという男に会う日が来るであろうか? ということだった。彼は世界一の人気を誇ったユーチューバーの類であったが、世界一の座からはすでに降ろされていた。俺が諸行無常という響きをこれほど如実に感じ取ったことはなく、別の感覚で表現すれば学生時代に人気であったドラマの主演の女優が結婚した時の寂しさにも近かった。
「ところで城井はさ、今のままの生活を続けていくことに疑問を感じたりはしないの?」
「今更そんなこと聞かれてもね……私は私なりの幸せがあるから大丈夫だよ」
「そう言ってくれるとありがたいけれど」
俺はホテルの近くのコンビニまで足を運んで、マスクを着用した。一応これでも人気者で人目を引くのである。かつて俺が俺の周辺に抱いていた疑問は大概が解決に導かれていたが、今でも意味不明なのはなぜ俺が俺のまま持ち上げられているのかということである。
何度でも確認したことではあるが、これは夢物語のようであった。自分のSNSをチェックしてみても確かに百万人以上のフォロワーがいて、いちいち呟くたびに反応してくれるファンもいた。たとえば夢の中に思い描いていたことであったのは五年ほど前のことで、一年また一年と過ぎるたびに状況は大きくなっていた。
ちなみに俺は最早河田ではなくダイチとして知られていた。単に俺の下の名前をとっただけであって、それ以上特に面白みがあるわけではないが、本名か否かは曖昧なままにしてある。城井の方は雪花として漢字を別なものにあてている。空港では特に苗字を含めた本名で呼ばれることから感慨深いものがある。
ところで俺は未だに伊崎晴香との関係をも継続していた。それは言っても友達以上のものではなかったが金持ちがタクシーには乗ることがあっても、電車に乗ることがないように、本来ならば俺と彼女との関係は交わることない。
喩えるのであれば彼女とは公共交通機関で同席するようなものだったが、学校時代の思い出をそこで語り合うことができていた。
「河田君ってすごいよね、まさか本当に人気者になるとは思わなかった」
俺は彼女のその言葉を聞き流すようにして、本当かどうか、彼女の目を見つめるようにした。俺は自分がどうしようもない人間であるということをこの五年間の中で把握するようになっていて、晴香も東京で暮らすようになっていた。自分との比較の上で一人で生きることのできる女性の強さというものを身に沁みて感じていた。
一人で生きるということがどれほど大変なことなのであろうか、と不思議に思いながら俺は夢物語のような城井雪華との生活に戻らなければならない。とは言っても彼女とのそれはいわゆるプラトニックな関係であったから、別々の存在が衝突しあって化学反応を引き起こしているという喩えがよく聞こえた。
俺は駅のホームに久しぶりに立って、流れていく人の様子を見つめていた。有名になったとはいえ人の多い環境では紛れてしまう。その程度の存在として俺は自分を納得させることがかつてはできなかった。今では自分自身の程度を受け入れなければならない時を認識している。
SNSを開いてみると俺たちの情報が流れてくることは基本的にはなかった。全てがユーチューブの円環の中に閉ざされているようなものであったから、全ての場所で語られるという状況ではない。俺が望んでいたのは街をゆく誰もが俺のことを認識するというもので、理由なく声をかけられるということである。
「河田さん……ですよね?」
そう話しかけられたということは人気に火がついているのは間違いがない。俺は特別に顔が良いわけでも頭の回転が速いわけでもないのに、なぜこのような一人の女性を前に立たせる能力があるのだろう? 考えても仕方がないから、俺は頭を掻いてそのままの手を伸ばした。その知らない女性と簡単に握手を交わしてから、すり抜けるように場所を移した。
「現代風というものに乗ったのかな」
「それは河田さんの実力が追いついたということではないでしょうか?」
少々違った名前で活動していても城井が時々河田と呼ぶものだから、先ほどとは別のこの女性にも俺の名前は河田さんでも通っていた。
今更プライバシーも何もない気持ちではあったが、ユーチューブチャンネルの登録者数が二百万人を突破しているあたり、最早全然関係がないともいえた。日本の人口の二パーセント近い数値とは実感が湧いてはこない。
その中には俺たちの事を適当に扱っている人たちの方が多いはずだから参考になる数字かどうかはわからない。それでも一つの到達点として百万人を超えた三年前の気持ちが蘇ってくるとどこか心地よい気がした。
そよ風が流れる中で、ハンモックをかけてその上に眠っていても誰も咎めることがないようなものである。ところで先ほどまで話していた女性は、駅のホームでのファンではなく、所属事務所の人間だった。俺と城井との関係を知っている数少ない人間であって、俺も多少は心を許していた。他愛もない話をできるような時間こそ俺が今求めているものであって、有名になりたいという意欲は減少していた。
オートロックの鍵を開いてエレベーターに乗って、数十階の階層を登って行った先に俺たちの部屋があった。暮らしている部屋はそこだけではなかったが、基本的に俺はそこに常駐している。たまに東京の街を歩くことがあれば、適当な人たちと立ち話をしなければならないから面倒であった。
俺には最早携帯を開く元気もなくなっていた。俺は本当にこれらのことを成し遂げたかったのだろうか? 有名になりたいと願っていたことは間違いなかったが、その方向性からの発展は通行止めである気がした。俺はSNSを開いて適当なことをネタっぽく呟くということを繰り返した。
『五十年先は宇宙エレベーターの先端に暮らしていたい』
『それまで人気であり続ける自信、身につけていきたい』
俺は今日のはそれほど面白くなかったと思いながらソファに寝転びつつ部屋の奥のカメラに目をやってからリプライを確認していった。反応はそれほど芳しくはなかったが、内容自体はどうでも良いようなファンの反応が上位に占めていた。俺は適当にため息をついてはそれらを脳内で既読にしていった。
そのうち城井が部屋に戻ってきて、俺たちに夕食を作ってくれることになった。俺は一人で生きることができない。それは人気がなかった時代から変わらなかった。何を食べるのか、今日何を食べてきたのかをまともに記憶していない。
「今日は河田の好きなハンバーグを作ろうと思っているよ」
「ああ確かに好きだったかな、ありがとう。いつも面倒なこと押し付けてごめん」
俺たちほどに金を持て余せば外食か出前で食事は十分事足りたのではあるが、昔からの伝統として晩御飯は城井が作ってくれている。俺は城井のことについて女性としてはそれほど興味を持っていなかったが、それでも一人の人間としては大いに尊敬していた。彼女のために生きていく人生は正直素晴らしいものだと思っている。
今後のことについて話し合う時間がないまま時が過ぎていくのを待っていた。再び夜が来て、俺たちは撮影をしなければならない。その中で色々と明かすことであったり隠すことであったりが出てきては消えていく。俺は重要なことをできる限り自分の胸の内に秘めるようにしていた。
初め八万人程度のフォロワーで燻っていた俺のSNSのアカウントが急激に伸び始めたのがなぜかを城井の隣で考えていた。気が張って眠れないこともあるが、次の日になれば疲れは取れている。大体の感覚は毎日同じように繰り返されていくが、本当にすごいものというのが現れる時を我々は待ち望んでいたのではなかっただろうか?
かつて俺はその本当にすごいものになりたくて仕方がなかった。そのうちそれを諦めなければならないと感じたのは俺の中で「俺たち」には城井の人生が含まれているという認識が生まれてきたからだった。
俺はこの人と結婚する以外の道はないのかもしれないが、それでも伊崎晴香の方が俺にとっては魅力的な女性であった。
それでも共に生きている城井と俺が二人で立っているという場合には大抵俺が右で城井が左になった。この立ち位置は特に言葉にして交わされたものではなかったが、自然とそのようになっていた。俺は抵抗することなく時々城井が右の手を伸ばすのを受け入れて繋いだことがあって、その時はそのまま上にあげた。
この世界では場面によって求められる行為も違っていたから、俺は時に一人で歩きながら今後の人生のことを件のノルウェイ・コンラッドになぞらえていた。
彼はおよそ欧米を中心にして世界一の人気者であったが、そのうち人気ぶりは忘れ去られていた。彼に対しては俺がライバル視していた時期があったから、最後まで交わることのなかったという悔しい気持ちを抱えていた。
「俺と城井もそのうち人気に翳りが出てくると思うけど、そうなったらどうする?」
俺が問いかけたことについて晴香は口をつぐんでいた。そこでは答えに困る質問をした俺が悪いことはわかっていたから、適当に謝ってその場を取り繕いだ。それから彼女との間に話すことを思い浮かべようとしたが、何一つ出てこなかった。だから適当に城井とのこれからの生活に想いを馳せていた。
晴香は俺と長い付き合いのある友達と呼んでよかった。中学高校が同じであって、高校を卒業してから俺は特に働きもせずに親の脛を齧っていた。自分の机はいまだに実家に残されていて、帰省するたびに古びる椅子の上に座る。ベッドに座るのは晴香であったり城井であったりした。
ある時に俺はそこでSNSを開いて自分のアカウントについているフォロワーの数を見て、満足を覚えるでもなく一つ心地よい感覚に浸っていた。数のためではなく、一つ大きな力を得たような錯覚を得られるから何かあっても、この中の数人に頼れば解決できるという安心感がついて回っていた。
俺は再び実家にいて父親と話をすることにした。未だに両親に対する尊敬は抱いていたから、俺の将来については心配してくれることをありがたく思っていた。父親は俺の目の前に座っていて、両肘をテーブルに乗せていた。俺はその様子を黙って見ながら、今後のことについてとにかく不安がらせないように伝えた。
よく知っている人たちとの会話ほど安心するものはない。SNSには多くの意思を失ったような怪物がうろついている。彼らと関係を持った途端腐敗する恐れがある。俺は自分の生き方を自分で決められないような人生はお断りだった。ただそれ以上に自分の意識が朦朧とする時がしばしばあった。
城井との生活に戻った途端また動画の撮影が始まった。ソファに寝転んだりしながら彼女とのバーチャルな方の関係性を発展させていくのである。俺はいつものように「お前といるだけで楽しいんだ」などと適当なことを言った。その程度の言葉で満足してくれる視聴者が確かに存在するはずだった。
俺の思考回路の宇宙の中では当然の導きであったが、楽しそうにしているだけで彼らは確かに活発になる。広大な海を遊泳しているような状態で日々が連なっていく。城井と立っている時があり、座っている時がある。たまの休みには一人で歩く時間があって、どこからともなく流れてくる風に吹かれるのが趣味だった。
俺はもはや元の命に戻ることはできない。突き刺さった宿木のために生きなければいけない時流が重くのしかかっていた。初めはそれほど大きくはなかったが、そのうち耐えられないほどの量に増大していった。
俺はその一つを抜いてみようと試みたこともあったが、無意味な響きで潰えた。
撮影の暇を見つけて公園の角に座った俺はコンビニで買ったおにぎりを齧った。それだけでも俺は人生の不足を解消できるような人間になっていた。心の余裕をバーチャル空間にとっていたから現実世界においておく必要があるのは、衣食住くらいのものである。ただ生きているような錯覚を覚える時間が続く。
俺にとって休みなどというのは実は幻想で次に行うべき企画を考え続けなければならない。俺はそれほど頭の回転が速いわけではなかったから、城井との小宇宙の中で偶発的に生まれる衝動に頼っていた。その時に彼女は俺の隣にはいなかったから、自分の右の手のひらを見つめて彼女の色を重ねてみた。
それは光のような色彩であった。自分から生まれるものではなく勝手に存在を始めたり消滅したりすることを繰り返しているだけである。掴み損ねると次に現れる時を待つのに数年の時間を要したりする。自動的に移し替えるだけの才能があれば、幾らでも取り繕うことができたはずだった。
俺にはなんら才能がないはずなのに、時々海外へ行くべき時期が訪れていた。俺の世界はそれほど拡大していたのだろうか? それは旅行の名目ではあったはずであるが単なる仕事である。俺は自分の意識の中では生きていくことができず、誰かの側の蛹として隠れて存在を始めようとしていた。
それは実際の景色を見ることなく、スクリーンに映し出されたものとの合成のような日々であった。晴香はそこにはおらず、学校の友達などはじめから持っていなかった。言葉にすることができないまま、俺は自分という時間を何かに巻き付けようと必死になっていたが、当てになるのは城井だけだった。
ついにその時がやってきたのだと俺は感じていた。それは彼女との関係を改善する時である。話をするだけ無駄かもしれないが、俺はこれらのことを休止するべきであると感じ取っていた。そのまま彼女に伝えることはできなかったから、それとなく匂わせる手段を模索していた。
「そろそろ俺たちも潮時なんじゃないかな、巡り巡って帰ってくるかもしれないけれど」
「そんなことを言っても、河田と私は始めから一緒だったじゃない」
彼女のいうことは尤もであるように思えた。それでも俺たちのことを本当に思っている人々はフォロワーの数に反して何万と存在するはずもない。本物と言えるのは俺の父親であり母親であり、その辺は錯覚の恐れはあったのだが、城井の両親は確かにそうであるはずだし、伊崎晴香もそのうちの一人に含まれるはずであった。
俺は時に適当なことを口にする癖があったから、城井に受け入れられることはおよそなかった。地下鉄の駅に乗ることが今後一切ないのかもしれない不安に襲われることがあり、自分の日常をどのように取り戻すべきかを考え直していた。もはや俺は俺として生きることが困難になっていた。
果たしてどこからやり直せば本当に有名になれたであろうか? 実際に俺は有名になったのだろうか? そんなことはないと返される程度には小粒である。自分という存在を大きくすればするほど丸くなっていく。つまらない球体のような存在を池に浮かべるようなもので、色彩も青白かった。
かつての晴香はこのような俺を受け入れてくれただろうか? 俺はどこかへ走りたい衝動に駆られるがそれも一時の話である。銀行口座に入っている預金残高を一通り眺めてみると実は一千万円弱であった。それというのも金の管理を人に任せていたため、自分の手持ちはそれほど多くはしていなかった。
感情的になってはいけないと思いながら、俺は動画の編集を自分ですることはなく城井に任せている。時々疑問を抱くこともあったが、城井はさらに下請けに回すような状態である。人と人とのつながりを重要視していれば話は別であったが、俺はこのままでは破綻することを確信していた。
「城井は危ないと思うことはない? この循環を止めないといずれ全て引き裂かれるような恐怖に襲われることが俺はあるんだけどさ、つまり自分の意思とは関係ない方向に壊れてしまいそうだと思わないかな?」
「私はそういうふうに考えたことはないから、河田がそうなんだと思う。それでもこれまで上手くいっていたんだから、多少難しいところができてきても難易度が急激に上がることなんかなくて、誰かの協力を得られたら乗り越えられるよ。きっと、私たちの周りには多くの人間がいるんだから頼るときは頼らないと」
俺の意図は正確には伝わらなかったようで、城井にとっては好意的な人間は友人であると感じているに違いない。決してそうとは考えられない事情があるのは、結局金回りがいい時だけは協力的になる存在としての苗木の方が人間社会には多く、金が与えられなければ自分の畑に戻って枯れていく。
俺はどのような場面でも城井と共にいるべきかを思って、自分一人の時間を減らそうとした。彼女は自分に厳しい性格であったから、「俺たち」の間に問題ごとを起こすことがないように気を遣っているようだった。俺はそれほど感謝していることはなかったが、そのうち破れると思うと不安に襲われる。
有名になっていっても自由には決してなることができなかった。大きな力を得たような感覚でいたけれども、結局監獄の中でもがき苦しんでいる様子をそうでないように思わせて人目を引いているだけである。これでは動物園のパンダと何も変わりはしないと頭によぎったところで、俺はしばらく動物を身近に感じていなかったと知った。
俺たちの小宇宙に一匹の小動物を遭難させてみると世界はまた俺たちから始まる渦の一つに引き込まれるのではないかと思案してみた。これはおそらく始めるには手軽な方法であるのであるが、終わらせることが非常に難しい。本当に大切にするべきはペットではなく隣や明後日の方向にいる人間であった。
俺はスーパーマーケットにいてショッピングカートを押していた。たまには買い物で気分転換をしなければならない。俺が買うものは限られているから、適当にお菓子のコーナーを訪れて自分が好きなものを入れていく。それだけで心潤う時があれば、気休めに過ぎない時もあった。
カートを左に曲げてレジに行くと店員がいつにも増して笑顔である気がした。俺はマスクを着用していたが、年齢で言えば二十代くらいに見えるはずである。最早子供とも大人とも言い切れない異様な大きさの物体を通過させるようなものであるが、店員は俺のことを知っている様子だった。
それから俺は一人で夜道を歩いていた。買い物籠に入っていたはずのものはレジ袋に移し替えられている。ものを持つことはそれほど嫌いではなかったから、仕事の後の休みの気持ちで運んでいた。街を歩いている人々を眺めてみると、三十代、四十代、七十代ほどのそれぞれ髪型を整えていない人々である。
年齢層は適当であったが、俺は自分ほど適当に生きている人間もないと知っていた。
そして城井との命の中に俺は新しい生命を宿している気分になった。それは自分の子供でも城井の子供でもなく、純粋に木のようなものであった。これが育てば育つほど価値のある実を生らしていくのである。
止まることがないまま俺は歩みを続けていた。どこまで行くこともできないのは、自分の命のほとんどを動画投稿サイトの中に放り投げているからであった。イメージ通りの生き方などできるはずはなく、偶然の産物を偶像として崇拝する人々の中をすり抜けるように生きていた。
人混みの中を進むことは今の俺にとって楽しいと言ってもよかった。俺は駅の中を滑るように通っていて、久しぶりに電車の中に乗り込んだ。俺のことに気がつく人がいないほどには混んでいたが、手持ちのレジ袋を行方不明にする可能性がないまでには空いていた。
俺は時々自分の人生の形を考えることがある。俺はあらかじめ選んでいたカードに戻るような筋書きではなく、その時々に作り上げていくものの価値を重んじている。初めは価値がないとされていた行為や動作に重みをつけていくようなものであり、俺のSNSの百万のフォロワーが後押ししていた。
価値のある数字というものは実は思い込んでいるよりは小さなものである。人と人との出会いを大切にするのであれば、俺はこれらの木々のような存在と交錯する可能性はない。果樹と言えるような人々とはそこから更に斜め上の方向に手を伸ばさなければ届かない。
『今日は久しぶりに外出しましたー!』
SNSにそう書き込んでから多少嫌味に聞かれないかと危惧したが、いちいち気にしているようでは大物ではない。俺はまだ正真正銘の小物であるから、大物にならなければ本当の意味で有名になれたとは呼べない。それならばマスクをしているのもおかしな話ではあったが、最低限のルールを守っていた。
電車の窓の外の風景を見ることができても、そこに映し出されていくのは無機質な建物ばかりであった。俺はこれらのうちの一つに生活をしていて、遠く霞んで見えた塔のようなビルがそれに一番近かった。吊り革が下がっている中で、一つ一つが違った方向に揺れていくのを目の当たりにした。
無機質なのは実はこの中にいる人たちも同じであった。俺の存在に気がついているものもいるはずであるが、声をかけるほどの勇気は持っていない様子である。俺の方に視線が集まるのを感じる中で、マスクを深く着用し直して、窓の方を向いて世間には興味がない風を装った。
余裕がある程度にはある人混みの中で繰り広げられる人間模様というのは勝手な方向に列を成して線状の兵器を作ることがない。それぞれがそれぞれの頭の中にあるものをパーソナルスペースの中に押し込めている。
隣の男性がスマートフォンに指を当てる音を聴きながら、俺はただ目を瞑っていた。
目を開けた時にはすでに目的地についていた。その時にはまだ夜であったから、放り出された時には孤独を強く感じ取った。一人で歩き続けて自分の住処へと戻る必要がある。俺は歩くでも走るでもない速度で階段を二段飛ばしに上がって行って、隣のエスカレーターに立ち止まる速度を超えた。
見えるものは見えないものよりは少ないはずである。俺の信条から書かれてある情報よりも書かれていない情報の方を大切にしたかった。自分との対話の中に見出される沈黙の金が確かに人にも価値があるはずである。俺は度々立ち止まって女に話しかけられることに対応していく。
最後と見積もった一人から離れた後で、俺たちという存在は男にも女にも同じように価値があるものかと考えて、自分の携帯の画面を見つめた。携帯の連絡先に入っているのは実際には事務所の関係者と城井と晴香くらいのものであって、他は俺にとっては有象無象に過ぎなかった。
その他大勢との関係性を五年先も継続できるはずもないと知っていながら、俺という回転に歯止めをかける手段をその中から探ろうとしていたからまっすぐ先に進もうにも曲がろうにも自分から妥協しなければいけない。俺はビルの立ち並ぶ様子を斜め上にそれぞれ見上げながら、自分の居場所を追い求めていた。
時々存在するものとしないものの間にある違いを隠せないかと考えていた。俺には自分にできることが特別には何もないと知りながら、それでも確信を持って壊れかけのものを元通りに戻せるだけの力技は習得していた。実際晴香との繋がりも俺から連絡を取ろうとしなければ消え去る程度には弱まっていた。
城井は興味の持てることがないようで、俺と共に生活している様子を垂れ流しているだけで生きていける状況に疑問を抱いてはいなかった。彼女の作る料理を食べることは俺にとっては癒しの時間であったが、外食するよりも味が優れていると思えるほど彼女を愛してもいなかった。
俺は何者にもなれることができなかったようである。それでも俺は俺としてダイチとして存在している。それが俺の住所であり、保証であった。城井は城井で、有名な女の子としての地位を確立していたから、俺よりは多くのものを所有しているはずであるが、そのようには振る舞わなかった。
有名になりたいという欲求がいつしか俺の中からなくなっていることを思い出したのは、城井と話している時ではなかった。俺は自分の心臓の動く音を聞いていて天井を見上げていた。それはソファの上であって、ベッドではなかった。眠りにつく場所など求めていなかったのにこの姿勢ばかり取っている。
このようなことを日々のルーティーンにしていなければ、俺は城井とどこまで行けただろうか? 有名にならなければそもそも金を稼げるような人間ではないから日本国内にとどまっていたに違いない。それでも十分遠くまで旅をすることができたはずなのに、今では不自由な格子の中にいた。
立ち上がることもできず、城井のいる方からの水の流れる音を耳にしながら眠りにつこうとしていた。回転する日々の真ん中にあって彼女と真正面から会話をする機会も減っていた。以心伝心とはいうものの、本当に大切なことは言葉にしなければ伝えることができないから、人間は人間を保っているのであろう。
俺という人間を押し付けることがないようにするために気をつけながら、テレビのニュースを眺めてみる。そこに映し出されている光景は大概東京の模様であった。キャスターは退屈にテレビをショーに昇華させようと奮闘しているようで、お笑い芸人やその他のタレントに相対していた。
なぜスタジオはポップなのに語られている内容はそれほど浅くも深くもないのだろう? などとどうでも良いことを思い浮かべながら日常の中に落ちていく。彼らは俺が手の届くところにあるリモコンを操作された途端に消えてゆく存在なのに、一つも焦ることがなく仕事としてこなしている。
一方の俺は常に自分の見られ方を気にしていた。そうでなければ生き続けることができない魚のような存在である。俺は自分というものを水揚げされないように潜みながら、隙を見て餌に食いついている。わずかな食糧の中でなんとか城井の分前を確保している状況である。
気がつけばSNSに書き込むべきことも無くなっていった。
俺は自分の存在を確定させることから逃れようとしていた。全てが敵のように思えることもあったが、城井は味方でいてくれた。常に俺との生活の中にあって、城井は何も求めてはいない。俺にはそれが不思議でたまらなくなる時がある。
人々はむしろ自分自身に興味を持っているようであるから、俺たちに仕えるはずもなく、実際には身勝手に笑顔を浮かべている。自分の表情を鏡で見たことがないのだろうか? 俺は自分の顔を見つめ直して、これが人より良いと言い切れたなら人生は違ったものなったであろうと頬を撫でる。
心には常に傷がついているので完全に修復する手段を追い求めている。俺は自分の部屋を持っていたはずであるが、いつしか失われていた。気がついた時には自分がすり抜けていて、どこからともなく侵入者を招くのである。それは誰でもない誰かであって、俺を見つめる俺以外の全てであった。
要領よく生活するものがそこにはいなかった。俺は自分の携帯を取り出して、ユーチューブで自分の動画を再生した。何が求められているのかを再確認する時間を持ったのであるが、その時にはその時の雰囲気があったからこそ成せた会話がある。
再現性の高さは活動を長続きさせる上では必須のはずだが、俺たちの自然には俺たちでも逆らえない。
俺は二つの欠片を見落としているかもしれない。一つ目は高いもので、二つ目は安いものである。
俺たちの中で大切にするべきものがあったが、いつしか失われている。適当に扱って良かったものもあったが、全てを拾っていかなければ気が済まない頃があった。
テレビの奥の人間模様は隙間を埋めるように流れていく。俺が入り込む余地などないはずであって、たまに同業者と呼べる存在が現れたり消えたりを繰り返している。誰かが指摘しなければ見逃していたかもしれない程度に、燃えるような喩えがあるのならばそれは蝋燭よりも花火であった。
「雪花って結構可愛いところあるよな」
「そう? 私はそういうところに気が付かないんだけど、ダイチが言うならそうかもしれないな」
ある動画の中での俺たちの当たり障りのない会話を眺めていた。単純に城井が物忘れをした時に突っ込みを入れたのであるが、自然と生まれる会話の流れに何か力を感じ取っていた。俺は彼女の力がなければ言葉に力を持つことはなかったはずであり、俺の言葉はインフルエンサーとして働いていた。
俺自身と俺から出た言葉は別物であるのか、それとも同じものを別々に表現したものであるのか。哲学的な思考に落ち込むにはまだ時間は早かった。俺は自分の言葉が時に洪水のような力を持って、人々を薙ぎ倒すような妄想に駆られたり、俺自身が攻め込まれて討ち取られる想像を作ったりする。
俺の言葉は剣のようには働かなかっただろうか? 炎のように揺らいでいただろうか? 一日の終わりにも始まりにも同じような煩いに捉われる。城井は自分の発する言葉をいちいち気にしている様子がないから、彼女こそ真に天才かもしれないと思う時があった。
昔からのことであるが、俺の興味はとても限られていた。自分自身を有名にするにほかならず、それは半分ほど達成できたまま停滞している。その半分も城井の力がなければどうにもならなかったのではあるが、それでも構わない。問題は何者にもなれないまま時間が過ぎ去っていき、広大な海を目の前に砂浜に座り込んでいることである。
人間は進化し続けなければ停止するはずである。俺は自分の命を砂漠から砂漠へと運ばなければいけない。自分の置かれている環境で思えば地球よりも大きな惑星の中にいて、そこに意志を持った生命は俺以外に存在しない。城井は自然現象のようなものであって、勝手に大きくなってから突如消失するものである。
炎のような現象ばかりに気を取られていては、突然降りかかる大雨に対処できない。俺の気持ちはすでに折れそうであったが、毎日同じことの繰り返しでは段々と人気が陰っていく。不意に訪れる自然現象は俺以外の人気者もそうであって、無意識に全てを成し遂げる偉大さに圧倒されていた。
俺が想定していたことは結構な割合で当たらない。だからこそ、頼るべき人間を追い求めている。人間は時に残酷であるから、人の求める助けを伸ばした手で切り落とす。後ろ向きに強い言葉に呼ばれれば振り向くのであって、そこに俺たちの関係者が佇んでいる可能性はない。
安定しない船の上に生活をするような時間が続いていく。俺の世界はそれが現れてから五年目で完成を迎えて、その後はそれを操縦しながら乗り切らなければならないようだった。果たしてその器に城井は含まれていただろうか? 彼女だけでも一人で生きていける状況を作るために、俺たちは別れるべきであろう。
俺が天秤にかけるようなものは、いずれも印を押されているものに限られていた。誰からも認められていないもののために生活を投げ出せるほどの勇気は持てていない。命という限りある時間の中にあって、人から尊敬されないという経験の連続は俺をすり減らし、劣等感ばかり増大していく。
それでも本当に力ある人々には及ばないということは確かに知っている中で、夢物語の中に現れる人物たちと自分自身との繋がりは実際には薄弱であるのに俺の存在が日本国内で知られるようになった。発言も時に注目される場合もあって無意識に発動した心が針鼠のように転がっていく。それが人の身を傷付ける兵器となるか、自らを手助けする仲間となるかは人それぞれである。
やがて俺の本当に有名になるという望みは獲得し得ない次元へと逃げ去っていた。確かに向こうに見えるはずのものに触れようとすると透明なバリアが張られている。俺には触れることのできない力があって、有名になるための自然を別に獲得する必要がある。俺の中でそれはただ城井であって、彼女でなければ意味がない。
発信を続けているものは気が付かない場合が度々あるが、いつしか人間というものは変わり果てていく。俺はその変化に敏感でなければいけないと感じ取って、自分自身を鏡の中に見つめようと試みる。そこにいるのは最早擦り切れそうな少年でも青年でもない何者かであった。
何者とも言えない存在のために人間は資本を投じない。俺は正しく俺であるという確信を持つために、時々外の世界に出て歩き回る欲求を満たしている。俺の世界に入り込もうとする人々を時には迎え入れて愛想を良くした。特には女性のファンがついていたが、城井の存在は不可欠であった。
再び声がかけられるのをそのままに、俺は自分が有名になりたかった時代を思い出して一人の女性を暖かく受け入れた。彼女は二年ほど前から俺たちのことを知っているなどという反応を見せて、「応援しています」などと適当な言葉を付け加えて、俺に軽く握手をさせて去っていった。
こうした関係も永遠に続くものではないと知っているから、そのうち反応は希薄なものに変わっていくに違いない。俺は自分の顔をショーウィンドウに映して、自分の顔が傲慢なそれと違わないかを目視した。天然の存在である俺の肉体は確かに歳をとり始めているようで、かつての若々しさは失われていた。
そのために俺は逃げ出したくて仕方がない思いに駆られることがある。それは俺が命という監獄に閉ざされているからであって、自分からすり替えるほどの知恵を持ち合わせていなかったからである。
ライオンはライオン、ハトはハト。
それなのに俺は俺ではなく、俺の言葉という偶像の中に隠されそうになっていた。
空虚な気持ちに囚われたままではいけないと、俺は立ち止まった。人混みのスクランブル交差点の端であった。人々が過ぎていく様子を振り返って、自分の小ささを感じ取った。俺はこの人たちにとっては何の重みも持たない影なのであるから、この世界の本当の影はそのような人間が折り重なっている。
城井との関係を続けるべきかどうかを悩みながら歩き出した。俺は立ち止まることができずにいて、自分自身を見失いかけていた。疲れが押し寄せてくるのを肌身に感じながら、見える景色を横目にしていた。まっすぐ前を見られずに、小粒になった人影をそれぞれ数えるようにしていた。
この世界に自分の居場所など存在するだろうか? 俺はただ生きていくための矛盾に壊されそうであった。どこを見ても人間は人間のためではなく、自分の作り上げたもののために働いている。俺はこれまでの生活を通じて何を生み出してこられたのか、心を折るような時間をかけて月を描こうとしていた。
空に輝いているものをポケットの中に仕舞い込む業を求めていたのかもしれない。不可能な現実のために苦しんでいるのは俺だけではないと知って、どこからともなく舞い込んでくる衝動的な言葉の切先に傷を負っていた。俺は実験的に成し遂げられていくほど甘くなく、確かなもののために生きていた。
俺にとってそのようなものが何かを思い出せば城井だった。そこに晴香が入り込む余地などなく、俺たちの関係性の中には果たして三人目の登場人物が現れるだろうか? 時々事務所の関係者が顔を覗かせる場合はあったが、彼らは隙間から手を伸ばしているもので、俺から捕まえられないような状態にされていた。
俺は諦めることから逃れようと、日々の暮らしぶりを思い出していた。異常とも言える生活は俺を別世界へと連れていくことが時々あって、現実から離れたところに命を置いていた。かつては進むべき時間があったのに、今では戻らないように流れの中に掴まっているだけで必死であった。
SNSの空洞に現れる人々を眺めるようにしながら、俺は道の上に立ち上っている煙のような証言者を一人一人数えていく。彼らは自分の意思とは関係ない部分で果たすべき役割があるようで、電車の前に潰えた人相を自然の成り行きでスマートフォンの中に収めていく。
このような景色に遭遇した試しがないから、俺はまだ人間を続けられているかもしれない。女の隣に座って話し続けるだけの時間は俺にとっては些か苦痛として記憶されている。屈辱ではないが、破廉恥な表情が俺の前面に隠されている。世の中は全く不公平なもので、不幸を叫ぶだけの余裕が俺にはなかった。
幸せになりたくて仕方のない世代ではないのだから、道端に見つけた花のように綺麗な姿のそれとまとわりつく土とのコントラストの間に真実を描こうとしている。俺は再び立ち上がって、自分が周りの人間から外れている事実に気がついた。コンクリートの橋の下であったり、ただ土を含んだ水の流れる川の右斜め上であった。
隠し場所は明らかにしないでいて、俺の大切なものをかき集めている。言葉の力を信じているのであれば、またそれをそのまま止めようとするのであれば、そこに永遠にあるはずである。俺にとっての永遠とは小さな宝石を象ったものであるから、本当に大きなものを扱える人間とは心が通じ合う可能性などなかった。
例えば広大な世界観を扱うゲーム機は昔からその形を変えながら、中高生くらいの男の子の手元にあらゆる角度の小さなコントローラーを握りしめさせる。俺は撮影の只中であったり、その合間であったりに、城井とゲームをすることがあって俺の幸運と彼女の実力の間の差額のために時に勝ち進んでは、心の奥で申し訳なさを浮かべていた。
俺は憂いを含んだ水のように流出していく自分のものをかき集めていた。一人の人間として可能な限り立ちあがろうとして、ソファに沈み込んでいくのを防ぐのである。城井はそこにはおらず、俺だけが取り残されている。どこへも行けない言葉を流す先に選んだSNSに日々の退屈を書き連ねていく。
残された時間はそれほど長くはなかった。活動を続けていられるのも長くても二年くらいのものと見積もった。俺の予感は当たることもあれば、外れることもある。参考にはならないからと、城井に伝えたところで杞憂であると笑われるのがオチであった。
街の真ん中には歩いていくことができなかったので、俺は外れの方に立ち尽くしていた。空を見上げると一番星が浮かんでいて、雲の間に消えていった。そのうち出てきた月に光の順位を譲っていた。ビルの間には俺たちが求めていたはずの永遠に近い川を作るだけの人間の叡智が隠されているのであろう。
赤い時間から離れていくのが億劫であったので、俺は再び街の方へと戻っていった。夜の道には目的を持たない人間が幾つも蠢いていて、俺はそのうちの一つであった。ただ友人との時間を過ごすという日常には、意味のある映像を流していても、教訓を得られるでもなくすぐに狂騒へ失われていく。
花のように小さな命を取り損ねていたために、俺自身は果てしなく育っていた木々の中程にあった。城井との生活は六年目を迎えようとしていると気がついた頃には、俺の情熱は陰っていた。本当に求めていた人々との出会いは虚しく、有象無象と切り捨てていたはずの人物と深く結びつこうとしていた。
生きるために俺は必死の様相を呈さないように注意している。目の前に見るものが勝手に滑っていく現象に俺たちを重ねてみて、最近の事情を思い返した。そのような時間には孤独を深めるのであるが、城井が帰ってくるたびに回復するものだから、延々と誤魔化され続けている。
頭の良い人間であればここから挽回する方法はないかと新しい道を作れるものである。俺たちの人気は実際には停滞していて、良くも悪くもなってはいなかった。街を歩けば声を掛けられる頻度は増えたり減ったりしている。俺は時代の流れに乗っただけの調子の良い男としてバーチャルの世界に振る舞う。
用意された席などなく、最後まで立っている人間にならなければいけなかった。そのように有能な存在は果たして機械にしか作り得ないアルゴリズムに過ぎない。毎日同じことを繰り返していくのをパターンを取り替えて適当に取り繕う。自然現象に任せるのを拒否して、ルーティーンワークに全てを落とし込んでいくのである。
いつも通りの日常を繰り広げるのは一回きりの人生の中でしかあり得なかった。俺たちの望んでいたはずのものは二人きりの生活のために得られたのであろうが、これもまた機械的である集団に周囲を埋められていく。出会うはずのなかった次元の人々と、望んでもみなかったポーズを取っている。
木々のように世界は広がっていった。森の中に迷い込んでいると感じ取っていた。回転するのを止める時には苦労するはずであるから、ゆっくりと引き延ばしているのをバレないようにしている。俺と城井の関係が発展を見ることなく、退屈に思う視聴者のために自らの自然を変えるべきではなかった。
SNSや動画投稿サイトを通して得られた循環を武器にして、朝から晩まで生きているふりをする。俺は最早機械の中に取り込まれていると知っていたから、自分という存在を押し込める先を綺麗にしてきた。付け加えられるものは多くなく、取り除かれていくものばかりになり、俺は俺を捨てていた。
六年目は五年目より長くなるつもりでいた。俺の生き様を理想的に思う人間などこの世に存在するはずがないと錯覚している。勘違いをするものは山ほどいて、城井のいない生活をしている俺になれなかった俺のような何かである人々はつまらない日常の中に俺という存在をハードルにしていた。
俺はすり抜けていく時間の中に城井と出会った高校生時代を思い返していた。彼女はどこから来たのか、と言えば同じ人間の群れの中から現れたのである。それでも彼女が力ある言葉として機能しているのは、それが枯れない花びらのように永遠に教室に舞い続けている一つの理想に近かったからである。
俺はどこへ行くこともできなくなっていたので、同じ部屋の中で寝返りを打ち続けていた。体が鈍り続けるのをそのままに、城井が非現実世界に行くのを追っていた。時々晴香という女性を目の前にして、彼女の前に眠り続けられる日々こそが俺の理想ではないかと考えるようになっていた。
後ろから撃たれるようにして気がつくのであるが、俺たちと同じような存在は次々に生み出されていく。生成しているのは彼ら自身ではなくインターネットの背後の海の幽霊なのではないかと俺は思っている。俺たちは彼に囚われているが、城井は自覚のないまま彼を満足させる立ち居振る舞いを日々延長している。
これでは俺がレンタルされているようなものではないか、と自分自身を地面に叩きつけた。目の前に広がる光景は青い空であったり、白い雲であったりする。砂浜に横たわる俺に吹き付ける潮風は、休憩時間の安らぎを城井とは無関係のところに与えていた。
「私しばらく船に乗ったことがないな」
「俺は船酔いするだけだから、どんな状況でも飛行機の方がいいよ」
俺は城井と浜辺のカフェに座って波の音を聞いていた。彼女は高校生の頃のあどけない少女から大人の女性へと成り代わっていた。俺は俺でただ歳を重ねているだけであって、年齢に相応した振る舞いを取れていない。
木のテーブルの上には冷たいコーヒーを入れた器が二つ交わらずに並んでいた。
「城井はさ、俺と生きていくだけの人生なんてつまらないとは思わないの?」
俺の言葉に応じた城井はいつもと変わらなかった。俺は何度も同じことを言っていると反省して、彼女との会話を切り上げた。周りには他の人間はその時にはいなかったから、二人の関係は特別なものと誤解を生みかねなかった。俺と彼女との関係は何事もなく進展することもないのである。
「私は河田のこと面白いと思っているから大丈夫だよ、それより私が心配しているのは、あなたが私以外の女の子に興味を持たずに人生を無駄にしているんじゃないかなってこと。私に興味を持っているのかは置いても、人間発散したい時はあるはずだよね」
俺は昔から変わらないところがあって、それはただ単に有名になりたい以上の欲求がないということだった。だから男も女も有象無象か本物かで判断してこなかった。自然と本物に近い偽物ばかりの領域に俺たちは接近していたから、出会う人々に騙されそうになっていると感じ取っていた。
俺は人気に翳りが出る時期が差し迫っていると感じている。城井はそうではない様子だったから、時々晴香に話しているのであるが、彼女との関係は城井には特に知られていなかった。お互いの間に隠し事を作らないというルールはなかったから、言葉にする必要のない話はしないようになっていた。
俺の隣にいる女性を幸せにする方法があったのだとして、俺は全てを投げ打ってそのために生きるべきであろうか? 人気者になるというのは俺の目的であって、城井のものではない。彼女はただ人と人との繋がりに感謝を覚えられるような人間であって、俺とは人種が全くと言っていいほど異なった。
彼女との会話は時に俺を苦しめるようであったが、それは彼女から出るものではなく俺の言葉を彼女に理解させまいとするためであった。俺は人気者になっていたが、意味のわからない男として知られている。城井の方は常識を持った女性として一般的には理解されているが、一般とはなんであろう?
俺たちを知る社会というのは想像しているよりも広く、また狭い。それは滑らかではなく至る所に棘を持つような形状をしているからかもしれない。SNSという円環の中には閉じ込められていないが、SNSから来る破裂によって現実世界に顕現しているようなものであるに違いなかった。
スマートフォンの画面を上に向けて歩いている人々は飛び出る情報に傷をつけないように気を遣っている。俺たちは当たり障りのない存在であったから、彼らを下から貫く剣のようには働かない。丸い小動物のような影としてスマートフォンの下に重なっているようなものである。
城井は俺から離れても生きていけるだけの力があるはずであった。俺には逆にそれがないと知っている。彼女に依存しないように気をつけていれば、いつしかインターネットの機械構造や体系の都市といった実態に飲み込まれた程度の低い人工知能のように機能する。俺たちは最早インターネットにデザインされていた。
そこらに現れる声のような声は聞こえないものほど正確であるから耳に入る情報は大概無視してもよかった。それでも俺たちの命は木のようであり、それを育てる太陽は音を鳴らして上ってくる。俺はこれまで日が出ている間だけ働けば良いと思っていた時期が長かったが、日が暮れれば生き残りをかけた戦いが始まる。
何も生み出せない時にそれでも生まれてくるものこそが本物であると聞こえてきた。俺の中の信条として作り出された言葉なのではあるが、才能はなくても形にできるものは何かあるはずである。城井は現実世界の女性としての原型を持ちながら、インターネット上の価値として整形される見込みがあった。
俺には何の実力も無かったのにも関わらず、一人の女性の力によって人気者になってしまった。天性のものは髪の毛のように頭から伸びている。その一本一本を再現するのは難しくなくても、数万本ともなれば本物の輝きを失っている。俺は自分の髪に手を伸ばして、その尋常さに嘆いた記憶があった。
ゲームのような世界であれば苦労するはずはなかったが、人間を人間として扱うのであれば一つ一つを枝のように見ていることはできない。それは確かに木々として命を与えられているものである。俺はそのうちの一つの心という確固たる部分を奪おうとして失敗に終わってきていた。
SNSに何を書き込んでも反応はそぞろであり、俺の命はユーチューブの円環の中に押し下げられている。SNSのフォロワーは百万人を超えているものの、そのどの一人をとっても黒い糸のように思えた。生命の息吹を感じ取るのは光を移して輝いている時であったが、生命由来の糸はもはや死んでいる。
日常生活の中に見出されるものに命を吹き込める才能を俺は望んでいるだろう。何から始めても生きられる世界こそが俺の理想に近くなっている。道を歩いていても発生する会話は最早初めから取り決められているようで、俺にとってファンという存在は死んでいるも同然に受け取られていた。
俺と城井との違いはその辺にあったかもしれない。彼女は自分を受け入れてくれる人々に対する好意を強く持っていたから、俺とは愛想の良さも段違いであった。高校時代から何も変わっていないと思えるのは彼女の無意識の部分に継ぎ足されている才能によるものではないだろうか?
「河田は昔からちょっとだけ面白いところがあるけど、ちょっとだけってのは変わらないよね」
俺と城井の動画の一つに残されている言葉が再生された。俺は城のようになった俺たちの部屋で一人彼女と撮影した動画を再び見ていた。何が面白いのかはわからない時もあるが、面白いからといって受け入れられるわけではない。俺は自分に少しだけ異常なところがあるとは自覚しているが、それが彼女との間にうまく働いただろうか?
俺は人間は働くのでなければ生きていく意味がないと思っているのであるが、俺自身の現状は死んでいるに等しかった。日々の生活は惰性のうちに繰り返されていて、気がつく者がないままに堕落している。時々復活の機運が高まるたびに、城井という存在に圧倒されて俺自身の木のような命は終焉を迎える場合が多かったと言える。