そよ風堂の「小さな花束」
町の小さなパン屋「そよ風堂」は、駅前の商店街の一角にある。
木製の看板には丸みを帯びた手描きの文字で
「毎日、焼きたて。」
と書かれている。
店内から漂う温かなパンの香りは、通りを歩く人たちを引き寄せ、ほっとした気持ちにさせる魔法のようだった。
店主の桜井杏子は、ここで一人パンを焼き続けている。
亡き祖父母から引き継いだこの店は、彼女にとって家そのものだった。
外は冷たい冬の風が吹いていたが、杏子は焼きたてのパンを並べながら、心の中までじんわりと温かくなるような充足感を感じていた。
その日、いつものように店のドアが軽やかに開いた。
風鈴が小さく鳴り、ふと顔を上げると、小学生くらいの男の子が立っていた。
分厚いマフラーにほっぺたを真っ赤にしながら、彼は少し緊張した様子で杏子を見上げた。
「こんにちは。どうしたの?」
杏子は優しく声をかけた。
男の子はしばらく黙っていたが、ポケットからそっと100円玉を取り出し、小さな声で言った。
「あの……パン、ひとつだけでも、買えますか?」
杏子は少し驚きながらも微笑んだ。
「もちろん。どのパンがいいかな?」
男の子はガラスケースを覗き込むと、一番小さな丸パンを指さした。
杏子はそのパンをそっと紙袋に入れ、彼に渡した。
彼は小さな声で「ありがとうございます」と頭を下げて店を出て行った。
その日から、彼は毎日のようにやって来た。
買うのはいつも丸パンひとつだけ。
杏子は男の子が家でどんな暮らしをしているのか気になったが、あえて聞かないことにした。
ただ、パンを渡すたびに彼が見せる小さな笑顔が楽しみになっていた。
ある日、杏子はいつものように彼のパンを袋に詰めながら、さりげなく言った。
「今日は特別サービスで、この焼きたてのクッキーもおまけにしておくね。」
彼は目を丸くして
「いいんですか?」
と尋ねた。その素直な反応に、杏子は心が温かくなった。
「もちろん。いつも来てくれるお礼だよ。」
男の子は嬉しそうに笑い、そそくさと店を出て行った。
その笑顔を見送る杏子の胸には、小さな幸せがじんわりと広がった。
ところが、ある日を境に男の子はぱったりと来なくなった。
杏子は少し寂しく思いながらも、彼には彼の事情があるのだろうと自分に言い聞かせていた。
それから1週間が過ぎたある朝、店の前に小さな封筒が置かれているのを見つけた。
杏子が封を開けると、中には手紙と、小さな花の絵が描かれた紙切れが入っていた。
手紙には、たどたどしい文字でこう書かれていた。
「いつもおいしいパンをありがとうございました。
ぼくのお母さんが病院から帰ってきて、やっと一緒にごはんを食べられるようになりました。
そよ風堂のパン、すごくおいしかったです。
お母さんにも食べさせてあげたいってずっと思っていました。ありがとうございました。」
杏子はその手紙を持ったまま、しばらくその場から動けなかった。
小さな男の子の真心が、彼女の心を優しく包み込んでくれていた。
それから数日後、男の子が女の人と一緒に店を訪れた。
その女性は深々と頭を下げ、
「息子がいつもお世話になりました」
とお礼を言った。
「こちらこそ、いつもお買い上げありがとうございました。」
杏子は同じように深く頭を下げてお礼を述べた。
やや、やつれた女性の顔には、それでも温かな笑みが浮かんでいた。
「素敵な手紙をありがとう。お母さん、元気になって本当によかった。」
杏子がそう言うと、男の子は少し恥ずかしそうに笑った。
彼の手には、杏子へのお礼だという手作りの花束が握られていた。
それは彼が野原で摘んできたと思われる、素朴で可愛らしい花々だった。
「これ、そよ風堂さんのために作りました!」
その言葉に、杏子の目頭が熱くなる。花束を両手で受け取りながら、彼女は心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとう。とっても嬉しい。お店に飾らせてもらうね。」
その日以来、そよ風堂の店先には小さな花瓶が置かれるようになった。
男の子がくれた花束が飾られているその場所は、まるで店のシンボルのようだ。
風が吹くたびに揺れる花々は、男の子との優しい思い出をそっと語りかけてくれるようだった。
杏子は思うのだ。
「パンが焼ける香りが誰かを幸せにしているなら、この店を続けていく理由は十分だ」と。
静かな町の小さなパン屋は、今日も穏やかな風を届けている。