09 精一杯の謝罪
「働き者の上司の下は、働きづらい」という話は、聞いたことがあった。
家庭教師からも「女性が表に立つと角が立つから、初めは何もできない人間のふりをしろ」と言われている。
けれどそれは、あくまでも女性だからだという話だと思っていた。
「どうしてそう思うの? よく働く方なんて素晴らしいことでしょう?」
「同僚ならそりゃいいですよ。でも、一番上の方が休まれなかったら、私達も休みにくいではありませんか」
程なく、後ろから「一気に締めますよ」という声がして、シャーリングのあるウエストがマリアリーゼの薄い腹部をギュッと抑えた。
リボンを引き上げる力には、いつもより感情がこもっている気がした。
「確かに、それは一理あるかもしれないけれど。忙しくしなければならない理由もあるんじゃない? じゃなきゃ貧寒伯爵だなんて、噂にはならないでしょう」
支度を終えて鏡台の前へ座らされたマリアリーゼは、そのまま話を続けた。
共にミレニアム家からこの屋敷へ来て、裏側を見ている彼女にしかわからないことがありそうだ。
「お嬢様はもう、あの方の味方なのですね」
「味方? まさか」
(まだ数日。ほんの少し会話を交わして、交流しただけ。きっとあの方は、私のことを味方だなんて思ってなんていないわ)
否定するように鏡越しに目線をメイドへ投げると、メイドは小さくため息をついた。
「そんなことありません。お嬢様に関連する方の目は、私が一番よく観察しています。あの方はお嬢様を大切に思っていらっしゃいますし、お嬢様はあの方を見て頬を赤く染めすぎです。……特に昨日の夕食ったら。ひどかったですよ」
メイドは思い出したとばかりに昨日の夕食の様子をクドクドと何度もマリアリーゼに語ってみせた。
農民たちがマリアリーゼを珍しそうに見ていたけれど、不快ではありませんでしたかという問いかけに、なぜか「私もそう思います」と答えて苦笑いされたり、ワインのおかわりはどうかなと聞かれて「どうしてそのように?」と返事をして困らせたり……そんな様子だったらしい。
話を聞いて愕然とする。10回目までのお見合いと、まるで何も変わっていない。
「またやってしまったのね、私……」
決して、わざとではない。
けれど、緊張して相手の言葉を聞き取る余裕がなくなり、無駄なことばかりを考え、訳のわからない言葉を返してしまう令嬢だなんて、他に聞いたことがない。
「それで、アレクセイ様のご様子は?」
「……そこで怒ったり、嫌な顔をされるような方だとお思いですか?」
「では、ない……と、思うわ」
「その通り。話が止まってもニコニコとして、お嬢様の言葉を待っておられましたよ」
まぁ結局会話は最後まで噛み合ってませんでしたけどね、とメイドは釘を刺した。
「そのおかげでこれまでのお相手様に残った印象は『偏屈』『奇人』『変人』。それで今回の伯爵様ですから……ある意味では大したものかと」
「ある意味では?」
メイドの言葉には、どこか棘がある。ムッと鏡越しにメイドを見れば、小馬鹿にしたような口角の挙げ方でこちらを見て笑っていた。
「数回の見合いではこういう穏やかな方とは、なかなか出会えなかったじゃないですか。それに22歳まで乙女を貫いて、独身の身でいらっしゃるのは……なかなか難しいことのように思いますし?」
私は今度こそ貰われていただきたいですけどね、とウインクすると、メイドは薄紫色のリボンでマリアリーゼの艶やかな銀髪をひとまとめにした。
彼女はそのまま髪の束を指先でくるくると丸め、首の上のあたりに作ったお団子を小さなピンで止めて、綺麗なドーム型にまとめた。
「さ、伯爵様にもたっぷりの謝罪と弁解をしてきてくださいな」
手についたオイルをさっとタオルで拭きとったメイドは、マリアリーゼの背中をポンと一度軽く叩いて、早々に部屋を後にした。
「……別に、気になんてなっていませんわ」
口に出すと、自分の嘘がはっきりとわかる。鏡には口を尖らせて頬を染めたマリアリーゼが写っていて、余計に照れる気持ちが込み上げる。耳まで赤くなってしまった自分を扇子で少し仰いで、深呼吸をする。
平常心、平常心と呟きながら、マリアリーゼはギィギィと軋む階段をゆっくりと降りた。
(何から伝えたらいいかしら。そもそも聞いていただけるのかしら)
一歩、また一歩と進むと、彼のアンバーの髪が手摺りと子柱の隙間からチラリと見える。ウロウロと歩き回っている彼は、なんだか焦っているようにも見える。
「あ、あの……アレクセイ様」
最後の数段をタタタッとリズミカルに降りて、彼の方へと急ぐ。
「レディ! 先程はあまりに軽々しく、無礼だった! すまなかった!」
マリアリーゼが降りてきたことを確認したアレクセイは一目散にマリアリーゼへ駆け寄って、腰を折るように頭を下げた。
「いえ、あの、それより私も……謝りたくて」
(彼が部屋に入ろうとしたことなんて、どうでもいい。それよりも昨日の無礼を詫びなくては)
一度大きく深呼吸して、心を落ち着けようと試みる。どくどくと流れる血液を身体中で感じる。
「昨夜の私の振る舞いについて、どうかお許しください。恥ずかしながら、その、アレクセイ様に……とても、緊張してしまって」
心の中で繰り返し練習した言葉は、いざ口に出すとぎこちなく感じられる。
アレクセイは驚いた様子でこちらを見て、はははと声をあげて笑った。
「もしかして、昨日の食事のことかい? 僕はてっきり君がもうかなり酔ってしまったのかと」
腹を抱えて笑い続けるアレクセイは、全然気にしていないから安心していいと笑い飛ばす。
「ですが、私はいつもああやって緊張して、自分が何を言っているのかまるでわからなくなり、挙句にはそれが見合いを破棄するための演技だとまで噂されて……」
いつもなら、それで嫌われるならそれでいいと思っていた。
けれど、彼はいつでも真剣で、マリアリーゼに対して真摯に向き合ってくれている。
(だからこそ、彼にはそれが本心ではないということを、どうしても伝えたい)
「でもそんなことはなくて、私には演技をする余裕もないのです……」
(こんな言い訳ばかりじゃ、まるでアンナのようね。もしかしたら、アンナよりも幼いかもしれない)
彼の顔を見つめることも躊躇われて、マリアリーゼは足元のフローリングの木目へと視線を下げた。
メイドと話していた時にはポカポカとしていた指先が、今は凍えるように冷たい。
アレクセイは、マリアリーゼが無意識にギュッと握った両手を、掬い上げるようにそっと触れて、マリアリーゼの視線を引き上げる。
まるで、僕の方を見ろと言わんばかりに。
「いいんだ、君の気持ちはわかるよ。そんなふうに落ち込まなくていい」
柔らかな手の温もりが、手の甲を通してマリアリーゼの体へじんわりと滲む。
握手よりも弱いその手の力に、マリアリーゼの手に入った力も自然と抜けていく。
「でも……っ」
言葉を続けようとすると、喉の奥の方が熱くて苦しい。息を大きく吸えば、マリアリーゼの右目から大粒の涙がポロリと溢れた。
「大丈夫、大丈夫だ。君の思いはちゃんと伝わっている」
子供をあやすように、凍った心を溶かすように、アレクセイの言葉はマリアリーゼの頑なな気持ちを解いていく。
「君は視線や表情が素直だから、僕にはちゃんと伝わっている。何も問題ないよ」
少し屈んで目線を合わせたアレクセイに「わかったかい?」と聞かれれば、マリアリーゼはただ頷くことしかできなかった。
暖かな手と手を繋いだまま、アレクセイはこっちに来て欲しいとマリアリーゼを誘導する。
その行き先は――昨日の書斎のようだった。