07 突然の色気は反則ですのよ
ブライドルの夕日は、熱せられたガラスのように溶けて今にも落ちていきそうな、熱いオレンジ色だった。見ている世界全てが温かな色に包まれて優しい気持ちになるのに、どこか少し切ない。
アレクセイは地面に落ちたギーの葉やくずを箒で集め、すっかり荷物の減った納屋を片付けながら、マリアリーゼへ声をかけた
「君がここへきてくれて嬉しいよ、マリアリーゼ」
「嬉しい、ですか」
思ってもいなかった言葉をかけられ、マリアリーゼは返す言葉が見つからない。心の中で、自分が他人に喜びを与えられる存在であることに戸惑っていた。
(なぜ彼は私にこんなにも優しいのかしら。私は何もしていないし、父以外の人間からこんなにも自然な優しさなんて感じたことがないわ)
「あぁ、嬉しいよ。庭を美しいと言ってくれたことも、君が話し相手になってくれたことも、何もかも」
納屋の中は細かい埃が舞っていて、室内はほんのりと煙がかっているように見える。壁の隙間から所々差し込む陽の光が放射状に拡散する。その光に照らされた彼の姿は、なんだか神々しくもあった。
(彼の言葉が本物なら、私が今まで学んできたことは何だったのでしょう……)
貴族の一人娘として、常に他者より優れていなければならないというプレッシャーの中で生きてきたマリアリーゼには、信じられないほど新鮮な価値観だった。
「いやですわ。私はまだ旅行に来ただけのつもりですのに」
こんな時、素直にありがとうと返せたらどんなに良いか。相手がどんなに喜ぶか。分かってはいるけれど、すんなりと返すことの方が恥ずかしくてつい憎まれ口を叩いてしまう。
「ははっ、そうだったそうだった! 君がこの夏を忘れられないよう、僕は更に満喫してもらえるような計画を立てなければならないね」
こちらを見ずに頭を掻くのは彼の癖なのかもしれない。今日だけでも何度か見たその仕草がまた、彼の優しさを物語っているように見える。
「どうしてそんなに優しくするのです」
思わず、冷たい言葉が口をついて出る。
マリアリーゼの父がマリアリーゼに優しいのは当然だし、義母は「優しい」という言葉の対照にいるような人物だ。おかげでマリアリーゼはすっかり他人を信じる気をなくし、信頼に対して懐疑的な性格になってしまった。
彼が、まだ数回しか顔を合わせていないマリアリーゼにここまで優しくする理由が、ただただ知りたかった。
「どうして、か……何か理由があるわけじゃないけれど、強いて言うなら『優しくされたから』だろうね」
「優しくされたから? 私はあなたに優しくなどしておりませんけれど」
彼の庭では、確かに心安らぐ美しい花々に絆されて優しい気持ちにもなった。
けれど、自分が彼に「優しくしよう」と考えて動いたことはない。
「僕がこれまで沢山の人に優しくされたから、その恩返しみたいなもんさ。押し付けがましい……エゴかもしれないけどね」
その言葉は、マリアリーゼにとってとても衝撃のある言葉だった。
自分がされたことを他人へ返すなどといった考えを学んだことはない。
むしろ、マリアリーゼの家庭教師は「弱者のためを思うならば全て奪って強者が制覇するべきだ」という考えだったし、貴族の一人娘として若くから領地経営をするために「いかに他者より優れた能力を伸ばすか」「優れたものだけを側に置き、味方から欺く」といったことばかり学んできた。
「甘く柔らかな言葉に惑わされてはいけない」という家庭教師の言葉を、常に意識してきたマリアリーゼには、長く纏ってきた鎧を脱がされるような瞬間だった。
遠くの方で、アレクセイが納屋のドアを閉める音がする。
ほんの数歩の距離のところだというのに、マリアリーゼには遥か遠くの音のように、かすかに聞こえた。
彼が農民たちに慕われているのも、先ほどのように名前を覚えているのも、誰かからもらった優しさを返しているから。
初めて出会った価値観。誰も傷付けないような生き方。彼の物腰の柔らかさや、言葉の選び方にもそれが滲み出ている。
「さあ、日が落ちると一気に涼しくなるよ。そろそろ中へ行こう」
全身のほこりを少し離れたところで叩いて、汚れ切ったブーツとシャツを脱いだアレクセイがマリアリーゼに近付いてきた。
優しげな視線とは不釣り合いに、バランスよく鍛えられた体。井戸水を浴びたのか、髪は濡れてオールバックになっている。
そんな色気に当てられたマリアリーゼは、ボンっと音がしそうなほど驚いて、1歩後ろへ後退りした。
「あっあの! 私、お、お先に失礼いたしますわっ!」
アレクセイの開きかけたドアの間をすり抜け、階段を駆け上がる。
「そこ! 軋みが強いから気をつけて!」
アレクセイは笑いながらマリアリーゼに呼びかける。自分の色気がまだ年下の娘に通じるのだと感じたのか、気を悪くしている様子はない。
「……少し急ぎすぎたかな」
かかかっと笑ってから濡れた服をもう一度絞ると、アレクセイは屋敷の奥へと歩いて行った。
その色気に当てられたマリアリーゼは、彼の色気が頭から離れず、終始何か考え事をしている様子で食事を終えた。
食事中も当然ながら顔は見られないし、彼からのいくつかの質問も覚えていない。もちろん、何と答えたか、というところも。メイドは本当に勿体無いと嘆いていたけれど、出されたステーキは味のしないゴムのように感じた。
そのくらい、彼の上半身は魅力的だった。
誰かに話せば、その全員がバカだと笑うだろうという事くらいはわかっている。けれど、鍛え上げられた体を思い出してしまっては、のぼせたように体が熱くなり、背中に滝のような汗をかいてしまう。
結局、食事を食べた気がしていないマリアリーゼは、月が真上へ昇るまで眠れなかった。目を閉じるとあれこれ考えが浮かんでしまい、目を閉じていられなくなる。
こんな気持ちは今まで感じたことがなかった。彼の言葉も、彼の存在も、マリアリーゼの心をグラグラと強く揺さぶる。
ふと、眠れない晩には、メイドがホットミルクを作ってくれたことを思い出した。温めるくらいならマリアリーゼにもできそうだ。
足音を立てないように、猫の気持ちでゆっくりと部屋を出た。
ドアを開けると更にひんやりとした空気にさらされて、慌てて一歩戻りショールを肩へとかける。
木製の階段の端の方だけを通って、一直線にキッチンへ向かう。初日に見せてもらった場所のはずなのに、働く人がいないからか、炉に火が入っていないからか。そこはとても広く感じた。
旧式のコンロは薪で火を起こすタイプのものだった。手をかざして熱を確認してみる。どうやら火はだいぶ前に消されてしまったようで、ひんやりとした金属の触感だけがマリアリーゼの指先に残る。
諦めよう。火をつけることが自分にとって難しいことなのはよく知っている。22年生きてきて、火をつけるという行動について深く考えたことがないし、こんな真夜中に初めて挑戦することではない。
これではどうしようもないとキッチンを出ると、まだ探索していない廊下の奥の方の部屋から光が漏れていた。
なぜだろう。今まで気にしていなかった廊下が、その晩はどうしても気になった。まるで見えない糸に引っ張られているように、マリアリーゼの足は一歩ずつその光の方へと進んでいく。
数日前、この廊下を通った時は全く気にならなかったドアが、手のひらほどの隙間を作って開いていた。話し声や物音はしない。
少し覗いたくらいでは、人の姿は見えなくて、マリアリーゼは意を決して1歩、その部屋へ足を踏み入れた。