03 小さな冒険
頬にひんやりとした風を感じる。
横になっている体には羽毛のように軽い布団が一枚かけられていて、ほんのり温かい。
どこからともなく漂う、こんがりと焼けたギーの香ばしい香りが鼻を抜けて、そろそろ起きてもいい頃だとマリアリーゼに告げた。
徐に目を開けた時、傍には椅子に腰掛けて腕を組み、うたた寝するアレクセイがいた。
少し疲労感の漂う、目元の皺。髪は無造作に掻き上げたような形で、いくつかの束が前の方へ溢れている。服は昨日一瞬見た時と変わらない、農夫のような姿だった。夜遅くまで気にしていてくれたのかもしれないと思うと、父とはまた違う男性の優しさに心がポカポカとする。
布団を力一杯に引っ張って彼の足元へかけると、アレクセイは小さな声で何かボソボソと呟いて、俯いたまま笑みを浮かべた。
(なんだか、可愛い)
年上の男性に抱く感情ではないと知りながらも、その無防備な笑顔に胸がドキンと音をたてる。
こんなことは今まで読んできたどの教科書にも、問題集にも載っていなかった。自分の意思とは違う何かがマリアリーゼを誘導するような、そういう不思議な音だった。
しばらく経ってもアレクセイは目覚めることなく、椅子と布団の間でうたた寝を続けている。時々身じろぐから、そんなに深い眠りではないんだろう。それでも疲れている様子の彼を見ると、もう少し休んでいて欲しいという気持ちに駆られた。
そういえば――そろそろ様子を見に来てもいい頃だというのに、屋敷から連れてきたメイドの姿が見えない。
ベッドから身を乗り出しても窓の外には木々の緑しか見えず、情報はほとんど何も手に入らなかった。
(こうなったら、自分で探すしかないわ)
実家よりも少し高めのベッドから跳ねるように降りて、足元に置かれていた室内靴に足を入れる。少し大きいけれど、新調されたばかりのような肌触りに彼の心遣いが見えた。
石造りの部屋は昔ながらの個室で、こぢんまりとしていて居心地がいい。
オークの木枠で囲われた窓から外を見渡せば、この部屋が2階くらいの高さにある部屋だということもわかった。
まだうとうととしている彼を起こさないよう、静かに木製のドアを押し開けて廊下に出ると、マリアリーゼのいた部屋が角部屋だったことが伺えた。
白く塗られた壁に、太い木をそのまま生かした焦茶色の柱。
壁は所々ひび割れていて、大きなヒビには上から塗料を重ね塗りしたような跡がある。
それは1階へ降りる階段にも、その先の玄関ホールにも言えることだった。階段は1歩ごとにギシギシなるし、玄関ホールは飾り気がなく寒々しい。
お世辞にも、伯爵様のお屋敷というには古すぎるというか、手入れが行き届いていないような印象がある。
仮にこのお屋敷へ客人を招いたのなら、その方から「貧寒だった」という感想が出てもおかしくはない。
せっかくなのだから自分で少し変えてみたいわ、とマリアリーゼが未来の玄関ホールの姿を想像していると、何者かが階段の上から駆け足でやってくる足音がした。ギッギッギッとなる板の音は板ごとに絶妙に音程が違っていて、思わず笑いがこぼれた。
「ああ! こちらにいらしたのですね!」
安堵した様子のアレクセイの額には、光るものが見えた。眠っているはずの場所に見当たらないと焦りながら探したという様子で肩が動き、息が上がっている。こちらを気にしていた様子はあまり感じなかったけれど、こうやって焦っているところを見ると気にしてくれていたのだろうか。
「こ、こんにちは、ブライドル伯爵様。あの……ふと目が覚めたものですから……少しお屋敷を拝見させていただいておりました」
お辞儀をすると、彼は階段を1段飛ばしに降りてきた。日に焼けた腕がこちらへ伸びる。それならせっかくだからこっちも見ていって声をかけたアレクセイは、パッとマリアリーゼの手を取った。
「そう。……この時間なら、使用人たちはみんなキッチンにいるからちょうどいいな。おーい、よかったら皆こっちにきて。客人に顔をみせてくれないか」
アレクセイは足取り軽く、階段のすぐ隣の大きな両開きのドアを叩いた。片方のドアが空き、ウィスキー樽のような大きい体の男性が顔を覗かせる。
「ああ! アレクセイ様……と、お嬢様! ランチならもうできますよ!」
頭に被ったコックハットと歯抜けの笑顔がアンバランスで、くくくと笑いが溢れる。屈託のない笑顔とはこれですと言わんばかりの楽しそうな笑顔を向けられると、こちらばかりが緊張しているのがおかしく思えた。
そのふくよかな男性の奥からも、旦那様!と声をかける人ばかりで、彼が使用人たちに尊敬されていることが伺える。彼はだいぶ使用人との距離が近い人なのかもしれない。
「それはよかった。せっかくだから庭でいただこうか。あ……いや待てよ、今日は日差しが強いからポーチでも、どうかな」
アレクセイの流した目線がマリアリーゼとぶつかった。
首を傾げるようにしてこちらに意見を求める仕草は、今までのどの男性にもなくて、まるで女友達にランチを誘われたような気軽さ。そのアンバランスさにまた、胸がどきんと高鳴る。
「あっ、いや、すまない。君が興味を持ってくれることが嬉しくて、つい友人に接するように聞いてしまったな」
気恥ずかしそうに頭をかきながら、彼は言葉を選ぶように小さくうーんと声を上げた。
「えっ、あ、いえ、あの……ぜひ……っ!」
彼が普段の姿を見せてくれているのだから、ここへ来た以上は自分も殻を破りたい。まだ自分の知らないことが沢山あるのではないかと、密かにワクワクする。
ぜひ、と声をかけたことに気を良くした様子のアレクセイは、着替えたらこちらへおいでと、美しいポーチを案内した。