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02 私、そちらへ参ります

 アレクセイは父が欲しがっている書籍を、遥々ブライドル領から持ってくるらしい。


 馬車で丸一日かかる距離なのだから、送って貰えばよかったのではと父に伝えれば、察してあげなさいと小さく笑われた。

 これは、こちらが察してあげなくてはいけないほどのことなのかしら。


 察したり、言葉にしたり、お見合いとは本当に難しいものだと、マリアリーゼは頭を抱えた。


 

 夕食に現れた男性は、毒っ気のない顔の紳士だった。

 38という年齢は、爵位を持つ者としてはまだ若手。それでも、マリアリーゼに届いた釣り書きの中では、ずば抜けて年上だった。


 ここ最近の(かなりうろ覚えの)見合い相手たちは、皆一様に体を鍛えていて、それが男らしさなのだと豪語していた。けれど、彼にその様子はない。緊張はするものの、むしろ父に似たほっそりとした体型に、親近感が湧く。


「ミ、ミレニアム公爵家、長女の……マ、マリアリーゼでございます」

「はじめまして。ブライドル伯爵アレクセイです。どうぞよろしく」


 彼に差し出された手は大きすぎず、小さすぎず。伯爵という割には細かな傷や爪の汚れが見えて、貧寒という言葉が頭によぎるような手だった。それでも、緊張で冷え切ったマリアリーゼの手を、暖かく包み込んだ。


「よろしく、お願いいたします」

「どうしました?レディ。 少し顔色が良くないようだね。指先も冷え切って……」


 やわらかな目線がこちらを覗き込む。短く切り揃えられた爪をした指先が、マリアリーゼの初雪のような頬にそっと触れた。


 蜂蜜を煮詰めた飴のような、こっくりとしたアンバーの瞳が、こちらを見ている。


 澄んだその瞳には、驚いた表情のマリアリーゼが映っていた。

 そんな自分に焦点があった瞬間、今更彼に見つめられていると意識したマリアリーゼは、ガス灯に火を灯した時のように急に頬が熱くなって、さっと俯いた。


「だ、大丈夫ですわ! 放っておいてくださいませ!」


 頬に触れた手を扇子で遮ると、彼は苦笑いしながら手を下げた。


 目元へ僅かに刻まれた皺と、少しくすんだ肌。

 頬に触れた手は仕事をしているメイドと同じようにカサついていて、確かに貴族のようではない。

 "貧寒"と言われるのは、彼のこの雰囲気からだろうか。


 目線の端で父と談笑する姿が見えて、マリアリーゼは恐る恐る目線を父の方へ向けた。


 彼は本当に何冊もの分厚い本を持ってきていたようで、パラパラとページをめくった父は、彼を抱きしめるほどに喜んでいた。こんなにも喜びを露わにしている父は、いまだかつて見たことがない。そんなにも喜ばしいものならと拍手をすると、父に解放されたアレクセイはにこやかにマリアリーゼの方を見つめた。


「突然押しかけてしまって、驚かせてしまいましたね」


 低く、落ち着きながらも、場を制するようなはっきりとした声だった。今まで、公爵家へ擦り寄るような発言をしたり、マリアリーゼを罵ったりしてきた男たちの高い声とは、格が違う。


 アレクセイは常にこちらの言葉を待つように頷き、小さな相槌を打ってくれた。


 彼の優しさに触れたことで、緊張で震えていた指先は、いつの間にかほんのりと暖かくなっていた。

 言葉を遮られることのない会話は、いつぶりだろうか。母や乳母との、暖かな記憶が微かに蘇る。


 気がつけば、マリアリーゼは 「正式な顔合わせは日を改めましょう」とという彼の言葉を、思わず静止していた。


「いえ、私……アレクセイ様の元へ参ります」


 直感だった。自分の目でこの人を確かめたい。この人の領土を見てみたいと思った。


 この人なら、緊張して言葉が出なくとも、おかしな態度をとってしまっても、許してくれるかもしれないという、淡い期待でもあった。


「こんなにも年上で、不甲斐ない私でよろしいのですか? レディ」


 アレクセイは頭をかきながら、「断る権利は私にこそあれど、断っていただいても構わないようなハズレくじですよ」と笑う。けれどどこか彼が魅力的に見えてしまっている今では、そんなところも、飾らなくて素敵だと思ってしまう。


「ええ。アレクセイ様が、お嫌でなければ」


 10回のお見合いを自分のせいでふいにして、さらに汚名まで被っている自分でもいいというのなら、試してみたい。この人との相性を。


「では、もしよろしければ……一度我が領土へいらっしゃいませんか。人から何度も聞くよりも、一度実際に自分の目で見るほうが確かでしょうし」


 何よりブライドルの夏は青々としていて美しいですから、とアレクセイは嬉々として笑う。ブライドルといえば、元々水資源が豊かなことで知られる有名な避暑地だし、何より食事が美味しいと聞く。それでいて景色までいいと言われれば、年頃の娘が誘惑されないわけなどなかった。


 父からは「あまり深く考えず、まずは夏の間の旅行だと思いなさい」という助言付きで正式に許可をもらい、マリアリーゼはしばらくの間ブライドルで過ごすことにした。


 目的地までの道のりは険しく、彼が本当にこの道を往復して会いにきたのかと疑いたくなるような悪路だった。


 前日の雨のせいでぬかるんだ泥道に、舗装されているはずなのに時折車輪がかんでしまう石畳の道。一時的な補修としてか、深い窪みに藁が敷かれていて、馬車が大きく揺れる道なんかもある。


「すごい、ですわね……」


 おしゃべりでもしていれば気が紛れそうなものだけど、気を抜くと舌を噛んでしまいそうなほどの揺れだった。側付きのメイドはこんなところで弱音を吐いていてはいけないとマリアリーゼを励ました。

 

 どっぷりと日の暮れたブライドル領へ到着した馬車は、車輪と車体の下半分が泥まみれだった。こんなにも激しい道を、自分の代わりに汚れてくれたのかと思えば、憎まれ口を叩くこともできない。


 馬車から降りたマリアリーゼはその平で揺らぐことのない地面に感謝しながら、玄関前で待つアレクセイに手を伸ばした。この街へ来る途中で見かけた領民たちとほとんど変わらない格好をしているのは気のせいだろうか。そんなことを考えながら彼を見つめるも、マリアリーゼがその先を考える余地はなかった。


 彼の顔も、城も、視界の何もかもがぐにゃりと揺らいだと認識した直後、マリアリーゼは急激に襲った安堵感と疲労で――意識を手放した。

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