10 和解と求婚
マリアリーゼを先に部屋へ入れたアレクセイは、部屋のドアをゆっくりと閉めて、二重になった鍵をかけた。
「君は、どこまで見たんだろうか? 話してくれるかい」
3人がけのソファの背もたれへ寄りかかり、軽く足を組んだアレクセイはなんだか別人のようだった。
さっきまでにこやかだった姿から一転して、厳しい目線を向けられている。
窓側から刺す強い光のせいで陰影のくっきりした顔は、闇を感じさせた。
(見たものを隠して、良いことはなさそうね)
目を閉じ、息を吸い込んで、昨日目にした単語を思い出してみる。
「……地図に描かれたいくつかの丸と、金額やお名前。どなたかのお屋敷の抵当権の証明に、外国語のお手紙や契約書もちらほら」
「なるほど。それではどうしてこの部屋に?」
恐る恐る目を開けて彼の方を見つめると、アレクセイは腕を組んでこちらを凝視していた。
アレクセイの瞳は真っ直ぐ鋭く、そのまま心の中を見透かして、尋問されているような気持ちになる。
(やっぱり、ただの貧寒伯爵ではなさそうだわ……本当にそうなら、こんなことする必要ないもの)
「眠れなくてホットミルクを作ろうと思ってキッチンへ行ったのです。けれど火はだいぶ前に消えていて、私にはできないと断念しましたの。恥ずかしながら……その瞬間まで火をつけるということを考えたこともなくて。それで、そのまま部屋へ戻ろうとしたら部屋のドアが開いていて。私はつい、その光に誘われてここへ入ってしまったのです」
あとはアレクセイ様が想像する通りですと告げれば、彼は手を顎に当てて何か考えるような仕草を見せた。
「書類は何も無くなっていなかったし、ペンは丁寧に転がり落ちないような場所に片付けられていた。……それではまるで、君が僕を心配してショールをかけてくれたと、思ってしまうね」
「あっ、ええと……そう、ですわね?」
自分のことのはずなのなのに、すんなりと正解を導き出されると目が泳いでしまう。
じっとしていられずに近づいて謝ろうと1歩踏み出すと、マリアリーゼのヒールがドレスの裾に引っ掛かり、マリアリーゼはそのまま前のめりにつまづいた。
「危ない!」
顔から真っ直ぐ地面に落ちると思ったマリアリーゼは、目も口もぎゅうっと瞑ったまま、衝撃を待った。
けれど地面は一向にやってこない。
その代わり、マリアリーゼは駆け寄ったアレクセイに抱き止められ、地面ではなく彼の胸板を顔面で感じていた。
「っはあ……よかった……」
アレクセイの腕がマリアリーゼを目一杯抱きしめる。彼の腕の力の強さに、先日の胸板を思い出して、つい耳が熱くなった。
「あ、あ、あの、アレクセイ様」
「ん?」
「あの、距離が……近い、ですわ。それに、心音も……」
彼の温かな体が、確実にマリアリーゼの体温を上げている。
二人の心臓の距離が近いからか、アレクセイの腕の中ではどくんどくんと心音が共鳴し合っているように聞こえる。
「僕を心配してくれた君が僕の腕の中にいるんだから、仕方ないよ」
「っでは……っ」
離してくださいという間もなく、マリアリーゼはまたアレクセイの腕に力いっぱい抱きしめられた。
「他の人にはあまり聞かれたくない話でね……このまま聞いてくれるかい」
マリアリーゼの耳元で、吐息混じりのアレクセイの声が響いた。
こっそりとした声は、今までとはまた違う彼の色気を感じさせる。
熱い胸に抱かれたままのマリアリーゼは小さく頷いて、彼の秘密の共有者になることを了承した。
「きっと君は『貧寒伯爵』という噂を聞いたことがあるね?」
「はい。その噂がユーリアさんの一家や市場の方にどんな影響を与えているか考えると、心が痛みます。確かに手を入れられるところはありますが、アレクセイ様が貧寒だなんて。そんなことないのに……」
マリアリーゼの首元で、小さな笑いの声が聞こえる。マリアリーゼが少し体を逸らして彼の顔を見ると、アレクセイは確かに笑っていた。
「あれは、僕が流した噂なんだ」
「えっ?」マリアリーゼは驚きの声をあげた。
「どうして……」
領主は潤っていて、領民たちを常に大切にしているという噂の方がいいのでは?と耳を疑う。
「これは、領民たちを守るためなんだ。」
アレクセイは真剣な表情のまま、マリアリーゼを見つめながら言葉を続けた。
「前伯爵が裕福だったとき、納屋は領民と盗賊が結託した奴らによって狙われたり、外部の勢力が孤児院を襲ったり……僕が領主になる前のブライドルは、本当に散々だったんだ」
「だからって……」
「僕一人が貧寒伯爵として振る舞えば、誰も興味を持たなくなるし、搾取しようとするものもいなくなる。領民たちが安心して暮らせるなら僕の評判なんてどうでもいいんだ」
「でもそれじゃあ、あなたは」
「僕は、この領地の看板に過ぎない。それに、多くの富を持っていても得することは多くないんだ。むしろ、この土地の人々のために働く権利があることを、誇りに思っている」
わかってもらえるだろうかと首を傾げるアレクセイは、昨日までの、にこやかで優しいアレクセイだった。
(こんなにも高貴で、崇高な考えをお持ちだったなんて。私の考えはまるで子供ね)
「本当に素晴らしい考えに直面したとき、人は何も……言葉が出ないのですね」
「君からそんな言葉が聞けるなんて。それだけでも懸命に働いてきた甲斐があるな」
アレクセイの腕がマリアリーゼの腰を掴み、一度離れていたふたりの視線が、またゆっくりと交わる。
「けれどこれからは、そんな僕を理解してくれる妻が側にいたなら、さらにありがたいと思っていてね。――僕はここで改めて、君に求婚させてもらってもいいだろうか」
煮詰めた蜂蜜のように奥行きのあるアンバーの瞳が、左右に揺れている。頬を赤らめた自分が彼の瞳に映っていて、断る余地はないのだと知った。
「まずは練習からでも、よろしければ」
マリアリーゼなりの、精一杯の肯定だった。
彼の年齢もあって、求婚されたらすぐに婚約の手配をして、マリアリーゼはすぐに嫁ぐことにされるだろう。
そうなれば、マリアリーゼの知りうる全て――もしくは知っていること以上のことも、すんなりと進められてしまうような気がした。
「練習。……いいね、嫌いじゃない」
きゅっと口角を上げたアレクセイは、まるでぬいぐるみや大型犬を抱きしめるように、マリアリーゼを大胆に抱きしめた。
「っきゃ! これは……っ苦しいですわ!」
「君へのキスはまだ早そうだからね、僕なりの愛情だよ」
抱きしめたままの腕でマリアリーゼをがっちりと抱き上げたアレクセイは、その喜びを表現するようにその場でクルクルと回った。