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ショートストーリ創作工房 26~30    作者: クリエーター・たつちゃん
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ショートストーリ創作工房 26~30  

5編のショートストーリズ。新型コロナウイルスの蔓延と刑務所。人間も絶滅危惧種。古書店の客。酒からの逆襲。台所用具の定義を巡る夫婦喧嘩。

目次

26.単独室へ

27.絶滅危惧種

28.古書店の客

29.戻り酒

30.誤解からの悲・喜劇



26.単独室へ 

「単独室へ移してください」

「私も、お願いします」

「ぜひ、単独室へ入りたいです」

 集団室は収監されている受刑者たちの声でにわかに騒がしくなった。

 それを聞かされる若い刑務官は「規則があって、そんなことはできない。あなたたちはA級(犯罪傾向の進んでいない者)だし、今のところ素行もいいので……」と思わず言いよどんだ。

 というのも静かにこのやり取りを見守っていた60歳代後半の男性受刑者が哀願する目と声で迫ってきたからである。

「年寄りが重症化して、死ぬ事例が増えているようだから、私だけでも単独室へ入れ替えてほしい。ここじゃあ、感染するのを待っているだけだ」

 顔の前で拝むような仕草をして見せた。

 それを聞くと、他の受刑者たちも声を大きくした。

「年寄りだけじゃない。若い世代にも感染は広がっている。私も入れ替えてほしい」

「お願いです。私も単独室へ移してください」

「生きたまま、出所したいです。単独室へ。お願いしますよ」

 ここは刑務所。所内はどこをとっても典型的な「3蜜」空間である。逃げ場はない。新型コロナウイルスの市中感染が急増するなかで受刑者たちの不安が高じているのである。

 だが、刑務官は同情の念を心に秘めたまま冷静に対応せざるをえない立場にある。

 市中での感染拡大から政府による緊急事態宣言が出され、感染による死亡者数が増えつつあったころ、ある集団室の受刑者たちが憤怒(ふんぬ)の大声を上げた。

「施設の処置には不満だ! 改善を要求しても聞き入れられない。現状を法務大臣および巡閲官に申し出よう!((じょう)(がん)の制度)」

 この大声を聞きつけた刑務官はすぐに所長室をノックした。

「規則どおり、「3蜜」を避ける工夫はしている。単独室にも数に限りがあるし、罪の軽重からすると、とても……」

 所長は困惑した顔で答えた。

「ですが、この騒ぎを鎮めないことには……」

 刑務官は指示を仰いだ。

「もう少し、待とう。まずは接見(面接)時と外から入ってくる物への除菌をしっかりして……そのうち、あきらめるだろう。刑務作業の時間も短くしてみてくれ」

 そう言うと所長は口元を歪めた。

 数日後、例の60歳代後半の男性受刑者が、巡回中の刑務官を睨みつけて声をかけた。

「人身保護法に基づき、この刑務所を提訴する。弁護士さんとも相談中だよ。提訴することになれば前代未聞の不祥事だ。へっへっへっ」

 笑みを浮かべ明らかに脅す口調であった。

「何を言い出すんだ!」

 刑務官は提訴という言葉に怒声を返したが、内心うろたえていた。

 その声に怯むことなく、男性受刑者は静かに返した。

「だってぇ、そうでしょ。この環境は完璧に「3蜜」を満たしていますよ。刑務作業だって、時間を短くしたとはいえ対面になる場合が多いじゃないですか。消毒液だっていまだに置いてくれない。その上、居室と刑務作業場の移動時にはマスクの着用も認めてくれない。これじゃ、年寄りには命に関わりますって」

 それに対して刑務官は「政府が作ったガイドラインに沿って感染予防策を取っている。そう心配するな。ここは大丈夫だ」と胸を張って見せた。

「冗談じゃない! 市中では感染が拡大するばかりだぞ。クラスターが発生したら、どうするんだ!? マスクの常備着用と消毒液の設置は必須だろうが!」

 男性受刑者は鬼の形相で反論した。

 何とかなだめようと刑務官は、

「要望は分った。しかるべき人物に自分から伝える。今日のところはこれで納得してくれ」

 と、こう言い逃れた。

「納得、納得って、納得できないから、要望しているんだ。お前さん、脳ミソの量が足りないんじゃないか。よくそれで刑務官の試験に合格できたな? このバカヤロー」

 この最後の言葉は、この施設では決して許されない。が、その心中を察している刑務官はぐっと堪え、咎めることなく聞き捨てた。

 結局、こうした要望は一切聞き入れられないまま、時間は過ぎた。塀の外では感染者数がうなぎ登りに増えていた。マスク、消毒液のみならず、病床の不足が社会問題にさえなってきた。看護する病院関係者からも感染者が出ていた。また、福祉・介護施設でのクラスターの発生が頻発していた。

 60歳代後半の男性受刑者の心配したことがついに起こった。塀内でのクラスターが発生した。娑婆(しゃば)から受刑者たちへ送られてきた差し入れの外装にウイルスが付着していたようだ。領置所での除菌が不十分だったのだろう。最初に中年の刑務官が発症し、あれよあれよとほぼ全員の刑務官たちへ伝染した。代わりに他施設から刑務官たちが派遣されてきた。刑務作業は完全に中止された。不幸中の幸い、受刑者にはまだ感染者はいなかった。

 所長室に引きこもった所長は両手で頭を抱え対策に苦慮していた。(半年後に定年。どうすればこれ以上の感染を回避できるか)熟慮の末、所長は部下に命じた。

「私の事務机を一番奥にある単独室へ運んでくれ。あそこなら安心だ」(了)



27.絶滅危惧種

「アース。あんたがここに居られるのも今日までだな。短い付き合いだったぁ。飼育員の兄ちゃんから最後の挨拶をしっかりしておけ、って言われたよ」

「チン(パンジー)さん。俺は明日、ここを出て500キロ遠方にある動物園へ運ばれるんだ」

「あんたは、まだたてがみも生えそろっていない。2年前に他の2頭と一緒に生まれたんだよな」

「その兄弟たちも他の園へもらわれていった」

「そうだったなぁ。あんな乳飲み子を……」

「……もらわれてぇ、無償で、タダで。おれたちライオンは余っていて、ほしいと言ったらタダでくれる園はいくらでもあるそうだ。公立の動物園から搬出されたライオンは、この5年間で14頭いた。うち11頭がタダでもらわれていったそうだ。かつて先輩たちは『百獣の王』と呼ばれたこともあったが……クソー」

「無償?」

「そう。2014年から18年までに、動物園から4978個体が搬出されていて、そのうちの47%、2338個体は無償で譲渡されている」

「残りはどうされた?」

「他の動物園、観光施設、動物商・ショップ、個人・学校などへ移されたり、売られたり、もらわれたりしている」

「なるほどぉ」

「でも、そのうち物のように交換される仲間もいる」

「交換される、ってか?」

「そう。動物園から搬出された動物の34%にあたる1699頭が交換されたそうだ。取引では1フラミンゴ、1シマウマなどと通貨単位のように使われている。俺たちで言えば、メスライオン2頭とグランドシマウマ1頭とが等価交換されるんだな。2対1だ。ご先祖様が聞いたら、涙を流しそうな交換価値しかない。でも、この取引が流行っているそうだ。市場価値でみたって、俺たちライオンの価値は10万円ほどで、ペットショップで売られている猫に負けている」

「猫の価値は?」

「20万~40万円。同じ猫科でも俺たちの市場価値は低い。低すぎる。ふん」アースは自虐的に鼻を鳴らした。

「それにしてもひどい価値だな。なぜ、こうなるんだぁ? おれたちの先輩たちの時代には市民のレクリエーションや教育目的で海外から輸入されるほど価値があったじゃないか」

「その一因は日本がワシントン条約を締結(1980年)したことにある。この条約には絶滅の危機にある野生動物を保護する目的があって、希少な動物を輸入しづらくなったんだ。そこで、動物園は独自に繁殖をさせ始めたのさ」

「われわれの数をコントロールしようと」

「そう。ニシゴリラなんて、日本国内の動物園に20頭しかいない。最悪の絶滅危機にある。アムールトラは57頭。アフリカゾウは31頭。ちなみにチンさんの仲間は304頭いるよ。絶滅危惧種とは言われているが、まだましだ。一方、シセンレッサーパンダなんかは繁殖させすぎて267頭もいる。世界中の動物園で飼育されているこのパンダの7割以上が日本にいるそうだ。身内の話をすりゃ、ライオンは繁殖が容易で一度に3頭産むのよ。こいつらのエサ代がかさむ。成長すれば、近親交配や親との闘争がはじまる。群れで飼えるほどのスペースもない。そこで、余されるわけだ」

「余剰動物ってことか?」

「うん。殺処分されるくらいなら、どこかの園にもらっていただくのはありがたいが、それでも幸せばかりじゃない。不幸は待ち受けている」

「不幸って?」

「グランドシマウマのバロンのことさ」

「ああ、縞模様の実にきれいだった。ヤツはどこへ移されたんだっけ?」

「動物商を通じて乗馬クラブへ移された。園でしか生活したことがないバロンは近づいてきた人間どもにパニックになってしまったんだ。無理も無い。思わず、低い柵を跳び越えて、ゴルフ場へ逃げ込んだ。そこの池にいたところを麻酔薬の入った吹き矢で撃たれ、そのまま池に倒れて死んでしまった。人間に撃ち殺されたんだ。こんな理不尽が許されていいのか?」

「許されるわけがない。絶滅危惧種だからって、俺たち仲間を勝手に繁殖させて、そのあげく余っただと。他園へ移しておいて、死なせやがって。それならいっそ祖先のいる草原へ帰してもらった方がよっぽどいい死に方ができたはずだ」

「そのとおり。ここにきて遺伝学的に煮詰まっている動物については繁殖計画を見直すべきだなんて議論もやっているそうで……無責任なことばかりしやがって。園内の居住環境を良くしようと(環境エンリッチメント)動物福祉なんて言葉を口にしやがるし、繁殖が無理ならと野生動物のいる環境を維持しようと組織を作って善人ぶっている。ふん。人間が他の生き物の命をこんなにも簡単にコントロールしていいのか? 人間だって、生き物じゃねえかぁ」

「そうそう。日本じゃ、人間そのものが減っている。純粋な日本人は、そのうち絶滅危惧種に指定されるだろうよ。レッドリストに登録だ」

「そのときになって、俺たちの心情を理解するようじゃあ……」

「他の生き物の数を心配する前に自分らの種の維持に励め、ってんだ!」(了)



28.古書店の客

―ある老舗の古書店。厳しい表情をした男性の老学者が蔵書の一部を持ち込んだ。

学者 これなんだがぁ、ぜひ引き取ってもらいたい。

店主 これですかぁ。10円ならば引き取らせてもらいますが……。

学者 え~っ!? 10円! コピー1枚の値段じゃないかぁ? それはないだろぉ? 定価は1万5000円。装丁はこんなに綺麗だし、アンダーラインは引いてないし蔵書印も押してない。そのうえ、出版社にはもう在庫もないものなんだけどな。もう手に入らない自費出版の稀覯本だよ。店に並べれば、高く売れるぞ。

店主 お客さん。今頃、この種のものは裁断されてますよ。資源ゴミですよ。

学者 ゴミ!? そんなはずはない。内容も良くて、学会で書評をされたこともある価値のある本なんだぞ。あんたには目利きが足りん。定価の半額でいいから引取ってくれんか。

店主(笑)いえ。ほとんど価値ないです。いやなら、他の店へ行ってください。きっと、話も聞かれずに、追い返されますよ。その程度の本です(笑)。

学者(怒気)いや、絶対に価値はある。私には分る。保証するよ。

店主(笑)どうして、あなたにその価値が分かるのですか?

学者 私が著者だからだよ(笑)。

店主 ……んんっ?

学者 じゃあ、こっちの全集は、いくらで引き取ってくれる?

店主 これですかぁ? これも今どき読む人はいませんよ。でも、持ってきていただいた手間賃として、1000円であれば引き取らせてもらってもいいですよ(笑)。

学者 1000円! あ、あんたはいつからこの商売をしているんだぁ。えっ?

店主 んんっ。かれこれ55年になりますけど(笑)。

学者 そんなに長く古本と付き合ってきて、この全集の価値を理解していないのか?

店主 どう言われようとも、1000円ほどの価値しかありません。

学者 う~ん。本心を言えば、ず~っと手元に置いておきたいのだが、書棚が足りなくなって……。そのことを配慮してもらえないかな?

店主(語気強く)できないです。この種の本は店に並べても、お客が付かないんですよ。在庫になるばかりでぇ、どうしょうもないです。

学者 そんなことはない。誰が見ても立派な文芸書だぞ。並べれば、すぐに売れる。

店主 それは十分に理解していますが、時代が変わりましたから、この種のものは……。 

学者 時代を超えてもいいものはいいはずだ。

店主 いやなら、他の店へ行ってください。せいぜい300円から500円で引き取ってくれるんじゃないですかね(笑)。


―同じ老舗の古書店。

 男性の老人客が入ってきた。老人は所望する古書を物色することなく、一目散に文芸書のコーナへと進み、立ち止まった。目の前に並んでいる全12巻箱入りの分厚い本を1冊抜き出した。まるで、愛蔵書を扱うような愛でる目をして、本を優しく撫でてからページを捲り、真剣に読みはじめた。

 奥のカウンターに座る店主は顔を上げ、その様子をちらりと見て、また顔を下げた。

 老人は背中のバッグからノートと鉛筆を出し、何やらメモを取りはじめた。さすがに本に鉛筆を当てはしなかった。3時間後、老人は本をしげしげと見つめ、名残惜しそうに優しく撫でてから丁寧に書棚に戻し、満足げな表情をして店を出て行った。店主はその後ろ姿を確認すると、また顔を机に落とした。

 次の日も、またその次の日も、店には老人の姿があった。それも同じ棚の前で全12巻箱入りの分厚い本を1冊ずつ抜き出しては読み、メモを取って帰った。店主はいつも老人をちらりと盗み見するだけであった。

 時間は流れ、半年後、老人は相変わらず、同じ棚の前へ通っていた。ついに店主も根負けしたようだ。眉間に皺を寄せて、老人に近づき、怒りを込めて声をかけた。

「あんたからこの全集を買取るんじゃなかった」


―またまた同じ老舗の古書店。

 男性の老人客が入ってきた。机に顔を落としていた店主は顔を上げ、軽く会釈をした。馴染みのお客であろうか。

 老人は苦虫を噛み殺したような顔をして店主に近づき、訊いた。

「庶民が好きな大衆誌と週刊誌の類はどのコーナにあるかね」

「大衆誌と週刊誌であれば、地下1階の5番から7番の棚です」(えっ?という顔で)店主は丁重に答えた。

「そうかい」老人は表情を崩すことなく階段を降りていった。

 30分が過ぎたころ、グラッと横に揺れたかと思うと、急にドスーンと縦に揺れた。その瞬間、棚から本という本がバラバラと崩れ落ちた。マグニチュード6の大地震が起こった。店主は逃げることよりもまっさきに地下1階へ降りた老人の安否が気になった。頭部に手をかざし崩れた本を踏みながら通路を抜け、階段を駆け足で降りていった。5番から7番の棚の雑誌もほとんどが床に散乱していた。そんな中に老人が雑誌の下敷きなって仰向けに転がっていた。

「お客さん! 大丈夫ですか?」店主は雑誌を払い除けて必死にその顔へ声をかけた。

「う~ぅ。だ、だいじょうぶだぁ」老人は両目を開けてニッコと笑ってみせた。

 その手には開いたエロ本をしっかりと握り締めていた。(了)



29.戻り酒

―昼食時。

 男は愛妻弁当を食べていた。

「おい、こら! お前、日本人だろ、立派な大人だろ」

「んんっ。誰だ! 何だ!」

「俺だよ。お前に握られてる箸だよ」

「箸がしゃべってる? マジかよ。口はどこだ。耳は? 鼻は?」

「そんなことはどうでもいい。お前、もっと上手に俺を使えないのか? 親の躾がなっとらん」

「何だと。箸のくせに文句を言うな」

「お前、それでいいのか? 煮豆も(はさ)めないで。豆を突き刺して食べるヤツがどこにいる?」

「ここにいるんだ。放っておいてくれ。不便してないんだから。余計なおせっかいだ。意見するな。箸は使われてればいいんだ」


午後の業務中、男は課長にデスクへ呼ばれた。

「××君。この書類の内容じゃあ、会議にかけられないよ。しっかり頼むよ。もう新人じゃあないんだから」

「それみろ。いつまでたってもほんとに箸にも棒にもかからんヤツだよ。お前は」

 と、弁当箱の包みから嘲笑が洩れた。

―夕方。

「ただいまぁ。あ~ぁ」男はドアを開けるなり、女房に聞かせるようため息をついた。手にはワインのボトルを1本提げていた。

 夕食を準備している女房は「お帰りなさい」と答えてから、また目を俎板に落とし、「あ~ぁ、この包丁、古いのかなあ、キャベツが切れない」と短冊のようにつながったキャベツを指先でつまんで、亭主に見せた。

 愚痴を聞いてもらえそうにないと判断し、亭主は言った。

「砥石があれば、研いでやるぞ」

 女房は流し台の下から砥石を取り出した。亭主はゆっくり丁寧に刃頭を研いだ。

「これで大丈夫だ。ちょっと研ぐだけで切れ味は変わるから」

 刃頭に親指の腹を当ててから、包丁を渡した。

「ザックザックザック。うん、よく切れるようになった」

「だろ~。飯ができるまで、俺は飲んでるから」

 愚痴のはけ口は酒である。亭主はワインのコルクを開けて、飲み始めた。

「痛ぃ! あぁ、指まで切っちゃたよ~」

 女房は薬指を口にくわえた。

「おい。何、やってんだよ~。試し切りかよ」

 亭主は呆れつつ、救急箱から小さめのバンドエイドを出し、女房の薬指に捲いてやった。

「ごめん。ご飯、ちょっと遅くなりそう」

「あぁ、飲んでるからいいよ」


 アルコールを飲むと話す声が大きくなるのはなぜか。これはアルコールによって聴覚神経が麻痺をして、相手の声が聞きづらくなるので、きっと相手もそうだろうと気を回して、こちらも大声を張り上げるのだろうか。また、寂しいわけじゃないのに飲むと誰かを捉まえて、その耳に向って話しかけたくなるのは、心のどんなメカニズムによるのだろうか。

 そんな酒飲みの習性を飲まれる側のアルコールは黙って見て、聞いている。でも、ときどき反撃してくることもある。


 亭主は早々とワインを1本、空けた。まだ、飲み足りない。「酒、ないか?」催促した。

「料理用の日本酒なら流しの下にあるけど」

 野菜サラダを作っている女房のその声は鈍い。

 亭主は流しの下にあるトビラを開け、物色した。350 の小ビンが2本あった。すぐに1本、空けた。

「もう1本、あるよな」

 女房に顔を向けて大きな声で催促した。

「まだ、飲むの? これ、お料理用なんだよね。お肉を柔らかくするために使ってるんだけど。買い置きがなくなっちゃうわ」

 飲ませたくないという声音であった。

「すまん、くれよ。(仕事がうまくいかず、クソー)今夜は飲みたいんだ」

 哀願していた。

 女房は亭主の顔を見ずに酒ビンを手渡した。

 こうして亭主は胃の中のダムが決壊する寸前まで飲んでしまった。

 女房は、あきれ顔で言った。

「亡父もお酒は好きだったけど、大声でしゃべったりしなかったわ。高価なお酒を適度に、オシャレな飲み方をしてたよ。お料理用のお酒を飲んでるところなんて見たことない」

 そして空瓶を片づけようとした。

「待て! まだ、底に残ってるよ。低俗で安価な酒だけど」

 亭主は左の手のひらを開き、そのうえに空瓶を逆さまにしてその口をトントンと当てた。わずかに垂れてきた残酒に唇を押し当てて啜った。

 女房は「意地汚いわねぇ」と嘆息を洩らした。

「放っておいてくれ!」亭主は怒鳴り「もう、ないか?」空瓶を逆さまにして、トントンを繰り返した。  

 その声と動作は買い置きがなければ買ってこい!と暗に要求していた。

「ありません!」

 女房の声も大きくなった。

 その声で諦めがついたのか、亭主は空瓶をテーブルに寝かせ、下げた首を左右に小さく振った。

 誰かを捉まえ、大声で話しかけるのは品格のなさの現われなのか? 低俗な酒であるが故に、こうなるのか?

 まだ飲み足りない亭主は呂律の回らない舌で「低俗で安価な酒だと、悪酔いするんだぁ」と、空き瓶を睨んで酒をなじった。

『低俗で安価で悪かったな。あんたの肉をフニャフニャにするためには使われたくないね』

 そんな呟きがテーブルに転がされている空瓶の口から漏れてきた。

 その直後、亭主の口から、

「ゲェー、ゲェー、ゲボゥー、ゲボゥー……」

 テーブルには低俗で安価な酒が異臭とともに戻ってきた。(了)



30.誤解からの悲・喜劇

 腹を空かせた亭主が台所へ入ってきて、野菜を切っている奥さんに余計な一言をかける。

「昨日の新聞に野菜をいくら綺麗(きれい)に水洗いしても、俎板(まないた)にバイ菌が付いてれば、元も子もないって書いてあったな」

「使い終われば、俎板にはいつも水をかけているわ」

 奥さんは口を尖らせた。

「俎板は洗剤かなんかで洗浄しないのか?」

「しないわ。でも、なぜ今そんなことを問題にするのよ(俎板に載せる)。食事はいつも私が作っているのに。これまで、お腹を壊したことないでしょ」

(文句があるなら自分で作ってよ)奥さんは俎板の端に手を掛け、キッと亭主を睨んだ。

「ない、ない。文句なんてないよ。俺は食べるだけだから、途中のことには口出ししちゃだめか(俎板の上の鯉)」

 その目力に負け、反省の弁を口にします。

 こんなやり取りから(いさか)いが起こる。

 ガステーブルには2つの鍋がかかっている。

「あっちち、今日はいきなり強火できたわ。がまん、がまん。これくらいはぁ、へっちゃら。お水、十分入ってるし、(から)()きの心配はしなくていいから」

「小さな鍋さん、何を煮てるの?」

「ウドンのスープよ。そっちは?」

「本場のウドン。ご主人の郷里から腰の強い手打ちウドンが送られてきたみたい。ご主人、胃が弱いから柔らかめに湯がくのよ」

「そりゃあ、時間、かかるね。お尻、大丈夫? 溶けちゃわない」

「大丈夫よ。毎度のことだから。もっと嫌なことがあるから」

「そうね。奥さんは金タワシでお腹をゴシゴシ削るように磨くから」

「あ~ぁ、あれは痛い。でも、もっともっと嫌なことあるよね」

「そうそう、あるある。あれだけは止めてほしいよね」

「ふ~ん。小声がすると思ったら、大鍋、小鍋、何か私の噂をしてたでしょ?」

 奥さんは鍋たちに問います。

「あぁ。奥さん、はい。聴こえてましたか?」

「聴力、いいですね」

「私の料理が下手くそだとか、鍋を丁寧に扱わないとか、文句を言ってたんでしょ」

「違います。そんなことは言ってません、って」

「文句があれば、グツグツと音ばかり立ててないで、言ってごらんなさいよ」

「そっ、そうですか。じゃあ遠慮なく」

 2つの鍋はここぞとばかりに声を合わせて叫びました。

「夫婦喧嘩をするときは、どうか私たちを投げないでください。こんなにひしゃげてかっこ悪い顔になっちゃたんですよ~だぁ」

 ひしゃげてかっこ悪い顔になっちゃうのは鍋だけじゃない。

「おい、ウドンにスープをかけたいんだけど、お玉杓子はどこに置いてあるんだ」

「あら、嫌だ、オタマジャクシだなんて。気色悪い。お玉なら、ここにあるわ」

「違うだろ。お玉は短縮した言い方だよ。フルネームはお玉杓子だ」

「じゃあ、なぜカエルの子もオタマジャクシって呼ぶの?」

「それは江戸時代に、木で作った柄の付いている杓子(しゃくし)のことをお玉杓子って言ってたそうで、カエルの子はこの杓子に似ていることから、そう呼ぶようになったみたいだぞ」

「なるほどぉ」

 これで夫婦の波長は合ったかと思いきや、

「そういえば、五線譜の音符記号(♪)もオタマジャクシって言うよね」

「それは俗称で音符が、オタマジャクシに似ていることから、そう呼んでいるだけだ」

「そっかぁ、カエルの子も音符も元は杓子から手が出て、足が出たようなものなのね。ふ~ん、なるほどぉ」

「う~ん。違うってー」

「じゃあ、新聞でこんな漢字『杓文字』を見つけたんだけど、社会の教科書で、象形(しょうけい)文字や楔形(くさびがた)文字があったってことは習ったよね。この文字は何て読むのかな? 初めて見たけど、新しい古代文字が発見されたのかなぁ?」

「それは『しゃもじ』って読むんだよ」

「斜文字? じゃあイタリックのことね」

「??」

 亭主の顔には疑問符が浮かんでいた。

「じゃあ、これは『杓子定規(しゃもじじょうぎ)』、って読んで、しゃもじの大きさを測るものね」

「違う。しゃくしじょうぎ、だよ」

「どんな意味?」

「形式にとらわれすぎて、応用や融通の利かないことの例えだな」

「それは頑固っていうんじゃないの? 頑固定規であれば分かりやすいわ」

「そういう問題じゃなくてぇ。杓子っていうのはスープやお味噌汁をすくうお玉のことさ」

「お玉ならスープも、お味噌汁もすくう加減ができるじゃない。いくらでも融通利くよ」

「だからぁ、そういうことじゃないってば。基準にできない杓子をもって強いて一般的なルールに当てはめようとすることの例えさ」

「杓子でもお玉でも量の基準になるじゃない。あなたの方こそ、融通を利かせなくて無理強いしようとしてるじゃない?」


 感情のもつれや誤解は一語から始まる。夫婦喧嘩も同じこと。互いの感情を平衡に保つ代償として犠牲になる物が多々ある。

 台拭きが投げられる。湯飲みが投げられる。茶碗が投げられる。箸もヤカンも投げられる。重い鍋までも投げられた。

 みんな無残にも悲鳴をあげて床に落ち、ひしゃげた。でも、そんな中で愉快に投げられるものもあります。

「わぁ~い、もっともっと遠くまで投げてよ~」

 それはフライパン(frying pan)でした。(了)



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