第一話 追憶
「宿命の掟に従うと決めたならば、そのやり方に従え。宿命の輪の回転を止めるなど愚鈍の極みだ。しかし、人間の宿命に抗わんとする姿は、その精神は、その魔力は、黄金の輝きに劣らぬほど、美しいものである」
――女帝 マリアンナ
今や世界の半分を支配する巨大魔道国家である神聖ロマーナ帝国、その首都ウィザリーのコロセウム付近に建てられた住宅街は、永遠の都との呼称を裏切らず、住民や商人の喧騒と活気は洪水のように溢れ、コロセウムや競馬場に向かう人の波は、永遠に途絶えることはないように思えた。公園や大通りには緑が芽吹き、贅沢にも魔道具である街灯は、ロマーナ人を優しく照らした。訪れる旅人、異邦人はこれらの光景に畏怖しながらも、同時に帝国とそこに住まう権利を持ったロマーナ人を尊敬した。しかし同時に、多くの者は気づいていた。光があればそこには必ず、影があることを。栄光には犠牲が付き纏うことを。自分たちの足元には、誰もが目を背ける巨大な暗闇があることを。
その日、コロセウムに集まった約八万人の観客は、その円形の観客席から中央アリーナを見つめ、思い思いの歓声をあげていた。身を乗り出すようして熱狂する観客たちは、購入した食い物や酒を口からこぼしながら叫び、互いに押しのけあうようにして視界を確保し、誰もが食い入るようにその催し物に注目した。
「おお」
「また食われたぞっ」
「顔面から丸吞みだっ」
アリーナでは魔獣が三十人ほどの人間を追い立て、「狩り」をする演目が行われていた。必死の形相で逃げ惑うのは、首に吸魔鉄でできた首輪をはめ、ぶら下がるペンダントの数字で識別される、「奴隷」たちであった。
観客席の最前列に家族連れで来ていたある男は、まだ幼い我が子の目を塞ぎながらも、自身は血走った瞳で奴隷の中からお目当てのものを見つける。手に握りしめた小さな紙はいつの間にか汗を吸い込み皺だらけになっており、慌てて引き飛ばすと数字の「9」が現れる。男は安堵する間もなく、自身の賭けた金額を思い出し、アリーナに檄を飛ばす。
「おいっ!九番っ!そんな隅にいないで立ち向かわんかっ!」
この喧騒でも存外に響いたその声に、件の奴隷は掠れた声でぼやく。
「無茶言うなよ」
奴隷はまだ少年であった。名は自身の識別番号の下一桁の母語語読み、「ナイン」で通っていた。わずかな腰布と裸の上半身を縦断するように張り付けられたワッペンにはでかでかと「9」と書かれていた。痩せて骨と皮だけとの表現が適当である身体には、無数の灰色をした鞭の跡が散見され、首元には焼きごての跡と思わしき傷があった。しかし、最も目を引くのは、その短くも鮮烈な赤い髪であった。それはロマーナ人の金髪や茶髪とは異なる異国人の証明であり、蔑視の対象であった。何せ、帝国の侵略に現在最も激しく抵抗している、「朱鬼」、ブリタニア人の身体的特徴である。今も少年にはブーイングが浴びせられているが、本人はそれどころではなかった。
「げっ!きやがった」
それは身体の両端に蛇の頭を持ち、背中には巨大な翼を生やしていた。亜龍種のB級魔獣、「アンフィスバエナ」であった。蛇の魔獣化した姿であるとされ、龍種とは進化の過程で分離したとされている。龍種の飛行能力を含めた異能を使えないが、固有の継承異能を使用できた。
「エイト!こっちだっ!」
「ナインっ、何を……、ひぃっ!」
隣で全身を小刻みに震わせ、背中に「8」のワッペンを背負った茶髪の少年、エイトの手を引いてその場から滑り込むように退避する。エイトはアンフィスバエナの威容と、隣の溶けた地面を見て、年相応の反応を見せた。
「あれが酸のブレスか。なんでもあいつが餌を呑み込みやすいようにする時に使うらしい。……こりゃあ、俺たち餌認定されたな」
「なんでそんな冷静なんだよっ!も、もうおしまいだっ!こんなことならもっと仕事さぼれば良かったっ!」
涙を目にため、震えながら錯乱するエイトにナインは目をやる。その腰布を濡らしている失禁のシミに溜息をしたナインはとうとう決心する。
「俺があいつの鉄球取ってくる。エイトは離れててくれ」
「えっ?ナ、ナインっ、無茶だよ!他の奴に任せるって話だったじゃないかっ」
ナインはアンフィスバエナの首輪にはまった金色に塗装された鉄球を睨む。どうにかあれを手に入れることが出来れば、この悪趣味なショーは終わる。終わらせるのは賭け事に勤しむ観客たちは兎も角、生き残っている奴隷たちにとっては誰でも良かったが、ナインにはやらねばならない理由があった。
(だいぶ減ったなあ……)
三十人の奴隷たちは十分経過した現時点でその半数が死亡していた。ナインたちがあてにしていた剣闘士出身者などのやる気溢れる自称強者たちは、酸性のブレスで溶けたところを、アンフィスバエナにジュースのように吞み込まれた。
そして大前提として、ここにいる奴隷は皆、様々な理由で満足に働けない欠陥奴隷である。たかが奴隷とは言っても、帝国は奴隷制度なくして成り立たず、貴重な労働力を失うことはできない。そこで処分もかねて欠陥奴隷の出番というわけだ。まともに戦うどころか放っておいても死ぬような連中しかおらず、最後に役に立ったら儲けものとばかりに主人から送り出されたものが大半だ。ナインがここにいるのは、子供であることに加え、被差別人種であるためである。ちなみにエイト少年はただのついでである。
(だからこそエイトは無事に返さないと……、まあ、返却されるかもだけど)
「……大丈夫だって。あの龍もどきの金玉もぎ取って、メストカゲにしてやるからよ」
「ナイン……、そのいつもみたいな下品でつまらない冗談を遺言にするつもり?」
「なっ、お前なぁ。俺がいつもつまらないなんて、それこそ冗談言ってる場合じゃ……」
「……」
「え、冗談だよな?お、おい、なんで黙ってるんだよっ」
「……はぁ。僕もやる。頭も首輪も二つなんだ。二人でやったほうが効率的だろ?」
エイトの言は正論であった。アンフィスバエナには首輪が二つあり、片方はダミーとなっている。そもそも一つの首輪に辿り着くものすら少数で、そこから二択で正解を引き当てなければならないのだから、成功者は運営の仕込みを除けば非常に少なかった。そのため魔獣側の勝利にベッドする観客が圧倒的に多く、奴隷の倍率は個別に相当高く設定されているが、そもそも奴隷側にベッドする観客は少ない。賭けとして成り立っていないように思えるが、民衆はもちろん現皇帝陛下のお気に入りであるため未だに存続していた。
「エイト、びくびく震えてるくせに何言ってんだ。俺に任せとけ」
「……君だってさっきから声が震えてるじゃないか。僕も行くよ、友達だろ」
(こいつ、いつもは臆病なくせに本当に大事なところじゃ頑固になりやがる。それが良いところでもあるんだけどな……、仕方ない)
ナインは努めて声の震えを抑えながら、エイトに語り掛ける。友人とは対等でなければならないとナインは信じていた。そして、自身の働く農場の奴隷の同僚で、この臆病な少年は唯一対等に己と接してくれた。ならばこちらも信じ、危機的状況であっても頼りにすべきであると強く思った。ナインの口角は自然といつものように吊り上がり、震えは鳴りを潜めていた。
「俺は運がないからな。やつを抑えてるうちに、正解を引いてくれよ?」
「っ、そう来なくちゃっ!君は魔法で……、うわっ!ナイン!あいつが来たっ!」
ナインは身体をくねくねと引きずりながら猛然と迫りくるアンフィスバエナに正対する。そして詠唱を開始する。ブリタニア人が最も得意とする魔法を。
「魂よ、我が赤熱の怒りに応えよッ!第九の魔法ッ!『狂化』」
瞬間、ナインの魔力が陽炎のように立ち上り、可視化される。同時に自身の首輪の吸魔鉄にその大半を吸収され、残りは身体の輪郭に沿うようにしてナインを覆った。軽く舌打ちをこぼしたナイン。しかしながら次の瞬間には、突進するアンフィスバエナの巨体を、その小さく痩せぎすな身体で抱き着くようにして抑え込んでいたのだった。
初代皇帝カエサルが魔神より賜わりし「グリモワール」、そこに記された十三の基礎魔法のうちの一つである第九の魔法「狂化」は、使用者の身体能力を向上させる。どの魔法にも言えることだが、下層、中流階級の者がその少ない魔力を使い享受できる魔法の恩恵は、微々たるものである。精々が生活に役立てるくらいで、騎士や貴族といった上流階級が戦争や魔獣災害に使用する魔法とは、全くの別物であった。現在、ブリタニア人が滅亡の一歩前で踏みとどまっているのは、「狂化」の適性が高く恩恵を受けやすい種族であるためだ。そして神を模倣せんとする人間の強欲の代償なのか、どの魔法にも大なり小なり「代償」は存在した。
ナインは歯を食いしばり、血管を夥しく浮かび上がらせ、眼前の化け物の異臭を全身に浴びながら踏ん張っていた。手のひには鱗が突き刺さり、腕の骨にはひびが入り、むき出しの足は地面との摩擦で炎であぶられたと錯覚するほどの激痛であったが、刹那的に考えるとするならば、ナインには好都合であった。なぜならばその魔法は、魔力の他に、ナインの正気を「代償」としているからだ。「狂化」はその名の通り、人間の肉体のリミッターを魔力によって外し、最終的には脳にまで達した魔力によって狂人を創り出すという魔法なのである。
(頭が割れるっ!クソっ!俺はっ、ああはならないっ!人間としてっ、死ぬんだっ!)
ナインはそのなれの果てを目撃したことがあった。その光景はこの世の何よりも陰惨で凄惨で、悲惨だった。
「ぐおおおおおおッ!」
ナインの狂気に抗う雄叫びに、一瞬静まり返っていたコロセウムには、今日一番の大歓声が鳴り響いた。たとえ「朱鬼」の奴隷であろうとも、齢十にも満たない子供が、騎士ですら手を焼くB級魔獣を止めるというのは、帝国の常識を著しく逸脱していた。しかし、民衆たちが熱狂に支配されていく一方で、上流階級に属する者たちの視線は冷ややかだった。それは子供、なおかつ下層階級であってもこれほどの魔力を持った個体の存在するブリタニア人を戦争で捕虜とし、奴隷とすることによる反乱の危険性の再認識のためであった。しかし眼前の「もの」は朱鬼の中でも上澄みであるし、所詮は貴族の足元にも及ばない魔力量であることを理由に、多くの者はひとまず静観を決めるのだった。
「ぐうっ!エイトっ!まだかっ!?」
「もうちょっと耐えてっ!……今だっ!ナインっ!屈んでっ!」
「うおっ!?」
エイトはなぜかアンフィスバエナ、ではなくナインに向かって駆け出してきた。そのまま反射的に屈んだナインの背中を足蹴に、空中に飛び上がった。ちょうどアンフィスバエナは目の前の赤い餌に酸のブレスをお見舞いしようと「溜め」の動作に入っていた。まさに吐き出さんとするその時、小さな影がその下顎を突き上げた。アンフィスバエナは慌ててこみ上げるブレスを押しとどめようとするが既に遅く、誰もいない空中に向かって酸のブレスを噴射した。
エイトは自由落下に身を任せながらも、隙のできたアンフィスバエナの首輪に手を伸ばしていた。金に塗装されたその鉄球は、カコンっと小気味よい音を立てて外れると、エイトの手に収まった。落下の勢いに耐えられずその身体を二、三回回転させ目を回すエイトはしかし、宝物のようにその金の鉄球を抱えていた。
「や、やったっ!……あっ!?」
エイトが先程まで見ていた黄金の輝きは、魔法のように、泡沫の夢のように消えてしまっていた。観客は呆然とするエイトに嘲笑の嵐を叩きつける。その生まれと身分に相応しく、運に見放されたと野次を飛ばす。エイトは恥辱に頬を染め、悔しさに肩を震わせた。その姿は勇敢にも化け物に立ち向かった先程までと比べ、あまりにも小さく弱弱しかった。エイトはもはや怒り狂いこちらに迫りくるアンフィスバエナのことさえ、見えていなかった。
「おらあああああああっ!」
その突然の咆哮にハッとしたエイトは、衝撃の光景を目撃した。満身創痍で地面に転がっていたはずのナインが、自身の十倍はあるアンフィスバエナの巨体を、エイトを背にして押しとどめていたのだ。エイトはナインの身体を覆う魔力がどんどん膨張していることに気が付いた。
「シャッ!?」
「奴隷舐めんなこらああああああっ!!」
アンフィスバエナが間抜けな鳴き声を漏らす。最初に最前列の観客が異変に気付く。少し、ほんの少しではあるが、アンフィスバエナの奴隷を喰らって膨らんだ腹が、地面から浮いているのだ。そしてアンフィスバエナが翼はあれど飛ぶことのできない、龍種の成り損ないであるという周知の事実を通過し、事の真相へと辿り着く。「9」の奴隷が、アンフィスバエナを持ち上げているという非現実的な答えへ。
「エイトおおおおおおっ!受け取れえええええっ!」
「へ?ぎゃああああああ!!」
ナインはぐるりと回転すると、その勢いに乗じて、抱えたアンフィスバエをエイトに向かって投げつけた。エイトは目をむきながら絶叫し、死んだらナインに化けて出てやることを決意した。
アンフィスバエナが落下し、ビリビリとした衝撃は空気を振動させ、このコロセウムを一望できる高さの支配人室にまで伝わってきた。
「支配人……これは一体?」
「見てわかんねえのか?魔力の精神呼応ってやつに決まってるだろうが」
禿げ頭で小太りの支配人は、尊大な態度で部下に吐き捨てる。太い指には狩りの様子が刻まれた金の指輪がはめられ、落ち着きなく指で弾く金貨と互いに反射し合っていた。
「確か魔神教の……精神と魔力は互いに影響し合うってやつですか。眉唾物と思っていましたが、これを見ると否定はしきれませんね。……それで、買いますか?」
「あん?」
「支配人がこれほど興味を示すなんて、それはもう儲けるチャンスを見つけた時だけですから。買うんでしょう?あのブリタニア人の奴隷を」
「……はぁ」
支配人はわざとらしく溜息をつくと、中央アリーナを指差した。ちょうど砂煙が晴れ、並んで横たわるアンフィスバエナと赤髪の奴隷、ナインが現れた。逃げ回っていた生き残りの奴隷を除き、唯一その場に立っていた今回の勝者は、ロマーナ人の奴隷、エイトであった。ちょうどアリーナの中心で黄金の鉄球を空に掲げるその奴隷は、身分さえ忘れれば英雄譚の主人公のようにさえ見えた。
「まさか……」
「俺ぐらいになると分かるもんだ。ありゃ黄金の原石だ。戦闘センスから言っても、将来性から言っても、今まで見た中でピカイチだ。それに、魔法も俺と近い系統とみた。人種も我らが帝国人で受け入れやすい。ありゃあ、金になる。……まあ、最近は訓練生も不足してるしな。赤髪もついでだ。二匹とも絶対手に入れる。俺が直々に調教してやる」
支配人は指で弾いていた金貨を空中で鷲掴みにすると、部下の男にゆっくりと手渡した。彼にとってははした金だろうに、まるで手放すのをためらっているかのようだった。
「報酬には色を付けてやれ。ついでに軽く治療もな」
「奴隷のガキ風情によろしいので?」
「奴隷のガキだからこそ、だよ。無知で愚かだからこそ、すぐ使うか奪われちまう。元々失うもんなんてなかった社会的死者だ。初めて何かを失ったら、また欲しくなる。そして成功体験に縋るってわけだ。奴らは必ず戻ってくる。こちらが動くまでもなく、な」
「根拠は……いつものですか」
「ああ。俺の魔法が、そう言ってる」
何の奇跡か施された傷の治療もそこそこに、コロセウムから出たナインとエイトは、近くに聳え立つ魔神ベリアルの巨像には目もくれず、流麗な中庭や噴水の前を駆け足で素通りすると、インスラ(多層型共同住宅)から逃げるようにしてテヴェレ川の河川敷にまで辿り着いた。二人は魚が抗根の苔を食む音や、猫が毛繕いをする音にまで敏感に反応し、それを馬鹿にするようにカラスが甲高く鳴いた。近辺に人の姿がないことに安堵したナインは、目線でエイトに促す。エイトが頷き手のひらを広げると、皇帝ネロの横顔が黄金の輝きとともに飛び込んできた。
「金貨だ……本物だよっ!ナインっ!」
「……ああっ!こりゃすげえっ!……パンが何個買えるかな?」
「何しけたこと言ってるのナインっ!そんなのいくらだって買えるさっ!それどころか、僕たち二人の価値より高いかもっ!もしかして僕たち……」
「ああ、解放奴隷になれるかもしれない」
「だよねっ!ワリーナさんも力持ちのナインはともかく、僕なんかいらないだろうし」
「お前っ!自分だけ逃げようったってそうはいかねーぞっ!」
それから二人で冗談を言い合い、じゃれ合って汚い腰布を更に汚した。二人は薄々、理想が実現することがないことを悟っていた。現実は往々にして非情で残酷なものだということは、長い奴隷生活で散々思い知っていた。しかし、二人は怪物に共に立ち向かい、金貨を手にしたという達成感や高揚感にもっと浸っていたかった。つかの間の幸福が二人をこの場所に留めてしまった。
「ナインはどこに行きたい?僕はね、ご飯が美味しいところっ!」
「お前なぁ、まずは飯を食うための金の心配だろ?」
「そっか、金貨は渡しちゃうんだもんね。……冒険者とかどうかなっ?僕憧れてたんだよねっ!」
「冒険者?魔獣と戦うなんて今日でこりごりだぜ俺は」
「えぇっ!僕たちならやれるってっ!ナインはもう強いし、僕がもっと強くなれば最強の冒険者コンビになれるよっ!ね、やろうよっ!」
「ははっ!しょんべん漏らさないようになったら考えてやるよっ!」
「もうっ!馬鹿にするなよぉっ!」
ナインは今になって匂いを気にしだしたエイトが川に腰布を洗いに行ったのをしり目に、寝転がって空を見上げる。紺碧の空の残滓は、宿命の糸で手繰り寄せたかのように、鈍重な黒雲にのまれつつあった。ナインはエイトの語った夢に内心、ワクワクしていた。何より、二人でいることが当然のようなエイトの語り口調は、ナインの胸をほんのりと熱くさせた。
(冒険者、なってみてもいいかもな……二人でダンジョンを攻略して、魔獣倒して、大金持ちになって、腹いっぱい飯食べて……それから……)
「ナインっ!た、大変だっ!人がっ!人が流されてきたっ!」
ナインの夢想は、唐突に終わりを告げたのだった。
ナインが草むらをかき分けエイトの声のするほうへ駆けつけると、顔を青ざめて座り込むエイトの傍に、確かに水浸しで倒れている人物がいた。
「ど、どうしようナインっ!この子、息してないよっ!」
「なっ!?……と、とりあえず俺が「治癒」の魔法を使うっ!エイトは、石をいくつかと、木の枝とか葉っぱを集めてきてくれっ!」
「わ、分かったっ!」
「魂よ、我が慈悲の祈りに応えよッ!第二の魔法ッ!『治癒』」
ナインはなけなしの魔力を絞り出すようにして魔法をかけながら、倒れる人物を見つめた。性別は女で、年齢は自分たちより少し上に見えるが、まだ少女の枠を出ていないように思える。首にはめられた吸魔鉄の首輪から奴隷であることが分かったが、庶民が着用するウールの服や、蛇が描かれ、ラテン語の文字が刻まれた銀の腕輪を身にまとっていることから、主人の少女に対する扱いが窺い知れた。ナインはラテン語を読めなかったため、後でエイトに意味を聞こうと思ったが、少女の顔に目を向けた瞬間の衝撃に、結局は忘れてしまった。
水と泥にまみれ、寒さで青ざめていながらも、その少女は美しかった。遥か南方の砂漠の民に見られるような小麦色の肌に、帝国では神聖視される銀髪。細く高い鼻に可愛らしくつぼんだ唇、閉じられていてもわかるほどの存在感を放つ大きな目、豊満かつ端麗な姿態、それらが神が手を加えたような緻密さで均整がとれていた。その十全十美な様はナインに、気後れと仄かな恐怖をもたらしたが、それは切迫感や焦燥に塗りつぶされ、いつの間にか消えてしまった。
「ごほっ!」
「っ!」
少女は幸運にもナインの微弱な「治癒」で息を吹き返し、口から水を吐き出した。
「ナインっ!持ってきたよっ!…って、生き返ったのっ!?」
「エイトっ!それどころじゃないっ!俺はもう魔力が尽きたっ!お前が魔法で火を起こせっ!」
「そ、そんな……僕が魔法なんてっ!」
「やらなきゃこの子が凍え死ぬぞっ!大丈夫だっ!お前ならできるっ!俺に続いて詠唱しろっ!」
「……分かった、やってみるっ!」
ナインは魔力枯渇でふらつく足を踏ん張り、枝葉を束にして置き、石で囲む。それからエイトの隣で詠唱の一節一節を区切って、ゆっくり小声で補助した。
「た、魂よ、我らが、原初の、渇望に、応えよ、第一の魔法『神火』」
たどたどしい詠唱とちっぽけな魔力にも神は耳を傾けたのか、エイトの指先から一瞬火花が走り、その小さな火種は幸運にも枝の先を燃やし、やがて敷き詰められた葉っぱにまで伝播した。ナインは急いで焚火に息を吹き込み、追加の枝葉を入れた。
やがて火は安定し、二人は少女を近くに寝かした。少女の呼吸は、数分後には安定していた。
「エイト、やったな。やっぱり、やればできるじゃねぇか。……エイト?」
「……っ、ごめん。ボ―っとしてた」
「大丈夫か?代償の火傷が痛むのか?」
「いや、そうじゃないんだけど……。へ、変かもしれないけどさ、何か、嫌な予感がするんだ。何か、取り返しのつかない過ちを、犯してしまったような……」
浮かない顔で少女を流し見るエイトに、ナインは少しむっとしてしまう。その感情には可憐な少女に対する情欲と持ち前の奴隷らしからぬ正義感が多分に含まれていた。
「過ち?まさか、この子を助けたのが、過ちって言いたいのか?あのまま死んでいたのを、見捨てろってか?奴隷として生きるよりましってことか?」
「……ごめん、違うよね。人助けは良いことに決まってるよねっ!僕、もっと木の枝とか集めてくるっ!」
「……」
エイトは悪くなった空気に耐え切れなかったのか、そう言って消えるように茂みに入っていった。
ナインは生涯、この時のことを後悔することになる。友達と、親友とのたまいながらエイトを信じ切れなかった自分を、殺したくなる。しかし、宿命の輪は廻る。そして、過去は誰にも、変えることはできない。
追憶は続く。