白百合姫と第一王子 (1/1)
離宮の庭に出ていたわたしは、こちらへやって来る人影を見て思わず走り出した。
「ルシウス様!」
わたしの姿を認めると、馬上にいたルシウス様は傷だらけの顔に柔らかな笑みを浮かべる。
「ただいま、リリー」
ルシウス様が下馬する。わたしはその動作がいやにゆっくりだと気付かずにはいられなかった。
「私のいない間に変わったことはなかったか? どこかの好色な貴族に口説かれたりとか……」
「ありません。そんなことをしたら、後でルシウス様が怖いって皆知ってますから。……それよりルシウス様、大丈夫なんですか?」
「大丈夫? 何がだ?」
「お体ですよ。聞きましたよ。解放軍のリーダーの妹に重傷を負わされたって……」
「その話は間違いだ。このとおりピンピンしてるだろ」
ルシウス様は軽く両手を広げた。その平然とした顔を見ながら、嘘つき、とわたしは心の中でなじる。ルシウス様はお優しいから、わたしを心配させまいとそう言っているだけだ。
「さあ、リリー。せっかく帰ってきたんだ。一緒にお茶でも飲もう」
ルシウス様は離宮の使用人に馬を預け、わたしと一緒に歩き始めた。
「この間あなたにあげたドレスがあっただろう? あれを着るといい。一緒に贈ったネックレスもつけて」
「……いいえ。このままで構いません」
思ってもみなかった方向に話を振られて、わたしは少し動揺する。仕立てはいいけれど地味なドレスの袖口をいじりながら慌てて返事をすると、ルシウス様がちょっと顔をしかめた。
「いや、私が見たいんだ。リリー、着てみてくれ」
「それは……その……見せるほどのものでは……」
わたしは必死で言い訳を考えながら、頬に手を当てた。目元を覆っている仮面のひんやりした感触が指先から伝わってくる。
「……リリー、私が何も知らないとでも思ったのか」
わたしが冷や汗をかいていると、ルシウス様が急に声のトーンを落とした。
「着られるわけないよな。ドレスもネックレスもあなたの手元にないんだから。あなたはいつも私が贈ったものをさっさと換金してしまうんだ。平民街にある孤児院へ寄付するために」
まさかバレていたなんて思わなかったから、一瞬足が止まりそうになった。けれどすぐに背筋を伸ばし、わたしは挑戦的な口調で尋ねる。
「いけませんか?」
「……あなたにあげたものだ。それをどうするかは、そっちの勝手だ」
そう言いつつも、わたしの隣を歩くルシウス様は不満を隠せていなかった。
「だが、これだけは言っておく。平民に施しなんて無駄だ。そんなことをしても奴らをつけ上がらせる結果にしかならない。あの獣どもを……」
「ルシウス様……」
いつも通りの頑なな口調に、わたしは目を伏せた。
ルシウス様はとても聡明な方だ。それなのに、どうしてご自分が間違っていると理解できないんだろう。平民をそんなふうに表現するなんて……。
「いいか、リリー。奴らは人間の皮を被った獣だ。だからこそ、我々王侯貴族が正しく管理しないといけないんだ。無駄な自由も富も権力も奴らにはいらない。獣がそんなものを正しく使えるわけがないからだ」
「……ではルシウス様の理想とは、平民を奴隷として扱うことなんですか? 食べ物もほとんど与えずにボロ屋に住まわせ、一日中こき使って使い潰したら代わりを探すような……」
「そんなわけないだろう」
ルシウス様は目を見開いた。
「獣といえども将来私が治める国の民だぞ。きちんと栄養のある食事を過不足なく与えて、適切な労働をさせ、きちんとした家に住んでもらうつもりだ。もちろん、病気や怪我をしたら医師に診せる。全員がそういう暮らしをするんだ。皆が平等なんだから、自由も富も権力もいらない。分かるだろう?」
「……分かりません」
わたしは首を振った。
ルシウス様は理想主義者だ。それに、いざとなれば自分を抑えられる人でもある。つまり、とても我慢強い方だ。
でも、大半の人はそうじゃない。そんな『管理』された暮らしに誰もが耐えられるわけがないんだ。それに、自由のない生活なんてどれだけ恵まれてたって嫌だっていう人は必ずいるはずだ。
「大体、ルシウス様のその理想を貴族の方々が理解しているとは思えません。皆、平民から搾取するのが当然だと思ってるんですから」
「全員が全員じゃないだろう」
ルシウス様が難しい顔で言った。
「それに、今は間違ったことをしていたとしても、皆いつかは分かってくれるはずだ。彼らは獣じゃないんだから。私が人生のどん底にいたときに慰めてくれたのは、王宮に詰める貴族たちだった。そんな心根の優しい者なら、きっと何が正しいのか理解できるはずだ」
そんなわけないじゃない。
貴族がルシウス様に優しいのは、彼がこの国の王子だからだ。将来の王。そんな人の機嫌を損ねるなんて絶対にやっちゃいけない。だから、皆ルシウス様に媚びているだけだ。
でも、ルシウス様はそこのところを理解しようとしない。素直っていうか、人の厚意を疑いたくないっていうか……ルシウス様はきっとそういう人だからだ。
わたしはかぶりを振りながら、「ルシウス様……」と呟く。
「ルシウス様、本当に平民は骨の髄まで奉仕種族になるべきなんでしょうか。それに貴族はそんなに清らかなものなんでしょうか。だってルシウス様、わたしはもしかしたら……」
「リリー。そういえば、新しい花を出してやるのを忘れていたな」
ルシウス様が無理やりわたしの話を遮った。手のひらを宙に向けて、魔法で一輪の花を出現させる。
それは真っ白なユリだった。
「さあ、リリー……」
優しい声で囁かれて、わたしは仕方なく足を止める。ルシウス様がわたしに触れてくるのはこのときくらいだって言ってもよかったから、そんな貴重な機会を逃すわけにはいかなかった。
ルシウス様は手を伸ばして、ユリの花をわたしの黒髪に飾る。
「……似合うな」
ルシウス様は傷のついた顔に満足そうな微笑みを浮かべた。
「この国の紋章は青いバラだ。何でも、神の奇跡の象徴なんだとか。だが、あなたには白いユリが一番似合う。そうは思わないか?」
「……だから『リリー』ですか」
わたしは思わず笑ってしまう。たとえどれほどルシウス様の考えがわたしと相容れないものだったとしても、こういう幸せな時間を過ごす度に、彼と離れられないと思ってしまうのだった。