酢豚
僕達は上野公園のベンチに座って噴水を眺めていた。日曜日だったので公園は賑わっていて、多くの家族連れやカップルが目の前を通り過ぎていった。
「もう決めたんだね?」と僕は言った。
彼女はわずかに微笑んで頷き、長く真っ直ぐな黒髪をかき分けた。噴水が一度やみ、新しい水の絵を描き始めた。
「月で暮らすっていうのはきっと素敵なことだろうね」と僕は言った。
「そうね」と彼女は言った。「アマゾンもレストランもないけれど」
「でも低評価もお通し代もない」と僕は言ってみた。彼女は笑って僕の手を握り、僕の肩に頭をもたせかけた。
「また君の酢豚が食べたいな」と僕は言った。
「いつかきっと」と彼女は言った。
僕が彼女のことを思い出したのは、北京料理の店でお通しで出てきた酢豚がとても美味しくて、彼女の作る酢豚の味によく似ていたからだった。それはあまりにも不意打ちで、彼女に関する記憶が一遍に甦ってきたために、自分はもう三十七歳で、妻と二人の子供達と共に暮らしているという現実に再び馴染むまでに少し時間がかかった。
どうして僕は彼女のことをすっかり忘れてしまっていたのだろう? あるいはそれは月に帰っていった人間の宿命のようなものなのかもしれない。僕はそれからどれほど長い時間が流れたのかを改めて実感した。彼女は今でも元気でやっているだろうか? 意地の悪い兎達から陰湿ないじめを受けてはいないだろうか? でももし今日彼女が僕にこの酢豚を食べさせてくれたのだとすれば、きっとうまくやっているのだろう。
僕はそんなことを考えながら、目の前に回ってきた炒飯を見るともなく見ていた。「要らないなら子供達にとっちゃうけど」と妻が言った。