戦争を嫌い現世に転移してきた元魔王が親子丼を食うだけの話
「人類は愚かだ……」
どうして人は『この時間帯はセルフレジのみで受け付けております』という文字が読めないのだろう。
酒か。酒だろうか。血中に入ったアルコールが彼らの知性を奪うのか。
しかしどこで酒を飲むのだろう。家か。わからない。人類の思考、生態……それは私にとって実に難解であり不可解なものであった。
夢の異世界転移。
魔王と呼ばれた生命であった私は、争いを好まない性分から、異世界に逃亡することを選んだ。
なぜ魔王族に生まれただけで人類と争わなければいけないのかが理解できなかったのだ。
理解できないことはしたくない……だから、魔王も勇者もいない、それどころか魔法もないような世界への転移を望み、それを叶えた。
平和で豊かな世界……それに興奮したのだが、この世界には、いや、ヒトには、おおよそ生命体として致命的な欠陥があることを、当時の私は知らなかった。
すなわち『働かなければ生きていけない』。
「……まさか人類は大気中のマナを取り込むこともできなかったとは……」
食べねば死ぬ。暑くても寒くても死ぬ。それどころか、最低限衛生的なプライベートスペースがないと死ぬのだ。
ありえない脆弱……しかもなにをするにも金が必要で、私は仕方なく、コンビニという場所で勤労することとなったのだ。
コンビニは人類の愚かさを詰め込んだ博物館のような場所だ。
日に最低一人は気の狂った者が押し寄せ、その者にとってはなんらかの意味のあるのであろう鳴き声を発する。
この鳴き声が思わず捻り潰しそうになるほど不愉快なのだが、人前でやると騒ぎなるので、あとで発動する呪いをかけておくしかなく、呪いが発動するまでは対応の必要性があるのだ。
「……まあいい。では……『メシ』とするか」
六畳一間の我が城には、手狭だがキッチンがある。
このコンロ一つきりの狭苦しい場所で作った料理を食すことが、最近の私の大きな楽しみとなっていた。
本日は冷蔵庫にある鶏肉と玉ねぎ、そして卵を使った親子丼だ。
帰宅時間に合わせて炊けるようにしていたご飯は、今まさに蒸気噴出口から真白な湯気を吹き上げて、けたたましいアラームとともにその炊き上がりを知らせたところだ。
この白米が対流し吹き上げるまっしろな湯気がとてもいい香りで、これをアロマとして売り出せばリラクゼーション効果からバカ売れのような気がするのだが、世間には商品化の動きがない。
そのうち私がやろうと思っているのだが、そのための資金はまあ……百年もあればたまるだろうか。
エプロンをつけて小さなキッチンに立つ。
まな板の置き場がないので、シンクの角にうまく置く。
まずは鶏肉だ。
肉は焼くと縮むので大きめに切る。大きい肉というのはいいものだ。心躍る。なんなのだろう、肉。ブルガリアから来たという同僚も肉が大好きだと言っていた。
……などと考えていたからか、少々肉を大きく切りすぎてしまった。
「……まあいい」
私は『完璧』を志す性向を持った者ではあったが、料理をする時には『まあいい』と思うように心がけている。
それに大きい肉はいいものだ。翌日の備えを考えるとあまり多くを使いたくはないのだが、こうなったら今日は大きく切った肉をたっぷり並べた豪勢な親子丼にしてやろうという気持ちになってくる。
予定より1,5倍ぐらい多めに肉を使って、コショウを振っておく。
15分ぐらいなじませておくと、不思議と肉がジューシーになるのだ。
肉をなじませているあいだに玉ねぎの下ごしらえだ。
この『皮を剥く』『切る』という作業がなかなか面倒くさく、私はいつもこういった作業を代わってくれる部下はいないものかと考えてしまう。
皮むきはまだいいのだが切る時などはもう本当にイヤで、人類の脆弱な肉体を持った私は、この玉ねぎの出してくる成分のせいでいつも泣かされる。
目が痛い……目が痛い……
シンクの中に置いたザルに薄くスライスした玉ねぎを入れていく。
親子丼などはちょっと大きめにくし切りした玉ねぎを入れるのがいい、という言説も聞くのだが、私はサラダのように薄くスライスした玉ねぎがの方が好きだ。
こちらの方が味が染みる気がする。
あと、私は玉ねぎを使った料理は好きなのだが、玉ねぎそのものの味はさほど好きというわけでもない。
なにせ私の買う玉ねぎは安いせいか変に青臭いことが多いのだ。
これが好きな者もいるかもしれないが、私が私のために作る料理において、他者の好みなど斟酌する必要はまったくない。
玉ねぎを流水にさらしているあいだに肉の下処理に戻る。
胡椒がそろそろなじんだころだろうから、塩を振って揉んでいく。
生肉を揉む感触自体は好きではないのだけれど、この作業によって肉がおいしく仕上がると思えば、至福の時間だ。
大きめに切った肉はいったいどんな喜びを私にくれるのか……ザルを二つ置いただけでいっぱいになってしまうほど狭いシンクの中で、私は肉を揉んだ。
いよいよフライパンに火を入れる。
十分に温まったところにごま油を回し入れて、油の温度を上げていく。
そうして肉を投入すれば、油が弾ける熱さと、ジュウウウ……というなんとも小気味良い音がする。
肉を焼く音とにおいはいいものだ。毎日焼きたい。用事がなくても焼きたい。いっそのこのあたりをすべて焦土にしてしまおうかという欲求にかられたことも一度や二度ではないが、住所を失うと面倒だというこの世界の現実が私の気まぐれをどうにか抑制している。
肉を強火で焼き続け、表面がいい色合いになったところで、玉ねぎをフライパンに投入する。
肉を焼いたのとは違う鍋で調理しろという向きもあるかもしれないが、私は肉のうまみの出た油を玉ねぎにからめるのを人生において3番目ぐらいに重要な行為に位置づけているし、あと洗い物が増えるのは面倒くさい。
そもそもコンロが1つしかないのだ。
フライパンも出して、鍋も出して……などという作業はやっていられない。まあ、あたりいったいを焦土にする可能性がありつつも私の権能による炎によって鍋でお湯を沸かす手段もないではないが、それはあまりやりたくない。リスクがでかい。
私は玉ねぎを炒めながら、コンロが2つある生活を想像した。
それは料理の自由度が各段に広がる夢のような生活だった。幸せは2倍、満足感も2倍。そして洗い物は4倍だ。
私は料理をする時、常に洗い物がどのぐらい出るのかを考えるようになってしまっていた。それはヒトが生きながらにして死を思うことにも似た、哲学的思考なのだろう。
薄い玉ねぎがいい色になった頃合いを見計らって、私は冷蔵庫から人類最高の発明品を取り出す。
『めんつゆ』というウルトラマテリアルがこの世界にはあって、これはダシをとるだの味を整えるだのまだるっこしいことの一切を省略させてくれる、まさに夢のようなアイテムだった。
おまけにパッケージには調理ごとに適した希釈比率まで書いてある。
人類は愉快だ。このようなものを生み出す創造性を有するいっぽうで、ほんの2行ぐらいの母国語文章を読めなかったりする。
マスクはないとそこら中に書いてあるのに「マスクねぇのか!」と店員に確認する、あの愚かな生き物と、めんつゆを生み出した者がともに同じ人類カテゴリに入るというのは、にわかに信じがたい。
いや、それは奥が深いということなのだろう……
私が日々感じるストレスに任せてこの世界を焦土に変えようと行動しないのは、おおむね『めんつゆ』のおかげと言って間違いがなかった。
立場の弱い者に怒鳴り散らすことでしか自己を確立できない心身の脆弱な者を嫌悪するかたわら、めんつゆを生み出す人類の創造性を、私は愛しているのだ。
計量カップにより適度に希釈されためんつゆ液を、玉ねぎと肉の入ったフライパンに注いでいく。
この熱いフライパンに常温の液体が入っていく時の音と、立ち上るなんとも言えない香りを私は愛している。そう、私はヒトの営みの細かいところを好ましく思っているのだ。
ぐつぐつと煮立つめんつゆ液にみほれ、私は自分の失策に気付いた。
卵を溶き忘れていたのである。
親子丼には『卵を入れるべき瞬間』というものがあるのを、私は固くしんじていた。
それはこの、熱せられた鍋肌と常温だっためんつゆ液の温度がそろい、ぐつぐつという音がし始めたばかりの、この瞬間のはずだった。
私は天をあおぎ嘆いた。
あまりぐつぐつ言わせすぎるとせっかくの風味がとんでしまう。けれど、ぐつぐつ言うぐらいの温度にしないと、溶いた卵が固まらない。
それゆえに『沸騰した瞬間』こそ、卵を入れるのにもっとも適したタイミングなのだ。だというのに、卵を溶き忘れるていたらく……!
すべてを灰塵に帰してしまいたくなるような後悔の中、私の目にとまったのは大ぶりに切った肉だった。
ああ、そうだとも。
世界を燃やすのはいつでもできるが……
肉を大きく切って贅沢に使った親子丼を食べられるのは、今しかない。
急いで卵を溶いた。よく溶いた。白身と黄身が完全に一体になるまで溶いた。
そうしてぐつぐつ言っている鍋に回し入れると、卵は次第に液体から固体となり、沸騰を続けるめんつゆ液の上でフタのようになっていく。
しばらくその変化を目で味わってから、いよいよ火を止めた。
どんぶりを洗い物のカゴから取り出して、炊飯器を開ける。
ムワッとしたエロティックなほど濃ゆいご飯の香り。白くけぶった湯気が晴れてから視界に現れるのは、輝くまっしろな炊き立てご飯。
くっつき防止のイボつきしゃもじでかき混ぜるその感触まで美しい。炊き立てご飯は世界を救うかもしれない。
もしも私が魔王であったころにこの存在を知っていれば、とりあえず勇者どもと食卓を囲むことを考えた。そうすれば争いなどくだらないと、誰もが心より信じただろう……そのぐらいの可能性が、炊き立てご飯にはある。
炊き立てご飯にフライパンから直接、親子丼の親子部分を乗せる。
これがなかなか難しい作業だ。
小さめのフライパンを使っているとはいえ、その直径はどんぶりよりも大きい……しかも汁気だってあるそれを、こぼさないようにどんぶりに乗せなくてはならないのだから、神経がすり減る。
お玉などを使えば、きっと、もっと簡単にできるのだろう。
だけれど私は、洗い物が増えるのを心の底から嫌悪していた。
食洗機……食洗機さえあればいいのかもしれない。だが、家賃の比重が想定より重く、私が今の給料で食洗機を購入できるのは、もっとずっと先の話になりそうだった。
「ああっ……」
玉ねぎがひとかけら、こぼれてしまった。
シンクの上だ。うん。セーフ。私はなにもなかったかのようにこぼれた玉ねぎを拾い上げ、どんぶりの上に乗せる。
親子丼の完成だ。
汁物はない。世間にはカップ味噌汁という、これもめんつゆ並の発明品があるのだけれど、使ったカップは洗って捨てたいという欲望を私は持っているので、洗い物が増えてしまうのだった。
丼と箸。
その2つだけを愛用のちゃぶ台に乗せる。
そうして私の食卓は完成した。
「いただきます」
どんぶりの中に深く箸を突き立て、一気に掻き込んだ。
多少汁が煮詰まったせいで、だいぶ熱かった。口の中をやけどしそうになりながらもよく噛んで飲み込む。
大ぶりの鶏肉は噛めば噛むほど肉汁が染み出してくるほどジューシィで、薄切りの玉ねぎは汁に半ば溶けながら、しかしシャクシャクした歯応えを失っていない。
卵は半熟。これに尽きる。生ではだめ。固すぎてもだめ。やはり、半熟が適切だ。
夢中になってかき込んだ。
汁の染み込んだメシがうまい。ごま油の香りは存在感をひそめてはいたけれど、肉を噛む一瞬、たまねぎを噛む一瞬、わずかながらも、たしかにその存在を示した。
卵も玉ねぎもうまいが、やはり肉。肉はいい。肉は救いだ。表面をカリカリになるまで焼いた鶏肉。噛めば噛むほどうまい鶏肉。
たとえどれほど心身が疲労に支配されていても、肉の下処理だけは絶対にしよう……そう決意するほど、肉が肉としてうまいというのは、幸福なのだった。
気づけば私は親子丼をすっかり食し終えていた。
ぬるい水道水を飲みほし、しばらく天井をあおいで茫然とする。
網戸越しに入ってきた風が電灯のヒモを揺らすのをながめていると、夜勤明け特有の『あとから来る眠気』がようやく襲ってきた。
このあとは茶碗を洗い、風呂を洗い、風呂に入り、次の夜勤に備えて睡眠をとらなければならない……
だが、私は目を閉じたまま、余韻に浸ることを選んだ。
口の中に残ったうまみが消え去るまで、人類の脆弱な肉体だからこそ楽しめる『食』という悦びを、噛み締め続けたのだった……