第8話 紅く燃える永遠の命
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
パチュリーが従えていた、あの人間たちよりも幾分はまし、というのがレミリア・スカーレットの今の状態であった。
血まみれの肉塊、と言っていい。
その傍らで、魔理沙は片膝をついた。
「……これ、飲めよ」
胸元から小瓶を取り出し、差し出す。
「吸血鬼に効くかどうかわからないが、まあ物は試しだぜ。はっきり言って不味いけど、血なんかよりマシじゃないかって気はする。さあ」
「霧雨……魔理沙……」
レミリアは、辛うじて聞き取れる声を発した。
「守りなさい……早く、私を……守りなさぁあい……」
「守ってやりたいのは山々だがなあ」
そう言う魔理沙の眼前に、博麗霊夢が墜落して来た。
地面に激突し、即座に受け身を取って、跳ねるように起き上がる。そして言う。
「れっレミリアちょっと、自力で逃げられるんならとっとと逃げて欲しいんだけど。で、魔理沙は私に加勢して」
「なりふり構わず私に助けを求めるのか、霊夢が」
魔理沙は見上げた。博麗の巫女を空中から叩き落とした、1匹の怪物を。
宝石の実を生らせた枝。
そんな形状の翼を揺らめかせて夜空に佇む、小さな少女。
霊夢を見下ろす瞳は、鮮血のように赤く、そして虚ろなほどに澄んでいる。邪気がない。感情もない。
人形の目だ、と魔理沙は思った。
レミリア・スカーレットに似ていると言えなくもない可憐な美貌には、表情というものがまるで無い。可愛い唇は、これまで1度も言葉を紡いだ事がないのではないか、と思わせる。
フランドール・スカーレット。
この人形のような少女を、パチュリー・ノーレッジは確かそう呼んでいた。
「レミリアの妹……か」
血と涙を垂れ流しているレミリアの傍らに、魔理沙は小瓶を置いた。
「……いいから、とっととこれを飲め。少しでも回復して、自力で逃げろ。お前の、化け物みたいな妺……霊夢と私とで、出来るだけ止めておいてやるから」
言い残し、魔理沙は箒に跨がった。
そして、ふわりと飛翔する。フランドール・スカーレットの周囲を、旋回する。
人形のような少女が、ちらりとだけ視線を投げてきた。
何の感情も宿していない、澄んだ真紅の瞳。
自分はこの少女に全く興味を持たれていないのだ、と魔理沙は思った。
「……だけどな、私はお前さんに興味津々なんだよフランドール・スカーレット」
2つの水晶球が、無数のマジックミサイルが、魔理沙の周囲に浮かんでいる。
「少しばかり遊んでもらうぜ……遊びで済むかどうかは、わからんけどな」
「仕掛けるわよ、魔理沙!」
合わせて飛翔した霊夢が、左右2つの陰陽玉を旋回・発光させながら、何枚もの呪符を投射する。
陰陽玉から放たれた弾幕が、呪符の豪雨が、超高速でフランドールを強襲していた。
同時に魔理沙も、攻撃を開始する。無数のマジックミサイルが一斉に飛び、水晶球が魔力レーザーを射出する。
全ての攻撃を、フランドールはかわさなかった。あからさまな回避行動は取っていない、ように見える。
その代わり、増殖していた。
ねじ曲がった時計の針、のような得物を手にしたまま空中に佇むフランドールの姿が、3つ、いや4つ、視認出来る。
「残像……!?」
霊夢が呻く。
呪符が、光弾が、マジックミサイルが、レーザーが、4人いるフランドール・スカーレット全員の身体を擦り抜けて行った。
「高速移動と幻影魔法の併用で……フランは、3人にも4人にもなれるわ。それで全ての攻撃をかわしてしまう……」
小悪魔に支えられたパチュリーが、口調弱々しく説明をする。
「だけど……気に入らないけれど、貴女たちはさすがね。フランを、その回避に追い込むなんて……今のレミィには、出来ない事……」
今のレミリア・スカーレットは、血まみれの肉塊である。
いや。少なくとも、美しい少女の原形は取り戻していた。
「ひっぐ……うげぇええ……まっ、まずいいぃ……」
可愛い口からドポドポと血反吐を噴射しつつ、レミリアは痙攣し、泣きじゃくっている。
空になった小瓶が、傍らに転がっていた。
無理矢理な再生回復を強いられ、震えながらのたうち回る少女の身体に、小さな蝙蝠たちがパタパタと群がり融合してゆく。フランドールに引きちぎられたものが、戻っているのだ。
肉体は回復しても心は折れたままであろう姉を、4人のフランドールが空中から観察している。
4人とも、微笑んでいた。人形めいた美貌に、にこりと天使の微笑が浮かんでいるのだ。
人形のような少女に、生きた悦楽の感情が芽生えている。
それは、しかし姉レミリアに対してだけだ。
「……姉貴しか、見えてないのか」
魔理沙は語りかけた。
小さな八卦炉が、眼前に浮かんでチロチロと火を噴いた。
「そこまで憎いか、自分の姉貴が……まあ何だ、人んちの事情に首突っ込みたくはないが、お前らの姉妹喧嘩は派手過ぎる。巻き込まれて人死にが出ないとも限らないからな、ちょっと大人しくしてもらうぜ」
「かわいそうなお姉ちゃんを助けてあげる理由なんてないんだけど。成り行きで、そんな形になっちゃったわね」
言いつつ霊夢が、お祓い棒を掲げている。
虹色の大型光弾が、いくつも生じて流星の如く飛び、フランドール4人を取り巻いた。
「まあいいわ。分身もろとも吹っ飛ばす、夢想封印!」
「ちゃんと逃げろよレミリア。行くぜマスタースパーク!」
チロチロと躍る小さな炎が、巨大な爆炎に変わった。
虹色の光球たちが、爆炎の閃光が、微笑む少女4人を直撃した。
そのように一瞬、見えた。
一瞬の間に、4人のフランドールが集結して1人になる。
右手に、歪んだ時計の針を持つ少女。その左手で、光が燃え上がる。
光の剣が、出現していた。
フランドールの小さな身体が、ふわりと翻る。可愛らしい左手が、燃え盛る光の剣を一閃させる。
弾幕の塊とも言える刃が、夢想封印とマスタースパークを薙ぎ払い粉砕した。光の破片が、キラキラと舞い散った。
その煌めきの中、フランドールは相変わらずニコニコと天使の笑みを浮かべている。ねじ曲がった時そのもののような武器を右手で、輝き燃える光の剣を左手で、それぞれ握ったまま。
「嘘だろ……」
悪夢を見ている気分で、魔理沙は呟いた。
霊夢はもはや声を発する事も出来ず、呆然と固まっている。
今、フランドールの攻撃を受ければ、2人とも間違いなく死ぬ。
邪気も悪意もなく微笑む少女はしかし、霊夢を一瞥もせず、魔理沙を一顧だにしない。
濁りなき鮮血のように澄んだ真紅の瞳は、レミリア1人に向けられている。
妹の眼差しを受けながらレミリアは、現実を見失いかけているようであった。
「うぐぇええええ……まずぅい……まずいよぉ……咲夜、紅茶を……お砂糖たっぷりの紅茶を、早く……はやくぅ……」
「……気安く人の名を呼ばないように。スカーレット家の誇りも家督も失った没落貴族が」
十六夜咲夜が、凍えるほどに冷ややかな声を発する。主君レミリア・スカーレットに対してだ。
「貴女は、ただひたすら妹君から逃げ回っておられた……それでいてスカーレット家の当主という地位を手放す事も出来ず紅魔館に居座り、貴族然と振る舞いながらも心のどこかで妺君を恐れ続け、それをごまかすために虚勢を張り……その虚勢を、私たちはカリスマと勘違いしていたという。ふふっ、まったくもって無様な事」
「咲夜……」
「私も美鈴も、妹君の存在を全く知らなかった。それを良い事に随分と尊大に振る舞ってくれたものですねレミリア・スカーレット……紅魔館には、貴女に飲ませる紅茶など一匙分もありません。虫の如く地を這い回って泥水でも啜っていなさい」
「さくやぁ……」
「だから気安く咲夜さんの名前を呼ぶんじゃあないよ」
紅美鈴が、罵声を投げる。
「そんな資格が自分にあるのかどうか考えてみろ。今の自分が一体どういう様を晒しているのか……お嬢様として、お払い箱なんだよあんたは。とっとと紅魔館から出て行きな」
「レミィ貴女、結局……フランを受け止める覚悟を、育てられなかったのね」
パチュリーが、冷たい溜め息をつく。
「失望したわ」
「パチェ……」
「紅魔館はこの先、フランドール・スカーレットを当主に戴いて幻想郷支配に乗り出すことになる。貴女の出番はもうお終い、どこかで1人ひっそりと暮らしなさい……さようなら、レミィ。大人しくしている限りは生かしておいてあげる」
パチュリーは言う。
だがフランドール・スカーレットには、大人しくしている姉を生かしておくつもりが毛頭ないようであった。
無邪気に愉しそうに笑いながら、光の剣を振り下ろす。刀身が、燃え盛りながら巨大化し、レミリアを襲う。
紅魔館の庭園が、轟音と共に裂けた。石畳の破片が、土が、大量に舞い上がる。
破壊そのものの斬撃を、しかしレミリアはかわしていた。その辺りは、さすがと言うべきであろう。
それは、しかし回避と言うより逃走であった。
まだ再生の完全ではない翼を、ばたばたと落ち着きなく動かしながら、レミリアは夜闇の中へ転がり込むように逃げ去って行く。
笑いながら、それを追おうとするフランドールの眼前に、霊夢が立ち塞がっていた。
「……別にレミリアを助けてあげようってわけじゃあないのよ。ただね、あんたを野放しにはしておけないだけ」
霊夢の言葉に、フランドールは応えない。天使のような笑顔が、またしても人形の美貌に戻っている。
表情を見せる。感情を、露わにする。このフランドール・スカーレットという少女にとって、それに値する存在は姉レミリアただ1人なのだ。
博麗の巫女でさえ、眼中にはないのだ。
そんな相手と、霊夢は空中で睨み合っている。
「あんたみたいな危険物……幻想郷に持ち込んだ、引き入れた奴が、いるって事よね。いずれ探し出して、問い詰めてしばき倒す。まあその前に」
危険物としか表現しようのない相手に、お祓い棒が向けられる。
相変わらず無言のまま、フランドールは動いていた。人形が4体になった、そのように見えた。
4人のフランドールが、小さな身体から4色の光弾をばら撒きつつ浮遊し、霊夢を取り囲む。
「くっ……!」
ひらりと飛翔し、4色の弾幕をかわす霊夢。
澄んだ真紅の瞳でその様を見据えながら、フランドールの1人が右手の得物を掲げる。歪んだ時計の針、のようなもの。
空中に、いくつもの光の時計が生じた。刃そのものの針を回転させる円盤。
それらが高速飛行し、様々な方向から霊夢を襲う。
博麗の巫女が、ズタズタに砕け散った……ように見えた。何枚もの呪符が、ちぎれながら飛散した。
呪符で作り上げた、擬態の変わり身。
本物の霊夢は、ふわりと上空に逃れて陰陽玉を旋回させ、反撃の体勢に入っている。
その背後に、2人目のフランドールが回り込んでいた。
霊夢の細身が、グシャリとへし曲がった。時計の針のような槍状の得物が、叩き込まれていた。
血飛沫を散らす霊夢に、3人目のフランドールが密着する。至近距離から、弾幕が撃ち込まれる。
自分ならば原形を失っているかも知れない、と魔理沙は思った。
全ての霊力を防御のみに注ぎ込んだ霊夢の身体が、それでも痛々しく歪みながら錐揉み回転をして鮮血をぶちまける。
そこへ4人目のフランドールが、光の剣を叩き付ける。
斬撃に打ちのめされた霊夢の細身が、夜闇のどこかへと吹っ飛んで消えた。
悲鳴が聞こえた。潰れたような、無様で耳障りな悲鳴。
魔理沙は耳を澄ませた。自分も、この悲鳴を吐いた事がある。
「……あの薬、何とか飲めたみたいだな霊夢」
防御に注ぎ込んだ霊力が、辛うじて保ったようである。そうでなければ人間の少女の肉体など、真っ二つでは済まない。
「まあ、それは良かったけど……お前、わかってるのか? フランドール・スカーレット……」
魔理沙は箒を駆った。星の形の光弾を無数、ばら撒きながら。
2つの水晶球が、衛星状に回りながらレーザーを迸らせる。無数のマジックミサイルが、光の豪雨となる。
「お前、今……霊夢をな、殺そうとしたんだぞ……!」
4人のフランドールが集結し、1人に戻った。
そこへ、魔理沙のあらゆる攻撃魔法が一斉に襲いかかる。
いくつもの光の時計が、機械的に回転しながら魔理沙の弾幕を切り裂いてゆく。
星の光弾が、レーザーが、マジックミサイルが、光の破片となってキラキラと散る。
それらを蹴散らすように、フランドールは斬り込んで来た。
表情のない可憐な美貌が、ただ魔理沙を見つめる。
自分も当然、この少女の眼中にないのだ。
そんな事を思う魔理沙に向かって、光の剣が一閃する。
砕け散った。
魔理沙の肉体が……ではなく、光の剣が。
凄まじい風を、魔理沙は呆然と感じた。
暴風の塊のような何かが、横合いから飛来して光の剣を直撃・粉砕したのだ。
吹っ飛ばされた形に、フランドールが後退する。
暴風の塊が、光弾を乱射していた。
乱射された弾幕が、光の時計をことごとく撃ち砕く。
ふっさりと柔らかなものを、魔理沙は見た。
暴風の塊は、柔らかな獣毛の塊でもあった。豊かな尻尾が無数、超高速で弧を描いている。
何本もの尻尾を生やした獣が、高速猛回転しながら弾幕をばら撒いているのだ。
これほど凄まじく回転するものを、魔理沙は見た事がなかった。
「……そこまでだよフランドール・スカーレット。博麗霊夢と霧雨魔理沙、どちらの存在も幻想郷から欠けてはならない。それが、あの方のご意思である」
その獣が、ふわりと回転を止めて空中に立つ。魔理沙を、背後に庇う格好でだ。
尻尾しか見えない、と魔理沙は思った。
9本もの豊かな尻尾を生やして背負う、人型の妖獣。
それが、ちらりと魔理沙の方を向く。
「君もここまでだ。さあ、早く逃げたまえ」
「何だ……お前は……」
魔理沙は気圧されていた。
ちらりと振り向く視線だけで、魔理沙を威圧する九尾の妖獣。
妖怪としての格は、フランドール・スカーレットに匹敵するのではないか。
「逃げるという言い方が気に入らないなら……君は無関係者だ、立ち去りたまえ。これは君が命を懸けるべき戦いではない。この子を封印より解き放ったのは私だ。フランドール・スカーレットに関する全ての責任を、私は負わなければならない」
「霊夢が……」
「仇を討つ、などという考えは間違っているぞ。博麗霊夢は生きている。彼女にはこれからも君の支えが必要だ」
油断なくフランドールと対峙したまま、九尾の大妖怪は言った。
「霧雨魔理沙……君は、死んではならない。これからの幻想郷の為にも」
逃げても恥にはならない相手は確かにいる。そう思い定め、1度は逃げた。
だが今は、あの時とは違う。
目の前で霊夢を、あのような目に遭わされたのだ。
殺された、わけではない。
仮にここでフランドールに一矢報いたとしても、霊夢は別に良い顔をしないだろう。
そんな事は魔理沙も、頭では理解しているのだ。
突然、何も見えなくなった。闇が、魔理沙を包み込んでいた。
暗黒の塊が、自分を包み運んでいる。
何も見えないが、紅魔館から遠ざかっているのがわかる。
声が聞こえた。
「逃げるぞー」
「ルーミア……」
余計な事を、という言葉を魔理沙は飲み込んだ。
「……すまん、助かった。私、自分の意思じゃ逃げられなかったからな」
「魔理沙を、死なせるわけにはいかない」
ルーミアが言った。
「チルノや大ちゃんとも話し合ったんだ。魔理沙にとっては迷惑でも、出来るだけこういう世話を焼く。私たちが勝手にやってる事だよー」
「……迷惑なんて事はない。だけど無理はするなって、あの2人にも伝えとけ」
魔理沙は、疲労の溜め息をついた。
「紅魔館の連中を、しばいて終わり……ってわけには、いかないみたいだ。やれやれ、だぜ」
レミリアやパチュリーといった住人たちを含めて紅魔館とは要するに、あのフランドール・スカーレットという危険物を収納するための箱でしかなかったのではないか、と魔理沙は思う。
禍々しいものを内包した箱が、幻想郷に出現した。
運び込んだ、あるいは引き入れた者がいる。
あの九尾の大妖獣は、その何者かの配下。配下でさえ、フランドールとほぼ互角に渡り合う力を持っている。
魔理沙は、帽子もろとも頭を押さえた。
「今更だけど……一体、何なんだよ。この幻想郷ってとこは……」
雨が降っている。今、降り始めたのか。実は先程から降っていたのか。
霊夢は全く気付かなかった。それどころでは、なかったからだ。
「ぐっぶ……な、慣れないわぁ、これ……こんなのに慣れちゃったらお終いって気はするけど」
空になった小瓶が、近くに転がっている。
濡れた地面を引っ掻きながら、霊夢はよろよろと立ち上がった。
体内のどこかが、折れた肋骨に切り裂かれてズタズタになった。その傷口が、見えざる手によって無理矢理に縫合されたような感じである。傷は癒えても、痛みはなかなか消えてくれない。
霧の湖の、湖畔であった。
紅魔館の敷地外にまで、霊夢は吹っ飛ばされていた。
立ち上がり、よろめき、大木にもたれかかる。
幹を、霊夢は思いきり殴りつけた。
「……畜生っ……負けた……ッ!」
博麗の巫女が、言い訳のしようもない敗北を喫したのだ。
大木の幹に、1度だけ頭突きを叩き込む。血まみれになるまで頭を叩き付けたいところだが、そんな事をしても痛いだけで意味はない。
雨の中を、霊夢はよろよろと歩き出した。
真夜中の降雨は、昼の雨よりも、人の心を惨めにさせる。
紅白の巫女装束が、黒髪が、ぐっしょりと濡れてゆく。
頭から雨水を浴びているうちに、霊夢は冷静さを取り戻していた。
「……どうする? あの薬は、使い切っちゃったし……」
迷いの竹林に住むと言われる製造業者を、直に訪ねる必要があるだろうか。交渉に持ち込んだとして、どれほどの対価を要求されるのか。自慢にはならないが金はない。
薬に頼る。確かに、格好の良い話ではなかった。
だがこれは、強力な妖怪相手の実戦である。格好にこだわってはいられない。
あの薬の効果は、身体で確認した。必要不可欠。フランドール・スカーレットと戦うとなれば、いくつあっても足りないだろう。
霊夢は、足を止めた。
草むらの中で、子供が1人、雨に濡れながら泣きじゃくっている。
「ひくっ、うえぇぇ……めっ美鈴、パチェ……さくやぁ……」
レミリア・スカーレットだった。
霊夢は夜空を見上げた。満月にはいくらか足りない月が、雨の暗幕の中どうにか見える。
吸血鬼は、水を渡り越える事が出来ないという。
この雨は本当に偶然、降り出したものなのだろうか。そんな事を霊夢は思った。
レミリアが、こちらに気付いた。
肉体は、ほぼ回復している。心がしかし折れたままである事は、その上目遣いの涙目を見れば明らかだった。
今のレミリアは、家に帰る事が出来ない子供と同じだ。
「……博麗……霊夢……」
声も、弱々しい。
「…………殺しなさいよ、私を……」
「……必要ないわ。このまま朝になれば、あんたは灰になる」
灰になりかけながらも、太陽を睨み強がっていた吸血鬼の少女が、太陽よりも恐ろしいものに出会った。
いや、初めて出会ったのではない。封印し、思い出さぬよう務めながら、令嬢として高慢に傲然と振る舞い続けていたのだ。
そんなレミリアの小さな身体を、霊夢は物のように拾い上げた。
「な……何をするの……」
「朝になる前に、帰らないとね」
じたばたと弱々しく暴れる少女を、霊夢は強靱な細腕でがっちりと抱え拘束し、運んだ。
「あんたは今日から、紅魔館の主じゃなくて博麗神社の居候よ。拒否権はないから」
「放して……放しなさいよォ……」
レミリアが、ぽろぽろと泣き続ける。
「お前、どうせ心の中で私を嘲笑っているんでしょう……」
「あんたの妹、本当に化け物よね」
霊夢は、明るい口調を作った。
「私もボロ負けしてきたばっかり。あんたを嘲笑う資格なんて、ないのよね。ほら行くわよ」
レミリアを抱えたまま、霊夢はふわりと離陸した。別に、博麗神社まで歩いて帰る必要はない。
魔理沙の事を、霊夢は全く心配していなかった。彼女なら自力で逃げる事が出来る。
自力で動く事も出来ないレミリアを、拾って行く理由など無論ないが、捨て置く理由もなかった。
十六夜咲夜が告げた。
「メイド妖精より報告……レミリアお嬢様は無事、博麗の巫女に回収されたとの事です」
「そう……」
パチュリー・ノーレッジは息をついた。
紅美鈴が、苦笑気味に笑う。
「あれだけボロクソに言っておけば……紅魔館に戻りたいなんて思わないでしょうね、お嬢様も」
「どうかしらね……とにかく今はレミィを、紅魔館から遠ざけておかなければ」
殺される。このフランドール・スカーレットにだ。
まるで吊られた人形のように、フランドールは夜空に佇んでいる。
満月寸前の月がよく見える、快晴の夜空であった。紅魔館の敷地内は。
雨の暗幕が、今や廃墟も同然の紅魔館を取り囲んでいる。
「紅魔館の、敷地の周りだけ雨が降る……不思議な事もあるものだね、パチュリー・ノーレッジ女史」
空中でフランドールと対峙したまま、九尾の大妖怪がニヤリと微笑む。
「まるで、水を渡り越える事の出来ない怪物を閉じ込めておくかのようじゃないか。その病弱な身体で、またしても負担を背負い込もうと言うのかい」
「……あの紅い霧に比べたら、軽いものよ」
水の魔力を制御しながら、パチュリーは言った。
「それより八雲藍……出過ぎた事を、しないで欲しいわね。フランに関して責任を負わなければならないのは、貴女ではなく私たちよ」
「ほう」
「貴女の御主人にも伝えておきなさい。紅魔館に、これ以上の介入は不要と」
「……君たちの力で、封じ込めておけるのかい? フランドール・スカーレットの暴力を、紅魔館に」
八雲藍は言った。
「それが出来るのであれば無論、それが一番良い。可能な限り手出しをしないように、とは言われている。私も、あの御方にね」
九尾の大妖獣の姿が、夜空に溶け込むが如く薄らいでゆく。
「この子が幻想郷で大殺戮・大破壊に乗り出すような事があれば……私は、遠慮なく介入するよ。私を傍観者でいさせる事が、果たして君たちに出来るかな」
言葉を残し、八雲藍は消えた。
フランドール1人が、ぽつりと夜空に残されている。
美鈴が、頭を搔いた。
「今の狐さんが何者なのかは知りませんが……要約すると、あれですかパチュリー様。この妹様が幻想郷で暴れないように、私たちが抑えておかなきゃいけないと」
「それは主に貴女の役目になるわよ、美鈴」
「……でしょうねえ」
頭を掻いていた美鈴が突然、咲夜の方を向いた。
「あのですね咲夜さん。1つ、お話が」
「何よ」
美鈴はしかし話そうとせず、無言で手を伸ばした。
形良く鍛え込まれた五指が、咲夜の美しく膨らんだ胸を、メイド服もろとも揉みしだく。
咲夜の鋭利な美貌が、引きつり、やがて初々しく赤らんでゆく。
美鈴の、まあ美しいとは言える顔面が、激しく歪んだ。凹凸のくっきりとした長身が、前屈みに折れ曲がった。
何が起こったのかは不明だが、どうやら時間が止まったわけではない。咲夜の動きを、パチュリーの動体視力では捉えられなかっただけだ。
幸せそうに鼻血を噴射しながら、美鈴が倒れる。頭に、ナイフが突き刺さっている。
咲夜が、すらりと長い脚を優雅に着地させた。ナイフを喰らわせた、だけではない。平手打ち、拳、蹴り。様々な攻撃を、美鈴に叩き込んだ直後である。
「……貴女ね、ふざけている場合だと思っているの?」
「ふざけちゃいません……本気ですよ」
美鈴が起き上がり、鼻血まみれの顔で微笑む。
「……ありがとう咲夜さん、勇気と力をもらいました。もう思い残す事はありません」
「美鈴あなた……」
咲夜の眼前で、美鈴は跳躍した。
そして見えない足場が存在するかの如く空中に着地する。フランドールの、眼前である。
「改めまして……妹様、お初にお目にかかります。紅美鈴と申します」
美鈴は拳礼をした。
「レミリアお嬢様が、お嫌いですか? もしくは、その有り余るお力をぶちまけたくて仕方がないですか。暴れたくて気が狂いそうですか……及ばずながら、私がお相手しますよ」
ぐしゃり、と美鈴が墜落した。
フランドールが、時計の針のような武器を叩き込んでいた。
血まみれでヨロヨロと立ち上がった美鈴が、にこりと微笑む。
「……レミリアお嬢様に……手出しは、させませんよ……」
フランドールが、すーっと降下して行く。
そして、歪んだ時そのもののような得物を美鈴に叩き付ける。立て続けに、幾度も幾度も。表情のない人形の美貌を保ったまま。
血飛沫を噴出させながら美鈴が、ぐしゃ、ぐしゃりと歪み続ける。
動こうとする咲夜の腕を、パチュリーは掴んだ。
「……ここは、美鈴の頑丈さを信じるところよ」
「パチュリー様……!」
「貴女にも、私にも……あんな事は出来ない……」
そこで、パチュリーは咳き込んだ。
口の中に、血の味が広がった。
「パチュリー様、無理しないで! そして咲夜さん、私なら心配御無用。死にはしません!」
血まみれのまま、美鈴が叫ぶ。
「私、咲夜さんから勇気を、力を、永遠の命をもらったんです!」
叫びながら美鈴は、ぐっしゃグッシャとヘし曲がり続ける。
再び動こうとする咲夜の細腕を、パチュリーは放さなかった。なけなしの力を、込めていった。
小悪魔が、弱々しくすがり付いてくる。パチュリーを支えているつもりなのだろうが。
「パチュリー様……申し訳ありません、全て私が……私の、せいで……」
「……それは違うわ、小悪魔。今でなくとも、いつかは……解かなければならない封印……」
パチュリーは、辛うじて吐血をこらえた。
「フランはね、何も悪くないのに……ずっと閉じ込められていたのよ……」
今宵の幻想郷は、快晴である。月がよく見える。
紅魔館を取り囲む、この辺り一帯……以外の地域においては、である。
霧の湖、紅魔館側の岸辺で、上白沢慧音は蛇の目傘を広げていた。
紅魔館の周辺のみ、雨天である。
まるで館の敷地内に、水に弱い妖怪でも閉じ込めているかの如く、超局地的な雨が降っている。
「いかなる術者か……器用な事を、するものだ」
紅い霧は消え失せた。とは言え紅魔館には、このような得体の知れぬ術を使う何者かが健在である。
もっと危険な妖怪も、いるかも知れない。
「だからと言って、張り切りすぎだ。まったく……ほら、言わない事ではない」
傘を差したまま、慧音は身を屈めた。
濡れた草むらの中から、いくらか大きめの何かが這い出して来たところである。蛇か、蟇蛙か、あるいは霧の湖に棲まう妖怪か。
違う。人間だ。
人の原形は、失われている。
人の原形を取り戻そうと、懸命に蠢いている肉塊。
雨の中、巨大な蛞蝓の如く這いずり近付いて来るそれに、慧音は声をかけた。
「もう少しだよ。ほら、ここまでおいで」
手を、叩いてみる。
ぬるりと這いずる肉塊の動きが、多少は速くなった、のであろうか。
「今回はまた……随分と、手ひどくやられたようじゃないか」
巨大な蛞蝓のようなものを、慧音は両の細腕で抱き上げた。
全身に、体液が付着する。構わなかった。
「肉片、いや灰に近いところまで粉砕されたようだな。無茶な戦いをして、楽しいわけでもあるまいに」
「……雨……だぞ……」
慧音の腕の中で、肉塊が言葉を発した。
発声器官は、どうやら再生回復しているようだ。
「……何しに……来た……」
「君を迎えに来たに決まっているだろう」
「…………暇人……」
「お互い様だ。妖怪退治なんて、忙しい人間のやる事じゃない」
言いつつ慧音は、紅魔館の方を見た。
「君が、ここまでやられるとはね……外の世界から来た大妖怪。恐るべき相手のようだ。博麗の巫女に一任しておいてはどうかな」
「……妖怪退治は……私の方が、古株だ……意地みたいなもの、ないわけじゃあない……」
よく見ると、かなり人の形を取り戻している。四肢の判別は可能だ。
今はまだ、血と肉の塊でしかない頭部のどこかで、口が動いている。
「……駄目だ、慧音……あの化け物は、放置しておけない……退治、しなきゃ駄目なんだ……」
「こんな目に遭ってまで妖怪退治」
腐乱死体のようでもある肉塊を、慧音はそっと撫でた。
「危険な戦いで、自分を虐め、自分を傷付け、自分を追い込み、だけど決して死ぬ事はない……ただ、痛みが永遠に続くだけ。はっきり言う必要もないだろうけど、こんなものは君の自己満足でしかないんだぞ? どれだけ君が苦しんだところで、償いになどなりはしない」
「……わかっている……」
筋肉の再生しつつある腕が、のろのろと慧音の身体に巻き付いて来る。
「……岩笠は、私を許してはくれない……憎んでもくれない。呪い、責めなじってもくれない……私はただ逃げ回っているだけだ……妖怪との戦いに、逃げ込んでいるだけ……わかっているんだよ、そんな事は!」
激情が、生命力を燃え上がらせたのであろうか、
再生が、一気に進んでいた。屍のようだった肉塊が、生命の炎に包まれる。
その炎の中で、藤原妺紅は完全に蘇っていた。白髪にも等しい銀色の髪が、熱風に舞う。
「私はレミリア・スカーレットが羨ましい! あいつには、今は逃げ続けててもいつかは正面から向き合える相手がいる。だけど私にはいない、岩笠はもういないんだ! 私が殺した……私は、ただ逃げ続けるだけ……レミリアを嘲笑う資格もない……」
「ふむ」
復活した少女の、引き締まった白い裸身を、慧音は入念に観察した。
「……再生の過程で何かしら細工を施せば、その胸ももう少し大きくなるかも知れない」
「ふざけてるのか慧音お前!」
「それでいいよ妺紅。どうしようもない事で悩むより、くだらない事で怒る方が、ずっといい」
妹紅に胸ぐらを捕まれたまま、慧音は微笑んだ。
「……君は、もう罰を受けていると思うよ。永遠の命という、これ以上ない厳罰をね」
「……慧音以外の奴が、それ言ったら……ぶちのめしてるところだぞ」
「そうか、私だから甘やかしてくれるんだね。嬉しいよ」
「馬鹿慧音……」
裸の妺紅を、慧音は抱き締めた。
蛇の目傘が、傍らに転がっている。
慧音は、ずぶ濡れだった。
雨に濡れて風邪を引くほど、妺紅も自分も脆弱ではない。
何よりも今、自分は妺紅を抱き締めているのだ。
寒いはずなど、なかった。
だから慧音は、もうしばらく、このままでいる事にした。
「……永遠に逃げ回る。それも、いいじゃないか」
嗚咽を漏らす妺紅の耳元で、慧音は囁いた。
「困難に立ち向かう。つらい過去に、立ち向かう。苦しみながら克服し、強くなってゆく。より強い自分を求めて、さらなる苦しみに立ち向かい続ける……呪いだね。そんなものは、呪いの歴史でしかない」