第7話 スカーレット・デビル
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
着流しの寝間着姿で縁側に腰を下ろしたまま、博麗霊夢は夜空を見上げていた。
布団から出て来たところである。
畳の上では、チルノと大妖精が幸せそうに寝息を立てている。成り行きで、泊めてやる事になったのだ。
寝相の悪いチルノの身体に、布団をかけ直してやりながら、魔理沙が言う。
「死ぬほど疲れて、たらふく飯食って、しこたま酒飲んで、風呂にも入ってさっぱりして……なのに眠れない、と」
「眠れたわよ。多分、30分くらい」
応えつつ霊夢は、ちらりと横目を向けた。
魔理沙が、隣に腰を下ろしている。彼女の方が、もしかしたら着流しが似合っているのかも知れない。
「……ちゃんとした月を見るのも、久し振りね」
満月にはいささか足りぬ月を見上げて、霊夢は言った。
ここ数日の、紅い霧をまとった月のぼんやりと不気味な輝きは、実に禍々しく不吉であった。
紅い霧から解放された今の月は、本来の輝きを取り戻し、地上に冷たい光を降らせている。不吉さは、むしろ増したように霊夢は感じた。
「あのお嬢様吸血鬼、今頃は元気だろうな」
魔理沙が言った。
「あいつら……今後、どうするつもりだろうな。また何か、やらかすと思うか?」
「そうなったら私の責任ね」
「それは思い上がりだぜ、霊夢。私は、紅魔館の連中とはちょっと時間かけて付き合っていかなきゃ駄目だと思う」
「私、妖怪は退治しかした事ないから……仲良く付き合ってく方法なんて、わかんない」
霊夢は、微笑んで見せた。
「魔理沙に任せるわ……」
清かな月夜の空気が、震えた。
遠い轟音が、響いてくる。霧の湖……紅魔館の、方角からだ。
「何……」
霊夢は、立ち上がりながら跳躍した。跳躍が、そのまま浮遊になった。
博麗神社上空から、霊夢は霧の湖方面を見渡し、見据えた。
湖面が、赤く照らされている。
紅魔館から夜空に向かって、巨大な真紅の十字架が出現していた。
それと対峙しながら、炎の翼を悠然と羽ばたかせ飛翔するもの。
1羽の、不死鳥であった。
磔刑に処されて3日後に甦った聖人の伝説は、幻想郷にも伝わっている。藤原妺紅も、聞いた事はある。
かの聖なる存在を、冒瀆するかのような光景でもあった。
可視化された血生臭さ、とも言うべき赤色の光が、上下左右に伸びながら燃え輝き、巨大な真紅の十字架を成している。
その中心部でレミリア・スカーレットは翼を広げ、可憐な細腕で腕組みをしながら、美しいほどに鋭く白い牙を見せた。笑っているのか、激昂しているのか、その両方か。
「藤原妺紅、と言ったわね。お前、私の質問に答えなさい」
「ここへ殴り込んだ理由なら話したよ、さっき」
妺紅の背中からも、翼が広がっていた。
夜空を焼き払う、炎の翼。燃え揺らめく炎の尾羽。
「……妖怪退治、ってね」
「まさかとは思うけれど、お前……自分が、妖怪の類ではないとでも?」
レミリアは、嘲笑っているようでもあり、怒っているようでもある。
「美鈴も咲夜も、お前を人間と思ったようだけど。私に言わせれば、お前はもう充分過ぎるほど、こちら側の存在よ」
「……そう……かもな」
「人間の側に、中途半端に片足を置くような事はやめなさい」
吸血鬼の少女が、真紅の十字架の中から、愛らしい片手を差し伸べてくる。
「おいでなさいな、紅魔館へ……お前のその力、私が使いこなしてあげるわ。帝王の振るう、炎の剣としてね」
「尊大な口を利くなよ、お嬢ちゃん……私の、一番嫌いな奴を思い出しちまう」
炎の翼が、燃え盛った。
「……お前、人間って生き物を見下してるだろう?」
「どうかしら。かわいそう、とは思うわね」
レミリアは、どうやら本当に哀れんでいる。
「人間たちはね、あまりにも無様で愚かしくて……私、かわいそうで見ていられなくなるのよ。地に蠢く虫よりも惨めな生き様を、だから弾幕で綺麗に粉砕してあげるの。それが高貴なる者の義務」
「貴様ら妖怪どもの、そういうところが許せなくて! 私は妖怪退治をしているんだッ!」
炎の翼が、激しく羽ばたく。
紅蓮の揺らめきを引きずって、妺紅は飛翔した。あるいは、空中を蹴って踏み込んだ。レミリアに向かってだ。
「お前の見下す人間の無様さ惨めさ愚かしさ、そのものが私だ! さあ粉砕してみろ、虫みたいに踏み潰してみろーっ!」
真紅の十字架が、揺らぎ、砕けた。
巨大な十文字を成していた魔力の光が、無数に分裂して妺紅を襲う。真紅の、弾幕であった。
炎の翼で、妺紅はそれらを打ち払った。
翼と弾幕、双方が砕け散った。紅い光の破片が、火の粉が、飛散しながら渦を巻く。
その渦を、妺紅の長い脚が切り裂いてゆく。
炎をまとう、飛び蹴りだった。その一撃が、槍の如くレミリアを直撃する。
幼い女の子を蹴り飛ばした。傍目には、そうである。
だが、まるで巨岩を蹴りつけたかのような、強固な感触であった。
吹っ飛んだレミリアが、空中で羽ばたきながら即座に体勢を立て直し、飛翔する。逃走や回避ではない、攻撃のための飛翔。
吸血鬼の少女の小さな身体が、真紅の魔力をまといながら流星と化した。赤く尾を引く、高速の体当たり。
妺紅は、まともに喰らっていた。
「うぐっ……」
悲鳴を飲み込み、代わりに血を吐きながら、紅魔館敷地内へと墜落してゆく。
そこへレミリアが、狙いを定めている。
「私を足蹴にするとは……その愚かしい蛮勇、嫌いではないわよ」
光の槍が、出現していた。
「さあさあ御褒美をあげる、断末魔の悲鳴を上げて喜びなさい!」
レミリアの可憐な片手が、妺紅に向かって振り下ろされる。
真紅の光の槍が、投射されていた。
妺紅は落下しながら身を捻り、長い脚を振り回した。ゆったりとした指貫袴に、美しく鋭利な脚線が浮かび上がる。
回し蹴りが、光の槍を粉砕していた。
赤い魔力の破片がキラキラと飛散し、そのまま光弾の群れと化す。光の槍は、真紅の弾幕に変わっていた。
そして、全方向から妺紅を襲う。
「こんなもの……鳳翼っ、天翔!」
消えかけていた炎の翼が、燃え上がり羽ばたき、無数の火球を放散する。
真紅の弾幕と火球の群れが、激突した。妺紅の周囲で、無数の爆発が咲いた。
爆炎に照らされながら妺紅は、紅魔館の庭園に着地していた。
レミリアが、ふわりと高度を下げながらも飛行を保ち、空中から妺紅を見下ろす。
「不死鳥が地に堕ちたわね。もう翔ぶ力は残っていないのかしら? 疲れたのなら、回復するまで待ってあげても良くてよ」
何か応える代わりに妺紅は、炎の塊を右手で投げつけた。
それが無数に分裂し、火球の弾幕となってレミリアを襲う。
「私は不死鳥じゃあない、人間だよ。翔ばなくたって戦える」
「ふん……霧雨魔理沙と言い、お前といい」
ひらり、ひらりと軽やかな回避の舞いを披露しながら、レミリアは言った。
「力のある人間ほど、自分が人間である事にこだわる。けれど悲しいかな、お前を人間と思ってくれる者がいるかしらね」
「……知った事か」
「お前……随分と、迫害を受けたのではなくて?」
レミリアが本気で自分を哀れんでいる、と妺紅は感じた。
「無理をしてまで、人間であり続ける必要はないのよ?」
「……確かにな、石を投げられた事はある。火焙りにされた事もある。そうされて当然の事をやらかしたのは私の方だけど、お前に話す事でもないな」
燃え上がる瞳で、妺紅はレミリアを睨み上げた。
「とにかくレミリア・スカーレット、お前は退治しなきゃいけない妖怪だ。放置していい小物じゃないって事はわかった。私が今から火葬してやる。舞い上がる煙と灰……月まで、届かせてやるよ」
「藤原妺紅……私は、お前が気に入ったわ。殺したくはない」
「冷たい事を言うなよ……」
妺紅がニヤリと笑った、その時。
地面が、微かに揺れた。
地震とは何かが違う、と妺紅は感じた。
何にせよ、空中にいるレミリアが、地面の揺れなど感じているわけはない。
そのはずであったが、しかしレミリアは硬直していた。
冷たく傲然と微笑んでいた美貌が、ひきつっている。青ざめている、ようにも見えてしまう。
妺紅は再び、炎の弾幕を投げ付けた。
命中した。
いくつもの火球をまともに喰らったレミリアが、墜落して地面に激突する。
妺紅は思わず攻撃の手を止め、怒鳴りつけていた。
「隙だらけだぞレミリア・スカーレット、お前一体何をやっている! 私の前で心ここにあらずって様を晒すんじゃあないっ!」
胸ぐらを掴むために、ずかずかと歩み寄る。
レミリアが、声を発した。
「…………嫌……」
「何だと!?」
「……嫌……いや……ぁ……」
弱々しく、震える声。
レミリアは、愛らしい両手で帽子を掴むようにして、頭を抱えていた。小さな身体が、さらに小さく丸まっている。その上から、左右の翼が覆い被さる。
完璧な防御の姿勢、と言えない事もないのか。
ともかく、妹紅は思った。これは一体誰なのだ、と。
殻に閉じこもった蝸牛の如く防御を固め怯えている、この哀れな少女は、つい今までの傲慢なるレミリア・スカーレットとは全く別の存在ではないのか。
地面が、再び揺れた。
紅魔館の敷地、全体が震動している。
やはり地震ではない、と妺紅は思った。
長く、妖怪退治をやってきた。
封印されていた大妖怪が復活し、暴れ出す。そんな場面に行き当たった事が何度もある。
同じ感覚だった。何かが今、目覚めようとしている。
「だけど、これは……私が戦った連中とは、格が違う……! あまりにも違い過ぎる!」
「…………言ったじゃないの……」
怯えながら、レミリアは呻く。
呻きが、叫びに変わってゆく。
「あいつは絶対、出て来ないって……お前、言っていたじゃないのォ! 大嘘つきのスキマ妖怪がぁあああああああ!」
庭園の石畳に、亀裂が走る。大量の瓦礫が、転げ落ちて来る。
紅魔館は、崩壊を始めていた。
「すまない。主人に代わって君に詫びよう、レミリア・スカーレット」
九尾の大妖怪が、この場にはいない令嬢に語りかけている。
「だけど君はそろそろ、あの子と正面から向き合わなければいけない。ひたすら逃げ回りながら、虚勢を張ってカリスマを気取る……それも見ている分には面白いけれど、そう長くは続かないと思うよ」
「何……言ってるのよ、貴女……」
呆然と呟きながら、小悪魔は座り込んでいた。
視界の全域で、地下図書館が揺れている。書架がことごとく倒れ、あるいは崩れ落ち、無数の書物が床にぶちまけられる。
パチュリー・ノーレッジの図書館が、崩壊してゆく。
「貴女……一体、何を解き放ったの……?」
小悪魔は、大妖怪に問いかけるしかなかった。
「いえ……私の、せい……?」
「君は単なるきっかけに過ぎない。遅かれ早かれ私は、君以外のきっかけと出会い、あの子を封印より解き放っていただろう」
九尾の妖獣は言った。
「あの子を、幻想郷へ迎え入れる。それが私の主人の意思だからね」
「あの子って、一体誰……どこに、いるのよ。どこから出て来るの……?」
呆然と、小悪魔は見回した。崩壊する図書館。見えるものは、それだけだ。
「ここにはいないよ。私が境界の設定を解除したからね。今頃もう地上へ出て……愛しの姉君と、感動の再会を果たしているだろう」
「姉君……」
小悪魔は呟いた。
「レミリアお嬢様の……妹?」
「その存在を知っているのは、レミリア嬢ご本人以外ではパチュリー・ノーレッジだけ、だろうね。紅魔館では」
九尾の大妖獣が、ひび割れて崩落寸前の天井を見上げる。解き放たれて地上へと向かったものを、見送っているようでもある。
「君や紅美鈴は無論、十六夜咲夜でさえ知らない……存在を秘すべき妹、というわけだ。レミリア嬢にとっては、ね」
「レミリア・スカーレットの……弱点……」
パチュリーが言っていたのは、これの事か。これが、あの恐るべき吸血鬼にとって、弱点となりうるのか。
弱点と言うより、天敵か。
カリスマを維持し続けなければならない令嬢としては確かに、咲夜や美鈴に対しても秘しておかねばならぬ存在であろう。
それを解き放った結果、レミリア・スカーレットは今からどのような事になるのか。天敵であり、己の妹である怪物に、食い殺されでもしてくれるのか。
そして、その後パチュリー・ノーレッジは。怪物は、彼女を無傷で済ませてくれるのか。
小悪魔は、わなわなと頭を抱えた。
「私……私は……とんでもなく、愚かな決断を……」
「言ったろう、君に責任はない。あの子を解き放ったのは私だ」
九尾の大妖怪の言葉を、小悪魔はもはや聞いてはいない。立ち上がり、駆け出していた。
「パチュリー様、ご無事で……」
「そう、それでいい」
大妖怪の、声だけが追いかけて来る。
「この先、君の役目は、彼女を守る事だけになると思う。自責の念に苛まれている暇などないよ」
震動で、パチュリー・ノーレッジは目を覚ました。
ベッドが、寝室が、いや紅魔館全体が震えている。
またしても霧雨魔理沙の攻撃か。いや違う、とパチュリーは直感した。
城館の敷地そのものを揺るがす、この強大な魔力には、懐かしさすら感じてしまう。
「……そう、出て来てしまったのね……フラン……」
上体だけを起こし、天井を見つめる。
「……ごめんなさい。レミィには、まだ貴女を受け入れる覚悟がない……覚悟を育ててあげる事が、私には出来なかった……」
「パチュリー様!」
寝室の扉が、壊れんばかりに開いた。
パチュリーは、弱々しく苦笑を向けた。
「……騒々しいわよ、小悪魔」
「も……申し訳、ありません……」
小悪魔は、涙を流していた。
「……本当に、申し訳ありませんパチュリー様……私……」
「……そう。大体、わかったわ」
パチュリーは、小悪魔に何も言わせない事にした。
「貴女に責任はないのよ小悪魔。無論、私にもない。咲夜にも美鈴にもない。この件に関して責任を負うべきはレミィ1人……あの子に、何とかしてもらうしかないわ」
「お嬢様が……」
「いずれ話してあげる。今は……ここから逃げ出した方が、良さそうね」
パチュリーが言った、その時。
寝室の天井が、崩落して来た。
「パチュリー様、危ない!」
小悪魔が、布団の如くパチュリーに覆い被さる。
この程度の瓦礫、美鈴なら受け止めてくれる。咲夜なら時を止められる。だが小悪魔では。
自分がもう少し体調が良ければ、とパチュリーは思う。崩れて来る天井を弾幕で粉砕するか、あるいは空間転移で回避するか。
突然、闇が生じた。
暗黒が、小悪魔とパチュリーをひとまとめに包み込み拉致していた。
何も見えない。音だけが聞こえる。崩落の轟音。パチュリーの寝室が、完全に潰れた。
だがパチュリーは無事である。
ふわふわとした暗黒の塊が、パチュリーと小悪魔を包み運んで飛行している。紅魔館の屋外、恐らくは庭園の上空を。
闇を発生させている何者かが、声を発した。
「こあちゃん、無事なのかー?」
「ルーミア……」
小悪魔が、名を呟く。
パチュリーも、聞いてはいた。
「咲夜が雇った妖怪ね……」
「初めまして。霧の湖で私たちを殺そうとしたのは、あんただろー。こあちゃんの御主人じゃなければ、このまま食べてやるところだ」
「食べるのなら頭から、ね。私の脳髄、誰かに悪用されたくないから」
「そうなのかー。じゃ遠慮なく」
「やめてルーミア!」
「あはは。やらないよー、こあちゃん。それより、このまま博麗神社へ逃げ込もう。博麗の巫女、はどうかわかんないけど……あの霧雨魔理沙なら、この病弱な御主人の面倒を見てくれるよ」
「……ふざけた事を言わないで」
押し付けがましい笑顔を、パチュリーはついうっかり思い浮かべてしまった。
「……逃げ込む場所など、ありはしないわ。私も、貴女たちも、逃げられはしない……この幻想郷に、フランドール・スカーレットが現れてしまったのだから」
頭にナイフが刺さっても平気な妖怪に、傷の治療が必要とは思えない。
それでもまあ応急手当てくらいはしてやる事にした。
「さ、咲夜さんが私の服、脱がせてる……私、このまま咲夜さんに……何、されちゃうんですか……?」
「皮も剥いで、肉を削ぎ落として、内臓を丁寧に取り分けて、解体する。それが嫌なら黙っていなさい」
美鈴の身体に、咲夜はてきぱきと包帯を巻き付けていった。
「……美鈴が、これほどの傷を負うなんてね」
「ははは……あいつの炎、本当にやばいですよ咲夜さん」
地面が揺れている。建物が、崩れ始めている。
庭園の一角で、咲夜による手当てを受けながら、美鈴はその光景を呆然と見回していた。
「……まあ、もっとヤバいのが出て来ちゃったわけですが」
「これが……美鈴、貴女の言っていた?」
「多分そうです。あ、手当てしてくれてありがとうございました。新しい服まで用意していただいて」
包帯の上から、美鈴は手早く服を着た。
「というわけで逃げて下さい、咲夜さん」
「寝言は寝て言いなさい」
「いや本当やばいんですって、ほら来た!」
美鈴が、いきなり覆い被さって来る。咲夜は押し倒されていた。
直前まで2人の上半身があった空間を、恐ろしい何かが走り抜ける。
一直線に宙を裂く、緑色の光。
光線、ではない。小さな緑色の光弾が無数、直線状に並んでいるのだ。
「弾幕……!」
咲夜は息を呑んだ。
直線状の弾幕が、紅魔館全域に張り巡らされていた。
続いて、爆発が生じた。爆炎、と錯覚してしまうほど巨大な光弾が、いくつも生じていた。
それらが、ゆらりと動いて、緑の直線を破壊してゆく。
直線を成していた光弾の群れが、不規則な弾幕となって拡散し、美鈴を、咲夜を、襲う。
今度は美鈴の力を借りずに、咲夜は自力で跳躍し、かわした。
大小の光弾が、荒れ狂い飛び交い、塀や石畳を粉砕する。
それらをかわしながら、美鈴が叫んでいる。
「早く逃げて、咲夜さん! お嬢様なら大丈夫、きっと自力で」
無理だ、と咲夜は思った。
自力では何も出来ないレミリア・スカーレットを、発見してしまったのだ。
「お嬢様……」
咲夜の声など、恐らく聞こえてはいない。
ひび割れた庭園の中央。
聞こえてくるもの、見えてしまうもの、全てを恐れ拒むかのように、レミリアは頭を抱え身を丸めていた。その上から翼をまとい、一応は防御の姿勢を取っているようではある。
爆炎のような大型光弾が、そこへ激突してゆく。
石畳の破片もろとも、レミリアは吹っ飛んでいた。小さな身体が、錐揉み状に回転しながら地面にぶつかり、弱々しく転がる。
咲夜は駆け寄った。
「お嬢様!」
「……さ……咲夜……さくやぁ……」
本当にレミリア・スカーレットなのか、と咲夜は思った。
「助けて……守って……早く、私を守りなさい咲夜……」
弱々しく、泣きじゃくっている。
常にあらゆるものを見下しながら傲然と輝いていた真紅の瞳が、いまは怯えきって涙に沈んでいる。可憐な鼻からは、無様に鼻水が滴り落ちる。
天敵である太陽に対しても、身を灼かれ灰になりかけながら屈する事のなかった、吸血鬼の令嬢が、涙と鼻水を垂れ流しているのだ。
「……何て様だ、レミリア・スカーレット」
藤原妺紅が、そこにいた。
レミリアと咲夜を背後に庇っている、ようにも見えてしまう。
「その従者は人間だろうが。本来なら、お前の方が守ってやらなきゃいけないんだぞ」
「藤原妺紅……お前も、私を守りなさい……」
今のレミリアに、他者を守る事など出来そうになかった。
「……近付けないで……フランを、私に近付けないで……お願いよォ……」
フラン。
そう呼ばれたものが、そこにいた。空中から、こちらを見下ろしている。
地の底から、紅魔館を破壊しながら浮上したところであった。
いくつもの魔法陣が、投擲された円盤の如く浮遊飛行している。
それらを従え、空中に佇んでいるのは、1人の幼い少女……の姿をした、何かだ。
レミリア・スカーレットと瓜二つ。一瞬、咲夜はそう思った。
その美貌は、しかし今、恐怖と絶望に歪みきったレミリアのそれとは違う。端整で無表情。ただひたすらに可愛らしい、以外には何の特徴もない。
まるで、人形のような美少女であった。
作り物、としか思えない翼が、背中から左右に広がっている。
翼と言うより、木の枝だ。宝石のような果実が、いくつも生っている。
そんなものがパタパタとはためいて、揚力を生んでいる、のであろうか。人形のような少女は、ふわふわと揺らめきながら高度を保ち、澄んだ真紅の瞳で見下ろしている。咲夜を、妺紅を……否、レミリア1人だけを。
「あれが……恐いのか、レミリア」
妺紅が、優しい声を発した。
「……わかる。確かに、とんでもない化け物だ。私だって恐い。だけど妖怪退治の看板を掲げてる以上、放置しておくわけにはいかない」
怯えるレミリアに、妺紅がちらりと視線を投げる。やはり、優しい眼差しだった。
「お前だってそうだぞ。この幻想郷で、大妖怪として大きな顔をしたいのなら……逃げちゃ駄目だ。向き合え。事情は知らんが、こいつはお前が向き合わなきゃいけない相手なんだろう?」
人形のような少女に向かって、妺紅が片手をかざす。
鋭利な五指が、炎を帯びた。
「まあ今日は、私が戦ってやる。さて……」
いくつもの魔法陣が、妺紅に向かってゆらりと飛行しながら、弾幕を吐き出していた。
クランベリーに似た光弾の嵐が、妺紅を襲う。
「ふん、前口上も無しに弾幕とは……風情はないが、嫌いじゃあない!」
空中に、妺紅は炎を投げつけた。無数の火球が、ぶちまけられていた。
身を捻り細腕を振るう、その動きに合わせて、妺紅の背中から炎の翼が広がっていた。
クランベリーのような光弾の嵐が、炎の弾幕とぶつかり合う。相殺の爆発が、空中いたる所で花火の如く咲き乱れた。
同時に、炎の翼の羽ばたきが、浮遊する魔法陣を全て灼き砕く。
その時には、しかし人形のような少女は、妺紅の眼前に着地していた。
動きが、咲夜には見えなかった。まるで自分が、時を止められたかのようだ。
「お前……!」
妺紅が息を呑み、そして血を吐いた。
人形のような少女の、可愛らしい右手が、妺紅の鳩尾に突き刺さっている。
少女の可憐な美貌には、やはり何も表情が浮かばない。澄んだ真紅の瞳は、眼前にある妺紅の姿を見ていない。
この少女は、レミリアしか見ていないのだ、と咲夜は思った。
妺紅の体内で、少女は何かを握り締めたようである。
妺紅の肉体が、砕け散った。様々なものが飛散していた。
少女の全身が、人形のように作り物めいた美貌が、ビチャビチャッと血に染まった。
「おい……嘘だろ……? 藤原妺紅……」
美鈴が、呆然としている。
「私を倒した、お前が……そんな……」
血まみれの少女が、そんな美鈴を一瞥もせず、レミリアに歩み寄る。
「ふ……フラン……待って、ねえ落ち着いて……話をしましょう?」
涙と鼻水にまみれたレミリアの顔が、愛想笑いの形に歪んでいる。
下卑ている。先日、咲夜が捕えて来た、あの男たちのようにだ。
「私、貴女が嫌いで遠ざけていた……わけではないのよ。可愛くて賢いフランなら、わかってくれるはず。ねえ、そうでしょう?」
咲夜は懐中時計を取り出した。
時を止める。今、出来る事はそれしかない。
懐中時計を掲げ、握り締め、念じる。
時間の流れを束縛するための、目に見えない鎖が生じ、だがすぐに粉砕された。
人形のような少女が、可愛らしい片手で無造作に振りかざした武器によってだ。
武器、なのであろうか。それは一見、ねじ曲がった槍のようでもある。
いや違う。時計の針だ。長針と短針が、一体化しながら巨大に伸び、なおかつ歪んでいる。
時の捻れ、そのものを彼女は手にしている。咲夜は、そう感じた。
時間停止を粉砕しつつも、少女は咲夜の方を見向きもしない。澄んだ真紅の瞳は、レミリアだけを見つめている。
「聞いてフラン、仕方がなかったのよ……」
可憐な尻で地面を擦りながら、レミリアは弱々しく後退りをしている。
「だって貴女は、私より賢くて美しくて、そして強いから……貴女がいては、私がスカーレット家の当主にはなれない……だけど、それでは駄目なのよ。私も貴女も姉妹として、長幼の序は守らなければ……」
レミリアは言う。人形のような少女は、無言だ。
無言のまま、しかし少女は微笑んでいた。人形のような少女が、人形ではなくなっていた。
可憐な美貌が、赤く汚れたまま、にっこりと和らいでいる。血まみれでありながら、敵意も悪意も憤怒も憎悪も感じさせない、まるで天使のような笑顔。
呆然と懐中時計を握り締めたまま、咲夜は動けなかった。
天使の如く微笑みながら、少女はレミリアに左手を差し出す。
「フラン……そう、わかってくれたのね……やっぱり、貴女は聡明だわ……」
ぼろぼろと嬉し泣きをしながら、レミリアは握手に応じた。可憐な五指と可憐な五指が、おずおずと絡み合う。
次の瞬間、ちぎれた。レミリアの小さな左腕がだ。
血飛沫が飛び、凄まじい絶叫が響き渡る。
「あっ、あぎッ、ヒィぎゃあああああああああああああああ!」
涙と鼻水を噴射しながら、レミリアは泣き叫んでいた。
まるで雑草か何かのように、彼女の左腕は引きちぎられていた。
少女は相変わらずニコニコと笑いながら、引きちぎった吸血鬼の細腕を無邪気に振り回している。
振り回された腕が、そのまま蝙蝠に変わり、パタパタと逃げ飛んでゆく。いずれレミリアの身体に戻るのだろう。
「やっ、やめてフラン! やめて、やめてやめてウギャッ、ぎひぃ!」
天使のように微笑む少女が、敗れた悪魔の如く泣き喚くレミリアの背中から、翼をもぎ取る。可愛い左手で、まるで貼り物でも剥がすかのように無造作に。
「あぎゃああああっ、ひいいいい! わ、わかったわフラン、スカーレット家の家督は貴女にあげる。私の方が貴女の妹でいいからブギャ」
巨大な時計の針が、レミリアの顔面を殴打する。
歪んだ時そのもの、と思える得物を、少女は振り下ろしていた。微笑みながら、幾度も幾度も。
「ぎゃびぃ! やややめてフラン、フランドール様ぁ!」
ガスガスと叩き潰され、鮮血の飛沫をぶちまけながら、レミリアはのたうち回る。
「私、貴女の家臣でいいから……奴隷で、いいからぁ……」
泣きじゃくるレミリアの身体から、少女はまたしても何かを引きちぎった。愛らしい左手で、憎しみのかけらも感じさせない笑顔のまま。
無邪気な子供に捕まった虫のように、レミリア・スカーレットが解体されてゆく。破壊されてゆく。
咲夜は動けなかった。何も、出来なかった。引きちぎられたものが放り捨てられ、蝙蝠に変じ、飛び交っている、その様をただ見つめるだけだ。
無邪気に引きちぎる動きを、少女は止めた。
澄んだ真紅の瞳が、上空へと向けられる。
「吸血鬼は夜が本領……とは言ってもね、ちょっとはしゃぎ過ぎじゃないの? あんな派手な花火まで上げてくれて、眠れないったら」
清かな黒髪、赤色のリボン、凜とした紅白の巫女装束。
満月にはいくらか足りぬ月を背景として、その少女は夜空に佇んでいた。
「お風呂入った後なんだから、あんまり血生臭い事させないでよね。まったくもう」
「博麗……霊夢……」
咲夜は呟いた。
「……いくら、お前でも……これは、この相手は……」
「? ……よく見たら、レミリアじゃないのね」
禍々しく輝く宝石の実を生らせた、枝。
そんな形状の翼を広げた少女を、霊夢は空中から観察している。
観察されながら、少女は見上げる。視線が、眼光が、ぶつかり合う。
「……ふん。魔理沙が言ってたのは、あんたの事ね。で、レミリアはどこ? まさかとは思うけど、そこに転がってる死体みたいなのが」
「博麗……霊夢……れいむぅ……」
血まみれの肉塊と化したレミリアが、泣き声を漏らす。
「はやく、たすけて……わたしを、たすけなさいよぉ……」
「何と、まあ」
霊夢は、いくらかは唖然としたようだ。
「……そう。レミリアあんた、そいつが恐いのね。太陽よりも、ずっと」
霊夢は右手で、何枚もの呪符を扇状に広げた。左手で、お祓い棒を構えた。
「わかるわ。私から見ても、とんでもない化け物……切り札として飼ってた怪物に、ものの見事に手を噛まれちゃったと。そんなとこでしょ。まったく、幻想郷に危険物を持ち込んでくれて」
2つの陰陽玉が、霊夢の周囲を油断なく旋回する。
「ともかく。そこの、レミリアから離れなさい。あんまりいじめたら、かわいそうでしょ?」
「かわいそうなのはフランも同じ……その子、ずっと閉じ込められていたのよ。レミィとの家督争いに敗れて、ね」
パチュリー・ノーレッジが、いつの間にか、そこにいた。小悪魔とルーミアを、傍らに従えている。
「見ての通り、レミィが実力で勝ったわけではないけれど」
「……そりゃどういう事だ、パチュリー」
白黒の装いをした少女が、箒に跨がったまま高度を下げてくる。霧雨魔理沙だった。
「実力で……その化け物を、封印した奴がいると。そいつがレミリアに味方してると、そういう事か」
「どうかしらね。彼女は、レミィに味方したわけではないと思うわ」
小悪魔に支えられながら、パチュリーは言う。
「味方と言うより、御しやすいレミィの方を擁立しただけ……スカーレット家の家督争いに介入したのも、思惑あっての事でしょうね」
「パチェ……やめて……」
レミリアが泣きじゃくる。
「咲夜と美鈴に、ばらさないで……おねがいよォ……」
「覚悟を決めなさいレミィ。貴女はフランから逃げ続けてきた」
パチュリーは語る。
「身体能力、魔力、弾幕戦の技量……吸血鬼としての全てにおいて、貴女はフランに劣っていた。劣等感の塊だった頃の貴女を、咲夜と美鈴は知らなくとも私は知っている。貴女は実力で妹を抑え込む事も出来ず……あのスキマ妖怪に、頼るしかなかった」
スキマ妖怪。
これほど不吉な単語を、咲夜は聞いた事がなかった。
「それも、ここまで。もう先延ばしには出来ないわよレミィ、今ここに彼女はいないのだから」
咲夜が初めて耳にする名前を、パチュリーは告げた。
「……貴女はね、自力でフランドール・スカーレットと向き合わなければいけないのよ」
「無理に決まってんでしょ、そんなの!」
霊夢が、急降下と同時に飛び蹴りを繰り出す。
フランドール・スカーレットが、ふわりと後退して、それをかわす。
霊夢は着地した。
レミリアを背後に庇い、フランドールと対峙する。そんな形になった。
「自分らの御主人なんだから、もうちょっと大事に扱ってあげなさいよね……ところで。割と凄腕の妖怪退治業者が1人、いたと思うんだけど」
「……死んだよ。一撃で、斃された」
美鈴が呻く。
「本当に……凄腕、だったんだけどな……ふ、ふふっ。どうよ博麗の、うちの新しいお嬢様! 強いだろ!?」
「美鈴! 貴女は……!」
「現実見ましょうよ咲夜さん。パチュリー様も。そこのボロ雑巾に! 私たちを束ねるだけのカリスマなんて、もう残ってるワケないでしょう!?」
霊夢の背後で蠢きうずくまる血まみれのレミリアに、美鈴が人差し指を向ける。
「私たち紅魔館は、新たなる主、真の主! こちらのフランドール・スカーレット様に率いられて、幻想郷を支配するんですよ!」