幼女をたぶらかす「わるい魔女」
過去のマーリンちゃんは、引き取られて以降、泣く事が減っていきました。
最初のうちは親に捨てられた悲しみから涙に暮れていましたが、モルガンさんの家では一切怒られたりしなかったため、戸惑いながら新生活に慣れ親しんでいきました。
涙を流しすぎて赤くなっていた目元はツヤツヤしたものに戻っていき、肌ツヤも良くなっていきました。ちょっぴり太ってぷにぷにし始めたほどでした。
ですが、それでも幼子は強い警戒心を抱いていました。
自分と視線を合わせ、笑顔で呼びかけてくる犬系獣人からできるだけ距離を置きました。柱の陰に隠れ、びくびく、こそこそと見ていました。
「最初はさ、おかあさんのこと、すっごく怖かったんだー……」
マーリンちゃんは、過去の自分とモルガンさんの事を座って見守りつつ、そう言いました。苦笑い気味の微笑を浮かべつつ、嬉しそうに見守っていました。
「ボク、天才児だからさ~。魔術の才能あるからさ~……。おかあさんも、魔術適正目当てでボクを引き取ったんだと思ったんだ」
「…………」
「何か企みがあって、ボクを引き取って育て始めたと思ったんだ。そうじゃなきゃ、ボクみたいな子に見向きするはずがないって思ってた」
「けど、そんな企みなんてなかったんだろ?」
「うんっ……」
モルガンさんは、思い切ってズイズイと距離を詰める事はしませんでした。
マーリンちゃんが自分の事を怖がっているのを知っており――幼子がまだ深く傷ついている事を理解しており――最初のうちは出来るだけ目の前に姿を現すのを避けていました。
幼子の事をこっそりと見守りました。
書斎に隠れ、魔術でふかふかのぬいぐるみを動かし始めました。
幼子は動くぬいぐるみにビックリした様子を見せましたが、かわいくてふかふかの魅力には勝てませんでした。ハグを求めてくるぬいぐるみに対し、おずおずと抱きつき、初めて安堵の表情を見せました。
身の回りの事を甲斐甲斐しくお世話してくれるぬいぐるみ。毎日添い寝してくれるそれは、ささくれだった幼子の心を少しずつ解きほぐしていきました。
幼子がぬいぐるみの傍で丸くなって寝始めると、女魔術師は音もなく現れ――幼子を起こさないようにしつつ――その頭を撫でました。
撫でて、魔術を行使しました。
「おい、あれ……」
「うん。ボクの夢を操作してるね。そうじゃないかなぁ、とは思ってたけど――」
マーリンちゃんはちょっぴり興味深そうに、養親の様子を見守りました。
「あの頃のボクは、毎日のように悪夢を見ててさ。寝ても覚めても心が休まらなくて……。でも、おかあさんの家に引き取られてからは、悪夢なんて見なくなったんだ。ああやってボクの夢を操作してたわけだね」
「…………」
「夢の基礎は、あの頃よく見てた悪夢だったと思う。……父親とか母親とか出てくるやつね。でも、おかあさんはそこにぬいぐるみを乱入させて、ボクを守ってくれて……悪夢はどんどん陳腐化していっちゃった」
そのおかげで、実の両親といた頃によく見ていた悪夢はもう殆ど見なくなった。
見たとしても、もうそこまで心がざわめいたりしない――と彼女は言いました。
「ぐっすり眠れるようになったのも、おかあさんのおかげだったんだ……」
「…………」
モルガンさんは、幼子の心を癒やす事に全力を尽くしました。
自分の事も受け入れてくれるよう、力を尽くしました。
虐待の傷は表面的なものは治っていたものの、内臓や骨は傷んでいたため、それらを治癒魔術でキッチリと治しました。
育児書を買いあさり、幼子が喜んでくれる事を模索しました。喜んでくれるなら慣れないことでも果敢に挑んでいきました。
栄養に気を使いつつ、毎日美味しい食事を用意しました。食卓を見る幼子のおめめがキラキラするほど魅了する食事やオヤツを提供しました。
貯金を切り崩し、たくさんのおもちゃを買い与えました。おずおずと遊ぶ幼子の様子を、ぬいぐるみ越しに観察し、どのおもちゃを気に入っているかをよく観察し、次に活かしていきました。
幼子がお絵かきを好んでいる事を知ると、色とりどりのクレヨンと画用紙を買い与えました。手をぐーにしながらクレヨンを握り、お絵かきをしている幼子の様子を見守り、描きあがるたびにぬいぐるみの手で幼子の頭を撫でました。
緊張で強張っていた幼子も、段々と、ふんにゃりと笑うようになりました。
そうしていたある日のこと。
モルガンさんのこもっている書斎に、扉の下から画用紙が差し入れられました。
差し入れたのは幼子でした。お気に入りのぬいぐるみをギュッと抱っこし、こそこそと扉の下からそれを差し入れました。
モルガンさんがそれを取るために歩いてくる音を聞くと、幼子は「ぴゃっ……!」と鳴いて逃げていきました。
「あー、あ~……! これは、ダメ。見ちゃダメ。恥ずかしいからっ……!」
セタンタ君は画用紙に描かれたものを覗き込もうとしましたが、顔を赤くしたマーリンちゃんに遮られ、見る事が出来ませんでした。
マーリンちゃんは過去の自分が描いた絵と、それに添えられた感謝の言葉を見て恥ずかしそうに笑いましたが――次の瞬間、ギョッとしました。
「…………」
「お、おかあさん……?」
モルガンさんがポロポロと涙を流しているのを見て、ギョッとしました。
流れた涙のしずくが画用紙を湿らせると、モルガンさんは大慌てでその湿り気を取りました。画用紙を抱きしめた後、大事に保管し始めました。
その後、ぬいぐるみを操作し、幼子の頭をたくさん撫でました。
たくさん、ギュッと抱きしめました。
「この日からかな~……。ボクの方からおかあさんに接し始めたの」
「……勇気出したんだな」
「遅いぐらいだよ。……うん、遅いぐらいだった」
幼子は自分から養親のところに行くようになりました。
感謝の言葉を伝えようにも、緊張で上手く言葉が出なかったため、いつも画用紙を使っていました。
女魔術師は幼子の様子にほころびつつ、自分も手紙を書きました。幼児でも読める内容にしつつ、それをぬいぐるみに託して幼子に渡しました。
最初は筆談、あるいは交換日記を交わすような交流でしたが、2人の距離はどんどん近づいていきました。
クレヨンをぐーで握った幼子が一心不乱にお絵かきする様子を、ぬいぐるみを抱っこしたモルガンさんが直ぐ隣で見守るようになりました。
恐怖心に縛られた幼子はなかなか上手く言葉を発せられませんでしたが、その恐怖心を勇気で跳ね除け、養親に抱きつき、猫のようにスリスリと頬ずりするようになりました。
頬ずりされたモルガンさんはパッと表情をほころばせ、抱きしめようとしました。抱きしめても怖がらせないか心配になり、躊躇ったりもしましたが……ぬいぐるみを幼子の背中に当て、ぬいぐるみ越しに抱きしめました。
「おかあさん……」
「…………」
マーリンちゃんは、養親の一挙手一投足に夢中になっていました。
自分が認識されずとも、構わずにモルガンさんの後を追いました。
自分が見ていないところでモルガンさんが何をしていたのかを観察し、見えないところで自分のために努力してくれていたモルガンさんに感激しました。
どんどん、幻に心が囚われていきました。
「…………」
セタンタ君は表情を強張らせ、魅了されていく少女の姿を見守りました。
これは、まずい。そう思いました。
少女の肩を叩き、告げました。
「……マーリン、あんまり入れ込みすぎるなよ?」
「入れ込む、って……?」
マーリンちゃんは気もそぞろな様子で言葉を返しました。
セタンタ君の言葉を聞きつつ、養母の様子をチラチラと見守っていました。
「お前だってわかってるだろ。これが夢や幻の類だってこと」
「…………」
「この状況は、明らかにおかしい。これは単なるお前の夢じゃない。俺がここにいる時点でおかしいってことは、お前だってわかるだろ……?」
「でも……」
「この光景を見せている奴がいる。必ず。悪趣味な光景を――」
「あ、悪趣味ってなにさ! そんなことないよっ! ここは……とってもやさしくて、とってもいいとこだよ。おかあさんのいるとこが……世界で一番安全で、世界で一番幸せなとこだもんっ……」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
セタンタ君は焦りました。
お前達を貶めるつもりで言ったんじゃない、と思っていました。
自分達の見ている光景が、「過去を忠実に再現したものなら危険」だと思っていました。マーリンちゃんの振る舞いがその危機感を強くしていきました。
この幸福には終わりがある。
現実のマーリンちゃんの傍には、もうモルガンさんはいない。
少年は、その事を知っているからこそ、強い危惧を抱いていました。
「いつもの冷静なお前に戻ってくれ。なっ?」
「なにさ、なんで邪魔するのさ」
2人がそんな話をしている間にも、周囲の時は進んでいきました。
ずっとモルガンさんの家を映していましたが、幼子と養親の関係はどんどん進展していきました。幼子はどんどんモルガンさんに懐いていきました。
「もう一度言うぞ。これは単なるお前の夢じゃない。視点がおかしい!」
「視点って……」
「これがお前の記憶を元にしているとしたら、何でお前が見ていないところも存在してるんだ? 何で過去のお前が寝ている間の事もハッキリ見えるんだ?」
「ぁ…………」
「この夢はお前の視点じゃない。明らかに第三者の視点だ。それはおかしい。絶対に、これは、誰かが意図的に見せているもんだ。それが神器か、それとはまったく別の存在かは知らないが――」
「…………」
「いつもの冷静なお前に戻ってくれ。こういうのを見破るのは得意だろ? お前の観測魔術なら、敵の企みを明かせるはずだ」
「…………」
マーリンちゃんは強張った表情でうなずきました。
うなずき、観測魔術を使おうとしました。
ですが――。
「ぁ、ぅ……」
いま見ている光景が、虚しい幻だと証明する事を怖がりました。
自分の手で、この幸せを消し去る事を嫌がりました。
「……せ、セタンタ……」
「…………」
「もう、少しだけ……。もう少しだけ……だめ、かな……?」
「…………」
「ぼ、ボクっ……おかあさんのこと、もっと、見てたい……」
「…………」
「おかあさんのこと、もっともっと、目に焼き付けたいのっ!」
幻に感情移入してしまっている少女の言葉を聞き、少年は天を仰ぎました。
ただ、少女の気持ちもよく理解できました。
もういなくなった人が、直ぐ傍にハッキリと存在している。
触れたり話しかける事は出来ずとも、耳目はハッキリとその姿を捉えている。
少年も、いなくなってしまった家族の姿が記憶から薄れていき、顔や声も曖昧になりつつあるため――目に焼き付けたいという主張はよく理解出来ました。
「……わかった」
少女の気持ちはよくわかるので、今は少女のやりたいようにさせる事にしました。そして自分は家の外で待っていようとしましたが――。
「えっ、セタンタ、どっか行っちゃうの……?」
「近くを軽く調べてくる。それに……俺がジロジロと見るべき事じゃあないだろ」
少女が1人で集中して見れるよう、気遣いました。
ですが、少女は頭をぶんぶんと振り、気遣う必要はないと言いました。立ち上がろうとした少年の服の裾を引っ張り、止めました。
「セタンタならいいよ、別に」
「いや、だけど……」
「ちょっと恥ずかしいけど、いいよ、別に」
「……それじゃ、とりあえずここにいるよ」
2人は女魔術師の家に留まりました。
歌劇を見守る観客のように、幸福な家族を静かに見守り始めました。