猫と犬
「――リン……マーリンっ!」
「ん、ぅ…………?」
意識を失っていたマーリンちゃんは、揺さぶられて目を覚ましました。
突っ伏していたものの、助け起こされて立ち上がりました。立ち上がる際にめまいがしたものの、助け起こしてくれた人物に「大丈夫」と言いました。
「……セタンタ?」
「おう」
突っ伏して気絶していたマーリンちゃんを起こしてくれたのは、セタンタ君でした。彼はマーリンちゃんの身体を気遣いつつ、言葉を続けました。
「なんでセタンタがここに……?」
「そりゃ共通の疑問だな。……周りをよく見てみろよ」
「え……?」
少年に促され、少女は辺りを見回しました。
そこは、じっとりとした雰囲気の場所でした。
2人は都市郊外ではなく、都市の中にいました。街並みは廃墟――というほど打ち捨てられてはいませんが、活気のない街でした。
セタンタ君は、マーリンちゃんが意識を取り戻すより早く起きていたため、周辺をよく観察していました。建物の様式や雰囲気から「バッカス王国の街だ」と感じていましたが、具体的にどこの街かは不明でした。
「あれっ……? ボクら、いつの間に陸に……?」
「お前も知らねえか。俺もよくわからねえんだが――」
少年は周囲をよく警戒しつつ、マーリンちゃんを物陰に連れていきました。
何か危険が及んではいけないと考えて。
「俺達はさっきまでアワクムに乗っていたはずだ」
「だよね? バッカスに帰る途中……だったよね?」
「そのはずだ。だけど、意識を失った。俺はお前より先に起きたけど、俺達は2人揃って意識を失っていたみたいだ」
「えぇっ……? なんで……?」
それが俺もわからねえんだ、とセタンタ君は返しつつ、鈍色の空に向けて手を伸ばしました。そして少女に告げました。
「小雨だが、雨が降ってる。見えるよな?」
「あ、うん」
少女もつられて手を伸ばしました。
が、2人ともが雨を掴み損ねました。
パラパラと降っている雨粒は、2人の手をすり抜け、地に落ちていきました。
「雨に触れられない。地面の感触はあるんだが……雨に限らず、色んなものに触れることができない。まるで幻に囚われたみたいに……」
「ホントだ。じゃあこれ、現実ではないのかな……?」
「わからん。そもそも、ここってどこの都市だろうな」
「あ、ボク、心当たりが――」
口を開いたマーリンちゃんでしたが、その言葉を全て言い切る前に、金切り声が聞こてきました。それを聞いた少女は驚き、肩を揺らしました。
セタンタ君は怪訝そうに表情を歪め、「なんだ?」と言いました。
人気がなかった街から、急に聞こえてきた金切り声が聞こえてきた方向を睨み、首を傾げました。
「直ぐそこの建物か」
少年は「行ってみようぜ」と声をかけ、少女の手を引きました。
が、マーリンちゃんはその手を引っ張り返しました。
「っ、と……? どうした、マーリン?」
「あ、いや……。えっと……」
マーリンちゃんは表情も肩も強張らせていました。
金切り声を聞いて以降、全身を強張らせていました。
セタンタ君は手を引っ張り返された事でそれに気づき、「大丈夫か?」と言いましたが、マーリンちゃんは表情を強張らせたままでした。
「人がいるっぽいから、ちょっと確かめて来たい。お前は隠れてろ」
「やっ……! ま、待って。ボクも行くから……」
「お前、ホントに大丈夫か……?」
「へ、へいき」
少年が手を離すと、少女は少年の先に駆けていきました。
声を震わせながら、金切り声の聞こえた方向に歩んでいきました。
セタンタ君は訝しげな表情をしつつ、直ぐにマーリンちゃんの後を追い、追い越し、いつでも庇える形で歩き始めました。
目的地は――金切り声の主のいる家には、ほんの数秒で辿り着きました。小雨が降る前は長雨が続いていた都市の側溝から、チョロチョロと水音が聞こえてくる中、少年は声が聞こえてきた家をこっそり覗き込みました。
「こっちじゃない……。こっちの窓か……?」
最初に覗き込んだ場所には誰もいなかったため、路地裏の方にある窓に向かい、そこからこっそりと中を覗き――目を見開きました。
「愚図がっ! お前の、せいでっ!」
「ひっ! ひィッ?!」
ばちんっ、ばちんっ、と鞭が叩きつけられる音が、少年の耳朶を叩きました。
家の中には手製の鞭を振るう男の姿がありました。
顔を真っ赤にしながら怒り狂い、鞭を振るっていました。
自分の足元にうずくまっている子供に向けて……。
「おいっ! お前っ……!」
セタンタ君は止めに走りました。
雨と同じく、壁をすり抜け、男に駆け寄って殴りつけました。
「っ…………!」
殴りつけたものの、不発に終わりました。
男を殴りつけても、拳はするりとすり抜けていきました。男は目の前にいる少年に構いもせず、鞭を振るい続けました。
「おい、やめろって……!」
「せ……セタンタ……。いいんだよ、止めなくて……」
「は!? 何がいいんだよ!!?」
マーリンちゃんも壁をすり抜け、建物の中に入ってきました。
おずおずと声をかけてきた少女に対し、少年は声を荒げましたが――少女が顔面蒼白になって震えているため、目を丸くしました。
叩かれている子供とマーリンちゃん。
どちらに駆け寄るか迷ったものの、マーリンちゃんには「大丈夫か!?」と声をかけつつ、同時に男を何とか止める方法を探そうとしました。
しかし、セタンタ君が何をやっても、子供に振るわれる鞭は止まりませんでした。男は鞭を振るい続けました。
「ちょっと、アンタ、やりすぎよっ!」
そう言われると、男はようやく手を止めました。
ふーっ、ふーっ、と荒い息を吐きつつ、声の主に視線を送りました。
そこにいたのは猫系獣人の女性でした。
顔立ちはマーリンちゃんに似ていましたが、目つきが悪く、不機嫌そうな表情を浮かべながら男に近づき、軽く抱きつきました。
抱きつきつつ――足元で痙攣している子供をチラリと見て、足の裏で子供に触りながら治癒魔術を行使しはじめました。
「殺したらマズいでしょ。大怪我を負わせると、後が大変よ」
「こ、このクソガキは、こうして躾けないとダメなんだっ……!」
「アンタがやっている事がバレたら、胡蝶様に豚に変えられちまうよっ」
女はバッカス王国に伝わる都市伝説を口にしました。
女と男にとって、それはあくまで噂話でしたが――信憑性の高い噂話であり、鞭を振るおうとした男を少しだけ大人しくする効果はありました。
「こ、胡蝶様なんて……こわく、ねーよ……」
「だとしても、政府にバレたらアタシ達は終わりよっ。このバカ娘がいくらバカでも、このバカの巻き添えで監獄に入れられたらどーするのよっ……!?」
「あっ……! そ……そう、だな」
男は気まずげに視線をさまよわせ、手製の鞭を壊し、ゴミ箱に捨てました。
証拠隠滅を図った男に対し、セタンタ君は厳しい視線を送りました。直ぐにでも手を出したいと思いましたが、すり抜けるうえに認識されない以上、唇を噛んで睨む事しか出来ませんでした。
「なんだよ、コイツら。なんつー悪趣味な幻なんだ」
「…………」
怒り狂いそうになっている少年と違い、少女は震えていました。
服の裾をギュッと握り、部屋の中の光景から目を逸していました。
「マーリン、お前は見なくていい。外で待ってろ。俺は……調べてみる」
「だいじょぶ……」
「そりゃ大丈夫なツラじゃねえだろ……。真っ青だぞ……?」
「へ、へーきっ……。もうすぐ、平気になるからっ……!」
「…………?」
少女は、この場の光景について何かを知っている様子でした。
少女の言葉を聞き、少年は部屋の中にいた男と女の顔を見ました。女の顔が、マーリンちゃんにそこはかとなく似ている事にようやく気づきました。
ひょっとして、コイツ、お前の母親か?
セタンタ君はそう聞きかけましたが、青ざめたマーリンちゃんに問いただす事は止めました。代わりに、うずくまっている子供の隣で膝をつきました。
「おい、大丈夫か……?」
「ぅ、ぅ……ぅ、ぅぅっ……」
うずくまっている子供に手を伸ばしても、触れる事は出来ませんでした。
子供はマーリンちゃん以上に震えていました。
鞭でつけられた傷は消えたものの、肌から滲んだ血が衣服を汚していました。様々な恐怖が小さな身体の中で渦巻いていました。
「あっ……」
少年は気づきました。
うずくまった子供の身体を、チリチリと電撃のようなものが走ったの気づきました。それはこぼれ出た魔力の煌めきでした。
子供の感情が高ぶり、無意識に魔術を使っている事を示す事象でした。感情で行使する魔術は大人になって慣れ親しんでいくにつれ、このような事は起きづらくなりますが、この子はまだそこまでのコントロールが行えていませんでした。
この状態で触れると、普通は静電気程度の痛みが奔るだけで済みますが――この子の場合、高い魔術適正によって他人を殺しかねないものになっていました。
そういった子は政府の方で制限術式をかけるものなのですが、この子はそういったものはかけられていませんでした。
「おいっ……!?」
「だ……だいじょうぶ……。大丈夫になるからっ……!!」
「鞭がダメならどう躾ければいい!? コイツは、このクソガキは、オレ達に期待だけ持たせて、裏切ったクズなんだぞ!?」
「外傷が残らないように何かするとか……もしくはもう、処分するとか……」
「ッ……! コイツら……!」
セタンタ君は虐げられている子供に――自分のよく知る少女と同じ髪色、同じ獣相を持つ獣人の子供に何もしてあげられない事を悔やみました。
せめてもと、マーリンちゃんを外に出して何も見せないようにしようとしましたが、少女は震えながら「大丈夫」とうわ言のように繰り返しました。
「この幻、お前の過去に……」
「ここ……ボクの、家……。元々、住んでた家……」
「なら出よう。せめて、お前だけでも」
少年は少女を逃がそうとしましたが、少女は頭を振って逃げるのを拒否しました。
この先に待っている光景を見るために、逃げるのを拒否しました。
そうこうしているうちに、苛立った男が――少女が暴走していることに気づかず、無造作に触れようとしました。
髪をつかみ上げようとして――。
「――――」
誰かが家の扉を叩きました。
その音に気を取られた男は、少女に伸ばした手を引っ込めました。
そして、女と顔を見合わせ――。
「おっ、オレが出る……。お前はコイツを見張ってろっ」
「え、ええ……。えっ、まさか……ホントに胡蝶様がっ……」
「ば、ばかっ。そんなの迷信だって」
男が女をなだめ、落ち着かせていると、扉が再び叩かれました。
男は苛立ち、焦りながらも「いま出るよっ!」と叫び、ドタドタと部屋を出ていきました。玄関のある場所へと向かっていきました。
「…………」
マーリンちゃんは顔面蒼白になりながらも、うずくまった子供に近づきました。近づき、跪き、抱きしめようとしました。
マーリンちゃんの手も透けてしまい、触れる事は叶いませんでしたが……それでも少女は抱きしめるように手を添え、「大丈夫」とつぶやきました。
爪を噛み、イライラとしている女が、震える子供の事を鬱陶しそうに一瞥してきたことに唇を震わせましたが、それでも「大丈夫」と重ねて言いました。
「……この子、昔のボクだ……」
「…………」
「この日の事は、よく覚えてる。……ボクを売る商談が完全になくなって、あの男がすごく怒ってた日だったから……」
「……マーリン」
少女は言葉を続けました。
「それだけじゃなかったの。この日、ボクは救われたの」
少女は「マーリン」という名ではなかった頃の自分を抱きしめつつ、言葉を続けました。
玄関に応対に出ていた男は、困惑した様子で戻ってきました。
ただ、上機嫌そうでもありました。
浮ついた雰囲気のまま、女に「客が来たっ」と言い、うずくまる子供の身だしなみを整えさせ、玄関まで連れていきました。
先ほどまで痛めつけられていた子供は、まだ震えていました。
膝から崩れ落ちそうな状態でしたが、女に首根っこを掴まれて引っ張りあげられていました。マーリンちゃんはまた「大丈夫」と言いました。
子供に寄り添い、「もう大丈夫」と重ねて言いました。
少女の方はもう、震えていませんでした。
玄関に立つ人の姿を見て、ほころんでさえいました。
「…………」
玄関に立っていたのは女性でした。
犬の尻尾と獣耳が生えている穏やかな雰囲気の女性でした。
その女性を見て、少女はつぶやきました。
「……おかあさん」