幽霊トンネル
夏祭りの後、徒歩十分程度のところにある、通称「幽霊トンネル」に私たちは居た。七人で散々騒いだ挙句、七人の内の誰かが「幽霊トンネルで肝試ししよーっ」なんて提案して、お祭りの余韻に浸っていた私たちは、深く考えずに「おっけえ」なんて言ってしまった。
二人一組と、懐中電灯一つ。トンネルを往復して帰ってくる。出来るだけ長い時間で往復したペアが勝ち。当然、驚かす人も居ないし、仕掛けもない。端まで行かなくても良し。シンプルで分かりやすいルールだ。
幽霊トンネルは、数十年前までは、よく使われていたトンネルだった。けれど、新しいトンネルが開通されたあとは、このトンネルを使うものはパッタリと居なくなり、その代わりに有りもしない幽霊話を植えつけられた。
「車のクラクションを三回押したら、片手に鎌を持ったお婆さんが追いかけてくる」とか、「トンネルの中で自殺した女の人の白骨死体がある」とか、「トンネルの中で交通事故に遭った少年が未だに彷徨っている」とか。
きっと、どれもガセネタなのだろう。けれど、このトンネルの前に立つと、どの話も本当のように思えた。生ぬるくて暑苦しかった風が、涼しさを通り越して凍えるような冷たい風となって頬に突き刺さる。
「はい小夜子、ラスト行ってらっしゃーい」
「おうっ」
私は声だけは威勢良く返事した。
七人で分かれると、必然的に一人余る。三人で行く、という選択肢もあったのだが、「そういえば、小夜子の罰ゲームまだだったよねー」なんて思い出す奴が居て、「んじゃ、罰ゲームは一人で幽霊トンネル往復、で良くない?」なんて質の悪い提案をする奴も居た。私も友達には恵まれていると自負しているけれど、悪ノリが過ぎるのは勘弁してほしい。尤も、たこ焼き早食い競争でビリにさえなっていなければ、私も同じことを提案していたと思う。
ごく、と口の中に溜まった生温かい唾液を飲み込み、前をひたと見据えた。いつもの私だったら、どうだ私かっこいーだろ、なんて無駄口を叩くのだろうけれど、今回はそんな余裕は全く無かった。
冷たい空気を味方につけるように息を吸い込んで、威勢よく一歩を踏み出した。ぴしゃん、と水が弾ける音がする。悲鳴を上げそうになるのを喉の奥で押さえ、また一歩、また一歩、と足を踏み出す。カツン、カツン、と硬い足音がトンネルの中で響く。出来るだけゆっくり。あまり奥には行かないようにしよう……。
五歩ぐらい歩んで、ふう、と溜め息を吐く。ああ、やばい。本当に怖い。
――「こんばんは」
突然鼓膜に響いた声に、心がぎゅっと掴まれた。顔は強張り、全身の血がさーっと引いていく。
聞こえた。声が。「こんばんは」と。誰だ。由佳、小百合、梨乃……。違う。この声は、一緒に来た友達ではない。少年のような声。
私は反射的に振り返った。
…………………………。
けれど、出口がない。いや、ないというか、ずっと遠くに見える。
はい、終わった。
恐怖とか焦りとか、そーゆーの以前に、そう思った。終わった、と。
けれど、五秒ぐらいすれば、本能的な危機感というのはせり上がってくる。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……! これ、相当やばい状況じゃないの。ああ、もう。あいつ等、全然幽霊出なかったとか言ってたのに、出てるじゃん! ふざけんな。……って、そんなことしてる場合じゃなくて。とにかく、みんなに助けを求めなきゃ!
混乱する頭を何とか落ち着かせ、悲鳴を上げようと口を開くけれど、情けない声が掠れて出るだけで、助けを呼べるほどの大きな声は出なかった。
ああ、本当自分らしくない。自分自身の情けなさに毒付きたくなったとき、
――「こーんばーんはっ!」
また、声が聞こえた。聞こえた瞬間はぞっとしたけれど、あれれ? っとずっこけそうになった。ニュアンス的に、保育園児に対して先生がするソレに似ていたからだ。『聞こえないなあ。もっと大きな声で。せーの、こーんにっちはー』みたいな感じ。
――「なーんだ。またハズレか」
落胆する声。あまりに能天気で無防備な声に、私は肩透かしをくらった気分になった。
ずいぶんと呑気だなあ。全身の血の気がだんだん正常に戻っていく。
コイツは一体何者? まあ、無難に考えたら幽霊、だよね。だったとしたら、何なんだ、この幽霊は。幽霊って、もっと恐ろしくっておぞましくって身の毛もよだつような存在じゃないの。
「聞こえてるよ」
私は反射的に答えた。思った以上に真っ直ぐで震えのない声が出たのは、相手があまりにも恐怖感を感じさせない声だったからだろう。
相手の息を呑む音。
――「僕の声が分かるの」
「ええ」
私は曖昧に頷いて見せた。
相手はかなり能天気だけど、そう見せかけてるだけで、実際は私の体を乗っ取ろうとしてるのかも。
のほほんとした相手のお陰で、結構冷静になった私は、周囲に睨みをきかせ、身構えた。けれど、相手が見えないので、もし、襲われたとしても不可抗力。どうしようもない。
そんなことを考えていると、幽霊(推測)は相変わらずの呑気な声で話しかけてくる。
――「ばか、あほ、まぬけ。聞こえる?」
「うーんと、『聞こえる?』の部分だけは聞こえた」
――「あれー? おかしいな。バーカ、アーホ、マーヌケっ。聞こえた?」
「聞こえない」
あはは、と心底可笑しそうに笑う声。
――「聞こえないって言ってる時点で聞こえてるよね。ひどい矛盾」
「うるさいなあ」
バカみたいに明るい声で笑った後に、ひぃひぃ、と息の漏れる音。なんとなく、お腹をかかえている様が思い浮かんだ。そこまでウケなくても。私もつられて、思わず口元が緩んだ。
――「あー可笑しい」
「ねえ。私、まだニ三歩しか歩いてないのに、入り口がすごく遠くに見えるんだけど」
――「ああ。僕がそうしたの」
「どういう意味」
――「面白いから、もうちょっと付き合ってよ」
「はあ?」
私は思わず間抜けな声が出た。殆ど、友達と話しているときと変わらない感じで話している。感覚が麻痺してしまったのだろうか。否、コイツがあまりにも友好的すぎるからだろう。うん、きっとそうだ。私じゃなくったってみんなこうなる。私、正常。
「あなたは誰」
――「さあね。君は誰?」
「小夜子。小さい夜に子どもの子」
――「幽霊みたいな名前だねえ」
「よく言われる。で、あなたは幽霊なの?」
この幽霊トンネルにまつわる怖い話の記憶を頭の中から引っ張りだしてみる。『トンネルの中で交通事故に遭った少年が未だに彷徨っている』。少年のような幼い声からして、この話が一番ピッタリかも。
――「さあね。幽霊かもしれないし、そうじゃないかも……」
「何よ、ハッキリしないわね。潔く出てきなさいよ」
――「え。僕、君の目の前に居るよ」
きょとん、としたような物言いに、からかいめいた響きは含まれていなかったが、何だか馬鹿にされてるような気がして、
「あのね。私に見えなかったら意味無いの」
と、苛立ちを含んだ声で返してみた。
――「えー。見えてるでしょ? 声が聞こえてるくらいなら」
「だから、見えてないって」
――「絶対見えてる」
「見えない」
押し問答のような会話をしていると、ふふふ、と笑う声が聞こえた。
「何がおかしいのよ」
気づかないうちに大声を出していたのか、少しだけ息が切れていた。
――「人間と話すのは楽しいなあって」
笑う声が、少しだけ湿っぽくなり、僅かに震えているのが感じ取れた。まるで泣いているような声に私も少し動揺する。どうしたの、と声に出そうとすると、ピシャン、と水が弾ける音。頭上を見上げると、雫が鼻の頭辺りに落ちてきて、思わず目を瞑った。清水のような新鮮な冷たさに身震いがした。
……これじゃあ、まるで、トンネルが泣いてるみたいじゃない。
そう思ったとき、はっ、と瞬間的に気づいた。
「あなたは、人間じゃないの?」
――「うん」
「あなたは、泣いてるの?」
――「うん」
嗚呼、確定だ。私は一瞬息をとめて躊躇った。でも、ほんの一瞬だけで、す、と答えを口にする。
「あなたは、……トンネル?」
――「……うん」
せーかい、と少しおどけたような声が響き、ぼんやりとしていた出口が急にハッキリと近くに見えた。
――「もう充分。君の友達も心配してるだろうから、行っていいよ」
めいいっぱい明るい声だけど、最初の弾んでいた声とは明らかに違う寂しさを含んだ声。
このトンネルは新しいトンネルが出来てから、ずっと孤独だったんだろう。ずっと一人ぼっちだったんだろう。そして、こうやって面白半分にきた人間に、毎回毎回、声を張り上げていたんだろう。そう思うと、なんともいえない胸苦しさを感じた。
ふと、手のひらをトンネルの壁につけた。ひんやりとしている。それに、思ったよりも汚れていなかった。優しくさすると、私の体温の半分ぐらいが吸い取られたように、温くなった。
「君、今日から、私の友達、ね」
思わず、口をついて出た。いつも、私が友達をつくるときに言う言葉。私の声は、トンネルに響いたけれど、返ってくる声は無かった。
「ばいばい」
私は友達にするように、片手を挙げた。すると、ふわりと柔らかい風が乾いた手の平を撫でる。その風を掴み、ぎゅ、と強く手を握った。
そして、威勢よく出口に向かって一歩を踏み出す。カツン、と硬い音が響いた。
「幽霊トンネル」を読んで頂き、ありがとうございました。
3年前に書いた話ですが、今読み返してみると、全くホラーじゃないですね。
評価や感想をいただけると、すごくすごく嬉しいです。