第5話 見つけた本音と逸らさない視線
夜。
改札を抜けた瞬間、実の足が止まった。
熱気が、真正面から押し寄せてくる。
「なに、これ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
空は厚い雲に覆われ、夜のはずなのに暗くなりきらない灰色をしている。その下で、大黒駅前広場だけが異様な明るさに包まれていた。炎が渦を巻き、燃え上がる光が建物の壁を赤く染め、煙が低く垂れ込めている。
焦げた匂いと、焼けた空気の熱が肌を刺した。
「逃げろっ!!こっちだ!!」
「やばいって、あれ無理だろ!!」
「誰か救急車呼んでっ!!」
人々が我先にと広場から逃げ出してくる。スーツ姿の男、買い物袋を抱えた女性、泣きながら走る学生。誰も後ろを振り返ろうとしない。押し合い、ぶつかりながら、ただ離れることだけを考えている。
その中心、炎の中に、それはいた。
巨大な影。燃え盛る火をまとい、赤黒い鱗のような表面が光を反射している。地面に触れるたび、アスファルトがじゅっと音を立てて歪み、熱で揺らいだ空気が輪郭を曖昧にする。長い尾が振れるたび、火の粉が雨のように散った。
「っ……!!」
その正面で、地面を蹴るように後退する影がある。
狼の頭部と鋭い牙、筋肉の膨れ上がった四肢――狼男の姿へ変じた狩野だった。
爪を地面に食い込ませ、勢いを殺しながら距離を取る。
「チッ……!!」
次の瞬間、狩野が踏み込んだ。
低く身を沈め、一気に間合いを詰めると、振り上げた爪を怪物の胴へ叩きつける。
金属を引っかいたような音。
火花が散る。
だが、硬い鱗はわずかに傷をつけただけで、ほとんど通っていない。
「なっ――」
次の瞬間。
唸りを上げるように、巨大な尾が横薙ぎに振るわれた。
振動だけで空気が押し潰され、遅れて衝撃波のような風が広場を叩く。
回避する間もない。
狩野の身体へ直撃した尾が、鈍い破砕音を響かせた。
衝撃に地面の砂埃が跳ね上がり、巨体が紙切れのように弾き飛ばされる。
「がっ……!!」
駅前の壁へ激突し、鈍い音が響く。
コンクリートに亀裂が走り、狩野の身体が崩れ落ちた。
実は思わず、その怪物の方を見る。
熱で揺らぐ空気の向こう、巨大な顎がゆっくり開閉している。瞳は爛々と赤く光り、吐息のたびに炎が漏れ、周囲の空気そのものを焼いていた。
「あ、ああ……」
喉が震える。
足が勝手に後ずさる。
靴底がアスファルトを擦り、乾いた音が鳴った。視線を外せないまま、距離だけがじわりと離れていく。
その時、狩野が顔を上げた。
荒い呼吸の合間に視線が動き、炎の揺らぎの向こうでこちらの姿を捉える。
目が大きく見開かれ、驚きと苛立ちが一瞬で表情に浮かんだ。
「お前っ何で来たんだよっ!!」
怒鳴るような声が響く。掠れながらも強く、叱りつけるようにこちらへ向けられていた。
実は言葉を返せない。
肩を押さえ、ふらつきながら立ち上がろうとする狩野の姿が目に入る。
(……本当に僕は、なんで来たんだ)
膝が震え、力を入れようとしても踏ん張りがきかない。
(怖いっ逃げたいっ!!)
指先の感覚が薄れ、手のひらにじっとりと汗が滲む。
(こんな状況で、僕に何ができるんだっ……)
呼吸が浅く速くなり、空気を吸っているはずなのに胸の奥が苦しい。
視界の端が揺れ、心臓の鼓動だけがやけに大きく耳の奥で響いていた。
その瞬間、怪物が大きく息を吸い込んだ。
胸部が膨れ上がり、周囲の空気までも引き寄せるように渦巻く。
喉の奥がじわりと赤く染まり、次第に灼けた光が強さを増していく。
次の瞬間。
爆ぜるように狩野へ向けて炎が吐き出された。
奔流となった火が一直線に地面を舐める。
アスファルトを焼き裂きながら押し寄せる。
狩野は歯を食いしばり、地面を蹴って横へ跳んだ。
だが完全には避けきれてない。
噴き上がった炎が肩から腕にかけて絡みついた。
「あ"あ"っ!!」
狩野の身体が大きく揺れる。
そのまま耐えきれず膝を落とし、地面へ蹲った。
(そんな……)
実の思考が止まりかけた、その時。
怪物の視線が、ゆっくりと横へ動いた。
実も反射的にそちらを見る。
瓦礫と崩れた看板の隙間。
小さな男の子が、しゃがみ込んで泣いていた。
「……あ……うぐぅっ……」
声は震え、息がうまくできていない。
後ずさろうとして足がもつれ、転びかける。
必死に踏みとどまるが、膝が震えて立てていない。
怪物が身体を少年の方へ向ける。
胸が大きく膨らみ、深く息を吸い込んだ。
「だめ……だ……」
実の元まで熱が伝わってくる。
空気が焼け、肺が痛む。
怪物の足元で、アスファルトが溶けて黒く沈んでいるのが見える。
「だめだっ……」
世界の音が遠のき、実の視界には男の子の姿だけが残った。
「いやっ……いやだぁっ……」
少年震え声だけが耳にこべりつく。
怪物の喉が赤く輝き、炎が放たれようと膨れ上がった。
「だめだあああっ!!」
地面を蹴った。
熱が顔を叩く。
靴底が焼ける。
それでも身体を前に落とす。
迫る炎に、世界が赤く染まっていった。
熱に歪む視界の中。
男の子の顔だけが不自然なほどはっきりと見える。
涙でぐしゃぐしゃになった頬。
引きつった口元。
助けを求めるように揺れる瞳。
その小さな表情が、時間を引き延ばしたかのように、
大きく、
大きく迫ってくる。
(あ、そうか……)
その時、実の胸の奥で、何かがストンッと落ちた。
歯を食いしばり、男の子の前へ滑り込むように膝をつく。
そのまま、地面へ手を叩きつけた。
(僕は──)
足元のコンクリートが低く軋みを上げながら盛り上がり、砕けた破片を撒き散らしつつ形を変えていく。
波打つようにせり上がる地面。
それは、一瞬のうちに分厚い壁となり、
二人の前へ立ち上がった。
「こっち!!」
叫びながら実は腕を伸ばす。
男の子の手を強く握る。
小さな指が必死にしがみついてきたのを感じた瞬間。
強く引き寄せ、その身体を抱え込むようにして前方へ飛び込んだ。
──ボゴオオンッ
直後、轟音とともに炎が激突する。
叩きつけられた熱が壁全体を赤く染め、衝撃が背中越しにまで伝わった。
実がゆっくり振り返る。
炎に呑まれたコンクリートの壁が赤く歪み、溶け崩れるようにして音を立てて崩落していた。
砕けた破片が弾け、熱風が押し寄せている。
「大丈夫……?」
実は腕の中の男の子を覗き込み、息を整えながらそう問いかけた。震える声で、柔らかく。
男の子は目を潤ませたまま、何度も、何度も強く頷いた。涙が頬を伝い、それでも必死に「平気だ」と伝えようとしている。
それを見て、実は口角を上げ頷き返すと、震える手で前方を指差した。
「あっちの方に走って?」
優しく促して。
男の子は大きく頷くと、振り返りながらも慌てた様子で駆け出していった。
ふらつきながらも必死に遠ざかっていく背中を確認してから、実はゆっくりと顔を前へ向けた。
視線を移した先――炎を纏う巨躯が、すでにこちらを捉えている。
喉の奥が赤く膨れ上がり、灼熱が集束していく。
「やばっ──」
火炎が一直線に放たれる。
熱が一気に迫る。
視界が赤に染まり、実は反射的に目を強く閉じた。
――だが。
制服のシャツの襟元が、突然きつく引き絞られる。
「っ!?」
首を引かれるような衝撃。
足が地面を滑る。
身体が後方へ強制的に動かされる。
直後、ほんの一瞬前まで自分が立っていた場所を炎が呑み込んだ。
地面が爆ぜるように燃え上がっている。
「……え?」
何が起きたのか理解できず、実は呆然と後ろを振り向いた。
そこには、狩野が実の制服のシャツを掴んでいた。
そのまま、狩野は掴んでいた布を乱暴に放り捨てた。
ぽい、と軽く投げられた勢いで実の身体が崩れ、
「おあっ」
間の抜けた声とともに尻もちをつく。
狩野は眉をしかめ、どこか気味悪そうな目で実を見下ろした。
「お前、なんなんだよ」
地面に手をついたまま、実は唾を飲み込む。喉が乾き、胸の奥が激しく脈打っていた。
「僕はっ」
声が裏返りそうになるのを押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
「したくないことをするぐらいなら、
したいことを我慢する、
そういう生き方をしてきましたっ」
「あ?」
怪訝そうな声が返る。
実は視線を前へと向けた。
炎を滲ませながらこちらを見下ろす怪物。
溶けた地面を踏みしめるたびに熱が揺らぎ、赤黒い鱗が鈍く光る。
巨大な影が揺れ、息を吐くだけで空気が焼ける。
(怖いっ逃げ出したいっ)
膝が震える。指先が冷たくなるのに、肌には熱が刺さる。
(でもっ!!)
実は勢いよく狩野へ顔を向けた。唇を噛み、震えを押し殺す。
「今、わかったんですっ」
声がかすれ、喉が引きつる。それでも実は言葉を止めない。
「誰かが今にも死にそうで、
僕には、それをどうにかできる力があって……!!」
息を吸い、震える胸を押さえながら叫ぶ。
「なのに、何もしないなんて、
そんな生き方は"したくないんです"」
実は狩野の目を真正面から見返した。
視線は揺れている。呼吸も整っていない。
今にも逸らしてしまいそうなのに、それでも瞳だけは逃げなかった。
震えを押さえ込むように歯を食いしばる。
何かを掴み取ったように、強く狩野を見据え続けてる。
「したくないことを、しない為なら、僕は戦えますっ……!!」
震える拳を強く握り締める。指先が白くなるほど力が込められていた。
メラメラという音だけが、二人を包む。
狩野はしばらく黙り込み、呆れたように息を吐いた。
「……なんだそれ」
狩野は怪物へと視線を移した。
炎を纏う巨体を睨みつけ、舌打ち混じりに呟く。
「……俺の能力は月が出てねえと力がでねえ。あいつの鱗を貫通すんのは無理だ」
そう言ってから、実の方を横目で見た。
「じゃあ、どうすれば?」
焦りを滲ませながら実は問い返す。
「あいつも口ん中までかてえことはねえだろ」
狩野は炎を噴き散らす怪物を睨んだまま、舌打ち混じりに吐き捨てた。
「ああ、なるほど……」
実は息を呑み軽く頷く。
炎を揺らめかせる怪物を見据えた。視線が、ゆっくりとその顎へ向かう。
「お前が隙作れ。俺が口ん中に一撃お見舞いしてやる」
「……わかりましたっ」
震える自分の腕を一度叩き、無理やり鼓舞するように息を吐く。
そして一歩、前へ出た。
怪物の巨大な瞳が、すぐにこちらを捉えてくる。
「はああああっ!!」
実は叫びながら駆け出した。
焼け焦げた地面を蹴るたびに靴底へ熱が伝わり、息が乱れる。
それでも速度を落とさない。
一直線に目の前の怪物へと突っ込んでいく。
怪物はすぐに反応した。
巨大な顎がゆっくりと開き、喉の奥で赤い光が膨れ上がる。
空気が引き寄せられるように渦巻く。
熱を孕んだ吸気が実の身体を揺らす。
目前まで迫った。
実は足を強引に止める。
靴がアスファルトを擦り、
体勢を崩しかけながら、
片手を地面へと叩きつけた。
硬いはずの舗装が内側から脈打つように震え、波紋のように隆起していく。
黒いアスファルトが盛り上がる。
太く長い塊となって前方へ突き出した。
それは蛇のようにうねりながら一直線に伸びる。
怪物の大きく開いた口内へと勢いよく突き刺さっていく。
「ガアッ────」
鈍く硬質な衝突音が響き、突き上がったアスファルトの塊が怪物の口内へ強引にめり込んだ。
牙と牙の間を押し広げるように食い込み、閉じようとした顎が不自然に止まる。
──ゴオオオンッ
喉奥で膨れ上がっていた炎が行き場を失い、内部で暴発した。
赤熱した光が隙間から噴き出し、口内で爆ぜるように火花と熱風が吹き荒れる。
「ガアアアアッ!!」
怪物はよろめき、天を仰いで咆哮した。
火花が散る。
熱風が吹き荒れる。
「狩野さんっ!!」
実がすぐさま振り返る。
すでに狩野は走り出していた。
低く身を沈めた姿勢のまま一気に加速。
砕けたアスファルトを踏み砕くように地面を強く蹴った。
その身体が弾かれたように宙へ跳ね上がる。
実は思わずその軌道を目で追いかける。
厚く垂れ込めた曇り空を背に、
跳躍した狩野の影が大きく広がる。
月の見えない夜空の下。
振り上げられた鋭い爪だけが鈍く光り、一直線に怪物へと落ちていった。
「ガアアア──」
悲鳴ごと夜を引き裂いた。
怪物の身体が内側から裂かれていく。
口内で暴れていた炎ごと断ち割られ、赤く燃え盛っていた光が弾け散った。
裂け目から眩い輝きが噴き出し、暴走していた熱が一気に霧散していく。
巨体が大きく傾く。
支えを失ったように揺らぐ。
遅れて地面へと崩れ落ち、駅前広場に重い地響きが広がった。
倒れたはずの身体は、鱗の輪郭が淡く崩れ、形がほどけるように光へ変わっていく。
無数の粒子となった輝きが夜気へ溶け出す。
風にさらわれるように怪物は静かに消えていった。
轟いていた炎の音も、崩落の振動も、いつの間にか広場からは消えていた。
耳鳴りのような余韻だけが残る。風が瓦礫を転がす乾いた音がかすかに響く。
さっきまで暴れていた熱気も薄れ、焦げた匂いだけが夜の空気に漂っていた。
「やったああ……」
実はその場に力なくへたり込む。全身の緊張が一気に解けた。
力の抜けたまま、自然と顔が上を向く。
夜空。
厚い雲に覆われている。
それなのに、
なぜか実には透き通って見えた。
張り詰めていた表情が少しだけほどけ、知らないうちに息が漏れた。疲労と安堵が混ざり合ったような、力の抜けた笑みが静かに浮かんでいた。
――ピロンッ。
余韻の残る静けさの中で、その音だけがやけに鮮明に響いた。
場違いなほど軽い電子音に、実は思わず肩を揺らす。
実はゆっくりとポケットへ手を入れ、取り出したスマホの画面へ視線を落とす。
『なんと、俺、彼女できました☺』
「え……?」
直後、追撃のように写真が送られてくる。
画面いっぱいに写る、満面の笑みの佐倉と、肩を組んでる見知らぬ女の子。
そして、その背景。
《カラオケの館 福禄駅前店》
「……え、ええ!?」
目を見開き、さっきまで緩んでいた口元が引きつった。安堵で抜けきっていた表情が一瞬で固まり、額にうっすらと汗が滲む。
実は慌ててスマホを両手で持ち直し、震える指で文字を打ち込む。
『どゆこと!?佐倉、大黒駅にいるんじゃないの!?』
送信すると、ほとんど間を置かず返事が届いた。
『あー、それ』
『女の子の一人が補習で遅れるってなってさ』
『学校の近くの駅に変更になったんだよね〜』
実は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
指先が止まり、通知の光だけが瞳に映り込む。さっきまで鳴り響いていた心臓の鼓動が、今度は妙に静かに感じられた。
「ハッハハッ……」
乾いた笑いが漏れ、再び力が抜けていく。
『何?あそこらへんなんかあったの?』
その一文を読んだ瞬間、実の手から力が抜けた。
スマホが指先を滑り落ち、硬い地面に当たって乾いた音を立てる。
拾い上げる気力も湧かない。
実はそのまま背中から倒れ込んだ。夜気に冷やされたアスファルトの感触がじわりと伝わる。
焦げ跡の残る広場の匂いを吸い込んで、言葉をポツリと夜空へ零した。
「……今は間の悪い友達と会話」
「したくないかな……」




