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第4話 守りたい普通と止まらない足

実の言葉を聞き終え、護は小さく息を鳴らす。興味があるのかないのか判別のつかない顔のまま、顎を引いた。


 背後で、狩野が長く息を吐く。張っていた肩が、ほんの少しだけ下がっていた。


「まあ、入らないなら入らないでいいよ」


 護はあっさりと言った。


「ただし。今後一切、能力は使わないでね」


「もし使ったら最悪、"災害分子"として処理する可能性もあるから」


「そのつもりでいて」


 淡々と告げられた言葉の数々に、実の喉がひくりと鳴る。膝の上で組んだ指に力が入り、爪の先が白くなった。


「んじゃ、狩野送ってあげてちょ〜」


「あ、了解っす……」


 狩野が短く答えて、ドアを開けた。


 実はゆっくりと立ち上がる。足裏に力を込め、狩野の後ろについて署長室を出た。



 エレベーターの扉が閉まる。


 箱の中に、低い駆動音だけが満ちている。蛍光灯の白い光が、二人の影を床に落としていた。


 並んで立ったまま、どちらも口を開かない。階数表示の数字だけが、静かに変わっていく。


「お前の判断は正しいよ」


 狩野が、不意に口を開いた。


 実は顔を横へ向ける。隣に立つ狩野の横顔が、光に縁取られている。


「自分の力にビビってるようなやつに、つとまる仕事じゃねえ」


 狩野は前を見たまま言った。


 階数表示の数字がひとつ変わる。


 実の握っていた手すりから、指先がゆっくりと離れた。


「……それはちょっと違います」


「あ?」


 実は一瞬自分で確認するように頷いた。


「僕が怖かったのは、普通じゃいられなくなることなんです」


 言葉を探すように、視線を揺らす。


「僕は、普通に生きたいだけだから……」


「……じゃあ、なんで現災のこと知りたがってたんだよ」


 狩野の声が、箱の中で低く反響する。


「……多分、安心したかったんだと思います」


 実は正面のドアを見て、唇をかすかに結ぶ。


「僕の日常には、関係のないことだって」


 狩野はわずかに目を細め、何も言わなかった。


 チインッ


 到着音が鳴り、ドアが左右に開いた。



 夜。


 実の部屋は静まり返っていた。机の上の教科書も、カーテン越しの街灯の光も、動かない。


 実はベッドに仰向けに寝転がる。天井の白い面を、ぼんやりと見つめた。


 天井に昨日の夜の情景が、映る。


──なんで、助けたんだろう。


 今まで、

 したくないことをしないように生きてきた。


 あの時だって、

 僕は死にたくなかったのに。


 身体は勝手に動いてた──


 実は目を逸らすよりに身体を横へと傾けた。


 シーツが小さく擦れる。


──自分を犠牲にしてまで、


 誰かを助けたいなんて、


 思ったことは一度もない。


 わかんない。


 わからない。


 自分で自分がわからない──


 そのままゆっくり目を閉じた。


 瞼の裏に、赤い残像がにじむ。

 やがてそれも溶け、暗闇がゆっくりと広がっていった。


 夢の中へ入ろうとしても、シーツを握った指先だけは、しばらくほどけなかった。



 翌朝。登校したばかりの昇降口は、生徒たちのざわめきで満ちていた。ロッカーの扉が次々と開き、上履きに履き替える音が重なる。外から流れ込む冷たい空気に、まだ湿った朝の匂いが混じる。低い位置から差し込む陽がガラス越しに広がり、床に淡い光を落としていた。


「実、最近なんか暗くね。なんかあった?」


 佐倉が靴を履き替えながら、顔を傾けて覗き込んだ。


「うん。でももう大丈夫だよ」


 実は視線を合わせたまま、口元を上げる。

 笑みは浅く、すぐに形を保ったまま止まる。


「ほんとかねえ」


 佐倉は片眉を上げ、鼻からふっと息を吐いた。


「じゃあ、気分転換に大黒駅のカラオケ行こーぜっ!!」


 勢いよく、実の肩をばんと叩く。周りの生徒が何人か振り向いた。


「お、いいね。行こう行こう」


 実も声を上げて笑顔で承諾した。肩に残った衝撃がじんわりと伝わる。


 と、笑みが途中で止まる。


「あ、ごめん……」


「え、どうしたん?」


「今日僕が花のご飯作る日だった……」


「ええっ!? まじかよお」


 佐倉がその場に大げさにしゃがみ込んだ。頭を抱えて、床を見つめている。


「ごめんね。また今度埋め合わせするよ」


 佐倉はしゃがみ込んだまま天井を仰ぐ。

 数秒その姿勢で固まり、


「ま、なら許すか」


 何事もなかったように立ち上がった。


「でも、残念だな〜今日他校の可愛い子いっぱい来るんだぜ?」


 佐倉はわざとらしく肩を組み、にやにやと顔を寄せてきた。


「え、どゆこと?」


 実が目を瞬かせる。


「まあ合コンみたいなもん」


 佐倉は指で丸を作り、軽くウインクする。


「それ、先に言っといてよ……」


 実は額に手を当て、肩を落とした。


「だって実いつも乗らないじゃん」


「だって僕、知らない女の人と話すと緊張しちゃうし……」


 佐倉は天井を仰ぎ、わざとらしく肩を落とす。

 それから実を見て、はあ、と息を吐いた。


「ほんと普通だよな。実って」


「え、えへへ」


「いや褒めてねえぞ〜」



 放課後。教室には椅子を引く音や、鞄のファスナーを閉める音が重なっていた。窓の外はまだ明るく、差し込む夕陽が黒板の端を淡く照らしている。あちこちで交わされる「また明日」という声が、ざわめきとなって広がっていた。


「あの……」


 控えめな声に、実は顔を上げる。


 教室の前方の扉のところに、見慣れない女子生徒が立っていた。制服の胸元には下級生の色のリボンが揺れている。


 実と目が合った瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなった。


「あ、この前の……!!」


 実は思わず立ち上がる。一昨日の夜、手を引いた彼女だと気づいた。胸の奥に詰まっていたものが、少しほどけるのを感じた。


「やっぱり、先輩だったんですね」


 彼女はほっとしたように口元を緩めた。


「……え、僕に何か?」


 実は戸惑いながら、視線をさまよわせる。


「あ、大したことじゃないんですけど……」


 そう言いながら、女子は周囲をちらりと見渡した。まだ何人かの生徒が残っている。話しづらいのが見て取れた。


「……場所変える?」



 非常階段の踊り場はひんやりとしていた。コンクリートの壁に夕陽が細く差し込み、鉄の手すりが鈍く光っている。下の階から、誰かの足音が遠く響いた。


「ええっと……」


 実は頭をかきながら、言葉を探した。


「ひよりです。春日ひより」


「あ、どうも……田中実です」


 実は軽く会釈する。


 その後しばらく、沈黙が落ちた。階下から部活の掛け声がかすかに響き、やがて遠のく。風が階段の隙間を抜け、制服の裾とひよりのリボンを揺らした。


「ひよりさん、僕に話って……?」


 実は手すりから手を離し、指先を軽くこすり合わせた。


 ひよりは視線を足元に落としている。白い上履きの先を見つめたまま、唇を結んで。

 その後、ゆっくりと喉を動かした。


「私、あの日のことあんまり覚えてないんです」


「え」


「……ニュースではガスの事故ってみたんです」


 ひよりは視線を伏せたまま。

 手すりを握る指先が、白くなって金属に食い込んでいる。


「けどなんか納得できなくて……」


『だから徹底的に情報規制して、事故ってことにしてぜーんぶなかったことにしてるの』


 護の声が、実の頭の奥に流れた。


「それで、先輩に話を聞きたくって」


 ひよりがゆっくりと顔を上げる。視線がまっすぐ実をとらえた。


「私っ何かから逃げてた気がするんです」


「あの日、先輩に手をひかれてっ何かから……」


 そこまで言って、ひよりの視線が宙に泳いだ。

 まるで、思い出を探すように、眉を寄らせて。


 実は逃げるように目を逸らす。手すりの影が足元に落ちているのを見つめたまま、唇を結んだ。




「夢、じゃないかな……」


 そのまま、ぽつりと呟いた。実の視線は足元の影に落ちたまま動かない。


「え、でも先輩もっ」


 落とした視界に、ひよりの足が入ってくる。コンクリートに靴音が響いた。


 実は、顔を落としたまま、視線だけをひよりにやる。


 すると、ひよりの視線が、一瞬だけ遠くなった。何かを言いかけて、口が小さく開いて、そのまま、静かに閉じて。


「……夢、ですよね」


 やがて自分を納得させるように、そう呟いた。


「変なこと聞いてごめんなさい」


 そのまま、ひよりは踵を返す。階段へ向かう足取りは、少しだけ速い。


「いや……ごめん」


 実はその背中を見たまま、謝ることしかできなかった。


 ひよりが、3段ほど登った後、ゆっくり足を止める。


「私、伝えなきゃって思ってたんです」


「もし夢なんかじゃなくって、先輩が私を助けてくれたなら」


 ひよりが振り返る。逆光の中で目を細め、まっすぐこちらを見つめてきた。


「ありがとうって」


 柔らかく微笑みを見せた。肩にかかる髪が、光を受けて揺れている。


「そう……だったんだ」


 実の喉が動く。視線がひよりの目から外れ、手すりの影へ落ちる。


「わざわざありがとね」


 胸の奥が、じくりと痛む。肩の力を抜けず、視線はそのまま床へと落ちた。


「ごめんなさい。私、変ですよね」


 視界の端で指先でスカートの端をつまむ仕草が映った。

 ひよりはそのまま体の向きを階段へ向ける。


「いやっ」


 実は思わず呼び止めた。靴底がコンクリートを擦る音が、小さく響く。


 ひよりが振り向き、不思議そうに首を傾けた。


「……ひよりさんは、普通だと思うよ」


 ひよりがふっと吹き出した。笑い声は小さく、でも自然に広がった。


「フフフッなんですか、それ」


「いや、ごめんっ」


 ひよりは声を立てて笑った。肩を震わせ、小さな息を漏らすように笑いが弾む。


 実もつられて口元を緩め、短く笑った。唇の端だけが上がる、控えめな笑い。


 けれど、その目は、階段の向こうの光やひより、背後の壁でもなく、どこか遠くを見つめたままだった。



 帰り道。


 夕方の道路は、昼間より少しだけ静かだった。部活帰りの生徒たちが固まりになって歩き、遠くで自転車のブレーキが軋む。信号機の電子音が規則正しく鳴り、風に乗ってどこかの夕飯の匂いが漂ってくる。


 空は橙から群青へゆっくり色を変え始めていた。


 その中を、実は俯いたまま歩いていた。


 視線は足元。アスファルトの細かなひび割れを、ただ追いかけるように。


 歩幅は一定なのに、身体だけが重かった。


『今日だって、お前が派手に壁作ったせいで、ゾンビ達に目つけられてたんだし』


 不意に、狩野の声が頭の奥で鳴ってくる。


 表情が少し歪む。


(……僕のせいで、ひよりさんはゾンビに追われてた)


 足が少し鈍るのを感じる。


(感謝されるようなことを、僕は何一つしていない)


 胸の奥に、じくりとヒビがはいる。


 鋭いわけでも、強いわけでもない。ただ鈍く、居座るような痛み。


 実は息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。


 視界の先に、見覚えのある道が広がっていた。


 ひよりが財布を落としていた場所。


 歩道の端。白線のかすれた部分。コンビニの看板。何も変わっていないはずなのに、そこだけが妙に鮮明に見える。


 ――チャリンチャリンッ。


 乾いた硬貨の音が、脳裏に響く。


 思い出したわけでもないのに、耳の奥で反響する。


──もし同じことが起きても、


 僕は多分、拾わない。


 見て見ぬ振りをして、通り過ぎると思う。


 なのになんで


 あの時は身体が動いたんだろう──


 実の視線が、ゆっくりと下へ落ちる。


 前髪がすとんと垂れ、目元に影を作った。


 その時。


「なぁ、おい」


 前を歩く学生たちの声が耳に入った。


 実は俯いていた視線を、ゆっくり前へ向ける。自然と耳が会話をとらえる。


「今、大黒駅のあたりで火事が起きて、駅周辺が騒ぎになってるらしいぞ」


「え、マジ?」


「ほら、コレ」


 一人が隣にスマホを差し出た。


 その画面にはニュースアプリの速報欄が表示され、赤い文字の見出しが流れていた。内容はやけに簡素で、原因は「調査中」とだけ記されている。


 それなのに、「事故」という言葉だけが妙に強調され、不自然なほど目に残った。


 実の目が見開かれる。


 視線が前の学生の手元に釘付けになり、瞬きが止まる。


 喉の奥がひくりと動き、呼吸が一拍だけ遅れる。


『じゃあ、気分転換に大黒駅のカラオケ行こーぜっ!!』


「……まさか」


 実は慌ててポケットからスマホを取り出した。


 指先が震え、画面のロック解除に一瞬手間取る。


 連絡先を開き、佐倉の名前をタップ。


 短く文字を打つ。


 ――今どこ?


 メッセージは既読にならない。


 画面上部の電波表示が一瞬揺れてアンテナが一本減った。


 数秒。


 待ってみても返信は来ないまま、トーク画面には送ったばかりの短い文章だけが静かに残る。


 胸がざわつく。


 さっきとは違う速さで脈打ち始める。


 嫌な予感が、理由も形もないまま膨らんでいく。


「佐倉……っ!!」


 思わず声が漏れ、実は振り返った。


 家とは逆方向。


 駅へと続く道へと走る。


 迷う間もなく地面を蹴り出し、


 鞄が背中で大きく揺れる。


 普通じゃないと、わかっているのに。


 それでも足は、止まらなかった。

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