第4話 守りたい普通と止まらない足
実の言葉を聞き終え、護は小さく息を鳴らす。興味があるのかないのか判別のつかない顔のまま、顎を引いた。
背後で、狩野が長く息を吐く。張っていた肩が、ほんの少しだけ下がっていた。
「まあ、入らないなら入らないでいいよ」
護はあっさりと言った。
「ただし。今後一切、能力は使わないでね」
「もし使ったら最悪、"災害分子"として処理する可能性もあるから」
「そのつもりでいて」
淡々と告げられた言葉の数々に、実の喉がひくりと鳴る。膝の上で組んだ指に力が入り、爪の先が白くなった。
「んじゃ、狩野送ってあげてちょ〜」
「あ、了解っす……」
狩野が短く答えて、ドアを開けた。
実はゆっくりと立ち上がる。足裏に力を込め、狩野の後ろについて署長室を出た。
◇
エレベーターの扉が閉まる。
箱の中に、低い駆動音だけが満ちている。蛍光灯の白い光が、二人の影を床に落としていた。
並んで立ったまま、どちらも口を開かない。階数表示の数字だけが、静かに変わっていく。
「お前の判断は正しいよ」
狩野が、不意に口を開いた。
実は顔を横へ向ける。隣に立つ狩野の横顔が、光に縁取られている。
「自分の力にビビってるようなやつに、つとまる仕事じゃねえ」
狩野は前を見たまま言った。
階数表示の数字がひとつ変わる。
実の握っていた手すりから、指先がゆっくりと離れた。
「……それはちょっと違います」
「あ?」
実は一瞬自分で確認するように頷いた。
「僕が怖かったのは、普通じゃいられなくなることなんです」
言葉を探すように、視線を揺らす。
「僕は、普通に生きたいだけだから……」
「……じゃあ、なんで現災のこと知りたがってたんだよ」
狩野の声が、箱の中で低く反響する。
「……多分、安心したかったんだと思います」
実は正面のドアを見て、唇をかすかに結ぶ。
「僕の日常には、関係のないことだって」
狩野はわずかに目を細め、何も言わなかった。
チインッ
到着音が鳴り、ドアが左右に開いた。
◇
夜。
実の部屋は静まり返っていた。机の上の教科書も、カーテン越しの街灯の光も、動かない。
実はベッドに仰向けに寝転がる。天井の白い面を、ぼんやりと見つめた。
天井に昨日の夜の情景が、映る。
──なんで、助けたんだろう。
今まで、
したくないことをしないように生きてきた。
あの時だって、
僕は死にたくなかったのに。
身体は勝手に動いてた──
実は目を逸らすよりに身体を横へと傾けた。
シーツが小さく擦れる。
──自分を犠牲にしてまで、
誰かを助けたいなんて、
思ったことは一度もない。
わかんない。
わからない。
自分で自分がわからない──
そのままゆっくり目を閉じた。
瞼の裏に、赤い残像がにじむ。
やがてそれも溶け、暗闇がゆっくりと広がっていった。
夢の中へ入ろうとしても、シーツを握った指先だけは、しばらくほどけなかった。
◇
翌朝。登校したばかりの昇降口は、生徒たちのざわめきで満ちていた。ロッカーの扉が次々と開き、上履きに履き替える音が重なる。外から流れ込む冷たい空気に、まだ湿った朝の匂いが混じる。低い位置から差し込む陽がガラス越しに広がり、床に淡い光を落としていた。
「実、最近なんか暗くね。なんかあった?」
佐倉が靴を履き替えながら、顔を傾けて覗き込んだ。
「うん。でももう大丈夫だよ」
実は視線を合わせたまま、口元を上げる。
笑みは浅く、すぐに形を保ったまま止まる。
「ほんとかねえ」
佐倉は片眉を上げ、鼻からふっと息を吐いた。
「じゃあ、気分転換に大黒駅のカラオケ行こーぜっ!!」
勢いよく、実の肩をばんと叩く。周りの生徒が何人か振り向いた。
「お、いいね。行こう行こう」
実も声を上げて笑顔で承諾した。肩に残った衝撃がじんわりと伝わる。
と、笑みが途中で止まる。
「あ、ごめん……」
「え、どうしたん?」
「今日僕が花のご飯作る日だった……」
「ええっ!? まじかよお」
佐倉がその場に大げさにしゃがみ込んだ。頭を抱えて、床を見つめている。
「ごめんね。また今度埋め合わせするよ」
佐倉はしゃがみ込んだまま天井を仰ぐ。
数秒その姿勢で固まり、
「ま、なら許すか」
何事もなかったように立ち上がった。
「でも、残念だな〜今日他校の可愛い子いっぱい来るんだぜ?」
佐倉はわざとらしく肩を組み、にやにやと顔を寄せてきた。
「え、どゆこと?」
実が目を瞬かせる。
「まあ合コンみたいなもん」
佐倉は指で丸を作り、軽くウインクする。
「それ、先に言っといてよ……」
実は額に手を当て、肩を落とした。
「だって実いつも乗らないじゃん」
「だって僕、知らない女の人と話すと緊張しちゃうし……」
佐倉は天井を仰ぎ、わざとらしく肩を落とす。
それから実を見て、はあ、と息を吐いた。
「ほんと普通だよな。実って」
「え、えへへ」
「いや褒めてねえぞ〜」
◇
放課後。教室には椅子を引く音や、鞄のファスナーを閉める音が重なっていた。窓の外はまだ明るく、差し込む夕陽が黒板の端を淡く照らしている。あちこちで交わされる「また明日」という声が、ざわめきとなって広がっていた。
「あの……」
控えめな声に、実は顔を上げる。
教室の前方の扉のところに、見慣れない女子生徒が立っていた。制服の胸元には下級生の色のリボンが揺れている。
実と目が合った瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「あ、この前の……!!」
実は思わず立ち上がる。一昨日の夜、手を引いた彼女だと気づいた。胸の奥に詰まっていたものが、少しほどけるのを感じた。
「やっぱり、先輩だったんですね」
彼女はほっとしたように口元を緩めた。
「……え、僕に何か?」
実は戸惑いながら、視線をさまよわせる。
「あ、大したことじゃないんですけど……」
そう言いながら、女子は周囲をちらりと見渡した。まだ何人かの生徒が残っている。話しづらいのが見て取れた。
「……場所変える?」
◇
非常階段の踊り場はひんやりとしていた。コンクリートの壁に夕陽が細く差し込み、鉄の手すりが鈍く光っている。下の階から、誰かの足音が遠く響いた。
「ええっと……」
実は頭をかきながら、言葉を探した。
「ひよりです。春日ひより」
「あ、どうも……田中実です」
実は軽く会釈する。
その後しばらく、沈黙が落ちた。階下から部活の掛け声がかすかに響き、やがて遠のく。風が階段の隙間を抜け、制服の裾とひよりのリボンを揺らした。
「ひよりさん、僕に話って……?」
実は手すりから手を離し、指先を軽くこすり合わせた。
ひよりは視線を足元に落としている。白い上履きの先を見つめたまま、唇を結んで。
その後、ゆっくりと喉を動かした。
「私、あの日のことあんまり覚えてないんです」
「え」
「……ニュースではガスの事故ってみたんです」
ひよりは視線を伏せたまま。
手すりを握る指先が、白くなって金属に食い込んでいる。
「けどなんか納得できなくて……」
『だから徹底的に情報規制して、事故ってことにしてぜーんぶなかったことにしてるの』
護の声が、実の頭の奥に流れた。
「それで、先輩に話を聞きたくって」
ひよりがゆっくりと顔を上げる。視線がまっすぐ実をとらえた。
「私っ何かから逃げてた気がするんです」
「あの日、先輩に手をひかれてっ何かから……」
そこまで言って、ひよりの視線が宙に泳いだ。
まるで、思い出を探すように、眉を寄らせて。
実は逃げるように目を逸らす。手すりの影が足元に落ちているのを見つめたまま、唇を結んだ。
「夢、じゃないかな……」
そのまま、ぽつりと呟いた。実の視線は足元の影に落ちたまま動かない。
「え、でも先輩もっ」
落とした視界に、ひよりの足が入ってくる。コンクリートに靴音が響いた。
実は、顔を落としたまま、視線だけをひよりにやる。
すると、ひよりの視線が、一瞬だけ遠くなった。何かを言いかけて、口が小さく開いて、そのまま、静かに閉じて。
「……夢、ですよね」
やがて自分を納得させるように、そう呟いた。
「変なこと聞いてごめんなさい」
そのまま、ひよりは踵を返す。階段へ向かう足取りは、少しだけ速い。
「いや……ごめん」
実はその背中を見たまま、謝ることしかできなかった。
ひよりが、3段ほど登った後、ゆっくり足を止める。
「私、伝えなきゃって思ってたんです」
「もし夢なんかじゃなくって、先輩が私を助けてくれたなら」
ひよりが振り返る。逆光の中で目を細め、まっすぐこちらを見つめてきた。
「ありがとうって」
柔らかく微笑みを見せた。肩にかかる髪が、光を受けて揺れている。
「そう……だったんだ」
実の喉が動く。視線がひよりの目から外れ、手すりの影へ落ちる。
「わざわざありがとね」
胸の奥が、じくりと痛む。肩の力を抜けず、視線はそのまま床へと落ちた。
「ごめんなさい。私、変ですよね」
視界の端で指先でスカートの端をつまむ仕草が映った。
ひよりはそのまま体の向きを階段へ向ける。
「いやっ」
実は思わず呼び止めた。靴底がコンクリートを擦る音が、小さく響く。
ひよりが振り向き、不思議そうに首を傾けた。
「……ひよりさんは、普通だと思うよ」
ひよりがふっと吹き出した。笑い声は小さく、でも自然に広がった。
「フフフッなんですか、それ」
「いや、ごめんっ」
ひよりは声を立てて笑った。肩を震わせ、小さな息を漏らすように笑いが弾む。
実もつられて口元を緩め、短く笑った。唇の端だけが上がる、控えめな笑い。
けれど、その目は、階段の向こうの光やひより、背後の壁でもなく、どこか遠くを見つめたままだった。
◇
帰り道。
夕方の道路は、昼間より少しだけ静かだった。部活帰りの生徒たちが固まりになって歩き、遠くで自転車のブレーキが軋む。信号機の電子音が規則正しく鳴り、風に乗ってどこかの夕飯の匂いが漂ってくる。
空は橙から群青へゆっくり色を変え始めていた。
その中を、実は俯いたまま歩いていた。
視線は足元。アスファルトの細かなひび割れを、ただ追いかけるように。
歩幅は一定なのに、身体だけが重かった。
『今日だって、お前が派手に壁作ったせいで、ゾンビ達に目つけられてたんだし』
不意に、狩野の声が頭の奥で鳴ってくる。
表情が少し歪む。
(……僕のせいで、ひよりさんはゾンビに追われてた)
足が少し鈍るのを感じる。
(感謝されるようなことを、僕は何一つしていない)
胸の奥に、じくりとヒビがはいる。
鋭いわけでも、強いわけでもない。ただ鈍く、居座るような痛み。
実は息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
視界の先に、見覚えのある道が広がっていた。
ひよりが財布を落としていた場所。
歩道の端。白線のかすれた部分。コンビニの看板。何も変わっていないはずなのに、そこだけが妙に鮮明に見える。
――チャリンチャリンッ。
乾いた硬貨の音が、脳裏に響く。
思い出したわけでもないのに、耳の奥で反響する。
──もし同じことが起きても、
僕は多分、拾わない。
見て見ぬ振りをして、通り過ぎると思う。
なのになんで
あの時は身体が動いたんだろう──
実の視線が、ゆっくりと下へ落ちる。
前髪がすとんと垂れ、目元に影を作った。
その時。
「なぁ、おい」
前を歩く学生たちの声が耳に入った。
実は俯いていた視線を、ゆっくり前へ向ける。自然と耳が会話をとらえる。
「今、大黒駅のあたりで火事が起きて、駅周辺が騒ぎになってるらしいぞ」
「え、マジ?」
「ほら、コレ」
一人が隣にスマホを差し出た。
その画面にはニュースアプリの速報欄が表示され、赤い文字の見出しが流れていた。内容はやけに簡素で、原因は「調査中」とだけ記されている。
それなのに、「事故」という言葉だけが妙に強調され、不自然なほど目に残った。
実の目が見開かれる。
視線が前の学生の手元に釘付けになり、瞬きが止まる。
喉の奥がひくりと動き、呼吸が一拍だけ遅れる。
『じゃあ、気分転換に大黒駅のカラオケ行こーぜっ!!』
「……まさか」
実は慌ててポケットからスマホを取り出した。
指先が震え、画面のロック解除に一瞬手間取る。
連絡先を開き、佐倉の名前をタップ。
短く文字を打つ。
――今どこ?
メッセージは既読にならない。
画面上部の電波表示が一瞬揺れてアンテナが一本減った。
数秒。
待ってみても返信は来ないまま、トーク画面には送ったばかりの短い文章だけが静かに残る。
胸がざわつく。
さっきとは違う速さで脈打ち始める。
嫌な予感が、理由も形もないまま膨らんでいく。
「佐倉……っ!!」
思わず声が漏れ、実は振り返った。
家とは逆方向。
駅へと続く道へと走る。
迷う間もなく地面を蹴り出し、
鞄が背中で大きく揺れる。
普通じゃないと、わかっているのに。
それでも足は、止まらなかった。




