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第2話 日常の境界と普通という呪い

満月は、さきほどと変わらぬ高さに浮かんでいた。


 崩れた外壁、割れたアスファルト、ひびの入った窓ガラス。そのすべてが白く照らされ、通りは異様なほど静まり返っている。


 最後の異形が、地面に突っ伏した。


 ひび割れた舗装の上で、ぴくりと痙攣したかと思うと、その身体の輪郭が淡く光を帯びる。次の瞬間、砂が風にさらわれるように、粒子となって崩れはじめた。


 光の粒が、ふわりと宙へ舞い上がる。


 やがて跡形もなく消え、そこには何も残らなかった。


 実は、ただ唖然と立ち尽くしていた。


 肩で息をしながら、目の前で起きた光景を理解できずにいる。月明かりの下、何もなくなった地面を見つめたまま、瞬きすら忘れていた。


「たすかっ……た」


 掠れた声が、すぐそばで揺れる。


 はっとして視線を向けると、少女の身体がぐらりと傾いた。


「え、ちょ──」


 崩れ落ちそうになるのを慌てて支える。細い肩が腕の中に収まり、そのまま力が抜けた。


 完全に意識を失っている。


 さっきまでの必死な表情が嘘のように、穏やかな寝顔だった。


「あーあ」


 前方から、やる気のない声が落ちてきた。


「緊張切れたな、それ」


 実が顔を上げる。


 そこに立っていたのは、先ほどの狼男ではなく、実と同じくらいの背丈の、どこか投げやりな表情をした青年だった。


 無造作な髪、気だるげな目つき。月明かりに照らされたその姿は、どこからどう見ても普通の青年にしか見えない。


「なんなんですか……あなた」


 実は戸惑いを隠せないまま、問いかけた。


 青年は頭をがしがしと掻く。


「それはこっちのセリフだよ」


 面倒くさそうに視線を寄越した。


「お前いつその力手に入れた。今“繋がった”のか?それとも元々か?」


「つ、つなが……?」


 意味がわからず、実は目を瞬かせる。


 青年はさらに眉を寄せた。


「その力のこと、どこまで知ってんだ?」


「ちょ、ちょっとまって、先に僕の質問に答えてくださいよ」


 腕の中の温もりを確かめるように抱え直しながら、実は青年を睨むように見上げた。呼吸はまだ荒く、喉の奥が焼けるように痛い。


「あなたはなんなんですか?さっきの怪物はなんなんですか!?」


 声が思ったよりも大きく夜に響く。自分でも抑えられないまま、語尾が震えていた。


「チッ……ああ、めんどくせえ」


 青年は視線を落とし、足を小刻みに揺らす。


 それからゆっくりと実に向き直った。


「俺は狩野真。現災署の隊員。さっきの怪物は多分ゾンビ」


 名乗りも説明も、どこか事務的だった。まるで天気の話でもするかのような口調で、必要最低限だけを放り投げる。


「げんさいしょ?ゾンビ?」


 聞き返した自分の声が、ひどく場違いに響く。理解が追いつかないまま、実は眉をひそめた。どちらの単語も、現実味がない。


 狩野は顎をしゃくる。


「はい次はお前の番。さっさと答えろよ」


「え、終わりですか!?ちゃんと説明してくださいよ!?」


 思わず一歩踏み出し、実は声を荒げた。抱えていた不安がそのまま噴き出したようだった。眉はきつく寄り、唇がわずかに震えている。


「がああっ!!まじだりい」

 狩野は頭を素早く掻き、膝を大きく開いてその場にしゃがみ込んだ。


「俺、説明すんのにがてなんだよ……」


 地面を見たまま、ぼそりと零す。片手で後頭部を乱暴に掻き、舌打ちを飲み込むように小さく息を吐いた。


 座ったのまま、顎だけをわずかに上げる。下から覗き込むように、値踏みする視線を実へ向けた。


「お前、明日時間あるか?」


「あ、明日?」


「そんなに知りてえなら明日説明してやる。そん時お前のことも聞くわ」


 面倒くさそうに吐き捨てながら、膝に手をついて立ち上がる。


「今日のところは帰って寝とけ」


 砂を払う仕草もどこか乱暴で、それでも動きには迷いがなかった。


「は、はぁ……?」


 気の抜けた返事しか出ない。


 狩野は実の隣で倒れている少女をひょいと担ぎ上げた。細い身体が驚くほど軽く持ち上がり、少女の腕がだらりと垂れる。


 肩に担いだまま、何事もなかったかのように背を向ける。足取りは迷いなく、夜道を踏み鳴らす靴音だけが静かな通りに響いた。


「あ、でもこれだけはいっとくわ」


 数歩進んだところで立ち止まり、肩越しに顔だけを振り返る。月明かりが横顔を白く縁取っていた。


「お前、よくしらねえんなら、もうその力使うな。色々と危ねえから」


 振り返ったまま、余計な感情を挟まずに告げる。その声音だけが、先ほどまでよりわずかに低かった。


「今日だって、お前が派手に壁作ったせいで、ゾンビ達に目つけられてたんだし」


「え……」


 実の目が見開かれる。喉がひくりと鳴り、言葉の続きを探すように唇が開いたまま止まる。


「しかも、その後バカみたいに全力疾走。ゾンビが動いてるもんに反応してんのなんて、少しみりゃわかるだろうによ」


 肩越しに吐き捨てる。呆れたように鼻を鳴らし、視線を外した。


 狩野は振り返ることなく、そのまま歩き出す。月明かりに伸びた影がゆっくりと実から離れていった。


 実は、狩野の肩に担がれた静かに眠る少女へと視線を向けた。


(僕のせいで……追われてた?)


 胸の奥がひやりと冷える。


 唇が震え、視線が揺れた。


 崩れた通りに、再び静寂が落ちる。


 満月だけが、何事もなかったかのように街を照らしていた。



 玄関の扉を閉めると、外の冷えた空気が遮断された。代わりに、家の中のぬるい暖かさと、落ち着く匂いが鼻をくすぐる。


 実は靴を脱ぎ、廊下を進んだ。リビングのドアに手をかける。いつもと同じ、見慣れた木目の扉。


 ゆっくりと開ける。


 テレビの小さな音と、キッチンから漂う夕食の匂いが広がった。部屋の中央には見慣れたソファとローテーブル。照明はやや暖色で、外の月明かりとはまるで別の世界のようだった。


 実はソファの端に腰を下ろす。背もたれに深くもたれかかることもできず、ただ浅く座ったまま、両手を膝の上で組んだ。


 その表情はどこか上の空で、焦点が定まっていない。唇は固く結ばれ、疲労が滲んでいる。


「おかえり」


 キッチンの方から母の声がした。包丁のリズムが止まらないまま、いつも通りの調子で。


「ただいま……」


 返事は小さく、掠れていた。自分でも驚くほど力が入らない。


「遅かったわね。もうすぐご飯できるけど、先に手洗って」


「うん……」


 実は立ち上がり、階段の方へ足を向けた。


「お兄、なんかあった?」


 ソファの向こう側で、花がスマホから目を離さないまま言った。画面をスクロールする指だけが忙しなく動いている。


「……大したことじゃないよ」


 実は少し振り返って答えた。それから、無理やり口角を少しだけ上げる。自分でも不自然だとわかる、ぎこちない笑み。


「ふーん」


 花は興味があるのかないのかわからない声を返す。


「ちゃんと食べなさいよ。顔、ちょっと疲れてる」


 母はテーブルに皿を並べながら、ちらりと実を見る。その視線は短いが、確かに様子を気にしていた。


「……ありがと。大丈夫だよ」


 一瞬だけ母の顔を見て、実は小さく微笑んだ。どこかぎこちないが、安心させるための笑みだった。


「そうだ実。私、明後日、帰り遅くなるから」


 皿を置く手を止めずに続ける。


「花の夕ご飯、お願いしていい?」


「うん。わかった」


「ありがと。助かるわ」


 そのやり取りは、いつもと何も変わらない、ありふれた日常の一場面だった。


 実は息を吐き、階段へ向かう。一段ずつ、ゆっくりと踏みしめながら上っていく。家の中は暖かく、下からは食器の触れ合う音と、母と花の声が微かに聞こえてくる。


 変わらない。何ひとつ。


 けれど――


 実の頭から、先ほどの光景は消えてくれなかった。



 自室のドアを閉めると、外の音が遠のいた。


 実は制服のままベッドに倒れ込み、そのまま仰向けになる。天井を見つめたまま、しばらく瞬きもしない。


 蛍光灯の白い光が、ぼんやりと視界に滲む。


 表情は固い。何かを考えているというより、考えがまとまらないまま止まっているような顔だった。唇は開き、呼吸だけが浅く上下している。


『俺は狩野真。現災署の隊員。さっきの怪物は恐らくゾンビ』


 低い声が、頭の奥で繰り返される。


「げんさいしょ……」


 呟きながら、実はスマホを取り出す。仰向けのまま顔の上に掲げ、片手で検索欄に文字を打ち込んだ。


 “現災署”。


 検索ボタンを押す。


 表示された結果は――


 0件。


「えぇ……」


 間の抜けた声が漏れた。眉が寄り、目を細める。喉の奥で言葉にならない声がつかえ、そのまま画面を見つめたまま固まった。


 続けざまに、今日のニュースを開く。指先がわずかに急いている。


 いくつかの速報の中に、それらしい見出しがあった。


『都内でガス管破裂事故

 一時騒然も、人的被害なし』


「え……」


 実は反射的に上体を起こす。画面を食い入るように見つめ再生ボタンを押した。


 再生された動画には、規制線の張られた道路と、煙の立ち上る現場。消防車と警察車両が並び、レポーターが事故の概要を淡々と伝えている。


 そこには、あの異形も、月明かりの下の戦いも、光の粒も映っていなかった。


「ゾンビなんて……どこにも」


 声が小さく震える。画面を持つ手が、わずかに汗ばんでいた。


『そんなに知りてえなら明日説明してやる』


 狩野の言葉が、また蘇る。


「調べたのに、聞きたいことが増えた……」


 実はスマホを胸の上に落とし、枕を抱き寄せる。そのままごろりと横に転がった。


 視界の端で、カーテンの隙間から月明かりが細く差し込んでいる。


 実はそれを一度だけ見やり、ゆっくりと寝返りを打った。枕に顔を埋め、布団を肩まで引き上げる。


 部屋は静かだった。


 スマホの画面が、暗転する。



 ぼんやりと明るい園庭。


 空は白く、遊具も建物も、どこか輪郭が曖昧で、色が薄い。


 園庭の端で、小さな実がしゃがみ込んでいる。紺色の園服に黄色い帽子。両膝を抱え、地面に視線を落としていた。


「ねー、あいつさ」

「おとうさん、いないんでしょ?」


 少し離れたところから、ひそひそとした声がする。抑えているのに、わざと届くような大きさで。


 実は、足元を歩く蟻をじっと見つめる。黒い点が列を作って動いていく。その動きを追ううちに、視界が滲む。


「かわいそー」

「へんだよねー」


 笑い声が混じった声が聞こえる。


 実は顔を膝に埋めた。


 小さな肩が、小刻みに震えていた。



 次の瞬間、景色が切り替わる。


 中学二年の頃の自室。見慣れた机とベッド、本棚。夕暮れの色がカーテン越しに差し込んでいる。


 実は壁に背を押しつけるように立っていた。目を見開き、呼吸が浅い。


「なに、これ……」


 目の前の机が、不自然に歪んでいる。脚の一本があり得ない方向へ曲がり、天板が斜めに傾いていた。


 実はゆっくりと自分の手へ視線を落とす。指先がかすかに震えている。手のひらを開いては閉じ、もう一度見つめる。


(僕が、やったの……?)


 歪んだ机へ視線が吸い寄せられる。現実感のない光景なのに、逃げ場がなかった。


『へんだよねー』


 頭の奥で、あの声がよぎる。幼い響きが、やけに鮮明だった。


 実は息を詰まらせるようにして、机から目を逸らす。そして強く首を振った。否定するように、何度も。


(いやだっ……僕は、普通でっ)


 視界が揺れる。涙が溜まり、輪郭がぼやけていく。



 はっと、実はベッドから身を起こした。


 息が荒い。胸が大きく上下する。


 窓の向こうは、淡い朝の光に包まれていた。カーテンの隙間から、やわらかな日差しが差し込んでいる。


「はあっ……はあっ……」


 息を整えようとしながら、唾を飲み込む。喉がひりついている。


 昨夜の月明かり、崩れ落ちる異形、狩野の背中――断片的な光景が、頭をよぎった。


 実は前髪をくしゃりと掴む。乱れた髪をそのままに、俯いた。


 表情は沈み、目元に影が落ちている。視線は伏せられ、まつ毛の奥で光が揺れた。


「普通でいたいのに……」


 部屋の静寂の中で、時計の秒針の音だけが規則正しく響いていた。

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