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89. 未来の見えない日々

 まだ暖かいヤカンからカップにお茶を注ぐと、優しいカモミールの香りが鼻をくすぐった。シエルが用意してくれていたのだろう。


 レオンはソファに深く腰を沈め、カップを両手で包み込むようにして持った。温もりが冷え切った手のひらに染み渡り、かじかんだ指が少しずつ感覚を取り戻していく。ゆっくりとお茶をすすると、体の芯から少しずつ温まっていくのを感じた。


 静寂の中、暖炉の炎だけがゆらゆらと揺れている。時折パチパチと薪がはぜる音が響いた。


 レオンはまるで世界の全てから切り離されたかのように、一人ソファに深く沈む。


 炎を眺めながら、失ってしまった【運命鑑定】の輝きを思っていた。あの金色の光、半透明のウィンドウに浮かび上がる未来の選択肢、【運命推奨】の温かな導き――。


(未来が見えないことが……こんなに不安だなんて……)


 未来なんて誰にも見えないし、明日何が起こるかなんて誰にも分からない。そんな当たり前のことが、今ではひどく恐ろしい事のように思えた。


 少し前まで自分もそうで、みんなと同じように未来の見えない日々を生きていた。けれど【運命鑑定】の圧倒的な頼もしさに包まれて、すっかり忘れてしまっていたのだ。未来が見えない恐怖を、一歩先が闇であることの途方もない心細さを。


 カインの悪だくみも【運命鑑定】があったから事前に準備でき、だからこそ誰一人傷つけることなく完璧に対処できた。もし知らなかったら犠牲者が出ていたかもしれないし、誰かが傷ついていたかもしれない。


 なのに今は何も見えず、真っ暗な闇の中を手探りで歩くしかない。一歩先に罠が、敵が待ち構えているかもしれない。それでも前に進むしかないのだ。


 怖い――その感情を認めるしかなかった。


 レオンはカップを両手で握りしめた。陶器の温もりが少しだけ心を落ち着かせてくれる。自分はどうなったっていい。でも女の子たちに何かあったら――たとえ一人でも笑顔が失われたら、温もりが消えてしまったら、自分は生きていける自信がなかった。


 妹を失った時のあの衝撃、目の前で倒れていく小さな体、動けない自分、救えなかった命。あの絶望をもう一度味わったら、今度こそ心が壊れてしまうかもしれない。


 くぅぅぅ……と喉の奥から小さな呻き声が漏れた。


 レオンは一気にお茶を飲み干した。


 温かさが胃に落ちていくが、心の冷たさは少しも和らがない。凍てついた心を抱え、彼はただ燃え尽きて灰になるのを待つかのように炎を見つめていた。


 炎がゆらゆらと揺れ、オレンジ色の光がレオンの翠色の瞳に映り込んでいたが、その瞳には何の輝きも宿っていなかった。かつて時折金色の光が宿った瞳も、今はただ空虚な闇を映すだけの硝子玉のようだった。


 暖炉の薪がパチパチと音を立て、その音だけが静寂を破っている。夜はまだ長く、闇はどこまでも深い。レオンは独り、膝を抱えて暖炉の前に座り続けた。



       ◇



 どれくらいの時間が経っただろうか。


 パタパタパタパタ――と、軽やかなスリッパの音が近づいてくる。


 それはルナだった。赤い髪を寝癖でぼさぼさにして、寝間着姿の彼女がリビングの入口に現れる。


 レオンの姿を見つけると、一瞬ためらうように足を止めた。


 暗い表情で暖炉を見つめる彼の横顔が、彼女の胸を締め付ける。いつも明るくて頼もしくて、みんなを導いてくれるレオンが、今はまるで迷子の子供のように見えた。そんな姿を見ていられなくて、意を決したように小走りでソファに近づいていく。


「ちょ、ちょっと眠れなくって……ね」


 早口で言い訳をしながら、レオンとの間に少し距離を空けてポスンと座る。


 しばらく沈黙が続いた。暖炉の炎がパチパチと音を立て、オレンジ色の光が二人の顔を照らしている。ルナはそっと横目でレオンの横顔を見つめていた。その表情の暗さに、彼女の胸がギュッと締め付けられる。


 そして――意を決したように、体を寄せた。レオンの肩にコテンと小さな頭を乗せると、彼の体がわずかに震えるのが分かった。


 ルナは彼の服の袖を震える指先でキュッと掴み、まるでそれが命綱であるかのようにしっかりと握りしめた。


「……元気出して」


 小さな、けれど芯のある声だった。


「呪いを解く方法はきっとあるわ。時間かけて一緒に探そ?」


 それはレオンの存在がこれからも続く「未来」にもあるのだという、彼女なりの精一杯の提案だった。


 ルナの赤髪が炎の光を受けて揺れ、その温もりがレオンの肩に伝わってくる。レオンは何も言わなかったが、そっと頭を傾けてルナの髪に頬を寄せた。


 柔らかな髪の感触と、甘い香りが鼻をくすぐる。それだけで、凍えた心が少しだけ温まるような気がした。



       ◇



 次の瞬間、パタ、パタ、パタと静かな足音が近づいてきた。


 現れたのはシエルだった。銀色の髪を下ろした彼女は、普段の男装姿とは違って驚くほど可憐で、暖炉の明かりに照らされた姿はまるで月の女神のようだった。


 シエルは寄り添う二人を見ると、少し驚いた表情をしてルナの反対側にそっと座る。


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