6. 狩猟の女神アルテミス
一歩でも間違えれば、命はない。
普通なら逃げ出すだろう。
こんな狂犬のような少女たちに関わるべきではないと、誰もが判断するだろう。
だが、レオンは逃げなかった。
後ずさりはしたが、諦めはしなかった。
――そう。
彼女たちは、何度も裏切られてきたのだ。
信じては裏切られ。
希望を持っては絶望させられ。
手を差し伸べられては、その手で突き落とされ。
何度も、何度も、何度も。
だから、もう誰も信じない。
信じることが怖い、期待することが怖いのだ。
また傷つくくらいなら、最初から拒絶した方がいい。
そう思うのは、当然のことだった。
その気持ちは、痛いほど分かる。
ついさっき、自分も同じ目に遭ったばかりなのだ。
仲間に、恋人に、家族に、捨てられた。
全てを失う痛みを、レオンは知っている。
だからこそ、彼女たちをここで諦めるわけにはいかない。
しかし、どうやって――――?
その時だった。
レオンの瞳が、再び黄金の光を宿した。
世界が、本の頁をめくるように開かれていく。
空気が澄み渡り、視界の全てがクリアになる。
未来の文字が、燃えるような輝きで視界に流れ込んでくる。
【運命分岐点:信頼獲得】
【発生イベント:一分後、賞金首の馬車が大通りを通過】
【推奨行動:街路樹の腐敗枝を落下させ、馬車を横転させる】
【成功条件:シエルの弓術による狙撃】
【報酬:金貨二百枚+信頼度大幅上昇】
――来た。
これが、彼女たちの信頼を勝ち取るための一手。
レオンの口元に、確信に満ちた笑みが浮かんだ。
さっきまでの絶望が嘘のように、今、体の奥底から力が湧いてくる。
「よし!」
レオンは顔を上げた。
四人の殺気を真正面から受け止めながら、堂々と宣言する。
「では、僕の力を証明してみせるよ」
「……どうやって?」
エリナが剣を構えたまま問いかける。
その漆黒の瞳には、まだ疑念が渦巻いている。だが、その奥底に――ほんのかすかに、期待の光が揺れているのを、レオンは見逃さなかった。
傷ついてもなお美しいその横顔に、路地裏に差し込む朝の薄明かりが優しく降り注ぐ。
この光を、もっと強く、もっと眩しく輝かせてみせねば――――。
「シエル!」
レオンが呼ぶと、銀髪の弓手がびくりと肩を震わせた。
「な、なによ!? いきなり呼び捨てにしないで!」
慌てた声色。だが、その中には隠しきれない上品さが滲み出ている。
どれほど男装しても、どれほど粗野に振る舞おうとしても、公爵令嬢として育った気品は消せないのだ。
「あの街路樹が見える?」
レオンは路地の出口を指差した。
その先に見えるのは、大通りに聳え立つ巨大な楡の木。樹齢百年は優に超えるだろう、威風堂々とした街路樹だ。
太い幹は大人三人が手を繋いでやっと囲めるほどで、枝は空を覆うように広がっている。
だが、その太い枝の一本が、病魔に侵されたように黒く変色していた。
「見えるけど……」
シエルが訝しげに目を細める。
「その黒い枝の根元を、弓で射ってほしい」
レオンは真っ直ぐにシエルを見つめた。
「……は?」
シエルが呆然と口を開ける。
四人の美しい顔が、困惑に染まった。
エリナは眉をひそめ、ミーシャは小首を傾げ、ルナは不安そうに腕を組んだ。
まるで狂人の妄言を聞いているかのような表情だった。
無理もない。脈絡もなく「あの枝を射て」と言われれば、誰だって困惑する。
「今すぐ射って!」
「いや、だから何で……」
「頼む」
レオンは、真剣な眼差しでシエルを見つめた。
「説明は後だ。今は時間がない。信じてくれ」
その言葉に、シエルの碧眼が揺れた。
「消え失せろ」と弓を向けたばかりなのに。
なぜだろう。
この男の目を見ていると、心のどこかが疼く。
あの瞳の奥にある光。真っ直ぐで、揺るぎなくて、どこか――切実な光。
さっき、この男は言った。
『性別も身分も関係ない。君は君だ』と。
そんなこと、今まで誰も言ってくれなかった。
父も、母も、使用人たちも、みんなシエルを「商品」として扱った。アステリア家の血を引く「価値ある娘」として、政略結婚の道具として。
なのに、この男は。
初対面で、ボロボロの姿で、それでも真っ直ぐに言ったのだ。
君は自由になれる、と。
シエルは腰から弓を取り出していた。
年季の入った猟弓。質素だが、丁寧な手入れが施されている。
公爵家にいた頃、唯一許された趣味が弓術だった。政略結婚の道具として育てられる日々の中で、弓を引く瞬間だけが、自分が自分でいられる時間だった。
だから、家を出る時も全て捨てたけれど、この弓だけは手放せなかった。
唯一の友。唯一の自由。
「……分かった」
シエルは、自分でも驚くほど素直に頷いていた。




