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38. 死地に咲く花

 少し時は(さかのぼ)る――。


 シエルは砦で最も高い監視塔の頂に立っていた。


 月明かりが照らし出すのは、眼下を埋め尽くす三万の魔物の群れ。まるで黒い海が蠢いているような光景に、身体の芯から凍りついていく。


 激しい風が吹き付けてきた。銀髪が嵐のように舞い上がり、さらしで押さえつけた胸が、恐怖で小刻みに震えてしまう。


 黒く蠢く死の海原。

 飢えた獣たちの咆哮。

 三万という、理性を失った悪意の塊。


 もはや砦など眼中にないのだろう。彼らの本命はクーベルノーツに住まう十万の命。だが、血に飢えた魔物たちは、前菜として砦を蹂躙しようとしている。その殺意が、夜風に乗って肌を刺した。


(私の……私の役目は、火山噴火までこの砦を死守すること)


 この砦が落とされたら、せっかくの火砕流による攻撃でも多くの生き残りを出してしまう。それではクーベルノーツの安寧は守れない。


 シエルは震える手で愛弓を握りしめる。革の感触が、掌に汗を滲ませた。


 かつて公爵令嬢として、優雅な狐狩(きつねが)りで獲物を射止めたことはある。冒険者となってからも、ダンジョンで小物の魔物を倒したこともある。


 だが、これは――。


(違う……何もかもが、違いすぎる!)


 眼前で渦巻く三万の悪意。

 背後で震えている三百の命。

 天秤に載せられた、十万人の未来。


 その全てが今、一人の少女の細い両肩に圧し掛かっていた。


「ど、どうしよう……本当にできるのかな……ボク……」


 膝が笑う。指先が痺れる。呼吸が浅くなっていく――。


 砦の弓兵たちは城壁に配備されている。だが、最重要拠点であるこの監視塔は、【運命鑑定】の指示により、シエル一人に託されていた。


 たった一人で。


(ボクが失敗したら、みんな死ぬ……)


 重圧が胸を押し潰そうとする。息が、できない――――。


 ふと、夜風が止んだ。


 静寂の中、不意に脳裏をよぎったのは、あの日の記憶だった。


 数か月前――。


 父に呼び出され、豪奢な応接間に通されたシエルは、初めて自分の「商品価値」を知らされた。六十歳を超えた好色な大貴族との政略結婚。相手はシエルの身体を舐めるように見まわし、嫌らしく笑ったのだ。


『お前は公爵家の娘だ。家のために生まれ、家のために嫁ぐ。それがお前の価値であり、存在意義だ』


 父の声は、感情を排した取引の通達のようだった。


 あの日、シエルは初めて知った。自分は人間ではなかったのだと。血の通った娘ではなく、家紋の刻印された商品に過ぎなかったのだと。


 だから逃げた。


 美しい銀髪を自ら断ち切り、「女」である自分を捨てた。さらしで胸を潰し、男を演じ、誰にも見つからないよう息を潜めて生きてきた。


 逃げて、逃げて、逃げ続けて――。


 そして今、ここにいる。


(いつまで……逃げるの?)


 心の奥底で、冷たい声が囁いた。


 どこかで自分自身の人生をつかみ取らねばならないが、ズルズルとここまで来てしまっている。


(この死地を無事脱したら変われるだろうか……?)


 弓を持つ手が、さらに激しく震え始める。活躍した冒険者になったからとて明るい未来のイメージはとても持てなかった。


 涙が、頬を伝い始めた。


「くぅぅぅ……」


 シエルは震えを抑えようと、無意識に弓を構えた。


 その瞬間――。


『シエル、君の弓は神域に達する』


 レオンに初めて会った時に言われた言葉が、魂の奥底から響いてきた。


「……え?」


 あの薄暗い路地裏。絶望の淵でうずくまっていた自分に、彼は真っ直ぐな瞳で告げたのだ。


『君が男でも女でも、公爵令嬢でも冒険者でも、そんなことはどうでもいい。俺が見ているのは、弓手シエルという一人の人間だ』


 温かく優しい声だった。


 生まれて初めて、「商品」ではなく「人間」として見てもらえた瞬間だった。


『俺を信じろ。そして何より、自分を信じろ。君は強い。誰よりも強くなれる』


 レオンは……レオンだけは自分の可能性を信じ、託してくれた。


(レオン……)


 今、彼はどこかでこの戦いの行方を見守っているはずだ。全てを見通す【運命鑑定】の瞳で、仲間たちを導きながら。


 彼は自分を信じてくれた。


 商品価値でも、公爵家の血統でもなく、「弓手シエル」という存在そのものを。


 ならば――。


(ボクも、自分を信じなきゃ……!)


 刹那、愛弓が突然、黄金の光を放ち始めた――――。


 視界に無数の光の粒子が舞い上がり、まるで天の川が降りてきたかのように煌めく。


「な、なに……これ……?」


 三万の悪意に押し潰されそうだった死の恐怖を乗り越え、レオンへの信頼からの自分を信じる力が【神弓の才能】を強制的に開花させたのだ。


 月明かりでは見えなかったものが、次々と浮かび上がってくる。


 闇に潜む殺意の軌跡。

 空を切り裂く羽音の振動。

 迫りくる死の気配、その全て。


「!」


 シエルの碧眼が大きく見開かれる。


「な、何あれ?!」


 月光を遮る、無数の影。蝙蝠のような翼を持つ、醜悪な小悪魔(インプ)の群れが、静かに砦に向かって飛来してくる。




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