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112. 蒼き獅子騎士団

 心臓が激しく脈打つ。これは、自分が知るアウグスト公爵の言葉ではない。断じて違う。あの方は厳格ではあったが、誰よりも家族を愛していた。


 シエル様が生まれた日、涙を流して喜んでいたあの方が。


 幼いシエル様を膝に乗せ、絵本を読み聞かせていたあの方が。


 こんな非情な命令を、下すはずがない。


 数ヶ月前から、公爵の様子がおかしかった。


 時折見せる、人間味のない判断。感情の欠けた瞳。そして微かに漂う、禍々しい魔力の気配。長年仕えてきたギルバートだからこそ、その変化に気づいていた。


 けれど、何もできなかった。


 アステリア家への絶対的な忠誠を誓った自分に、主君を疑うという選択肢はなかった。それは自らの魂を裏切るに等しい行為だったから。騎士として、それだけはできなかった。


 拳を握りしめる。


 その拳が、小刻みに震えている。


 脳裏に、幼いシエルの姿が蘇った。


 あれは、十年前のことだった。まだ六歳だったシエル様が、訓練場に現れた。銀色の髪を二つに結び、小さな手に木剣を握りしめて。


『ギルバート! 私にも剣を教えて!』


 キラキラと輝く碧眼。その瞳には、純粋な憧れが宿っていた。


『姫様、剣術は女子の(たしな)みではございませんぞ』


『いいの! 私、強くなりたいの! ギルバートみたいに、誰かを守れるくらい強く!』


 その言葉に、ギルバートは胸を打たれた。


 以来、毎日のように訓練場に通ってきた小さな姫。汗だくになりながらも、決して弱音を吐かない。何度転んでも、何度打ち据えられても、すぐに立ち上がる。その瞳から、光が消えることはなかった。


『すごい! ギルバートは、どうしてそんなに強いの?』


 ある日、訓練を終えた後、シエルが目を輝かせながら尋ねてきた。


 ギルバートは膝をつき、小さな姫の頭を優しく撫でた。銀色の髪が、指の間をさらさらと流れていく。


『姫様をお守りするため、です』


 その言葉に、シエルは花のように微笑んだ。


『じゃあ私も! 私も誰かを守れるくらい、強くなる!』


 あの日の誓い。あの日の約束。


 けれど今、下された命令は――彼女を傷つけてでも、連れ戻せという命令。


 それは彼女の心を殺すことに等しかった。


 許せ、姫様……。


 ギルバートは、奥歯を強く噛みしめた。


 どうしようもない無力感が、全身を苛む。主君への忠誠と、姫への想い。その二つが、彼の魂を引き裂いていた。目頭が熱くなる。けれど、涙を見せるわけにはいかない。騎士として、それだけは許されない。


「……御意に」


 深く頭を垂れた。


 その声には、隠しきれない葛藤が滲んでいた。


「行け」


 公爵は、その一言だけを告げた。振り返りもしない。


 ギルバートは立ち上がり、部屋を後にした。


 重い扉が閉まる。


 廊下に出たギルバートは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 窓から差し込む夕陽が、彼の横顔を赤く染めている。握りしめた拳から、爪が食い込んで、血が滲んでいた。けれど、その痛みすら感じない。


 主君への忠誠。

 姫への想い。

 騎士としての誇り。

 人としての良心。


 それらすべてが、彼の中で渦を巻いている。答えの出ない問いが、頭の中で何度も繰り返される。


 俺は、どうすればいい。

 何が、正しい。

 姫様を……シエル様を……。


 けれど、彼は騎士だった。


 迷いながらも、命令に従うしかない。それが、彼に課せられた宿命だった。それが、騎士という生き方だった。


 ギルバートは、重い足取りで廊下を歩き始めた。


 その背中は、いつもより小さく見えた。



       ◇



 翌日――。


 朝日が、アステリア公爵家の門を黄金色に染めていた。


 巨大な鉄門が、重々しい音を立てて開く。


 そこから現れたのは、一糸乱れぬ隊列を組んだ三十名の騎士団だった。


 パッカ、パッカ、パッカ……。


 蹄の音が石畳に響く。規則正しく、まるで死神の足音のように。


 軽鎧を纏った精悍な騎士たち。蒼き獅子の紋章が刻まれた盾。陽光を反射して煌めく、磨き上げられた剣。そのすべてが、王国最強という名に恥じない、絶対的な力を示していた。


 先頭を行くのは、ギルバート団長。


 その顔には、何の感情も浮かんでいない。鉄の仮面を被ったように、ただ前だけを見つめている。けれどその瞳の奥には、誰にも見せない苦悩が渦巻いていた。


 騎士団が放つ威圧感は、血と鉄の匂いを帯びていた。


 これは訓練ではない。行軍でもない。これは――狩りだ。


 道行く人々が、次々と足を止める。誰もが道を開け、壁に背をつけて騎士団を見送る。誰もが息を呑み、言葉を失う。


「あれは……蒼き獅子騎士団……」


 誰かが、掠れた声で呟いた。


「王国最強の……何があったんだ、あんな完全武装で……」


「ただの行軍じゃない。あの目を見ろ。あれは……戦争に向かう目だ」


 周囲の人々の顔が青ざめていく。



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